2 (8) 『針の穴から天を覗く』

 一


 目の前の鉄の扉が小手先の技術で開かないものであることは明白だった。

 なにせ、鉄の扉はマリエットとベイが診断したからこそ『扉だ』と解明されたものであり、何の見識もなく一見すると単なる鉄の壁でしかなかった。

 扉を“こじ開けることはできない”。

 ならばと、ラディカは拳を握り、破壊を試みた。

「…ッんがッ!!!」

 瞬間、トラックがビルにぶつかったような重音が響き、周囲が空間ごと揺れた。

 いつの間にそうなったのだろうか?ラディカの筋力はもはや人間の域をゆうに超えていた。

 そのため、彼女の一撃は、乙女らしい腰の入っていないフォーム、華奢な身体からの一撃であったにも関わらず、破壊力は大砲の炸裂よりも遥かに強力だった。

 その後、彼女は二度、三度と拳を放った。その度に重い衝撃が周囲に広がった。まるでゾウが暴れているようだった。

 しかし、扉はどれだけ打たれても、せいぜいガタンガタンと立て付けを少し悪くするだけで、その表面には傷一つ付かなかった。

 …扉は、憎たらしいことにただの自然物ではなく、魔術による強化が施されているものであった。

 逆に、非常識的に頑丈な扉に何度もぶつけられたラディカの拳は、ズタズタに潰れてしまった。

 指の骨が皮膚から露出し、手首の関節が砕け、更に腕の筋肉が裂傷していた。

「くそッ…!」

 ラディカは肉体の損傷を一瞬で治しつつ、突破不能な扉を睨み、瞬発力をもって考えた。

 …このまま何百発、何千発、何万発と殴り続ければ、もしかしたら扉を破戒できるかもしれない。

 しかし、それではあまりにも遅過ぎる。

 マリエットもベイも、既に弱り切っている。

 もう数日ももたないかもしれない。…数日どころではなく、数時間後かもしれない。…いや、もっとすぐかもしれない。

 …永遠に死なない自分には、その推測が上手く出来ない。

 ただ、とにかく急がなければならないことだけは理解している。一分一秒が惜しいことだけは理解している。

 だから欲しい。特効薬が。この現状を一瞬で覆せる決定的な王手が。

「……」

「…!」

 …ふと、思考するラディカの目に、通気口が映った。

 細い、管のような穴。直径10cm程しかない。

 しかし、そんな小さな穴でも、そこには明らかに空気が通っていて、つまるところ“外に繋がっている”。

 扉の、入り口側に繋がっている。

「この…、この穴を抜けた先…!」

 何かを思いついたラディカは通気口に近づき、それに目を当てた。

 だが、穴は細く、視野は狭く、そのため彼女は上手く外を見渡せなかった。

「外の様子は分からない…。でも…!」

 だから、ラディカは代わりにベイに叫ぶようにして尋ねた。

「ねぇベイ!この扉は『レバー式』!?なら、監房の入り口とかに開閉用の“ソレ”はあるはずですわよね!?」

 …その推察は、マリエットやベイの推論のような専門知識に基づいたものではなく、ラディカが大好きなファンタジー小説の“お約束”に基づくものだった。

 ハッキリ言って、幼稚な妄想でしかなかった。

 だから、ベイは一瞬言葉を詰まらせた。彼は専門家として正しい発言をすべきか躊躇した。

 そんな彼を見かねて、マリエットが前に出た。

「えぇそうよ!ラディの言う通り、この扉はレバー式よ!!」

 “とびきりに優秀な冒険者”であるはずの彼女から飛び出した“事実に即していない発言”に、ベイは目を丸くして驚いた。

 マリエットは肩の力を抜いてベイに呟いた。

「…ごめん。今はプロとしての矜持より、ラディに全部を賭けたいの」

 迷いない顔だった。

 その芯の通った顔は、ベイの戸惑いを簡単に打ち砕いた。だから、彼もマリエットに合わせた。

「あぁ!マリエットの言う通りじゃ!たとえば『風と語らう』の『デュマ』は鉄格子の隙間から鞭で外のレバーを引っ掛けて、扉を開いて危機を脱出した!!」

 二人による手放しの後押しを得たラディカは確信を抱いた。目を見開いて、希望を見つけたような表情になった。

「なら…!」

 ラディカは通気口を凝視した。

 挑むべき、“壁”を見定めた。

「私だけでも、ここから抜け出せばいい…」

「…“この穴”から、何としてでも抜け出せば…!」

「扉を開け…、二人を助けられる…!」



 二


 ラディカは通気口に右手をあてがった。そして、グッと押し込んでみた。

