第64話 今でさえ。

「タク、わたしね、もしかしたら転勤するかもしれない」

「…………え?」


 とある日の夕食時、姉ちゃんはそんな事を言ってきた。

 そしてそれはあまりにも唐突で、それを理解するのに時間が掛かった。


「転勤ってこの家を手放すって意味? それとも姉ちゃんが単身赴任するって事? ……」

「うん。単身赴任。お給料も上がるし会社も支援してくれるって言うし、タクの大学の費用とかも稼ぎたいし。だから転勤を受けようって思ってて」

「いや、俺は大学なんて行かないよ姉ちゃん。高校卒業したら働くし」

「大学には行ってほしい。お姉ちゃんとしては」

「そもそも姉ちゃんと離れて暮らすって事だろ? 引越しじゃなくて転勤って」

「……うん。距離的にここから毎日通勤は難しいから」


 姉ちゃんとふたりで暮らし始めて、姉ちゃんに対しての俺の気持ちがバレて受け入れられて。

 そうして幸せだと思っていた。というか幸せだ。


 それがそうでなくなってしまうというのはあまりにも受け入れがたい話だった。

 全国展開なんてしていない小規模のスーパーに勤務しているのだから、転勤なんて話になるとも思っていなかった。


 電車で通勤しようにも、スーパーでは遅番もある。

 遅番の時は終電を過ぎるような時間だったりもするわけで、必然的に電車通勤は難しくなる。

 姉ちゃんは運転免許を持っているのだし、ボロくてもいいから通勤用の車でも買えば通勤はできるはずである。

 だがその選択肢を選ばず単身赴任ということはそれなりには遠いのだろう。


「姉ちゃんと離れて暮らす事は許容できない」

「でも、これからの事を考えたらそうした方がいいと思うの。椎名ちゃんたちは隣に住んでるだし、タクはここに居て多少は安心できるかなって」

「…………姉ちゃんまで、居なくなるのかよ」

「わたしだって、タクと離れて暮らすのは嫌だよ……でも、今の中卒のわたしじゃタクの将来の考えると……」


 姉ちゃんはそう言ってどうしようもないような複雑そうな笑みを浮かべた。大人の顔だった。

 大人の背負う責任。

 今の俺では背負えない大人の責任。


 ……自分の無力さを感じた。

 バイトして小銭は稼いでても、結局姉ちゃんの負担はそこまで軽減できてなんかない。

 時間というおよそこの世で最も残酷な概念は俺をいつまでも子供のままに閉じ込める。

 それは歯痒くて、胸糞の悪さは自分を苛立たせた。


 幸せな今に満足していた俺はそれだけ子供だったのだろう。


「……その転勤は、いつからなの?」

「まだ、返事はしてないけど、4月から」

「…………そっか」


 会社であれば、人事異動とかもあるのだろう。

 学校の先生だって新年度事に変わったりもするのだから、そういうこともあるのだろう。


 姉ちゃんは大人だ。

 精神的にしっかりしてる。


 だからこそ高校を中退して働いて、俺を養ってくれている。

 だからこそ今ふたりで暮らせてる。


 当たり前なんてのは何一つない。

 姉ちゃんが俺には大学に行ってほしいと思うのもわからなくはない。

 今や大卒は当たり前みたいな風潮すら蔓延まんえんしてる世の中で、教育ママなんて言われてる親なら幼少期から既に計画して教育してる。


 姉ちゃん自身も学校には通っていたかったのだろうとも思う。

 なんなら姉ちゃんの同級生は未だに大学生だし、少なからず悔いはあるのだろう。

 だからこそ俺には大学に行ってほしいという姉ちゃんの優しさでもある。


「ごめんね、タク……」


 姉ちゃんはそう言って俺の傍に来て座り、抱き締めてきた。

 その抱擁ほうようは母親のようだった。


 姉ちゃんは、俺と姉ちゃん自身の将来を考えての今を選択したのだ。

 今の生活を継続するのもやっとの今で、そのうえ将来を考えないといけない。


 頼れたはずの親はもういない。

 だから姉ちゃんは俺の為に大人になった。


 大学なんて、大人になって働いてからでもどうとでもなる。

 けどそれだけじゃないと姉ちゃんは思っているのだろう。

 同級生たちと一緒に進学して、学生生活をしながら学べる事もあると姉ちゃんは思っているから。

 それは今現在のおおよその普通であるからだ。


 俺と姉ちゃんは、世間一般の「普通」ではない。

 恋愛面とかもそうだけど、親のいない姉弟のふたり暮らしで。


 それでもなるべく俺には普通に過ごせるようにと姉ちゃんは頑張ろうとしている。

 今でさえ頑張ってくれてるのに。


「姉ちゃん」


 俺は姉ちゃんの気持ちを察したからか、気が付いたら頬に一筋の涙が零れていた。

 しかしそんな事も気にしてられないほどに姉ちゃんからの愛情を感じて、どうしようもなくて俺も姉ちゃんを抱き締めた。


「お姉ちゃん、頑張るから」

「……俺も、頑張るよ」


 姉ちゃんも俺に釣られて泣きそうな顔のまま、俺の頬の涙を拭って微笑んだ。

 そうしてそのまま自然とお互いの唇は近付いていった。


 そしてその日は激しく姉ちゃんを求めた。

 目の前にいるのに、どうしようもなく寂しくて。

 触れた熱はその傍から霧散していくように儚い気持ちだった。


 姉ちゃんと離れ離れになるまではまだ時間だってある。

 なのにどうしてこうも離れたくないという気持ちは姉ちゃんに触れる度に強くなるのだろうか。


「はぁ……はぁ……はぁ……」

「こ、この前より激しかった……♡」


 お互いにぐったりとベッドに横たわる。

 全身に疲労感が広がっていてクタクタだった。

 それでも俺は姉ちゃんの手をしっかりと握っていた。離したくなかった。


 まどろみの中で俺は、姉ちゃんの為になる事はなんでもしようと心の中で誓った。



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