2 (5) 『死因は爛れ』

 一


 長年貴族として最高のサービスを受け続けてきたラディカにとって、四等級の馬車はまだまだ慣れないオンボロ荷車。

 慣れないのは馬車だけじゃない。メラヴィア滞在時に利用する安宿や酒場もまた、彼女に微妙な嫌悪感を味合わせるし、下民共が自分に敬意を示さないことにも未だイライラしてしょうがない。

 …三日間に及ぶレスティ遺跡探索の際に野営を強いられた時なんかは、発狂しそうになった。

 どれもこれも、彼女には異次元の体験過ぎて身体が順応しない。頑張って慣れようとしても、無意識に拒絶反応を示してしまう。


 …が、実のところ、これらはラディカにとって、あまり大したことのない壁だった。

 それらはあくまでも生活習慣的な、文化的な問題でしかなく、頑固者ならともかく、まぁまぁ順応能力の高い彼女ならば、時間が経てば自然と乗り越えられる大したことのない壁だった。


 …彼女を最も悩ませる問題は、もっと心の奥底にあった。

 そう、彼女にとって、本当に順応出来ない新体験、乗り越え難い壁とは、貧乏への慣れでも、下民として振る舞うことでも、サバイバルでもなく


 偏に、マリエットだった。



 二


 ゴトゴトと揺れながら進む、メラヴィア行きの四等車。

 その車内で、ラディカは車輪の軋みよりも大きなため息を絶え間なくついていた。

「はぁ…、あぁ…、あぁ…!」

「まーまー。私もベイももう怒ってないし、調査自体は問題なく終わったんだから、いい加減元気出しなよー」

 そう言って、マリエットはラディカの両頬を人差し指で押し上げた。「幸せだから笑うんじゃない。笑うから幸せなんだー」と彼女は付け加えて言った。

 しかし、ラディカはすぐに「やめてよ…」と、マリエットの指を払った。そして、彼女は先ほどまでの憂鬱とした表情に戻った。

「ラディ…」

「気を遣わないでくださいの…。本当は、マリエットだって笑えないって思ってるんでしょう…?私が、あんなにも使い物にならないなんて…」

 思い出すラディカの記憶は散々だった。

 レスティ遺跡を調査する三日間で、彼女がじっと荷物持ちをしていた時間は、実のところ一瞬だった。

 我慢を知らない彼女の身体は、もっとマリエットの助けになりたいという想いに駆られて、いつの間にか勝手に動きまくっていた。

 しかし、思い立ったままに動きまくる彼女とは、現場からすれば邪魔でしかなく、実際、指示なく勝手に動いた彼女によって、仕事には幾つもの支障が生じていた。


・荷物を持ちながら、何か出来ることはないかと辺りをウロチョロするから、肝心な時に道具が取り出せず、何度も仕事がストップした。

・発掘の真似事をして遺跡に傷をつけた。

・これゴミよね?と遺跡内の遺物を勝手に持ち出して屋外に放り捨てた。

・単純に荷物をどこかに置き忘れたりした。

・荷物の扱い方が雑過ぎて、しょっちゅう物を壊した。

・荷物持ち以外のことに意識が向き過ぎていて、一向に道具の名前を覚えなかった。

・など


「…まぁ、仕方がないんじゃない?初めての仕事だし。何より、ラディは箱入り娘なんだから」

「は、箱入り娘…」

「その言葉、心にズーンと響きますわ…。あぁ、ラディカは根っからのダメな子でしたのね…」

 マリエットはラディカの擁護しようのない失態の数々を思い出して苦笑いになりつつも、彼女の肩をポンと叩いた。

「…だから、アンタは無理に頑張んなくったっていいのよ。アンタのことは、私が守るんだから」

「でも…、それじゃあ、私がマリエットの隣にいる意味がないじゃない…」

「頑張らなきゃ、役に立たなきゃ、私は私が存在している理由を見い出せませんわ…」

「…馬鹿ね。アンタは私の隣に存在してくれるだけで十分だって」

「何度言っても分からないのね。本当、アホの子だわ」

 マリエットはやれやれとため息をついた後、「口、開けて」とラディカに呟いた。

 彼女の道具であるラディカは、言われるがままに口を開いた。

 そして、ラディカを黙らせる深い接吻が、彼女の思考を包み込んだ。


 …ラディカには、まだまだ意見があった。モヤモヤとした気持ちを払しょくするために、彼女はもっとマリエットと話がしたかった。

 しかし、彼女は喉奥に注ぎ込まれる熱に、理不尽に屈服させられた。彼女はもう、マリエットの言いなりになるしかなかった。

「(あぁ…、私はまた、こうやって躾けられてしまうのね…)」

 彼女は潤んだ目を閉じて思う。 

 深い繋がりは、自分を捕らえる檻のようだと。

 だが、そんな檻が、彼女には甘美で甘美でしょうがなかった。

 弄ばれるだけの玩具でいい。

 そう囁いてくれるマリエットの前にいると、彼女はたちまちそうなんだと全てを放棄してしまう。

 マリエットの言葉と温もりでドロドロに溶かされるのは好き。

 その堕落に永遠に浸かってさえいたくなる。

 

