2 (6) 『パンのち晴れ』

 一


「…おい、お前ら一体どうした?ついこの間までベッタリベタベタじゃったろうに」

 ドゥオーモ大寺院の探索中だった。

 ベイは、あまりにも呆然としている二人が心配になって思わず尋ねた。

「え…、別に…?いつも通りじゃない…?」

 マリエットは、遺物の記録を杜撰に付けながら答えた。

 ラディカに至っては、「ぁ…、ぅぁ…」と呻くだけで返事すらままならなかった。

「…何があったかは知らんが、仕事場にいる以上、手は抜くんじゃねぇぞ…?」

 ベイは一応、仕事の責任者としてそれだけは伝えた後、自分の仕事に戻った。

 しかし、今日一番仕事が手に付かなかったのは彼であった。

 なにせ、彼は言葉とは裏腹に、二人がこうなってしまった思い当たりがあったし、

 何より、その思い当たりが的中すれば、二人をこうしてしまったのは彼の責任だった。



 二


 仕事終わりの夜。

 半月。中途半端に輝く星が微妙に空を明るくしていた。

 仕事道具満載のリュックを傍らに置いて体育座りをするラディカは、ドゥオーモ大寺院の近くを流れるソリティ川をぼけっと眺めていた。

「ソリティ川を流れる水はな、元を辿ればシテを横断するバラ川と同じ水なんじゃ」

 うんちく交じりの呼びかけ。振り返ると、そこにはベイがいた。

 ラディカは驚きつつ、彼の名をポツリと呟いた。彼女はてっきり、彼は今も遺跡内でマリエットと一緒に今日の仕事の後処理をしていると思っていた。

 ベイは北東の空を指さして言った。

「闇夜じゃよく見えんじゃろうが、ここからずっと向こうにあるマンジャク山脈の湖群がフランガロとラティアのほぼ全ての人々の水源なんじゃ。だから、この川を辿ればシテ以外にも、リーンやボン、ツロンにだって辿り着ける。…唯一、アメリ―とゴルフだけは川を辿った後、丘か荒野を越えにゃならんが」

「…それでも、私はゴルフがいいですわ」

 ラディカは、暗闇に紛れたマンジャク山脈をハッキリと見据えながら答えた。

「…マリエットな」

 ベイは、ラディカに伝えた。

「アイツに“強さ”を焚き付けたのは、俺なんじゃ」

 その告白に、ラディカはハッとして目を見開いた。

 ベイは、「やっぱりそうか」と、彼女らの間に生じた歪みの正体を確実に察した。

 彼はその場に座り込んで言った。

「…言い訳をするわけじゃねぇが、俺はアイツを唆したわけじゃねぇ。“強さ”は、アイツの本性で間違いなかった」

「アイツはな、父親似なんじゃ。強ぇ父親に似て、強ぇ行動で幸せを勝ち取ることが性分の人間なんじゃ」

「人間は本性に逆らうことが出来ねぇ。本性に逆らうことは自由に反することを意味するからな。だから、人は己を認めなきゃ幸せにはなれん。…ただ、そうであるならば、恐るべき本性を抱えるアイツはどう生きるべきなのか…。俺は、一旦は答えを出したつもりじゃった…」

