2 (3) 『絡み合い、分かり合う』
一
「そうか、そうじゃったかお前」
部屋の外から朗らかな声が聞こえた。
マリエットには聞きなれた声。
ガチャッと、戸が開いた先には、マリエットの仕事仲間であり、彼女の師匠である、大柄大太りの大男、ベイがいた。
「おいベイ!ここは女の空間だよ!マルルもそうだが、きったねぇおっさん連中のくせにどうして勝手に入ってくるかね!?」
ルニヨンは、肌着だけのマリエットにサッと布団をかけてやりながら、ノックもなくズカズカと部屋に入るベイに怒鳴った。
「なはは、まぁ、ええでないか。マリエットはお前の娘だが、俺の娘でもある。だから、俺は今、お前と同じで単に娘の部屋に入ってるだけじゃ。それの何に気兼ねがある?何も悪かなかろう?」
ベイの穏やかだが、非常に雑で強情な態度に、ルニヨンは「頭が痛いよ」と示すポーズをとってみせた。
ベイはまた、なははと笑った。
そして、彼は笑顔のまま、マリエットの方を向いた。
「帰って来たんだね…?」
マリエットは、ほっと安堵した表情でベイを見上げた。
「あぁ、面白い仕事がいくつも見つかって良い具合じゃぞ。…尤も、今、お前が抱えてる問題よりは面白かないけどな」
「…路地裏の、あの子じゃろ?お前の意中は」
ベイがストレートにそう言った瞬間、マリエットの顔はパンと破裂するように一気に真っ赤になった。
「い、意中って、そんな…!」
マリエットは慌ててベイの発言を否定しようとした。だが、それと同時に、ベイは彼女の言葉を遮って発した。
「『人が前を向くには過去を清算する必要があるように、人類の未来には正しい歴史が必要である』…こりゃお前が論考に綴った言葉のはずじゃがなぁ?」
「…!」
「それがどうして、当の発言者がこれを否定しようとする?」
「うぅっ、それは…」
「マリエット。正しい歴史を探求する奴が、自分自身の歴史に不真面目になってるってのは、俺ぁいただけねぇと思うなぁ?正直な気持ちを持ってねぇ奴が、果たして正直な仕事を出来るもんかなぁ?」
久々に再会したベイに秒殺されたマリエットは閉口した。そして、分かりやすく頭を抱えた。
「ベイ、お前、あんまりマリエットをいじめるもんじゃねぇよ?」
ルニヨンが苦言を呈した。だが、ベイの態度はまるで変わらなかった。
「いじめじゃねぇさ。いじめになんてなるもんか。マリエットは俺たちよりもずっと優秀な冒険者なんじゃぞ?」
「どんなことだって糧にするさ。考えて、考えて、力にするさ」
マリエットの身近な人間の中で最も天才肌であるベイは、鬼才を持つ彼女にとって最も近しい存在であり、良き理解者であった。
だから、彼は知っていた。こうやって焚きつけてやれば、マリエットが途方も無い深慮を始めることを。
実際、マリエットは頭を抱えつつも、その脳内では爆発的思考をもって恋と向き合っていた。自分の気持ちと向き合っていた。
そうして、少しの時間が経った後、結論を導き出したマリエットは恐る恐る顔を上げた。
…その顔は、これ以上なく鮮やかな恋模様に染まっていた。
二
いよいよ自分の気持ちに素直になったマリエットは、しかし、未だモジモジしていた。
「でも、ベイ…?」
「それでも、私には分かんないの…」
マリエットは、ぽつりぽつりとつぶやいた。
「私の中には、確かにアイツへの想いがある。それも、おかしいくらい大きな想いがある…」
「…でも、こんなものに素直になって、本当に良いの…?」
彼女は、表情を段々と曇らせた。
「だって、この想いに素直になっちゃったら、私は無茶苦茶になっちゃうよ…?」
マリエットは、自分自身に怯えていた。
何故なら、彼女が今に持つラディカへの想いはもはや倒錯の勢いに達していて、もしもこれに従順になってしまえば、彼女は良からぬことをしでかすに違いなかった。
アイツに「私のことを好きになれ」と迫るだけで止まればまだ良い。
…もし、迫ってもアイツの気持ちが変わらない、どうしても、首に巻かれた呪いの方を優先して揺るがないというのなら、私はきっと、アイツを襲ってしまう。
無理やりにでも好きと言わせるために、アイツを囲って、閉じ込めて、全てを支配しようと目論んでしまう。
心も、身体も、全部を私の所有物にしようとしてしまう。
マリエットは、そんな暴力性を『強さ』と言いたくなかった。彼女は、困っている人がいたら率先して助けに行くような人格者であった。だからこそ、彼女は自分の内に迸る想いの危険性を理解していたし、これを容認できなかった。