 その、どうしようもなさを含んだ言葉と熱は、かつてのラディカを解き放ってくれた“それ”と同じ。

 大切なもの。


 …でも何故だろう。

 今となっては、その熱にどこか不安を抱く。

 ラディカは今日もどんどん溶けていきながら不満に思う。


 自由に愛し合いたい、なんて大それたことは言わない。

 けど、マリエットとは、もっと対等な関係になりたい。

 なんの難しいことはない。


 …じゃないと、玩具のままだと、いつかマリエットに飽きられそうで怖い。

 だからこそ、私は何かしなきゃと思う、何とかしなきゃと思う。

 マリエットの助けにならなきゃ。役に立つ存在だと思ってもらわなきゃ。

 …そうでなきゃ、マリエットから愛されなくなる。


 奴隷のようにそう思っていた。

 でも、そんなことを思う自分にも、彼女は疑問を抱いていた。


『…愛されたいと願うことは、一種の病質だ』


「(分かってますわよ…、そんなこと…)」



 三


 メラヴィアでのマリエットら一行の仕事は二つ。

 一つ目の仕事である、バー平原のレスティ遺跡の再調査は完了した。

 二つ目の仕事は、『ドゥオーモ大寺院』の再探索。これも好古家貴族からの依頼(ただし、依頼主は別)。

 …どちらの仕事にも、“再”が付いた。どちらの遺跡も既に調べ尽くされたものだった。


 メラヴィアでの仕事は、仕事の腕こそ不可欠だが、どれも最終的には遺跡に関する調査書をもう一度作り直すためだけのものであり、あまり面白いものではなかった。

 肝心の面白い仕事は、メラヴィアでの仕事を終えた先、ラティア南部の方にあった。


 とはいえ、受けた仕事は真剣にやる必要があったし、次の仕事である『ドゥオーモ大寺院』の再探索は地味に大仕事だった。

 なので、この仕事は、マリエットらの間で、メラヴィアに帰着した後二日ほどダラダラ休んでから始めようという約束になった。


 休日一日目。

 ラディカは一日中、マリエットと安宿のベッドの上にいた。

 別に疲れ切っていた訳ではない。ラディカ自身には起き上がる体力があった。

 でも、マリエットの方が「疲れた」と起きることを嫌がり、寝転がったままラディカを抱いて離さなかった。

 抵抗できないラディカは、されるがまま抱き枕になるしかなかった。他、ちょくちょくいたずらされた。

 …部屋に何もなくて、身動きが取れないのに「喉渇いた。何か飲ませて」と言われた時は、本当にどうしようかと思った。

 そんな、困らせるだけが目的の意地悪を色々言われたし、ラディカはそのために動かされた。

 なんというか、その日は彼女にとって、休みなのに仕事の日よりもクタクタになる一日になった。


 二日目。

 他愛もなかった。それが問題だった。


「マリエットって、いつもズボンですわよね?」

 白いルダンゴートドレスを身にまとい、聖骸布で髪を結わえた、如何にも淑女らしい様相でベッドに腰掛けるラディカは、着替え中のマリエットに尋ねた。

 マリエットは、いつものウールパンツにズボッと豪快に足を通した後、シャツを内にインしながら答えた。

「…むしろ、私からしたらシテの文化の方が異常だけどね?」

 彼女はラディカの全身をジトッと見つめて、尋ねた。

「アンタ、今日も服の裏はコルセットだけだもんね?」

 ラディカは当然のようにコクンと頷いた。

 一方で、その“当然”を受け取ったマリエットは分かりやすく頭を抱えた。

「…まぁ、貴族令嬢様は稼ぎのために動き回らなくてもいいから、それでも良いんだろうけど。ラディはもう令嬢様じゃないんだから、せめてブルーマーか何か履けばいいのに」

「え…、スカートの下に何か身に着けるなんて…、何か変じゃありません?」

「どこが変なのよ。むしろ履かない方が不合理だわ。衛生的じゃないし、動き回ると“見える”し」

「でもまぁ、無理強いはしないわよ。アンタにはアンタの常識があるんだろうし。…外の文化が変だと思うなら、引き続きノーパンのまま辺りに恥部を露出しまくっていればいいわ」

「な、何だか毒気のある言い方ですわね…」

「…」

 『それが他人に迷惑をかけないものでない限り、その人の当たり前を尊重する』

 それは、マリエットの基本的姿勢であった。

 しかし、ふとしたきっかけで日頃の不満を沸き上がらせた彼女は、個人的な想いを隠し切れなかった。

 彼女はアーム付きチェアにドカッと腰掛けた後、肘をついてあからさまにブスッとし始めた。

 その様子に、ラディカはオロオロした。

「シ、シテの文化ってそんなに変ですの…?もしかして、私は今まで物凄い失礼を働いていたのかしら…?」

「シテと、シテ周辺地域の中流階級、それから貴族階級はアンタと同じ文化だわよ。人口比で言うならフランガロの約6割はアンタと同じ常識を持ってる。だから、私は別にアンタのことを変だとは言ってないでしょ」