 ラディカは、素直に尋ねた。

「ベイは、マリエットに強くあってほしいのよね…?」

「マリエットの幸せを…、願ってるのよね…?」

 彼女の遠慮ない問いに、ベイは言葉を詰まらせた。

 だが、彼は彼女と同じように素直に答えることにした。

「…正直、その通りじゃ。いや、その通り“じゃった”。今は違う…」

「予想外に、懸命に成長しようとする『悪女』の姿を見てしまった…。今じゃ、マリエットにそうなってもらいたいのと同じくらい、お前にも幸せになってもらいたい…」

「勝手な手のひら返しじゃよ、本当…。今更ながら自分の浅はかさが憎い…」

 …普段のベイは、誰よりも頼りになる男だった。

 おおらかだが、頭の回転が速く、仕事では常に的確な指示をくれる。天才マリエットの相方に相応しい無欠な男だった。

 だからこそ、そんな男が腹を割って弱音を吐く姿に、ラディカは胸が締め付けられた。



 三


 …これは、ラディカが知る由もない話。また、マリエットには秘匿された話。そして、彼女らが永遠に知り得ない話。

 ただし、ベイやマルル、ルニヨンは痛いほど知っている。

 “マリエット”という存在のオリジンの話。


 実のところ、マリエットは二世であった。彼女の母もまた、名をマリエットといった。

 マリエットはシテに邸宅を構える上級貴族の娘であった。したがって、彼女は家柄と格式という川に流されるような人生を歩んでいた。

 彼女に自由はなかった。

 そんな時に現れたのが、ギュスト…、後に夫となる男だった。

 略取というあまりにも急転な変化は、最初こそ彼女の心を傷つけた。元の生活に戻りたいと、静かに泣く日が幾月も続いた。

 しかし、ある日の夜、彼女はふと空を見上げた。そこで彼女は、生まれて初めて満点の夜空を見た。

 …それは、ガス灯が普及したシテでは有り得ない、寂びれた外の世界だからこその景色だった。

 そうして彼女は、自分が自由であることを知った。


 自由に人を愛していいと知ったマリエットは、自由を教えてくれたギュストを本心から愛するようになった。

 同時に、彼の妻として少しでも彼の役に立ちたいと想うようになった。

 彼女は儚い見目をしていた。腕も腰も細く、白過ぎる肌は太陽の下で灰になってしまいそうだった。

 それでも、彼女は自分が出来る限りのことをした。マルルやベイから歴史学を学んだり、ルニヨンから家事を学んだりした。

 弱弱しくも、彼女は精一杯、行動で愛を示そうとした。

 しかし、ギュストの“ソレ”は異常だった。

 彼は、『お前は俺が守るんだから何もしなくてもいい』と常々彼女に言いつけた。

 それでも仕事を手伝おうとする彼女に、彼は苛立ち、汚い言葉で彼女を諌め始めた。

 勉強したことを復習するマリエットを一瞥して、「そんなことより上手い夜伽の方法でも覚えろ」と罵った。

 夜まで頑張る彼に夜食を作ってきた時は、「こんなものが頭脳作業に向くか」と一喝した。

 ただ、どれもこれも彼の愛故の言葉であることは確かだった。しかし、そんな形の愛が、彼女の心を押し潰さないわけがなかった。


 やがて、マリエットは常にニコニコするようになった。

 また、彼女は歴史学を学ぶことも、家事を学ぶこともピタッと止め、ギュストの三歩後ろを歩くことだけに専念するようになった。

