第69話 戸籍。
「サササッ」
「……」
「ササササッ。じーーっ」
「…………どしたの? 姉ちゃん?」
「かまってください」
バイト終わりに自室に篭って勉強をしていたら姉ちゃんが慌ただしくも可愛くそんなことを言ってきた。
なんだよ、かまってくださいって。可愛いかよ吐血しそうだ。
だが俺はなるべく平静を保って姉ちゃんに話しかけた。
「いいけども、どしたの?」
「寂しいです」
そう言って姉ちゃんは俺の太ももに座ってきた。
俺の方が背丈は大きいとはいえ、姉ちゃんの細身の体や肉付きは暴力的であり、お風呂上がりの姉ちゃんの髪からはシャンプーの香りもダイレクトに来た。
俺はかまってほしいらしい姉ちゃんのお腹に手を回して後ろから抱きしめた。
「姉ちゃんはいつの間にかイヌになってしまったようだ」
「わん」
今日の姉ちゃんはおかしい。
だが可愛いのでどうしようもない。
なので精一杯甘やかすしかない。
といってもかまってと言われても、実際どう接していいのかよくわからない。
子どもならテキトーに遊んだりとかでもいいのだろうが、姉ちゃんとどう遊べばいいのだろうか。
積み木とか絵本読み聞かせとかを求めているのではないのだろうし、かと言って夜の雰囲気を醸し出しているわけでもない。
「姉ちゃん、なんかあった?」
俺は姉ちゃんを抱きしめながら、姉ちゃんの肩に顎を乗せて話しかけた。
こそばゆいのかくすぐったそうにしつつも姉ちゃんは俺の手に握りしめた。
「とくになにかあったとか、そういうのじゃないかな。でももうすぐタクとの暮らしがしばらくできなくなるから、今のうちに甘えたいなぁって思って」
「なんだその可愛い理由」
てぇてぇなうちの姉ちゃん。やはり天使だったか。
姉ちゃんも俺に縋るように額を擦り付けてきた。
その仕草はもはやお互いに犬や猫のそれだった。
「自分で決めた事だし、後悔とかじゃないけどさ」
握られた手に少しだけ力が
小さくて繊細な姉ちゃんの手。
「離れたくなくて働いてたけど、結局こうなっちゃったから、それが申し訳ないなって」
「姉ちゃんが働いてくれてるから今こうして一緒に暮らせてる。むしろありがとう」
シスコンといえど、面と向かって感謝を伝えるのは恥ずかしい。
けれど伝えられるうちに言っておくのも大事なことだ。
姉ちゃん自身も不安なのだろう。
だからこうして甘えてきているわけで。
自分の選択は間違ってないか、正しいと思えるものだったか。
そんな事は誰にも分からないけど、今俺にできるのは姉ちゃんを肯定することだけ。
「タクぅぅぅ」
姉ちゃんが俺の太ももの上で姿勢を変えて向き合うようにして抱きついてきた。
反動で豊満な胸でビンタされ、そしてその胸に俺の顔が埋もれた。
普段はしっかりしている姉ちゃんの少し弱った姿はやはり新鮮であり、今だけは俺が兄にでもなったような気分だった。
お互いにどこか不器用で、それでも支え合って生きていく。
ふたりだけの血の繋がった家族であり恋人。
けれどもこのささやかな幸せはいつまでも続かないだろう。
姉ちゃんも俺も知っているから前に進もうとしている。
「タク、当たってるんだけど」
「……そりゃ姉ちゃんにこんな体勢で抱き着かれてたらそうなる。俺は悪くない」
「言い切ったなぁ」
そんなことをお互いに言いながら笑って、無意識に近づいていく唇。
至近距離で見つめ合いながら、額を擦り付け合わせて鼻先を突っ付き合う。
焦れったさを感じつつも姉ちゃんは俺を挑発するように密着している股をゆっくりと動かして刺激してくる。
抱き着いていた姉ちゃんの手はいつの間にか俺の首を囲うようにしてそのまま優しく抱き寄せられた。
そして短いキスを繰り返しては小さく笑った。
「ベッドの上でも、甘えていい?」
「もちろん」
俺が、シスコンの俺が、姉ちゃんの誘惑に勝てるはずもない。
書き込んでいたノートも中途半端なまま、お互いに体をまさぐり合いながら
☆☆☆
「タク」
「なに? 姉ちゃん」
2回3回と肌を重ねてふたりして疲れ果て、それでも手を繋ぎながら天井を見つめていた。
全身を襲うどうしようもない疲労感と快感の余韻はいつまでも続いていた。
「タクはさ、椎名ちゃんのこと、好き?」
「……急になに?」
姉ちゃんは凄く穏やかな顔をしていた。
これから死んでしまうのでないかと思うほどのその顔は孤独になるかもしれないとすら思えた。
そんな姉ちゃんの手を俺はしっかりと握り直した。
「幼馴染。現状、それ以上でも以下でもない」
「でも、椎名ちゃんがタクの事を好きなのは知ってるんでしょ?」
「……知ってる。何度も告白はされてる」