「えっ…、でもマリエット、さっきシテの文化を『異常だ』って言った…」

「言ってない!」

「え、えぇ…?」

 不貞腐れて無茶苦茶なことを言うマリエットに、かつて暴君であったラディカはこの上なく翻弄された。

 彼女は悩んだ。

 シテの文化が身体に染みついているどころか、自室では裸族である彼女にとって、何かを履くということは閉塞感でしかなかった。

「…でも」

 でも、彼女は短絡的に外の世界を否定したくなかった。

 彼女は成長したかった。

 最終的にマリエットにとって欠かせない存在と成る為に、彼女は何でもしたかった。

「(たとえば…、ズボンを履くということが、結果的に冒険者として自分を成り立たせる一助になるとしたら…)」


 彼女は盗み見るようにマリエットを見た。

 …パンツスタイルのマリエットは、正に仕事が出来る女性という感じでかっこよかった。


「…私!」

 ラディカは両ひざの上で拳を握った後、決心して立ち上がった。

「スカート止める!ズボン履く!今すぐ仕立て屋に行きたいですわ!」

 …それがマリエットの為になるのなら、私は躊躇なんかしない。

 しかし、肝心のマリエットはラディカの宣言にポカンとしていた。

「えっ…」

「えっ?ズボン?なんでそこに着地すんのよ…?」

「えっ…、だ、だって…!私もマリエットみたいにパンツスタイルでカッコ良くキメたいから…!」

「…えっと?」

 マリエットは、ラディカからのドストレートな誉め言葉に照れつつも、微妙な顔をしながら答えた。

「あのね?ラディカ、私はただ、アンタに無防備な格好で外を彷徨いてほしくなかっただけで…」

「私のコレは、仕事だから履いてるのよ?スカートだとポッケが少なくて困るからって…」

「仕事だから履く?だったらむしろ、私はそれを履くべきですわ!」

 ラディカは鼻息荒く、ふんすと言ってのけた。

 マリエットは改めて唖然とした。

 その後、彼女は椅子の背もたれに思いっきりもたれて天を仰いだ。

「うーん…」


 そして、彼女はポツリと呟いた。

「…だから、むしろラディはそんなものを履かなくていいと思うんだけどなぁ」

「…?」

 興奮していたラディカは、その言葉の意味をすぐには理解できなかった。

「ラディは“可愛いんだから”、スカートの方が似合ってるわよ?だから、下はズボンじゃなくてブルーマ―かショーツでいいんじゃ…」

 しどろもどろ、そんなことを言うマリエットを前にして、彼女はようやく気が付いた。

 …目の前のマリエットは、あからさまにラディカの決意を歓迎していなかった。


 それでも、「自分で蒔いた種だからなぁ…」と渋々了解したマリエットは、浮かない足取りでラディカを仕立て屋へ連れて行った。

 仕立て屋の主人が「テメェみたいにデケェ女にピッタリなズボン、特注じゃなきゃ作れねぇよ!」と怒鳴りながら高額の見積もりを持ってきた時、マリエットは「なら仕方ないわね?」と、嬉しそうに店を後にしようとした。