彼女は口を開いた。
「マルルは…、マルルは、私の気持ちを尊重しつつ、自分のやりたいことを成し遂げていた…」
「そういう強かさこそが、『強さ』なんじゃないかなって、私は思うの…」
ベイは笑った。
「なはは、なんじゃ?最強であるはずのマリエットが、恋となるとそんなに弱弱しくなるか?」
「…まぁ、マルルのそれも強さじゃな。アイツはすげぇ男じゃからな、そういう器用なことが平然と出来ちまう。お前とは違うタイプの天才じゃ」
「じゃが、それはあくまで手段の差でしかねぇ。アプローチの方法が異なるってだけで、アイツの根底にある『強さの秘訣』は、お前の持ってるソレと変わらんもんよ」
マリエットは、不思議な言葉にピクッと反応した。
「強さの…、秘訣…?」
ベイはニヤついて答えた。
「アイツはな、親バカなんじゃよ」
その答えに、二人の話を隣で聞いていたルニヨンがブフッと噴き出した。
「…ッアハハハハ!そうさ、そうさねぇ!アイツは人一倍澄ましてるくせに、昔っから愛娘のためなら何でもする子煩悩だったからねぇ!」
ルニヨンにつられて爆笑するベイを前に、マリエットはポカンとした。
二人の大笑いが中々止まらなかったので、しびれを切らした彼女はベイの腹をポンポンと叩いて注意を引いた。すると、ベイは「あぁ…、すまんすまん」と話を戻した。
「とどのつまりなぁ、アイツは、お前のことを愛してるから強いんじゃよ」
「単純で分かりやすくて聞き飽きるような話じゃが、人の強さってのは、偏に愛じゃ。考える葦にゃ悔しいが、どれだけの哲学と美学を動員したって、このアホらしい公式は覆すことが出来ねぇ」
「…実際、愛の男じゃったお前の父ちゃんは紛れもない最強じゃったからなぁ」
ベイはしみじみと話した後、大きな手で、そっとマリエットの頭を撫でた。
「本当に大きいなったなぁ、お前。…表面の優しいところはお前の母ちゃんにそっくりじゃが、皮の下、本質的な部分は父ちゃんそのものじゃ」
「お父さんに…、そっくり…」
マリエットは素直に撫でられつつ、その言葉を噛みしめて嬉しくなった。
…ルニヨンだけは、彼女の父母が話題に出てきた時から怪訝な様子になっていたが、それはいつものことなので、彼女は見ないふりをした。
三
ベイは、おもむろに話し始めた。
「…これはまだ話したことなかったかもしれんがな。実はな、お前の父ちゃん、ギュストの奴はな、お前の母ちゃんを力づくで奪い取って結婚したんじゃ」
「…そうなの!?」
唐突な事実に、マリエットは飛び上がった。
マリエットは、今まで、ベイやマルル、ルニヨンから、自分が生まれると共に無くなった父母のことを教えて貰う中で、二人が格差婚をしたことは聞いたことがあった。
しかし、まさか、父と母の間にそんな壮絶なドラマがあったなんて、寝耳に水だった。
「ギュストの奴はな、お前の母ちゃんをシテで見つけて一目ぼれしてな。何度かプロポーズしたんじゃ。でも、お前の母ちゃんは上級貴族の身持ちの固いご令嬢様でな、しかも、その上に婚約者がおったから、上手くいかんかったんじゃ」
「でも、ギュストの奴は、どうしてもお前の母ちゃんと一緒になりたいって言って。諦めきれんでな。…遂には結婚式に乗り込んで、お前の母ちゃんをかっさらってしまったんじゃ」
「その後のお前の母ちゃんは、連れ去られたことにスンスン泣いとったわ。悲しい、悲しい顔をしとったわ。でも、ギュストの奴は絶対に揺らぐことなくてな、必死に、必死になって、お前の母ちゃんを口説いたんじゃ。もう、何日も何か月もかけてな。そうしたら、お前の母ちゃん、段々とギュストの奴に振り向くようになってな。笑いかけるようになってきてな。楽しそうに会話をするようになってな。…いつのまにか、ちゃんとした夫婦になっとったわ」
…懐かしみながら思い出を話すベイに対し、マリエットはあんぐりしていた。
話が壮絶過ぎて言葉が出なかった。
無茶苦茶過ぎる。
話は、最終的に二人愛し合って終わったハッピーエンドのように聞こえるが…、いや、実態は決してそんな煌びやかなものじゃないハズだ。
賢いマリエットには分かる。母はきっと、家から、婚約者から引き離されてしまって、閉じ込められて、洗脳されて、精神的にとことん参ってしまって、だから、観念して父を愛するようになったんじゃないかと、容易に推察できる。
いや、普通に考えてそうとしか思えない。
