かんこう!

@hiiro_akato

プロローグ

役者になりたいと思った。


大好きな作家の、大好きな本が映画化され、当初は正直戸惑った。

キャスティングはイメージとはかけ離れているし、何より著者は売れっ子の作家ではなかったので、メディア化の影響を受けて名が知れ渡ることで、どこか遠い所へ行ってしまう気がした。


映画が公開されると、恐る恐る映画館へ足を運んだ。

–「凄い」と思った。

あまりに拙い感想かもしれないが、元々それほど映画を見る習慣がなかったので、それ以上の言葉が出てこない。

とにかく、身の毛がよだつほどに、心が揺さぶられた。

本で読んだ人物たちが、スクリーンの向こう側で息をしていた。たまらなく興奮した。


あの日、役者になるんだと心に決めた。


高校を卒業するタイミングで18年間過ごした田舎を抜け出して、上京した。それと同時に、事務所附属の養成所へ入所し、役者になるための勉強を本格的に始めた。


演技の経験なんて小学校の学習発表会くらいのもので、最初は我ながら酷いものだったと思う。

滑舌も。発声も。イントネーションも。コミュニケーションも。見て呉れも。何もかも。


それでも最高に楽しかった。

自分でない何者かを演じることは、とても刺激的だった。役が自分の私生活を侵してくることで、新たな自分が発見できる。

こんな経験、これまでの人生でなかった。


そんな希望に満ち溢れた毎日も束の間。

上京して1年が経った頃、未曾有の感染症が世界を襲った。

みんながみんな正解が分からず、ただ言われるがままに「三密を避ける」だのなんだの、従うしかなかった。

養成所でのレッスンは感染予防の観点から、フェイスシールドの着用が義務付けられ、時間も短縮された。

そして何より、役者という職業への狭き門が、さらに狭くなった。

既に活躍している役者でさえも、活動の幅が狭められているのに、新しい役者をとる余裕がある事務所なんて限られている。

仮に事務所に拾ってもらえたとしても、先行きが不透明なこの世の中で、どれくらい息が続くのか分からない。


現実を見た多くの仲間たちが、養成所を辞めていった。

既に事務所に所属して仕事をしていた知り合いも何人かいたが、契約を切られる者もいれば、自ら退所する者もいた。

中には就活を始めた者もいた。


そこへ畳み掛けるように、アルバイト先のカフェの閉店が決まった。

店長とその奥さんが夫婦で営む、小さなカフェだが、養成所やオーディションがない日など、空いた時間に融通をきかせてシフトを組んでくれる、家計の主軸となっていた勤務先だった。

それ以外にも、賄いを食べさせてもらったり、余りものをお弁当にして持ち帰らせてくれたりと、本当に良くしてもらっていた。

いちアルバイトに過ぎないのに、誕生日には営業時間の合間でパーティを開いてくれた。

何より、役者になりたいという夢を、とても応援してくれていた。

閉店する事を打ち明ける時、店長は頭を下げて「ごめん。」といった。

そんなの、絶対に違う。だから、「ありがとうございます。」と返した。


悲しい気持ちは山々だが、感傷に浸っている暇はない。

–このままでは役者になるどころか、生きていけない。


やむをえず、しばらく養成所を休講し、次の仕事を探すことにした。

が、この状況下での失業者は想像よりはるかに多く、求人へ応募しても面接にも辿り着けない。

条件を絞ってさがしていたところを、雇用形態や職種を問わず探すことにした。

転職エージェントや派遣会社に手当たり次第登録して、仕事を紹介してもらった。


それでも、中々仕事は決まらない。

面接や会社見学までは進めるようになったが、就業までは中々行けない。


そうこうしているうちに、気づけばアルバイト先のカフェは閉店し、無職になっていた。

当然養成所のレッスン費は払えず、退所の申し込みをした。


都会へ抱いていた夢や希望は、なくなった。

そんな中で血眼になって、貪るように生きる術を探す毎日がただただ辛かった。


気がつけば2カ月が経とうとしていた。

電気が止まって、ガスが止まった。

もういっそ呼吸まで止まってしまえと思った。

ただし、苦しくない方向で。水道が止まる前に。


今日もまた残念ながら目が覚めた。

朝ごはんの冷めて固くなったごはんを口に放り込み、それをインスタントのわかめスープで流し込む。

スマートフォンで求人を漁り、リモート面接を済ませる。さらに対面の面接へ赴くため、スーツの袖に腕を通した時、スマートフォンが鳴った。

登録している派遣会社のうちのひとつからだった。


「来月からの就業が決まりました。」


その言葉を聞いた時、全身の感覚がなくなり、宙に浮いたような心地がした。


まだ、水道は止まっていなかった。

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