 しかし、少し強引にねじ込んでみても、右手のうち、人差し指から小指までが穴に入るだけで、親指から下はつっかえて入りそうになかった。

 それが、人間の限界。

 …だから彼女は、つっかえた親指から下も、怪力にモノを言わせて強引にねじ込んだ。

 同時に、彼女の右手からベキッ、メキッと音が鳴った。

 筋肉が曲がって、骨が砕けたのだ。

 当然、彼女に激痛が走った。

 だが、痛みの伴う強引さは無駄ではなかった。なにせ彼女は、痛みの末、右手の親指から下、手首の辺りまでを通気口に入れることに成功していた。

 希望が現実に変わった。

「いける…!」

 これなら、すぐに外に出られる。

 たとえば、こぶし大の豚肉の塊でも、無理やり押し込まれればミンチ穴を容易に通過できるように、

 自分自身をこの小さな通気口に押し込めば、この監房から抜け出せる。

 代償は、想像を絶する痛みと己が死だけ。

「(そんなの…、二人が死んじゃうことに比べれば…!たったそれだけの代償で済むのなら、安上がりも良いところじゃありませんの…!)」

 不安、それは確かにあった。

 恐怖、それも胸が張り裂けそうな程にあった。

 けど、迷いはなかった。


 目に意志を燈した。

 力強く先を見つめた。

 それが、強さってもんだと思ったから。

 足腰に力を入れた。

 思いっきり踏ん張った。


「私がッ!二人を助けるんだッ!!」

 そして、彼女は全力を振り絞って、右手に続いて右腕を通気口に押し込み始めた。

「…ッッッ!!」

 踏ん張って、力を入れるほどに、右腕が通気口のサイズに合わせてシェイプアップされていく。

 右腕の肉と骨がゾリゾリと削げ、通気口の真下に、それら“削げカス”がボトボトとこぼれる。

 それでも、彼女は自分を押し込み続けた。

 強引に、力任せに、自分をこの穴に合わせようとした。

「…ッぁ、…ぁあああああッ!!!」

 彼女は痛みのあまり、叫び声を上げた。金切声、甲高い悲鳴、聞くに堪えない痛ましい声が監房中に響いた。

 しかし、彼女は歯を食いしばり、弱い自分を噛み殺した。

 弱音じゃなくて、行動を続けた。

「…ラディ!アンタ何を…!!」

 その恐るべきほどに惨い挑戦を前に、マリエットは慌ててラディカの元に駆け寄った。

 上手く立ち上がれない足を動かして、よろめきながら、ラディカの元に駆け寄った。

 ベイも駆け寄った。

 ただし、マリエットよりは体力が残っているベイは、よろめくことなくラディカの元に駆け寄った。

「ラディカ…!お前、まさか…!」

 ベイは惨たらしく変形していくラディカの腕を見て、彼女が今に為そうとしていることを理解した。

「無茶…!いや、いけるか…!?」

 ベイの問いに対し、ちょうど右肩あたりまで通気口に入れたラディカは、今にも泣き叫びたい気持ちを必死に抑えながら伝えた。

「手…」

「手は…、もう抜けた…!」

 彼女は言った。

「ベイ…!もし、まだ力が残っているのなら手伝って…!私を、後ろから思いっきり押して…!!」

「思いっきり…、か…!?」

 ベイはラディカの顔とグロデスクな右腕を交互に見て躊躇した。

 だが、ラディカは無理くり作った気丈な表情で言った。

「大丈夫…!私は死なない…!」

「死ねないことを、嫌と言うほど理解してる…!!」

 その言葉に、顔に、ベイはラディカの覚悟を知った。だから、彼は容赦なく彼女の脇と腰を掴んだ。

「分かった…!じゃが…、無理になったらすぐ言えよ…!」

「無理なんてあるもんか…、ですわ…!!」

「ほんじゃあ、思いっきり行くぞ!!」

 そして、ベイは彼女の受ける痛みなんて全く鑑みず、出せる限りの力を入れ始めた。


 ラディカの怪力とベイの力が身体に加わる。

 先ほど以上の異音が鳴る。

 ラディカの右肩から、胸、そして首元までが、メキ、メキと異様な形に変わりながら、人の形を失いながら通気口に押し込まれていく。

 右腕の時とは比べ物にならない量の肉と骨のカスが床に落ちる。

 ラディカだったものが通気口の真下に溜まっていく。血だまりがどんどん出来ていく。


 …そんな地獄のような光景を見て、マリエットはラディカから預かった聖骸布をギュッと握りしめた。

 彼女は立ち尽くした。

 目の前で、激痛に表情を歪めながらも歯を食い縛って前へ進もうとするラディカに、彼女は圧倒されていた。

