2 (2) 『素直になれない』

 一


「ま、冒険者って言っても、そんな大したことはしないんだけどね」

 マリエットのあっけらかんとした言葉が、閉店中のマルルの酒場にがらんと響いた。

 時刻は昼。

 ラディカは、仕事の説明をするからとマリエットに腕を引っ張られた末、酒場のカウンター席に半ば強制的に座らされていた。

 マリエットは、ラディカの隣でオレンジを剥きながらベラベラと話していた。

 ラディカは俯いて、膝に掛けた聖骸布を見つめながら聞いていた。

「実のところ、冒険者の名は名残なの。冒険者は元々、未知を求めて、魔族が住まうスティグマを自分の脚で冒険して調査する豪傑のことを言ったんだけどね。時代が変化するにつれて、スティグマに足を踏み入れることが出来なくなっちゃって、今じゃただ、未知を調査する物好きを指す言葉になっちゃったのよ」

「でも、時代がどれだけ変化しようとも、冒険者の本質は変わらない。古今東西、冒険者は未知を、つまり、秘匿された人類の歴史を探し求めているわ」

「ね?良いでしょ?すごいでしょ?興奮するわよね?だから、だからね?要するに、冒険者ってのは…」

「要するに、冒険者ってのは好古家ってことだ。それ以上の意味も面白味もねぇよ」

 いつの間にかカウンターの内に立っていたマルルが、興奮するマリエットの話を遮って言った。

 話の腰を折られたマリエットはムッとして、オレンジを剥く手を止めてマルルに言った。

「何よ、話に割り込んできて」

「ここは女の園じゃなくて俺の酒場だ。だから、お前には俺の行動に文句を言う権利はねぇよ」

 そのマルルの言葉は、どこか冷たく言い放つようだった。

 事実、彼は今、内に静かな怒りを沸かせていた。

「マリエット、お前がソイツを冒険者に誘いたいって考えていることは百歩譲って黙認してやる。だがな、暗部を誤魔化して、良いところばっかりアピールして、騙すようにしてソイツを冒険者に引き込む真似は許さん」

 マリエットは、その指摘にビクッと怯えた。どうしてもラディカを冒険者にしたいと考えていた彼女にとって、それが的を得ていたからであった。

「ちゃんと不利益な部分も話してやれ。その上で、一人で考えさせて、ちゃんと選択させるんだ。その末にソイツが冒険者になりたいってんなら、誰でもない冒険者マリエットの紹介だから、快くギルドに登録してやるよ」

「…わかったわよ」

 何も言い返せなかったマリエットは、落ち込んだ後、オレンジの皮剥きを再開した。

 そして、彼女は、身だけになったオレンジをラディカの前に置いた後、先ほどとは打って変わって、まるで話したくなさげに、ポツポツと口を開き出した。

「…冒険者の主な仕事は、冒険者ギルト、もしくはギルド本部から認可を受けた個人から依頼を受けて、遺構の調査や史料の読解をこなすことで、言うなれば、『動く好古家』なんだけど…」

「実のところ、遺構の調査や史料の読解なんかの、歴史の解読に直結する行為は、大陸、新大陸を含めた殆どの地域で違法なのよ」

「理由は…、アンタなら分かってるんじゃないかしら。『建国記』で構築された史観を覆らせないようにするため…、つまり、覇権国家フラン・ガロ王国の支配者である王家とフラン家にとって不都合な歴史を紐解かれないようにするため」

「…だから、冒険者ってのは、今の世じゃ挙って犯罪者を指す言葉なの。事実、冒険者である私や、酒場経営の裏で冒険者ギルドの出張所を担っているマルルは立派なお尋ね者で、王家直轄の秘密警察である『フーシェ』とは、もう何年も鬼ごっこを繰り返しているわ」

「…奴らに捕まって、殺された仲間だって、何人も知ってるわ」

 辛い事実を話している内にやるせなくなったマリエットは、「あぁ、もう!かったるいこと思い出して気分悪いわ!マルル!酒よ!ヤケ酒を持ってきなさい!」と叫んだ。同じように悶々とした表情でいたマルルは、それでも、「いい加減、昼間から酒飲むのはやめろ」と軽口を叩くようにマリエットをたしなめた。