 ラディカは結局、男性用のドロワーズを履くことになった。

「仕事が全部終わったら、もっと可愛らしいものを用意しましょうね?」

 そう言ってニコニコ喜ぶマリエットの笑顔は、絶妙に喉に詰まった。



 四


 “愛への欲求”。

 それは誰もが持つ、歪になりやすい衝動だった。

 誰もが、なのだから、ラディカとマリエットにおいてもその通りだった。


 ラディカの場合、愛への欲求は『見放されることへの恐怖』へと変化した。

 彼女は怖かった。

 仕事の時、荷物持ちとしてただ突っ立っている時、果たして自分は、本当にマリエットにとって愛されるに足る存在で在れているのか…と。

 だからこそ、彼女は動き回った。自分が有用であることを必死にアピールして、利用価値があることを周知しようとした。

 言い換えれば、マリエットに捨てられないよう、必死に媚びていた。

 受動的な愛、自分に裁量権が無い恋心。

 …だが、愛されることしか考えない姿勢、愛されたいと恐怖する心は、いみじくも彼女の母に対する姿勢と瓜二つだった。

 愛されるために妹を貶める、かつての愚かな彼女のままだった。

 しかし、喜ばしいことに、彼女は言語化こそ出来ていないものの、この問題に何となく気がついていた。


 …かつての自分への後悔が、彼女をそうさせたのだろうか。


 鑑みるに、彼女における『マリエットの役に立ちたい』には、もう一つの意味があった。

 それは、“マリエットを愛したい”であった。

 自発的な想いの発露であった。だからこそ彼女は、徐々に能動的になり始めていた。


 …だが、そこでラディカの壁として立ちはだかってくるのが、マリエットにおける“愛への欲求”であった。

 これは、ラディカが抱えるソレ以上に大きな問題へと変わっていた。

 彼女の場合、それは『愛されることへの恐怖』と化していた。

 もしくは、『愛する立場への執着』と化していた。

 それは、今に問題を解決しようとするラディカの立場と、決定的に相反していた。


 だからこの後、二人は愛し合っているにも関わらず、分かり合えず悲しみに暮れてしまうのであった。


 …


 仕立て屋まで足を運んだ後、ついでだからとラディカとマリエットは買い物を楽しむことにした。

 パン屋、花屋、色々巡った。

 その中で、最もラディカの足を引き留めた店は、古書店であった。

「こ、これ…!これを買う…!」

 歴史書が並ぶ棚の内、ラディカはランダムに手に取った一冊をマリエットに掲げてみせた。

 マリエットはポカンとした。

「え…、それ、『ソリティの大虐殺』に関する本よ?大丈夫?ラディにはまだ早い気がするけど…」

 彼女が拍子抜けするのも無理はなかった。だって、目の前のラディカは冷や汗をかきながら全身をぷるぷる震わせていて、明らかに背伸びをしようとしていたのだから。

 彼女は、ラディカのことが普通に心配になった。

「…変に無理しなくても良いんじゃない?あ、ほら、ラディはこっちの本の方が好きなんじゃないの?この前言ってたでしょ?『高貴なる冒険』とかが好きだって」