こんなことを、肌を重ねた後に話すのはどこか躊躇われた。
しかし姉ちゃんからこの話を持ち出しているわけで、そして俺自身が答えを出せずにいた問題である。
「わたしはね、できれば……タクは椎名ちゃんと一緒になった方がいいって、思ってる」
「……それは」
「もちろん、わたしだってタクの事は好きだよ。大好き。でもわたしとタクは結婚はできない。結ばれることはこれ以上ない」
姉ちゃんはそう言って俺の胸に顔をうずめた。
今、姉ちゃんは大人の話をしているのだとわかった。
気持ちとか、都合のいい話をしているのではないのだと思った。
それはある種の正論で、どうしようもない事実。
「だけど、タクと椎名ちゃんなら結婚できるし、わたしも納得できる。……ちょっと嫉妬はするけど、それでもふたりの子どもならわたしも愛せると思う」
「……」
どうして俺が椎名との関係を「幼馴染」のままで継続していたいのか。
それはわかってる。
俺は姉ちゃんを一途に好きでいたいのだ。
そうでなければいけないとすら思っている。
これはある意味、自分に掛けた呪いのようなものなのだと思う。
誠実であれと、一途であれと。
今更なことであり、すでにそんな誠実さなんてない。
俺はすでに椎名と唇を交えてしまっている。
それでもそれを見て見ぬふりをしている。
「姉ちゃん」
「なに?」
「俺と姉ちゃんが、結婚する方法はあるよ」
俺が椎名との関係をそのままにしていたもうひとつの理由。
できればそれはしたくない方法であり、おそらく反対されるだろうと思っていたこと。
「そ、そんな方法、あるの……?」
「新しい戸籍を手に入れて、俺か姉ちゃんのどちらかが他人になる」
「……そんなこと、できるの?」
「戸籍を取得する方法はある」
そうして俺はその事を話した。
ある男がいた。
その男は気が付くと知らない公園で目が覚めたという。
男にまったく記憶はなく、いわゆる記憶喪失だったという。
警察に保護されて身元を調べてもらったが手がかりはなく、このままでは身元不明の人間として生きるしかなくなるとの事だった。
しかし戸籍が無い状態では仕事に就くことはおろか、家を借りることもできない。
戸籍がなければ医療保険などの無く、風邪を引いて医者にでも見てもらったら全額支払いとなる。
記憶の無い男が日本という国で生きていくにはあまりにも問題が多過ぎた。
そこで弁護士に相談して法テラスへ行き、
そうして男は戸籍を手に入れて生きていく事ができるようになった。
「……それってさ、今と過去を捨てるって事、だよね?」
「……うん」
今と過去を捨てる。
それはそうだ。
俺が記憶喪失のふりをしたとしても、身元を知っている人間に警察が行き着いてしまったら意味はなくなる。
だから、知っている人の誰もいない場所に行って、
もちろん現代日本でもそれは危険のある行為だ。
だから姉ちゃんには絶対させられない。
女である姉ちゃんにはリスクが大き過ぎる。
「それは、絶対駄目」
姉ちゃんは目尻に涙を溜めながら俺を
「もしも……タクがそんなことしたら、許さない……から」
そう言って姉ちゃんは泣いた。
危ないからとか、そういうことじゃないのはわかっている。
長谷川拓斗という名前を失うというのは、今までの全部を棄てることであり、姉ちゃんが俺の為にしてくれたことも意味が無くなってしまうということだ。
たとえ表面上は記憶喪失のふりであっても、姉ちゃんの気持ちを台無しにしてしまう事になる。
だからずっと、
けれど、これなら赤の他人として姉ちゃんと結婚できるし、デザイナーズベイビーの技術を使えれば姉ちゃんとの子どもも望める。
「わかってる」
だからこそ、これは最終手段であり、自分の過去を捨てなければいけないような時にしかできない。
なにより、姉ちゃんがこんなに泣いてしまうなら、どうしたってやってはいけないことなのだろう。
過去を消せば、姉ちゃんは何のために単身赴任してまでお金を稼ごうとしてくれているというのだろうか。
姉ちゃんの決意や頑張りを、無下にはできない。
「わたしの、弟でいて」
「ああ」
「家族じゃなくなるのは、寂しいよ……」
「ごめん。もう言わないから」
「……うん」
赤の他人になって結婚したら家族だよ、なんてのは合理的すぎる言葉で、姉ちゃんにそんな事は言えなかった。
なんとなくわかってたことだ。
だから今まで言わなかった。言えなかった。
俺は姉ちゃんが泣き止むまでただひたすらに抱き締めて頭を撫でた。
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