 そんな彼女の様子を見て、ギュストは更に彼女を愛した。

 彼から求められた時、彼女は必ず応えた。それが妻の役目だから。従順に愛されることだけが、望まれた役割だから。

 …しかし、彼女は腹の底でフツフツと悲しみを膨らませていていた。

 彼女は、強さという理不尽な暴力で自由意志を黙らせる彼に失望しつつあった。しかし、彼女は自分を自由にしてくれた張本人である彼に冷め切れなかった。

 彼女の日記には、その葛藤がびっしりと書き詰められていた。

 苦しみ、苛み、悲しみ。

 そして、彼女は出産という大役を担うと同時にはち切れてしまった。


『私の人生はこの男に潰された。私はもっと自由に生きたかった』


 …そうして最期、マリエットは産まれた子さえ呪いながら死んでいった。

 彼女の死の間際、そんなことを怨めしく聞かされたギュストに、日記は追い打ちだった。

 数日後、彼は自殺した。彼女の後を追うためではなく、天国へ旅立った彼女から最も遠い場所である地獄に行くためだった。

 自殺の前日、彼は、仲間の3人に伝えた。


『娘のことは、俺が作り上げてしまった“束縛されたマリエット”とは正反対な、“自由なマリエット”として幸せにしてやってくれ』



 四


 遺された三人は悩んだ。

 自由という言葉の意味、何より、もう二度とあの二人のような悲惨な結末を生まないために。

 マルルが出した結論は『後見』だった。

 マリエットが間違ったことをしようとした時、注意こそするが、たとえ行動に踏み切ったとしても彼女を否定しない。それを自身のスタンスにした。

 ルニヨンが出した結論は『母』であった。

 マリエットが間違ったことをした時には厳しく叱り、悩んだ時には親身に寄り添う。それを自身のスタンスにした。


 そして、ベイは『尊重』という結論を出した。

 第一線から退き、冒険者ギルドを営み始めたマルルとルニヨンと違い、現役で第一級の働きをする彼の神経は冴えていた。

 だからこそ、他二人とは違い、彼は気づけた。

 マリエットが冒険者として異常な才能を秘めていることに。


『…ベイさん。少し、恐ろしい話をしても良いですか?』

『なんじゃ、ジーヴル。また“お門違いな”王家批判でも垂れるのか?』

『いえ、そうではなくて…。先ほど、貴方とギュストさんに解読していただいた禁書の感想をマリエットちゃんから貰ったのですが…』

『考察の角度こそ違いましたが、私の息子と同じことを言うんですよ…。つまり、禁書で描かれる創造神ガロには…』

『…マリエットちゃんはまだ10歳でしょう…!?それなのに一体何なのですか!?たった一読するだけでここまでの核心に辿り着けるなんて…』

『…あぁ、そりゃあ、それくらいのことは簡単に気付けるじゃろな』

『俺たち凡人じゃ一生かけても辿り着けない結論にあっという間に達してしまう。その英知、カリスマはまるで…』


 …まるで、ギュストのようだった。

 マリエットは、非情なことに父親似だった。

 才能の有無は、それに気づく大きなキッカケだった。やがて、ベイはマリエットへのつぶさな観察を続けることで、彼女が本性まで父親そっくりであることに気がついてしまった。