 …今にラディカがどれほどの苦しみを受けているのか、マリエットは想像したくもなかった。

 見ていられなかった。

 いや、それは場違いな感情なのかもしれない。しかし、自分が後押ししてしまったせいで無茶苦茶に歪んでいく恋人を前に平然としていられる人間はこの世にいない。

 ラディカに対する感情の重さが、結果としてマリエットから行動の自由を奪っていた。

「私が…、私がラディを信じてしまったせいで…」

 マリエットは、ラディカを止めたかった。

 苦しみ悶える彼女なんて、これ以上見たくなかった。

「でも…」

 …同時に、彼女はラディカを止めたくなかった。

 痛みに苦しんでも、それでも現状に噛り付き、何とかしようと突っ走るラディカを邪魔したくなかった。

「何よ…、私って、こんなにも弱いの…?」

 マリエットは何の選択も下せない、弱い自分に打ちひしがれた。


 …だが、彼女はここで何もできずに終わるほど甘い人間じゃない。

 思い出せ。

 彼女は強い女性だ。

 目の前にチャンスが転がっているのなら、彼女はそれを決して逃さない。


 …次の瞬間、彼女はベイの横で、ラディカの身体を押していた。

「…マリエット!?貴女、身体は大丈夫ですの!?疲労困憊だったんじゃ…!?」

「今のアンタに身体の心配をされたか無いわよ!!」

 マリエットは、今も痛みと戦っているラディカに叫んだ。

「…本当は、苦しむアンタの背を更に押すなんて超嫌!…だけど、アンタに守られてるだけの私なんてもっと嫌!だから、意地でもアンタの力になってやるの!」

「覚悟なさいよ!!アンタがどれだけ嫌がっても、私はアンタの手助けをするし、必要とあらばケツだって叩いてやるんだから!!」

 いつものマリエットらしい強気な発言に、ラディカはニッと笑んだ。

「それじゃあ二人とも!!たとえ私の頭がもげたとしても、私を押し込んでくださいますね!?」

 二人は即答した。

「当たり前よ!馬鹿!」

「もちろんじゃ!全員で助かるぞ!」

 答えを聞いたラディカは、改めて前を向いた。

「…それじゃあ、いきますわよ!」

 そして、彼女は行動を開始した。

 先ほどのように足腰に力を入れて自分を押し込むだけでなく、今度は更に、通気口を抜けた手を外側の壁にかけて、自分を穴から引き上げることも行った。

 マリエットとベイは、ラディカの行動開始に合わせて、彼女の背を全力で通気口に押した。

 左肩、首が通気口に押し込まれていった。ラディカの身体が胸元を支点にクリップで挟まれたみたいになった。

 そして、いよいよ頭がねじ込まれようとした。

 しかし、頭蓋骨は押し込むにはあまりにも大きく、砕くにはあまりにも硬く、どうしてもつっかえた。

 …だからって、三人の動きが止まるわけがなかった。

 超強引にラディカを押し込もうとする力は、やがて顎と後頭部を通気口につっかえた彼女の首を裂き始めた。

 首を通る無数の血管や神経がブチブチと千切れる音がした。同時に、鮮血がこれ以上なく溢れ出した。

 

 そして遂に、彼女の頭と胴体を繋ぐ糸は、少しの筋肉と薄い皮膚だけになった。

 流石のマリエットとベイも、この光景には躊躇して、つい力を緩めた。

 その躊躇を見かねて、ラディカは間髪入れずに叫んだ。

 壊れた喉で、絶対に二人を助けるという想いをのせて、今にやるべきことを必死に叫んだ。

「押し…ッ、込んでッ…!私のことなんか気にしないで…ッ!全力で…ッ、思いッきり押し込んでッ…!」

 その気迫に、二人はハッと我に返った。

 そして、二人は再度ラディカに力を加えた。

 彼女の、自己犠牲を厭わない決死の想いに応えるべく、力を入れる程に悲惨な有様に変わる彼女を見殺しにして、ひたすら彼女を通気口に押し込んだ。


 三人の想いは、力は、一つになった。


 …だが、その結束により生み出された力は残酷なまでに強く、ラディカの頭は遂に胴から完全に千切れてしまった。

 生首が、まるでギロチン刑を受けた罪人の如く、ボトリと床に落ちた。

 同時に、上半身を胸元まで通気口に入れていたラディカの身体が、途端に抜け殻のようになった。

 彼女の胴と下半身がだらんと宙ぶらりんになった。


 二人はラディカから手を放し、途切れた彼女を前に茫然とした。

 死んでしまったのか…?