 それは軽快なやり取りであったが、そこには確かに鬱憤や、やり場の無さが蔓延していた。



 二


 酒の代わりに水をがぶ飲みしたマリエットは言った。

「まぁ、そうは言っても、冒険者だって多少は太陽の下を歩けるわよ?歴史研究に関する罪は明文化されてないから、殆どの人が冒険者が犯罪者だってことを知らないし。というかそもそも、冒険者って職業自体、マイナー過ぎて誰にも知られてないし」

「不利益といえば、たまにやってくるフーシェから夜逃げすることくらいなものよ。あと、国境を抜ける時にコソコソしなきゃいけないことくらいかな?でもまぁ、その二つくらいよ」

「…ってかそもそも、アンタのことは私が守るから、心配なんていらないわよ?」

 マリエットはラディカをそっと見つめた後、安心しろと言わんばかりにケタケタ笑ってみせた。

「当たり前でしょ?そんなの絶対だわ。たとえアンタがどんなポカをやらかそうとも絶対に見捨てたりしない」

「だって、アンタは私にとって後輩で、仕事仲間で、何より…」

「…何より、友達だもんね?」

 マリエットは、ラディカからわざと目線を逸らして言った。それは好意の言葉であったが、どこか濁らせたようであった。

 ラディカは顔を上げて、視線を聖骸布からマリエットの方に向けて復唱した。

「とも…、だち…」

「…そ、友達」

「だから、ね?友達の言うことを聞いて、私に身を任せて…?」

 カウンターの下でソッと伸びたマリエットの手が、膝の上でもじもじしていたラディカの手に触れた。

 彼女の手は、キュッとラディカの指を握って、彼女の心臓から血で届けられる体温を、ラディカに密かに移し始めた。

 マリエットの心臓は少し跳ねていた。血が活発に巡っていた。だから、ラディカが感じる彼女の手と指先は、ぽっと熱かった。


 ラディカはまた、もどかしい気持ちになった。

 優しさと強さに溢れる手と指先だけじゃない、只今に真剣に向けられているマリエットの眼差しの熱さも、確かに、彼女を束縛する“在るべき己”という鎖を溶かしていた。

 彼女は、マリエットから言葉をかけてもらうほどに、肌で触れられるほどに、目で見つめられるほどに、自分が自由になっていくことを自覚していた。

 ラディカは、マリエットのことを変な人だなと思った。今まで出会ったことのない、不思議な人だなと思った。


 …どうしてだろう。

 誰かから優しい言葉をかけられることも、柔らかく触れられることも、じっと見つめられることも、今まで何度も経験してきたのに。

 どうして、この人のモノだけは、こんなにも私の心に深く溶け込むんだろう?

 分からない。この人と他の人の間に、どんな違いがあるのかは、まだまだ経験の浅い私には分からないけど。

 …でも、この熱さに身を委ねてしまいたくなることだけは分かる。


 出来ることならば、もっと深く、この人と繋がりたい。



 三


 尤も、それが素直に出来れば、ラディカに苦労はなかった。

 鎖は確かに溶けていて、彼女は解けつつあった。

 しかし、ずっと拘束されたままだった身体は自由に動ける事実を知らなくて、まるで固まったままだった。

 彼女はまだ、自分から動く方法を知らなかった。

 自立や自律なんて、知らなかった。


 彼女が唯一知っていることは、母の愛に囚われることだけだった。

 彼女はまだ、一つの価値観しか持てていなかった。

 そのため、彼女は柔らかく触れてくれているマリエットに対し、手を払い、向けられる目線から逃げるように顔を俯かせ、優しい気持ちを無下にするような言葉を吐くことしか出来なかった。