 そう言って、彼女は背後の本棚から適当な少女向け娯楽小説を取り出して、ラディカに手渡した。

 中身をパラパラと見たラディカは、あからさまに「面白そう…!」という表情をした。その小説は、モロに彼女の好みに突き刺さっていた。

 しかし、彼女には歴史への強い意志があった。だから、彼女は今に抱いた感情を邪念としてブンブン振り払った後、マリエットに小説を突き返した。

「せ、折角ですけど結構ですわ…!今の私は歴史の勉強がしたい気分だから…」

「…本当に大丈夫?無理してない?」

「だ、大丈夫…!無理してない…!読む…!ちゃんと読んで、賢いラディカになりますわ…!」

「…そう。そこまで言うなら止めないけど」

 マリエットは、立派な言葉を連ねるラディカの不安極まりない表情をジッと眺めた後、腹に一物抱えながら歴史書を店主の下に持って行った。

 会計中、マリエットは自分の背後でソワソワしているラディカに尋ねた。

「それじゃあさぁ、早速してみる?」

「歴史の勉強」

 ラディカがコクコクと頷いた時、彼女はまるで狐のように笑んだ。


……


「…で、ヴェイユ24年から進んだフランガロの王国化を受けて、衛星国ラティア北部地方のダム…、今で言うクーネ国あたりの冒険者たちが決起して『オムファロス』の作成を始めたわけ。でも、結果は失敗で、冒険者たちの動きに感づいたレクトル家がラティアへの懲罰戦争を始めて…、まぁ、その名残が、今にも続く王国のラティア北部支配なんだけど…。だから、その戦争の際に、有力な冒険者らは殆ど殺されちゃって、遺体はソリティ川に流され、未完のオムファロスはレクトル家によって回収されちゃったっていう…」

「…ラディ?聞いてる?ここ一番面白いところよ?」

「ぶぇ…、え…?」

 古書店近くのカフェ、テラス席にて。

 ラディカは小一時間ほど、購入した歴史書にまつわる知識の手解きをマリエットから受けていたのだが、結果は散々だった。

「はぁ…、やっぱりラディには早かったんじゃん。専門性の高い歴史書なんて、もっと基礎的な知識を付けた後で良いのよ」

 マリエットの若干小馬鹿にした嗤いが、手解きすら全く理解できずに委縮してばかりだったラディカの心にズキッと刺さった。

 彼女は、鬱々とした顔で俯いて思った。

「(マリエットが、私を叩き潰すような勢いで歴史をまくし立てるから理解できなかっただけですわよ…)」

 教え方が悪い、それは事実であった。

 …尤も、マリエットはド級の天才であり、教師としても逸品の逸材であるはずだったが。

 しかし、その事実を差し置いてもラディカの頭脳は間抜けであった。

「で、でも…、ヴェイユ?とか、クーネ?とか、いきなり言われても分かんないですわよ…」

「そういう諸々を含めて基礎的な知識をつけろって言ってんの。ヴェイユ暦はともかく、王国とクーネ国の関係は神学校の授業でも出てくる一般常識よ?」

「…まぁ、ラディは立場的に、真の歴史なんて知らない方が幸せかもしれないけどねぇ。でも、一般常識くらいは流石に理解しておいた方がいいと思うから、そこら辺はゴルフに帰ったらのんびり勉強しましょ」