 彼ただ一人がその事実を知ってしまった時、彼はどうしようもなく頭がぐしゃぐしゃになった。


 教育者という立場上、マリエットの本性を押さえつけることは不可能ではなかった。

 しかし、彼女が一番目をキラキラさせる時は、決まって歴史学を学んでいる時だった。

 そんな彼女から、喜びを奪うことなんて、彼には出来なかった。


 やがて、大きく育ったマリエットは『冒険者になりたい』と言い出した。

 ベイは悩んだ。が、マリエットが冒険者になることを止めない、むしろ、先達として彼女をサポートすることにした。

 マルルは渋々だが彼女に理解を示した。その一方で、彼は後見人としてマリエットがもっと輝ける道を密かに模索し始めた。

 ルニヨンは激しく反対した。彼女は母として、マリエットを危険な目に合わせたくなかった。

 それでも彼女が最終的に折れたのは、マリエットが冒険者になると強く、何度も宣言したからだった。

 そうして、マリエットは冒険者へと自分を昇華させたが、その傍らでさめざめと泣くルニヨンを見た時、ベイは改めて確信した。

 マリエットは、間違いなくギュストの娘だと。


 …尊重が導く結末を、彼は予見できなかったわけではない。

 ギュストに似た娘が、ギュストに似た行動を取り続けて、その先に待つ結果が如何なものか、彼は簡単に予期出来ていた。

 だが、彼はマリエットを止めることが出来なかった。むしろ、背中を押すしか出来なかった。

 それが、彼が出した結論で、かつての相棒であったギュストとの約束を果たすための方法だと思ったから。

 マリエットを幸せへと導く方法だと思っていたから。


『…けど、天真爛漫に育つアイツは、無意識に父の背を追ってるようにしか見えねぇ』


『だから、俺は、凛々しいマリエットのことが嫌いだ』



 五


「すまん…」

 ベイは、苦しそうにラディカに言った。

「俺は、アイツの幸せしか考えられずにいた…。お前のことを、どこか舞台装置か何かだと思って軽視していた…」

「その結果、健気に頑張るお前に恐るべき苦労を強いてしまった…!」

「すまん…、本当にすまんかった…!本当に、本当に…!」

 …掠れた声だった。彼の心が必死に振り絞った謝罪は無力そのものであり、川の流れる音にすらかき消された。

 彼自身、こんな自分勝手な謝罪、ラディカには届かないと思っていた。

 彼は、事態の引き金になってしまった自分に許される価値は無いと考えていた。


 …しかし、ラディカには『祝福』の力があった。

 強くなるための力があった。


「ベイ」

「謝らないで、謝ってほしくなんかありませんわ」

 だから、彼女の耳は微かな謝罪も、雑音をかき分けて聞き取ることが出来た。

 彼女は伝えた。

「マリエットから聞いたわ。貴方が尻込みするマリエットの背を押してくれたから、今があるんでしょ?」

「本当に感謝していますわ。だって、マリエットと一緒になれなかった未来なんて、考えるだけで恐ろしいんですもの」

 ベイの眼が震えた。

 いつの間にか、彼は大人げなく目元を腫らしていた。

「ラディカ…、良いのか…?そんな簡単に俺を許して…」

「だから、許す許さないとか、そういう考えすら私にはありませんってば」

「私は、いつも私たちのことを気にかけてくれるベイのことだって大好きですのよ?」

 ラディカは、何の気なしに笑った。

 彼女には、本当にベイを責める気が毛頭なかった。

 ベイは感極まった。

「…ッ!お前は…!本当に良い子じゃなぁ…!」

「あぁ…、信じられんほど良い子じゃ…!かつての『悪女ラディカ』の噂を信じ切っていた自分を呪い殺してやりたいくらいじゃわ…!」

「あ、その噂…、メラヴィアの新聞を読んで初めて知ったけど…」

「…“半分は”本当だから、そこは省みなくても大丈夫ですわよ?」

「えっ…」

「そ、そうなのか…?今のお前を見てる限りじゃあ、あれほどの悪行をしていたなんてとても考えられんが…」

「…本当ですわよ。私が『悪女』だった事実は、決して変わりはしませんわ」

「そうか…、それは…」

「悪いことを掘り返した…」

 いつもとは違い、やけに委縮するベイに、ラディカはクスッと笑った。

「…確かに私は『悪女』だった。でも、だからこそ、ベイたちには感謝してますの」

「貴方たちのおかげで、私はやり直すキッカケを手にすることが出来た。それはあまりにもかけがえが無くて、二つとない宝物ですわ」

「私は強くなれる。たくましく育って、貴方たちに恩返しが出来る人間になれますわ」

「じゃが…、そうじゃとしたら、今のマリエットは壁でしかないじゃろうて…?」

 そう言って、ベイは心細くラディカを心配した。


 …だが、対するラディカの表情は違った。

 彼女にはもう、つい先ほどまでの呆然も、憂いも何もなかった。


「超えてみせる」

「ベイの心配が杞憂になる程に強くなって、必ず壁を乗り越える。そして、きっと、みんなが幸せになれる未来を掴んでみせますわ」

 ラディカはスクッと立ち上がった。

 瞳は、正面だけを捉えていた。薄暗い夜に向けて、凛々しい顔をしていた。

「…うん。もう、クヨクヨするのは止める。ベイの気持ちを聞いちゃったからには、貴方のためにも頑張らなきゃですもん」

「だから…」

 彼女は腕を夜空に突き上げて言った。

「私、決めた!」

「この旅で必ず貴方たちの役に立ってみせる!働いて、勉強して、そして強くなった、たくましくなった証として、貴方たちの前でパンを食べてみせる!それも、“自分の力で手に入れたパンを”!」

「そうと決まれば、早速行動ですわ!とりあえず私、マリエットの残業を手伝ってきますわね!」

 そして、ラディカは駆け出した。

「ふはははは!待ってなさいよマリエット!私はやがてタバコだって吸う!コーヒーどころか、お酒だって、色事だって、色んなことを覚えて大人になる!そうしていつか、貴女に弄ばれるだけの玩具じゃなくて、貴女のことを弄ぶ女になるんだから!貴女とは絶対に、自由に、対等に愛し合える関係になってやるんだから!」

「ふはっ、ふはっ、ふはははははは!」


 せわしなく流れる川を背に、遺跡で未だ作業中のマリエットをめがけて走る彼女の姿を、ベイは目で追っていた。

 彼は確実に、大きく育とうとする芽を眺めていた。

 何故、そう見えるか?