「…ならない」

「へ?なんて?」

「冒険者になんて…、ならない…!」

 その反発に、マリエットはすかさず言い返した。

「いや…、悪いけど、アンタに選択肢はないわよ?だってアンタ、お金を稼がなきゃ駄目じゃん。お金を稼がないと、パンも、水も、何も手に入れられないじゃない」

「…私だって、出来れば他の仕事を紹介してあげたかったけどね。でも、このゴルフって町は斜陽だから、他に仕事なんてないのよ」

「まぁ、リスクのある仕事に尻込みする気持ちは分かるけど、ここは助け舟だと思ってさぁ…」

 しかし、ラディカは首を横に振った。

「お金なんて…」

「お金なんて…、いらない…」

 ラディカは聖骸布を握りながら、拗ねるように言った。

「要るわよ、人間なんだから」

 マリエットはあしらうように反論した。

「パンも、水も、何もいらない…!だから、働くなんて…、低俗なことはしない…!」

 ラディカは大きく首を横に振って、まるでわがままを言う子どものように振る舞った。

「…バカなこと言わないでよ!パンも水も要らない!?そんな訳ないじゃない!」

 マリエットはカッと怒って、カウンターを両手でバンと叩いた。

 その脅しに、ラディカは怯えて縮こまった。

 しかし、マリエットは萎縮することなく彼女を怒鳴った。ラディカの両肩を掴んで、彼女のための怒りを、マリエットはぶつけた。

「アンタ、やつれて苦しいんでしょ!?干からびて死にそうなんでしょ!?これだけは否定させないわよ!?だってアンタ、今まで眠っている間、『助けて』ってずっとうなされてたじゃない!!」

「…!そんなの…、知らない…!」

「アンタが知ってるかどうかなんてどうでもいいわよ!何より私がこの耳で聞いてたんだから!何度も、何度も、辛そうに苦しそうにしているアンタの悲痛を聞いたんだから!!」