…とても褒められた話じゃない。
生娘の略取なんて、当然に重罪だ。どの世界でもそうに決まっている。
というかそもそも、罪になるとか以前に、自分のエゴイズムのために他者の悲しみを顧みないなんて、人として非難されるべきだ。
狂っている。
だから、ルニヨンはお父さんのことをよく思っていなかったのか。
マリエットは、その話が、間違いなく罪深く、軽蔑されるべき話であると理解できていた。
しかし、只今の恋がる彼女にとって、その話はただ愚劣なだけで終わる話ではなかった。
こともあろうに、話を聞き終えた彼女は、父を羨ましく思っていた。
愛に生きた父の最強が、自分にも欲しいと考えていた。
もし、アイツに対して、私もそんなことが出来れば…
ラディカに尻込みする弱っちい自分に、その我が儘が有ればいいなと強く願った。
しかし、彼女は、どうしても蛮勇への第一歩を踏み出す度胸を作れなかった。
当然だ。彼女は賢い女性なのだ。
たまに気が抜ける時があっても、基本的には目の前にある美味しいマシュマロに手が出そうになる本能を、理性でガシッと捕まえる。
どれだけ手を伸ばそうとも、超えてはいけないラインはキッチリ守る。
それこそが、彼女にとって至極当然で、正義なのだ。
故に、彼女は雁字搦めになった。
爆炎のような強い想いは存在するのに、それに対して自分自身が行動にブレーキをきつくかける。
脳が、より良く、利口な道を探せと命令をする。冒険者らしく賢く在れと命令をする。
彼女はどうしようもない気持ちでいっぱいになった。
…私は、父とは違う、弱い人間なんだ。
マリエットは呟いた。
届かぬ物に諦めを込めた調子で、静かにポツリと呟いた。
「…お父さん、強かったんだね」
「お母さんのことが好きでたまらなくなって、人攫いだってしちゃうくらい愛を貫く人なんだもんね…」
「そう!その通りじゃ!」
ベイは興奮気味に答えた。
「強い、強かった!何をしようとも芯が一本通っとる男じゃった!」
「そんな強い人の娘なのに…、私は…」
マリエットは、自分の父を嬉しそうに称えるベイを見て、更に悲しそうな顔をした。
しかし、そうやって彼女が思い詰めることこそ、ベイの筋書きであった。
種は蒔いた。マリエットという土の上で、それは急成長した。彼女が自分の父を否定せず思い悩むことは、その現れだと理解した。
彼は、あと一押しでマリエットが変わると確信しニヤリとした。
その笑みに、ルニヨンは良からぬものを察知した。
「ベイ…!アンタ、まさか…!」
ベイはルニヨンの方を一瞥して言った。
「すまん、やっぱり俺は、どうしてもマリエットはマリエットでしかいられねぇと思うんだ」
そして、ベイは、本来なら保護者の立場なら言うべきでない発言を、マリエットに言い放った。
「…でよ、マリエット。そんな父ちゃんにも関わらず、お前は一体何だ?…今のお前は一体何をしてるんじゃ?」
厳しい物言いだった。マリエットはビクッと反応して、ベイの方を向いた。
彼は続けた。
「お前は、強くて、狂った男、ギュストの娘なんじゃぞ?それにも関わらず、一体何にビビってあの子に話しかけない?何をかしこぶって、臆病になっている?弱気になっている?」
「そもそも、本当にあの子を助けたいってなら、つべこべ言わず、無理やりにでもあの子を部屋に閉じ込めておけばよかったろうに。あの子の口に水やパンをぶち込めば良かったろうに。それなのにお前ときたら、気持ちの尊重?強かさ?馬鹿か?」
「お前はな、そんなことを考えるべき人間じゃねぇ。お前があの子の前で何か取り繕おうとする必要はねぇ。お前って人間は、失敗もクソも無しに、横暴に、暴力的に、破壊的に振る舞えばええんじゃ。特に、お前が恋をしてるってんならな。それこそがお前に似合う」
「なんせお前は、最強を継ぐ『マリエット』なんじゃぞ?」
「…!」
マリエットは、彼の言葉を丁寧に反芻した。
冒険者としての自身の師匠である彼の偉大な言葉を、その優秀な頭脳で相当な深度まで読み解いた。
そして、彼女は、身を委ねるべきでない真実を見出してしまった。
彼女は、ふと、自分の腕を流れる汚れた血を感じた。鳴る愚かな心臓を感じた。
父と同じ血脈と、鼓動を持つ事実を知った。そして、真実が、只今の己の内に存在することを確証した。
彼女は、只今に見えた希望を慎重に掴むようにして呟いた。
「私は、強くて、狂ったお父さんの子供…。一目ぼれした相手を無理やりに手籠めにしちゃう、横暴過ぎる悪魔の子供…」