 だって彼女の背にはもう、『見放されることへの恐怖』なんて微塵も載っていなかったのだから。



 六


 翌日。

「…で?」

「メチャクチャ張り切った結果、寺院の壁を粉々に砕いたと?」

 ドゥオーモ大寺院地下二階。

 いつも以上に元気一杯に現場をウロチョロして周囲に迷惑をかけまくっていたラディカは、遂にやらかすところまでやらかした。

「はぁ…、今の調子なら後二日で探索を終えられると思ってたのに…」

 マリエットは、正座してしょぼくれているラディカに舌打ちをくれてやった後、壁に見事に空いた1m弱の穴を睨んだ。

「ねぇ、ベイ?この土地の今の所有者って誰だっけ?」

「ショーワル伯爵」

「あー…、あぁ…!あの性悪伯爵か!アイツ相手じゃあ、事故で許してもらうのは無理よねぇ!?賠償か修復は請求されるわよねぇ!?もー!どうすんのよコレ!」

 頭を抱えてあぐねるマリエットに、ラディカは小声で言った。

「わ、私はただ…、強くなりたくて…、みんなの役に立ちたくて…、壁に穴空けちゃったのは、その…、ちょっと手が滑っただけで…」

 自己擁護のつもりの発言だった。しかし、そんな言い訳じみた発言はマリエットの神経を逆撫でするだけだった。

 彼女は煮えくり返って叫んだ。

「だから!前からずっと言ってるでしょ!?ラディは何もしなくていいって!こうやって面倒事を起こすなら尚の事よ!お願いだから、次からは現場では荷物を持ったまま一歩も動かないでくれる!?」

 息巻いて怒鳴られたラディカはプルプルと震えた後、堪らずベソをかきはじめた。

「で、でも…、マリエットだけじゃなくて、ベイのためにも強くならなきゃで…、役に立たなきゃで…、だから…」

 しかし、彼女は反省する訳でもなく、未だ言い訳をうわごとのように呟く。

 そんな様だから、マリエットの怒りは更に爆発した。

 ラディカは烈火の如く怒る彼女によって、びえんびえん泣かされた。

 そんな二人を他所に、仕事人のベイは既に壁の修復作業に入る準備をしていた。

「(時間はかかるが手作業で修復するか…?それとも、貴重品じゃが、“再花”のスクロールでも使うかな…?どちらにしても時間か金が消し飛ぶか…)」

「しかし…、何をどうしたらあの細腕でこの壁を貫けるんじゃ…?いくらラディカが“力持ち”とはいえ、これは…」

 彼は、空いた穴を改めて見て驚愕した。

 壁は石造りで、厚さ20cmは下らなかった。対し、ラディカの腕は淑女然としていて、箸さえ重く感じそうな程になよなよしかった。

「(これも『祝福』の力か?それとも壁に原因が…?)」

 彼の知的好奇心が騒いだ。

「おい、娘ども。今日はもう遅いから、お前らは先に休んどけ」

 その声掛けに、怒鳴り疲れたマリエットは息を切らしながら振り返った。

「え…?遅いって、まだ夕方でしょ?今から修復作業するなら、私も手伝うわよ」

「いや、お前らは激情に駆られてクタクタになっとるじゃろ。いいから今日はもう休んどけ」

「…ベイはどうするの?」

「俺は…、ちょっと気になることがあるから、もう少し働いたら休むことにする。晩飯作っといてくれ」

「…分かったわよ」

 ベイが強情であること知っているマリエットは、素直に言うことを聞くことにした。

 彼女は、叱られ過ぎてぐちゃぐちゃに崩壊したラディカを拾い上げた後、地上に戻ろうとした。

 その間際、ベイはそっと言った。

「ラディカが大事なら…、仲良うせぇよ」

「大事にされ過ぎるってのも、辛いもんだぜ」

「…ッ」

 分かってるわよ、そんなこと。

 マリエットはそう伝えて、ベイの心配を軽くあしらおうとした。

 しかし、彼女は言えなかった。

 彼女は腐っても学者。事実に反することは口に出来なかった。



 七


 『人を助ける』ことは『人のために祈ること』だ。

 ラディカの祖父であり、先々代皇である『シアン』は、孫娘二人に何度もそう言った。

 その深意はこうだった。


 思うがままに人を助けられると思ってはならない。その手の慈しみは思うように通らないから。

 祈るように慈しむ、それだけで良い。

 すると、助けが必要ならばきっと投げかけてくれる。その手の慈しみは必ず通る。


 聡明なレジティが祖父の意図をどう受け取ったのかは、今は知る由もない。

 一方で、アホのラディカが祖父の意図を1ミクロンも汲み取れていないことは、今更言うまでもない。

 多分、今後何百年経とうとも、彼女が成熟した哲学を持つことはない。

 頭の出来、才能、そういうものは非情なほどに残酷で、その事実を崩すことは『祝福』の力をもってしても叶うことはない。

 …しかし、それではあまりにも救いが無いじゃないか?