 それだけ伝えた後、マリエットは酷く落ち込むラディカから歴史書を取り上げ、代わりに「はい、これ」と、彼女の前に一冊の本を差し出した。

 それは、先ほどにラディカが気に入っていた小説であった。

 単純な性格のラディカは目を輝かせて小説を受け取った後、中身を眺めてパアッと明るい顔になった。

「うん。やっぱりラディには無邪気さの方が似合うわ。高尚な歴史の勉強なんて、無理してやらなくたっていいのよ」

 嬉しそうに読書をするラディカを見て、マリエットは同じくらい嬉しそうに微笑んだ。

 そして彼女は、本日何本目になるか分からないタバコを吸い始めた。

 大人っぽい煙の臭さが宙に舞った。

 その臭いに気がついたラディカはハッと我に返った。

「また…、マリエットに手籠めにされた…」

 彼女は小説をパタムと閉じて、マリエットが吐く白い煙を未練がましく目で追った。

 煙の元を見た。足を組んで、澄んだ表情でタバコをふかすマリエットは、ラディカの目にはやっぱり格好良く映った。

 対比される自分は…、そんなもの、見たくなかった。

「…手籠めにされるのは嫌?」

 マリエットはフッと笑って尋ねた。それは、他愛もない質問だった。

「それは…」

「嫌…、ですわよ…」

 だから、ラディカも他愛もなく回答した。

 …しかし、その場の勢いに任せて呟かれた彼女の回答は、マリエットの表情を途端に暗いものへと変えた。

 深く吸われたタバコが一気に灰に変わり、支えを失った火種がポトリと落ちた。

 ズボンのウールが、少し焦げた。



 五


 顔色の悪いマリエットを見て、ラディカは何故か思い出した。

 レスティ遺跡再調査中の野営のこと。その夜にポツポツと呟かれたことを。


『ラディの手、綺麗よね。柔らかくて、なめらかで』

『それに比べてさ、私の手を見てよ。皮膚が固くて、マメがあって、指が傘の骨みたいに角っぽく折り曲がる』

『…この仕事をするとさ、こうなるの。書き物も、肉体労働も多いから。だから、頑張って働いちゃうと、ラディもいつかこうなるの』

『でも…、私はラディの綺麗な手が好きだからさ…』


……


 マリエットは、平然を装った声で尋ねた。

「ねぇ、ラディ?ラディは…」

「私に守られるのは嫌?」

 ラディカは質問に反応した。しかし、彼女の目線はマリエットの方ではなく、机の方に向いた。

 自分の手元には幼稚な小説とミルク。マリエットの手元にはタバコとコーヒー。

 全部、マリエットの財布から購入されたもの。

 …自分が弱いという事実なんて、彼女は嫌というほど分かっていた。

「その質問は…、ズルいですわよ…」

 予想通りの回答を得たマリエットは、クスクスと意地悪く笑った。

「ま、拒絶できないわよね、私のことを。だって今のアンタは私に生かされてるんだから」

 おもむろに、マリエットはラディカからミルクの入ったカップを奪い取った。

 そして、彼女は吸い切ったタバコをミルクに浸して、吸殻を処分した。

 それらの行為に、ラディカは文句の一つも言えなかった。

 マリエットは机の上に置いていたシガレットケースからもう一本を取り出して、火をつけずに咥えた後、さり気なく言った。

「私はね、アンタを守るのが好き。だって、アンタを守ってる時、私はアンタの全てを手に入れられている気がするから」

「…逆に、アンタを守っていないのは絶対に嫌。だって、アンタを守っていない時、私はアンタそのものすら手放しちゃってる気持ちになるから」

「だから、アンタが頑張ろうとしているのを見ると、どうしてもいじわるしたくなっちゃうの。アンタに頑張ってほしくなくて、もっとダメ人間でいてほしくて、…私の元から巣立ってほしくなくて」