「だからこそ、私はマリエット…」
そんな彼女に、ベイはとどめの一撃を与えんが如く、不敵に笑ってみせた。
「そうじゃ」
そして、彼はマリエットの背中を更に押した。
本来なら進めてはならない悪性の方向へと、悩める愛娘を後押しした。
「そんでよ、お前はさっき、自分には大好きでしょうがない人がいるってことを確認したばっかりじゃろ?ギュストの奴みたいに、愛っちゅう凄まじい力を手に入れたばっかりじゃろ?」
「お前は、あの子にしてやりたいことがあるんじゃろ?…だったら物怖じなんてするんじゃねぇ!何も考えんと、その頑強で無敵な愛だけを頼りに嵐のように動き回って、あの子のことなんか、お前のわがまま一つで引きずりまわしてしまえ!」
ベイの言葉が、マリエットの表皮に強い衝撃を与えた。
その衝撃は、彼女の内なる衝動を抑え込んでいた、あらゆる賢知と道徳を破壊していった。
裂かれた皮膚からグロテスクな肉や血が見えるように、彼女の破壊された表層から、本当ならば仕舞い込んでいなければならない醜悪な欲動が顔を出した。本来ならば、曲解した方法で伝えられるべき想いが、あまりにも直接的に姿を表した。
それらはやがて、彼女を支配していった。同時に、賢明が癖の彼女から、強かさに憧れる彼女から、本能以外の全てが失われていった。
彼女は、全身から徐々に沸き上がる力に、暴力極まりない、非道徳的な躍動に震えた。
「私は…、アイツのことが好き…」
「気弱なくせに変に強情で、ほっとけなくて、横顔が綺麗で、寝顔がかわいい、アイツのことが大好き…!」
「私は…、アイツのことを…、アイツのことを…!」
…途端、マリエットの視界がバッと晴れた。
目の前に大いなる空が見えた。
それは見てはならない空だった。
しかし、彼女は、その先にラディカへの極めて純粋な想いを見つけた。
いや、もはやそれしか見つけられなかった。
マリエットの瞳に黒い炎が宿った。
彼女は、褒められるものではない、しかし、決して揺るぎない勇気と自信を取り戻した。
彼女は、自分本位に、只今の自分が何をしたいのかを、完全に理解した。
愛以外の全てを捨てた彼女には、もう、迷いはなかった。
マリエットは、自分にかけられていた布団をバッと剥がした後、強い意思をもって行動を始めた。
「ルニヨン!着替えを用意して!これ食べたらすぐに出るから!」
マリエットはそう言って、途端に目の前の食事を胃にかき込み始めた。何の躊躇いもなく、これから活動的に動き回るための燃料補給を始めた。
その後、彼女は、汚れが落とされてすっかり綺麗になった愛用の綿シャツに勢いよく腕を通した。ウールパンツに足を通した。そして、すっかり普段の恰好に着替えたならば、勢いよく、グンと胸を張って店を出た。
彼女は知性の欠片もない、横暴のための第一歩を踏み出したのであった。
四
「…アンタ、マリエットに随分なことを言ったね?」
ルニヨンは、満足げに笑んでマリエットを見送ったベイを睨んで言った。
「その笑顔が本当なら、いくらアンタでもぶっ殺すよ」
ベイは、スンと静まって言った。
「気持ちは乗らねぇが、想いは本当じゃよ」
「…大マリエットには申し訳ねぇがな。でも、俺にとっては、いかなる道徳よりも、マリエットに強くなってもらう方が大事じゃ。強くなって、心が揺らぐことが無くなって、そんで、頑として幸せを気取ってくれる方が大事なんじゃ」
「…あの子がギュストのバカみたいになっても良いってのかい?」
「そうならねぇようにさ」
「…なんせ、人の本質は変わんねぇからな」
「だからこそ、マリエットにはギュストの奴とは違って、最期まで笑って逝ってもらいたいんじゃ」
五
夜明け前。
再びやってきたマリエットの満ち満ちた英気にマルルは眼を見開いた。
「マルル!」
声も、生命力の溢れたものであった。
「…アイツは無事だ」
マルルはマリエットの変化を何となく察しつつも、特に何も言うことはなく、見張りの結果報告を端的に済ませた。
「面倒かけたわね。…ありがとう」
一晩、マリエットの代わりに夜警を続けて疲れたマルルは、しかし嫌な顔は一切せずに、ただ、彼女の肩をポンと叩いて、その場を後にした。
ゆっくりと歩き去っていく彼の後ろ姿から、彼の無言の温かさがひしひしと伝わった。
マリエットの熱量はますます加速した。
路地裏の方を見ると、ラディカはやはり地に倒れたままであった。