 だからこそ、彼女は感情の赴くままに動ける。それは、アホにのみ与えられた特別な言語能力なのだ。

 彼女が周囲の天才のように論理で対話をすることはない。

 彼女はただ、純然に行動する。

 そう、行動を、行動をするのだ。


……


「ま…、ぁ…、マリエットぉ…、マリエットは…、私が助ける…」

「…んぁ、ぇ…?あれ…?マリエット…?」

 使い古されたウールパンツの肌触りは、頬には少し荒かった。

 マリエットの膝枕の上で目覚めたラディカは、だらしなくよだれを垂らしながら眠い目を擦った。

「やっと起きた…。ラディ?もう夕飯は冷めちゃったわよ?」

 マリエットは、膝の上に転がるラディカの頭を優しく撫でながら言った。

「夕…、飯…?」

 ラディカの目の前に、串が刺さっていた。焼いた干し肉。禁裏で提供される肉料理からしたら、石板のように固い肉。

 マリエットはそっとラディカの身体を起こした後、「温め直すわね」と、干し肉串を焚火の前に刺し直した。

 空に星が輝いていた。ここ数日の天気は良かった。憎たらしいほど晴れだった。

「ベイ、まだ戻って来てないのよね。あの中年、活力だけは子供みたいなんだから」

 干し肉串の様子を見るマリエットの顔が、焚火に白く照らされていた。

「ごめん、ラディ。さっきは強く当たっちゃって」

「仕事となると、どうしても真剣になり過ぎちゃってね。…焦っちゃうから良くないね。もっともっと、悪い感情をコントロール出来るようにならなきゃね?」

「…だから、別に、アンタのことが憎くてあんなこと言った訳じゃないんだからね?」

 そう言って、申し訳なさそうに笑むマリエット。しかし、彼女が言葉とは裏腹に本気で謝罪していないことは、察しの悪いラディカが見ても分かった。

「いや…、勝手に動き回った私も悪かったですわ…」

「マリエットの怒りはもっともですわ…。もっと貴女の指示を聞いて、大人しくするべきだったと反省してますわ…」

 そう言って、頭を下げるラディカ。しかし、彼女もまた、言葉とは裏腹に本気では謝罪していなかった。

「ふふっ…、いつから私たちは、嘘の言葉で会話するようになったのかしらね?」

 言葉では分かり合えない。

 けど、身体でなら分かり合える。

 だから、マリエットはラディカを背後からギュッと抱き締めた。

 夜風に吹かれて冷えた肌だったが、二人とも温かさを感じていた。

 …こうやって、言葉でも、心でも、互いの愛を分かり合えたら良いのに。

「いや…、分かり合えていないんじゃなくて、分かり合おうとしていないだけなのよね。…特に私の方が」

「でもねー、腕の中にいるアンタって本当に可愛いのよねー。もー、ほとほと困らせてくれるわ」

 マリエットの言葉。認めたくなかったが、ラディカにも気持ちは分からなくもなかった。

 彼女もまた、マリエットの腕の中を心地良く思っていた。

 …それが不道徳的な熱であることは分かっていた。けど、いざ与えられると不可抗力のようなものを感じてしまい、これに全てを委ねてしまいたくなった。

 マリエットは、ラディカを抱いたままタバコを吸い始めた。

「…けふっ」

 シテじゃ、タバコの煙は労働者の煙で、下賤なものだとされていた。そんなものを権力者に嗅がせるなんて、あの地じゃ普通に不敬罪だった。

 しかし、ラディカはマリエットの吐く息を当然のように吸っていた。副流煙で肺が汚された。鼻の奥に煙の鋭さが刺さって、ピリッと痛かった。

 聖骸布、今日はひざ掛けに使っていた。

 そのせいで、聖骸布はタバコの灰に晒された。

 タバコの先端から雪のように舞った細かな灰が、少しずつ布地の上に薄暗い染みを作った。

 ポツポツとだけども、聖骸布がタバコによって汚された。

 ラディカの大切な物が、マリエットによって汚された。

 …こういうことに対して嬉しいと思う感情もまた、今となっては悪感情なのだろう。