「ラディには、私の可愛いラディでいてほしい。…アンタの成長なんて、認めたくない」

「…どう?引いたでしょ?これ、私の正直な気持ちね」

 そう言って、マリエットはケタケタと自嘲した。

 よく見ると、彼女の身体は震えていた。

「なんかさ、怖いのよね。アンタが自分の力で生きられるようになることが」

「だって、アンタってばとんでもなく美人でしょ?モテるでしょ?その上で、アンタって節操無しじゃん?ちょっと優しくされたら、すぐに『好き』『愛してる』って思っちゃって、甘えちゃう人間じゃん?」

「簡単に他者から愛を与えられて、簡単に他者からの愛に流されてしまう、そんなアンタに自立されてみなさいよ。たちまち、レイプ魔の私のことなんか忘れてもっと良い奴のところに行っちゃうでしょ」

「は…、はぁ…!?」

 黙って聞いていたラディカは思わず声を荒げた。

「そっ…、そんなことありませんわよ!まるで私をビッチみたいに言って…!マリエットは酷いわ…!!私が節操無しなわけ…」


「節操無しじゃないのなら、どうして私の愛になびいたのよ?」


「…!!」

 鋭い、あまりにも鋭い言葉だった。

「…今、アンタが私を愛してくれているのは結果論で、実のところ、アンタはあの場で助けてくれる人間だったら、私じゃなくても誰でも良かったんじゃない?」

「そんなこと…!」

「そんなこと…、ありませんわよ…」

 ラディカが持つマリエットへの愛は確かだった。

 しかし、問い詰められると、彼女はみるみるうちに自信がなくなった。

 マリエットは何かを鼻で嗤った後、言った。

「…やっぱり、ラディは優しいわね。こんなに酷くいじめる私を、それでも好きでいてくれるなんて」

「でも、それだけ従順でいてくれても不安なの。だって、『フラン家の長女』なんて、私には高嶺の花過ぎるから…、冒険者で犯罪者の私には分不相応だから…」

「アンタがいつまで『私のラディ』でいてくれるのか、今はそんな予兆ないけど、いつかそうじゃなくなっちゃうんじゃないかって、恐ろしくなっちゃって…」

「ごめんね…、捻くれたこと言っちゃって…。でも、耐えられないの…。ラディが私のものじゃなくなった未来を想像しちゃうと…」

 …いつの間にか、マリエットは恐怖で潰れてしまいそうな表情をしていた。



 六


 マリエットが『愛されることへの恐怖』もしくは『愛する立場への執着』に苛まれている原因は、偏に彼女が強さに固執していたからであった。


 彼女は思い詰めていた。


 ゴルフで示してみせた、激薬のような強さをキッカケにラディカを手に入れたのだから、私はそれを維持しなければいけない。

 決して、決してラディに守られてはいけない。ラディを自由にしてはいけない。ラディを押さえつけて、自分という籠に詰め込んでいなければ、ラディはどこかへ飛んで逃げちゃう。


 そう、焦っていた。

 だから、彼女はラディカに助けてもらうことを拒絶していた。その兆し、キッカケとなり得る出来事を必ず叩き潰していた。


 …しかし、当のラディカは大人しく捕らえられるほど甘い器じゃなかった。

 何故なら、彼女には『祝福』があった。

 過酷な環境にも負けず、新たな人生にも挫けず、前を向くことしか許さないこの力は、彼女にいずれ誰よりも強くなることを保証していた。

 …彼女に、マリエット抜きで生きる力を保障していた。


 マリエットは冒険者であり、比類なき歴史の専門家であり、『祝福』の存在を完璧に理解していた。

 だから、彼女は既に察知していた。


 いつか、ラディは私を上回る。

 そして、私から愛の主導権を奪い取ってしまう。

 そうしたら、…束縛されることにウンザリになったラディは、きっと自分の元から離れる。


 その未来予想図がまた、マリエットが抱く恐怖を加速させていた。

 焦りと、恐怖が、結果的にマリエットにラディカからの愛を信じられなくさせていた。

 だからこそ、マリエットは愛されることが怖かった。優しく愛されるくらいなら、鎖のように愛したかった。


『…弱さは良いな。従順になれるだけじゃなくて、強くなることも出来る。強いことのなんと不便か、弱くなることが許されない』

『何より、強い相手とはぶつかることしか出来なくなる』

 