腕の一本を動かした痕跡すらなかった。
…いざ、ラディカを目の前にすると、マリエットは少し緊張した。今から彼女にしてやろうと考えている自分の暴行の内容に、我ながら辟易した。
しかしマリエットは深呼吸をして、気を内に向けた。
彼女は、身体が滾っていて、心が強烈な自信の一つで満ち満ちていることを間違いなく確認して、グッと前を向いた。
そして、彼女は路地裏に足を踏み出した。
「ねぇ…!アンタ!」
宣戦布告と同時に、マリエットは、ラディカが反応するよりも速く、彼女の元に一瞬で近づいて、しゃがみ、彼女の両脇に腕を入れて、猫を持ち上げるみたいに彼女を持ち上げた。
この時、マリエットは久々にラディカの顔を見た。案の定、ラディカの顔は土埃で汚れていた。それと、ずっと倒れこんでいたせいか、起こされたばかりの彼女には覇気が無かった。意識が朦朧としているようであった。
目はしょぼくれていて、口は半開きであった。情けない有り様であった。
しかし、そんな彼女が、マリエットにはどうしようもなく愛おしく見えた。
「…マリエット…?」
ラディカは弱弱しい声で呟いた。
「…!」
「…私の名前、覚えていてくれたの」
嬉しさがこみ上げる。
目の前の彼女が可愛くてしょうがない。愛情が溢れてしょうがない。
マリエットは思わずラディカを抱き締めた。
そして一言…、彼女の口から自然と言葉が衝いて出た。
「へ…?」
唐突にぶつけられたその言葉に、ラディカは困惑した。
「すきって…?」
「なんで…?」
マリエットは質問に答えなかった。彼女はただ、ラディカを更に抱き寄せるだけだった。
「え…、あ…?」
外観上、“そういう好意”を向け慣れていたラディカは、只今にマリエットが持つ感情の正体をすぐに理解した。
理解して、改めてマリエットの体温を感じた彼女は、一気に怖気がした。
「なんで…」
「やだ…、はなして…」
「はなして…!」
ラディカは、自分をギュッと抱いて離さないマリエットに抵抗し始めた。身じろぎをして、マリエットから逃れようとした。
しかし、ボロボロになって気力が完全に失われている彼女が、精力が爆発しているマリエットに抵抗なんて出来るわけがなかった。
逆に、マリエットはラディカが抵抗するほどに内の劣情を逆撫でされて、堪らなくなった。彼女は段々とラディカへの拘束を強めていった。
…気がついたら、ラディカは完全に押し倒されていた。
「…今度は、覆い被さるだけでは終わらないわよ」
ラディカに馬乗りのマリエットは、彼女の両手首を片手でがっしり押さえつけながら言った。
「なんで…、なんで…!」
「やだ…、やだ…!なのに…!」
ラディカは過呼吸になりながら訴えた。身体が抑え込まれている分、言葉で必死に抗った。
「…へぇ?抵抗してくれるのね、アンタ。ちょっと傷ついちゃうかも」
「ねぇ、もしかして私のこと嫌い?」
だが、マリエットから発されたその一言で、ラディカの抵抗はピタリと止まった。
彼女の口は、何かを言いたそうに、でも、言いたくなさそうに、とにかくもどかしそうにもぞもぞとし始めた。
「何よ。嫌いなら嫌いって、ハッキリ言いなさいよ」
「それとも、言えないの?…そんなことを、まるで思ってないから?」
ラディカはビクッと反応した。
「ねぇ、どうなの?私のことが嫌いなら、震えるだけじゃなくて、ちゃんと抵抗してみせなさいよ。前に見せたみたいな馬鹿力でも発揮してさ…」
「…でも、できないんでしょ?というか、したくないんでしょ?…だって、この状況がまんざらでもないから」
身体だけでなく、心まで追い詰められてしまったラディカは、もはやマリエットの目を見ることが出来なかった。
全て図星であった。彼女は強引なマリエットに怯えつつも、内心では気持ちの高揚を感じていた。
六
ラディカはその実、マリエットに好意を抱いていた。
ただし、その好意は恋情や劣情ではなく、どちらかといえば、自分を助けてくれた人間に対する信頼と感謝であった。
それでも、彼女が持つマリエットへの想いは本物であり、想いの大きさだけならば、恋愛感情のそれに匹敵するものがあった。
彼女は、本当はマリエットと仲良くなりたかった。
一緒におしゃべりして、ご飯を食べて、くっついて寝て、…それから、冒険者として仕事することができれば、どれほど幸せかと願った。
だから、追い詰められたラディカは、このままマリエットに身を任せられたらいいのにと心の底から思った。