 ラディカは少しだけ、成長のジレンマを感じた。

 立派になろうとしなければ、無力で愚かなままでいようとしたならば、汚れていく快感を律する必要もなかったろうに。

「たとえば…」

「たとえば…、マリエットが私の口を灰皿の代わりに使ってくれたなら…」

「え?何か言った?」

「いや…、ちょっと…、気の迷いを…」

「…?言いたいことがあるなら言ってもいいのよ?」

「無いから…、本当に何でもないから…」

「ふぅん…?」

「まぁ、何かよく分かんないけど…」

 マリエットは頭をボリボリ掻いた後、口に咥えていたソレをラディカに差し出した。

「…え?なに…?」

 ラディカの目の前で、タバコがもうもうと煙を上げていた。

 マリエットは何気なく尋ねた。

「吸う?」

「えっ…」

 彼女は、さっきから妙にタバコに意識を向けるラディカのことが気になっていた。

 …同時に、彼女はラディカにとって“タバコ”がどのような意味を指すのか把握していた。

 だから、彼女は試すように差し出した。

 ラディカはマリエットを見上げて尋ねた。

「あっ…」

「い、いいの…?」

「一口だけよ。ま、一口しか吸えないと思うけどね」

 許可をもらったラディカは、犬が食べ物の安全を確認するように、目の前のタバコを嗅いだ。

 もちろん、煙が鼻に突っ込んできて、彼女は思いっきりせき込んだ。

「(こんなものを…、大人は好むの…?)」

 彼女は涙目になりながらマリエットに尋ねた。

「こっ…、これ…、どんな味がしますの…?」

「味?うーん…」

「よく分かんない」

 マリエットは笑った。

「…分かんないけど、ちょっと甘い気がする」

「んぅ…、へぇ…」

「…やっぱり止めとく?」

「…いや」

 迷いはなかった。

 ラディカは逆手で髪を耳にかけて、マリエットの手元に顔を近づけた。

 その動きに合わせて、マリエットも指を彼女の口元に近づけた。

「うん、そう…、私の指に軽く口をつけて…」

「そう…、先っぽに唇を当てるくらいで…」

「咥えないで…、最初はタバコのキワで息を吸う感じを覚えて…。そう、上手…」

 …初めて吸うタバコの煙は正直じゃない。

 口の中にタバコの葉が無遠慮に入った。吸った息が思うように肺には入ってくれず、喉元に滞留した。

 ラディカは激しくむせてしまった。

 その様子に、マリエットはプッと噴き出した。

「あはは。まぁ、初めてはそうなるよね。…それで、味は分かった?」

「いえ…、何にも分かりませんでしたわ…」

「…大人の味には、これで懲りたでしょ?やっぱりラディにタバコは早かったのよ」

 そう言って、マリエットはタバコを自分の口元に戻そうとした。

 しかし、ラディカはそれを遮った。彼女はマリエットの手首をつかんで、自分の元に引き寄せた。

「…いえ、もう一口」

「もう一口だけ、吸いたいですわ…」

「え…」

「いや、ダメだけど?」

「なっ…!なんで…!?」

「だって、一口だけって約束だったじゃん」

「…っ!マリエットはまだ私のことを甘く見てますのね!?このっ…!もう一口…!寄越しなさいの…!」

「あっ!ちょっ!腕引っ張んな!落ちる!火種が落ちるから!」


 …結局、何回吸ってみても味は分からなかった。

 ラディカにタバコは難しかった。


 でも、彼女は満足だった。

 彼女は想いを馳せていた。

 ひょっとすると、マリエットもこんな苦しみを乗り越えてタバコを吸えるようになったのかな。

 すると、今こうやって初めてのタバコに苦しむのも、マリエットと足並みを揃える第一歩なんだな。

 彼女は、肺に溜まった熱い空気のおかげもあって、じんわりと身体に染みる温かな喜びを感じていた。


 やがて、ラディカはニコチン酔いのせいで意識を朦朧とさせた。

 クラクラした頭をマリエットの胸にぽてっと預けて、すぅすぅ寝息を立て始めた。

 その寝顔は、静かで儚げで…、いつも以上に幼気だった。