 マリエットは震える声で、懇願するように言った。

「だから…、さ。ラディは別に、ズボンなんて履かなくてもいいじゃない。歴史だって、一般常識程度で満足しておいて、冒険者としての専門知識なんて身に着けなくてもいいじゃない」

「だって、代わりに私が一生養ってあげるんだから…」

「…ね。だから、お願いだから弱いままでいてよ。アンタが弱い分、私が甘やかして、甘やかして、心と身体に愛も快楽もたくさん注いであげるから…」

「だから、永遠に私に依存して?爛れて、爛れて、私の愛玩道具のままでいて?」


 …気持ち悪く笑う、マリエットからの歪なお願いは、ラディカにとっては最良の提案であるはずだった。

 なにせ、“永遠に愛してくれる”と言ってくれるのなら、少なくとも『見放されることへの恐怖』という問題は解決するのだから。


 しかし、人間とは不思議なものだ。

 いざ、全てを与えてくれると知った時、心身は思わず防衛本能を働かせる。

 ラディカに怖気を味わわせる。

 その怖気が、遂に彼女に気づかせてしまった。

 壊れてしまったマリエットが、『顧みるべき過去』とソックリなことに。

 彼女は身震いをした。

 こんなマリエット、見たくなかった。

 だから、彼女はポロポロと涙を零しながら呟いた。


「今のマリエット…、お母様みたい…」


「あ…」

「…ごめん」

 ラディカの涙を見て、マリエットは静かに謝った。

 同時に、彼女は信じられないという表情をした。

 何故なら、彼女は勝手に確信していた。

 ラディなら、きっと自分の無茶苦茶なお願いに応えてくれると。

 だって、ラディはいつも、キスを黙って受け入れてくれるから。

 愛し合った時、いつも気持ちよさそうな顔をしてくれるから。

 だから、今だってそうしてくれると思っていた。

 思っていた。

 しかしそれは彼女の傲慢でしかなかった。

 彼女は、遂に自分がラディカのことを大切に出来ていないことに気がついた。

「そう…」

「そうよね…。アンタにだって、心があるもんね…。そりゃ、自分のことは自分で決めたいよね…」

「私…、どうして…」

「こんなにも、アンタのことを信じられないのかしらね…」

 マリエットは、酷い自己嫌悪に陥った。

 それでも、心の中でラディカへの理不尽が止まらないから、彼女はますます自分のことが嫌いになった。

 彼女は酷い顔をして立ち上がり、フラフラとラディカの隣に寄った。

 そして、理由もなく咥えていたタバコをラディカの前に置いた。

 ただし、着火のための道具は一切置かずに。

 やはり意地悪に。

 それが、今の彼女が出来る精一杯の尊重だった。

「…ごめん」

「…やっぱり、アンタのことを失いかねないのなら、私はアンタの全部を否定したい…」

「本当にごめん…。でも、私は強さを原動力にした時点で、こんな愛し方しか出来なくなってしまったから…」

「これが、“マリエット”という人間の本性で、アンタへの罪だから…」


 …別に不和が生じている訳ではなかった。

 ラディカとマリエットの関係は極めて良好で、互いが互いを愛し合っていることは間違いなかった。


 しかし、それがどうして、今の二人は、悲しみの涙が止まらなかった。

 互いの愛への絶望が止まらなかった。






──────────────────────────


【人物紹介】


『ラディカ』

 庶民服の動きやすさにマジで感動している。


『マリエット』

 服やカバンはポケットの数で選ぶ派。

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