しかし、彼女はそんな幸せをまだ手に出来ずにいた。
その勇気が、というより、自分への赦しが、まだ下せずにいた。
「なんで…」
「なんで、貴女はそんなに優しいの…?」
マリエットが行為の寸前まで迫ったところで、ラディカはポツリと呟いた。
「…は?」
「優しい?この私が?」
ラディカのガウンをはだけさせ、更には手始めに唇を奪ってやろうと意気込んでいたマリエットは、その素っ頓狂な発言に拍子抜けた。
「だって…、私は、悪女ラディカなんだよ…?」
「誰とも一緒になっちゃいけない、お母様の愛しか求めちゃいけない、一番偉い貴族の娘なんだよ…?」
「だから、私は高貴で、偉くて、嫌われ者で、貴女とは違って、貴女に酷いことをいっぱいしてしまう、悪い人なんだよ…?」
「それなのに、どうして貴女は私に向き合ってくれるの…?」
ラディカが幸せを手に出来ない理由は、やはり自信の無さからであった。
彼女は、新たな恩人であるマリエットを前にした時、どうしてもかつてのシスターとの記憶を辿ってしまっていた。
…自分が悪女にすがってしまったせいで不幸にしてしまった大切な人のことを、その後悔を思い出していた。
彼女は、自分の内にある悪女というものが怖かった。
いつ、これが爆発して、親切にしてくれるマリエットを傷つけてしまうのかと想像して、だから怯えていた。
実際、怯えは妥当だった。何故なら悪女は既に二度も、マリエットからの温情を無下にしていた。
…あんなことが、また起こるかもしれない。いや、間違いなくまた起こる。
だからこそ、彼女はマリエットから離れたかった。
これ以上、マリエットを傷つけないために。
何より、マリエットに愛想を尽かれて、嫌われてしまって、自分が傷つかないように。
それこそが、彼女が思い付いた、自分というシャボン玉よりも淡く脆い、へなちょこな心を守るための方法であった。
…なのに
なのに、マリエットは私を掴んで離さない。
決して、決して、私を自由にしてくれない。
からっぽな寂しさに進むことを許してくれない。
マリエットから離れてしまえば、大きな幸せはない。
でも、これ以上の不幸もない。
それがベストだと考えていたのに。
惨めな私の最良の末路だと考えていたのに。
「…それでも、それでも貴女は、私を幸せにしてくれるの…?」
だから、そんな言葉がラディカの口を突く。
しかし、マリエットの認識は当然違う。
「…?いや?アンタを幸せにする気は無いわよ?」
「…え?」
「私は単に、私が幸せになりたいからアンタに迫ってるのよ」
マリエットの、ラディカの手首を掴む力が強くなった。
「優しさとか言われても訳が分からないわ。…あんまり私を美化しないでよね。私は今、精一杯の勇気を出してアンタを襲ってるんだから」
「…?襲ってる…?」
「そう、襲ってるのよ。私はこれから、アンタのことを好き勝手に弄んで、手籠めにして、自分のおもちゃにしようとしてるの。汚らわしい暴漢と変わらないことを、アンタにしてやろうとしてるの。たとえ、アンタが嫌だって泣き叫んでも、そうしてやろうって考えてるの」
そう脅してやると、ラディカがビクビクと怯えた。そんな反応が、マリエットの嗜虐心、背徳感をくすぐって、彼女をゾクゾクと刺激した。
「…嫌だって言っても、貴女は私を貴女の物にしてくれるのね…?」
『襲われている』、その自覚が芽生えたラディカは、それでも、自分を求めてくるマリエットにまんざらでもない顔を見せた。
「そう…、だけど」
「狂ってるわね…?アンタも大概…」
受け入れられていることを理解して、無意識に、マリエットの両手がラディカの両手を握った。
ラディカがうっとりした表情を見せた。
だから、マリエットはもっと迫った。
ラディカが気を許すほどに、身体が乾いていく。彼女のことをもっとメチャクチャにしたくなる。
マリエットに強く求められるほどに、心が潤っていく。彼女に全てを捧げたくなる。
二人の円環が生まれる。
「やっぱり…、私には貴女のことが優しさにしか見えないよ…」
「優しくなんてしないわ…、これは愛という名の暴力よ…」
もどかしくなって聖骸布の方をよそ見しようとしたラディカの困り顔を、マリエットはそっと遮った。
二人は初めて絡まった。
そして、二人は静かに溺れていった。
七
しばらくして、マリエットはゆっくり後ずさりをして、ラディカの上から降り、地面に押し付けていたラディカの上半身を起こして、背を簡単に払った。