 しかし、マリエットは、それが強さの裏返しであることを知っていた。

 だから、彼女はラディカのことを可愛いとは言わなかった。

 彼女はただ一言、「頑張ったね」と、もどかしく思いながらも呟いて、せめてもの抵抗の如くラディカの頭を撫でた。

 干し肉串は、すっかり焦げてしまっていた。



 八


 結局、ベイは一晩中大寺院に籠っていた。

 翌朝、彼は穴の開いた壁の前で胡坐をかいて、娘ども二人が降りてくるのを待っていた。

「凄いですわね、ベイ…。徹夜明けでしょう?それなのに、目の下に隈の一つもありませんのね…?」

 むしろ、彼は一仕事終えたかのような晴れ晴れとした顔をしていた。

「なはは、慣れじゃよ。それよりマリエット、何か食うもんはあるか?」

「ちょうどあるわ。はい、干し肉串」

「えっ、焦げ…、何で焦げてんじゃ…?」

 そう言いつつも、ベイは冷めた焦げ肉をブチブチ食べ始めた。

「で?一晩中作業してたってことは、それほど魅力的な何かがココにあったってことでしょ?」

「あ?あぁ!まぁな!」

 マリエットの問いかけに、ベイは喜んで呼応した。

「色々あって壁の裏を調べた!ラディカが破壊した面以外の三方の壁を割って、ソイツと見比べてみてな!」

 彼は、手前にあるラディカが砕いた壁の穴と、昨晩に自分で割って作った壁の穴×3を順繰りに指した。

「え?何でベイも壁に穴空けてんの?頭おかしくなったの?」

「黙って聞け!…この部屋の壁、それ自体はどれも同質じゃが、壁背面の土が違う!ラディカが砕いた壁の背面だけ土が固過ぎる!」

「へぇー、そうですのー」

 ラディカは、ボケッと話を聞いていた。

 …一方で、マリエットは表情を真剣なものに変えていた。

 彼女は既に、ベイが何を言おうとしているのか理解していた。

 ベイは、既に焦げ肉を食べ終えていた。マリエットはラディカが背負うリュックを漁っていた。

「…シャベルって持ってたっけ?」

「ない。じゃが、手持ちの鉄全部を“反下”のスクロールで溶かせば1、2本は作れる」

「じゃあ今すぐ取り掛かりましょ。こんな大発見を前に油を売ってる暇はないわ」

「よし」

 二人は、完全に仕事モードに入っていた。

 だが、そうであってもクソボケのラディカは、未だ状況を呑み込めずにいた。

「え?何が『よし』ですの?え?え?何がありましたの?ねぇ、ねぇってば」

「…もしかして、私、また何か面倒事を起こしちゃいましたの…?」

 彼女は、真剣な顔をする二人を条件反射で怖がった。

 だって、二人の顔から笑顔が消える時と言えば、いつだって、彼女が何かをやらかした時だったから。

 彼女の口から、思わず謝罪の言葉が突こうとした。


 だが、それを遮って、マリエットはラディカの肩を叩いた。

 そして一言、ハッキリした声で彼女に伝えた。


「大手柄よ」


 …それは、ラディカが仕事に携わってから、初めて貰った手放しの誉め言葉だった。

 彼女はアホだから、未だ、マリエットとベイが何を指して真剣な表情をしているのか分からなかった。

 けど、背中からムズムズと迸る嬉しさが、彼女の自信に一気に花を咲かせた。


 事態の好転

 予想外の進展


 この後、ラディカは精一杯シャベルをふるった。

 “最近自慢になった自身の怪力”を使って、一生懸命壁面の土を掘った。

 そうして、三人は隠し通路を見つけた。

 既に調べ尽くされたと思われていた遺跡から、信じられない発見をしたのだった。






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【人物紹介】


『ラディカ』

 疲れたときは床にでーんっと寝っ転がるタイプ。


『マリエット』

 胡座の姿勢のまま寝れる。

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