 …いや、彼女はこの程度では決して死なない。

 彼女の身体は、頭を失ったにも関わらずバタバタと動きを再開し、使命を思い出したかの如く自身を通気口に突っ込み始めた。

 二人は、戦いはまだ終わっていないと理解した。

 二人は即座に再度ラディカを掴みなおし、押し込み始めた。


 やがて、胸部を越え、腹までもが通気口にねじ込まれた。

 肋骨がプラスチックのバリ取りのようにあっけなくボキボキと折れた。

 また、圧力に耐え切れなくなった腹が風船みたいにパンと破裂して、臓物がデロデロとラディカから垂れた。

 しかし、そのおかげで、胸から腰までは、肩や胸元に比べれば抵抗なくスルスルと入った。

 残るは腰から下、それから少しだけはみ出た左腕だけになった。

「いくぞラディカ!全部押し込むぞ!」

「もう少し、もう少しだから、頑張って耐えて!!」

 マリエットとベイはここが正念場だと思い、限界の限界まで力をふり絞った。

 全力以上の全力を出して、大切な仲間を通気口にねじ込もうとした。

 この戦いの勝利者が決まろうとした。


 …次の瞬間、突如、ラディカの身体がバチバチッと静電気を発して震えた。

 理外の異変に、二人は驚いて彼女から手を離した。

 その直後、どういう訳か、ラディカの身体がつま先から灰になり始めた。

「なっ…!なんじゃあ…!?」

「ラディ…!?どうしたの…!?何があったの…!?」

 しかし、ラディカの身体は二人の理解を待たず、徐々に灰に変わる。

 消えていく大切な人を前に、マリエットはパニックになった。彼女は腕を伸ばして、ラディカの身体を掴もうとした。

 だが、身体の灰化はあまりにも速く、伸ばされた彼女の手は空を掴むことしか出来なかった。

 やがて、通気口の中に詰まっていたラディカの肉まで灰に変わった。

 詰まりを解消した通気口は、周りを血肉で真っ赤に染めながら、再び通気を始めた。

 マリエットは、唐突に突き付けられたラディカの消滅を受け入れられなかった。

 彼女は、目の前に転がるラディカの頭に手を伸ばした。

 もはや抜け殻でしかないラディカの残骸を抱き寄せて、非科学的にも神に復活を祈ろうとした。

 だが、現実は残酷で、そんな希望さえ灰となって消えた。

 ラディカの頭が、眼の前から消えた。

 マリエットは、遂に一人ぼっちになった。

「そんな…、なんで…、どうして…」

「ラディ…、アンタは、死なないんじゃなかったの…?」

「こんなのって…、こんなのってあんまりだよ…」

 明らかな“存在の死”を目の当たりにしたマリエットは、愛する人の血の上で静かに泣き崩れた。

 ベイは立ち尽くした。

 思えば、ラディカが持つ『祝福』が本当に『完全な不死』であるかどうか調べる前に彼女を死地に放ったことは完全に判断ミスだったと、彼は今更ながら気が付いた。

 マリエットとベイは、受け入れ難きを確信した。

 この冒険は、バッドエンドで終わるのだ。

 ならば、ラディカに刻苦の後押しなんてするんじゃなかった。

 そんなことをするより、三人で優しく朽ち果てていく方がまだマシだった。

 二人はそんな悔しさで胸をいっぱいにしながら、瞼を閉じようとした。


……


 …次の瞬間、通気口の先からベチャッ、ベチャっと何かが蠢く音がした。

 その直後、ゴウンという重たい音が鳴り響いた。

 音の元は、鉄の扉だった。

 マリエットとベイは驚いて扉の方に向いた。

 見ると、扉はゆっくり、ゆっくりと、大きな砂埃を上げながら、下に仕舞われつつあった。

「なんと…!まさか…、まさか…!」

「ラディ…!アンタって奴は…!」

 …開いた扉の先には、レバーに倒れ込むラディカがいた。

 息を切らしながらも、五体を完全に再生させている、無事なラディカがいた。

「だから…、言ったでしょう…?」

「私は、死なないって…」

 監房に溜まった熱気が一気に外に放出され、代わりに地下のひんやりした空気が三人の全身を包んだ。

 その後、親指を立てて勝ち誇るラディカが、子どもみたいに泣きじゃくるマリエットとベイの二人に熱く抱擁されたことは、言うまでもなかった。






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【人物紹介】


『ラディカ』

 泣く時は何度も鼻水を啜るタイプ。


『マリエット』

 一度泣き出したら中々涙が止まらないタイプ。

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