その後、彼女は家屋の壁を背にして座り込んで、綿シャツの内ポケットをまさぐった。
「…あ、切らしてたっけ」
目的の物が見つからなかったので、彼女は代わりに口に手を当てて、軽く一呼吸をした。
そして、彼女は、小さく息を乱してへたり込むラディカの方に視線を送った。
視線に反応して、ラディカはマリエットの方を一瞥した。
だが、彼女は、マリエットと目線が合った途端に、ふいと背を向けてしまった。
しかし、そんなラディカの様子なんて知ったこっちゃないと言わんが如く、マリエットは、普通の態度で彼女に尋ねた。
「ねぇ、もう知った話だけどさ、改めて、アンタの口から教えてくれない?」
「アンタの名前」
ラディカは、恐る恐る振り向いた。マリエットが真っ直ぐな目でコチラを見ていた。ラディカはもう、観念するしかなかった。
「…私の名前は、ラディカ。フラン・ガロ王国最高位の貴族、フラン家当代の…、いえ、末代の長女、ラディカ・ソロリス・セヴァディオス・フランですわ…」
「…そっか」
マリエットは、達成感のこもった顔をして言った。
「そんな奴を、私は手籠めに出来たってわけね…」
改めて名乗らされたところで、ラディカの心に、また一抹の不安がよぎってきた。
「…やっぱり、私はどこまでいっても『ラディカ』ですわ」
自分というものを表す言葉が、この期に及んでも『ラディカ』しかない。そんな事実が、今でも彼女を苦しめた。
「?自分の名前、嫌いなの?」
「…正直なところ、もう大嫌いですわ…」
だって、ラディカは悪女とセットだから。
ラディカはお母様のモノだから。
「ふぅん、じゃあ改名してみるのはどう?もう死んでこの世に存在しないから、無理してラディカを名乗る必要はないでしょ?」
「改名…」
ラディカはドキッとした。その行為に、なんだか大きな変革を感じたからであった。
しかし、だからこそ、彼女はそんな重い意味合いを持つ決断を簡単には下せなかった。
「できませんわよ…、そんなこと…」
「うーん、そんなもんかぁ。まぁ、そうか、私も自分の名前を変えるのはちょっと抵抗あるなぁ…」
マリエットは、ふーむと顎に手を当てて悩んだ。
少しして、マリエットははたと思いついた。
「じゃあ、あだ名で呼ぶのはどう?」
「え…?」
ラディカは拍子抜けた。
「あ、あだ名…?」
「そう、アンタは『ラディカ』なんだから、たとえば…」
「『ラディ』、ラディって、お尻の音が抜けてるだけだけど、何だかフレッシュな感じがしない?」
「…!ラディ…!」
その単調なあだ名は、ラディカにとって信じられないほど瑞々しく聞こえた。
実のところ、ラディカは今まで一度たりともあだ名で呼ばれたことがなかった。
なにせ、彼女は王国で最も権威的な存在だったのだ。たとえ彼女の幼馴染であるオルレであろうとも、呼びかける際は敬意をもって『ラディカ』と呼んでいた。
だが、このマリエットはまるであっけなく、そんな息苦しい慣習を消し飛ばしてくれた。
『ラディカ』という格式ばった権威の服を剥ぎ取って、代わりに、裸んぼうの彼女に『ラディ』というまっさらな服を着せてくれた。
その意味の絶大さは、改名を嫌うラディカにとって、計り知れなかった。
「お…、気に入ったって顔してるわね」
マリエットは、無意識に頬が緩んでいるラディカの顔を見て満足げに笑った。
「ラディ、ラディ、私のラディ。ふふっ、いい気味だわ」
ラディカはあだ名で呼ばれるほどに、心を揺さぶられた。
自分がラディであるという事実が身体に染み渡るほどに、自分がマリエットのモノにされていくことを自覚した。
「ラディ」
マリエットが、ラディカの目をじっと見つめて言った。
ラディカは、マリエットの目を見て気恥ずかしそうに頷いた。
彼女はもう、自分のご主人様から視線を外せなかった。
…あぁ、なんだか分かってきた。
私はもう、この人から逃れられないんだ。
どれだけ拒絶しても、この人は絶対に私を鎖でつなげたままにするんだ。
「まぁ、アンタも色々悩みを抱えてるんでしょうけど、気にしないでいいわよ」
「好きに拗らせなさい。どれだけ癇癪起こしても、その度に私が愛で黙らせてあげる」
私がどう在ろうとも、どう足掻こうとも、この人に『ラディ』として愛されるしか道は無いというのなら。
もはや、そう運命が決定づけられているというのなら。
…もう、肩ひじを張らなくてもいいんじゃないか?
「あ…、あの…」
ラディカが、もじもじと口を開こうとした。
「ラディ」
しかし、それよりも先に、マリエットはラディカに尋ねた。
ずっと尋ねたかったことを、彼女はようやくラディカに尋ねることができた。
「大丈夫?」
「お腹…、空いてない?」
その言葉に、ラディカの全ては決壊した。
「マリエット…!マリエット…!!」
ラディカは四つん這いで駆けて、マリエットの胸に飛び込んだ。なりふり構わず、無茶苦茶になって彼女にすがりついた。
そしてラディカは、今まで溜め込んでいた何もかもを彼女にぶつけた。
辛くてしょうがない、潰れてしまいそうな表情で、必死に、必死に主張した。
「お腹空いた…!喉も乾いた…!ずっと…、ずっと…、潰れるくらい苦しかった…!」
「死にたかった…!苦しくて、苦しくてしょうがなかったから…、貴女と別れてから、何度も、何度も死のうとした…!でも、死ねなかった…!死にたくても、何度死んでも、死ねなかった…!」
「死ねなかったの…!!」
ラディカの干からびた瞳から涙が溢れた。
ボロボロと零れ落ちる大粒の涙で、マリエットの服がじんわり濡れた。
涙に加え、鼻水まで垂らすラディカは、権威もへったくれもない、とても情けない顔をしていた。
「大丈夫じゃない…!私は大丈夫じゃない…!」
「苦しい気持ちから抜け出したいけど、今の私は何も出来ない…!今の私には、お金も、頼れる人も、何も無いから…!だから私は、パンの一個だって買えない…、水の一滴だって手に入れられない…!自分の力じゃ、何も成し遂げられない…!」
「私はもう、こんなの嫌…!嫌なの…!だから、助けて…、助けて…!」
そして、彼女は全ての恥じらいを捨てて、今まで抱えていた空虚な何もかもを捨てて、額を思いっきり地面にこすりつけた。
「お願いします…!お願いします…!どうか…、どうか…!仕事をさせてください…!水を飲ませてください…!ご飯を食べさせてください…!働きます…!何でもします…!だから…、どうか私を助けてください…!!」
彼女は膝を屈しながら、身をうつ伏せにしながら、必死に、必死に、マリエットに懇願した。
ラディカの決死の懇願に対し、マリエットもはち切れんばかりの想いであった。
マリエットは、死ぬ思いで頭を下げるラディカの身体を持ち上げ、顔を上げさせた。
だが、それでも助けを訴え続ける彼女に応えるために、彼女が晒す恥の全てを受け入れるために、マリエットは彼女を思いっきり抱き寄せた。
そして答えた。
「だから、そんなこと言われなくたってしてやるわよ…!するに決まってるじゃない…!アンタは私のラディなのよ…!嫌がったって、助けるに決まってるじゃない…!!」
マリエットは必死に、必死にラディカを抱き締めながら、彼女と同じように顔をクシャクシャにして答えた。
そして二人は、大声で泣きじゃくり合った。
…ラディカは、ようやく『悪女ラディカ』という殻を破ることが出来た。
自分の立場を正しく理解し、他者に助けを乞うという、人が人と共に生きる上での第一歩を踏み出すことが出来た。
だが、彼女の内に蓄積された闇は未だ健在で、負債はまだまだ大きい。
悪女は、まだ死んでいない。
しかし、彼女に吹くのは追い風だった。
何故なら彼女は立てたのだ。スタートラインに。
そして得たのだ。無垢な自分を正しい方角へと導いてくれる最高のパートナーを。
彼女の成長は、いよいよここから始まるのだ。
いつの間にか夜は明けていた。
陽は未だ、昇って間もなかった。
しかしそれは、以前に見た孤独な熱線とは違って、ずっと明るい、幸せに満ち満ちた光を彼女たちに優しく注いでいたのであった。
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【人物紹介】
『ラディカ』
この後、ラディカを含めた家族全員分の朝ご飯を用意していたマルルらの前でまた大泣きした。
『マリエット』
朝食後、客人用シングルベッドでラディカと二人くっついて丸二日寝た(寝すぎ)。
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