「私には、アンタを助ける義務があるわ!だからこそ、施されるのが嫌ってわがまま言うアンタのために、仕事を用意してやってるのよ!」

「やだ…!そんなこと、しない…!ラディカだから…、しない…!」

「だったらどうすんのよ!?施されるのも嫌、働くのも嫌、それでどうやって自分を養うのよ!?それとも、このまま飢え死にしたいの!?」

 鋭く、強く、正論をぶつけ続けるマリエットに、ラディカは下唇を噛んで、悔し涙を流すしかなかった。

 マリエットは必死にラディカを睨んだ。ラディカが頷いてくれるその瞬間を、死物狂いで待った。しかし、いつまで待ってもラディカの意思は分からなかった。

 ラディカの下唇から血が滴った。

「なんで…」

「なんで…!?どうして助かろうとしないの!?」

 マリエットは悲しく叫んだ。

「アンタはもう、肩ひじを張らなくてもいい人間なのよ!?もっと自由になって、思うがままに生きていい存在なのよ!?」

「それなのに…、それなのに…!」

「…そんなにも、アンタの首に巻かれた呪いは大きいの…!?」

 マリエットは、ラディカの両肩から手を放して、酷く消沈した。

 肩を落として、脱力して、ぐすぐすと涙を流し始めた。


 怒鳴って、意見をぶつけて、その末に賢いマリエットは、ラディカを捕らえる鎖がどうしても完全に解けないことに気がついてしまった。

 自分の力じゃ、ラディカを救えないのだと理解してしまった。

 だから彼女は、自分の無力さに、虚しさに、弱々しく悲しむことしか出来なかった。


「…ごめんなさい」

 ラディカはマリエットの悲しみから目を逸らした後、小さく謝罪を呟いて、席を立った。

 そして、彼女は聖骸布を引きずりながらフラフラと酒場の出口に寄り、隙間風のように消えていった。


 少しして、外から大きな泣き声がじんじんと聞こえた。

 誰の声か、マリエットは当然分かった。

 しかし、彼女にはラディカを追えるほどの力が無かった。

 というより、勇気が無かった。自信も無かった。

 ラディカを助けるための素材が何も無かった。

 マルルは親として、二人の末路を静かに見守っていた。

 甘酸っぱいオレンジには、一房も手を付けられていなかった。




 四


 尤も、そんな末路を迎えたことに、強情なマリエットが納得するわけがなかった。

 だから、あの後、しばらくして、彼女がラディカを探しに酒場を飛び出すことは必然であった。


 マリエットは、ラディカのことが心配でしょうがなかった。

 彼女は町中を探し回った。隅という隅、隙間という隙間まで探し尽くした。

 しかし、ラディカはどこにもいなかった。

 つまるところ、これはラディカが既に町の外に出て行ってしまったことを指していた。


 この事実は、マリエットの心をこの上なく苦しめた。

 彼女は当然、荒野に出てラディカを探し回った。

 しかし、広大な荒野に対し、彼女一人の力は無力に近しかった。彼女はどうあがいても、ゴルフ近辺の荒野しか探し回れなかった。


 何の成果もなくゴルフに返ってくる度、彼女は気が変になりそうになった。

 最悪の妄想が、彼女の頭を幾度となく駆け巡った。

 彼女の精神は、ラディカの死を、可能性ですら受け入れられなかった。


 彼女は、心が辛くてしょうがなくて、全く眠れなくなった。食事も、水すらも喉を通らなくなった。

 彼女は、ラディカのことを想えば想うほど、不安で潰れてしまいそうになった。


 …どうして、あの時、もっと強い勢いでアイツに迫ることが出来なかったんだろう?

 もっと私が強ければ、アイツはきっと、苦しまずに済んだのに。

 今頃、二人で笑っていられたかもしれないのに。


 夜の静寂が不安と後悔を後押しした時、マリエットは一人で泣き崩れて、酷く気を取り乱した。

 生まれてこの方、ずっと気楽に過ごしてきた彼女の日々は、あの時を境に、この世の全ての不幸に一斉に襲われたかのような絶望に陥った。


 …一週間ほど過ぎた後、マリエットは遂にラディカを発見した。

 町の路地裏で、死にかけの野良猫みたいにうずくまっている彼女を見つけることができた。

 案の定、ラディカは町の外で何かに巻き込まれたようで、ズタボロになっていた。ボロボロのシャツガウンと聖骸布だけが彼女を守っていた。

 よほどショックな出来事に見舞われたのか、彼女は如何なる物音にも無反応だった。いくら時間が経っても彼女はピクリとも動かず、死体のように地面に転がりっぱなしだった。


 マリエットは、最初、ボロボロのラディカを見つけた時、意識が朦朧とした。

 動悸がして、呼吸が出来なくなった。

 気を失いそうになった。

 しかし、耳を澄ませばラディカの呼吸音がちゃんと聞こえたので、彼女は失神せずに済んだ。代わりにその場にへたり込んで、ワンワン泣いた。


 その後、落ち着いたマリエットはラディカの下に寄ろうとした。

 しかし、どういうわけか、彼女はラディカに近づけなかった。それどころか、声すらかけられなかった。

 理由は、自信の無さであった。

 彼女は、いざラディカを前にすると、また、ラディカが抱える問題に気圧されて、負けてしまいそうになって、身動きが取れなくなってしまったのであった。


 助けたい。

 助けたいのに、私じゃ助けられない。

 だって、私は強引な手立てしか取れないから。

 無理やりアイツを屈服させることしか、私には出来ないから。

 アイツの抱える問題に懸命に寄り添うなんて優しい力、私にはないから。

 だから、私は…


 その後、マリエットは、ラディカのいる路地裏の入口の前にずっと居座った。

 彼女はじっとラディカを見守ることにした。助けることは出来なくても、見つめることだけなら簡単で、出来るから。

 彼女は昼も夜も、何日もずっと、一睡もせずにラディカを見守った。

 その間、彼女は悶々としていた。


 …本当は、「大丈夫?」と声をかけたい。

 もっと欲を言えば、アイツの手を引きたい。

 そして、アイツと一緒に食事をして、美味しそうにパンを頬張るアイツの笑顔が見たい。

 …出会って以来見たことがない、アイツの幸せそうな顔を、一度でいいから見たい。

 私は、アイツを…。


 でも、そんな想いはやっぱり宙を漂うだけで、遂に実現することはなかった。



 五


 いつの間にか倒れてしまっていたマリエットは、ハッと目を覚ました。

 連日の睡眠不足と過労が祟って、ラディカを見守っている最中に気を失ってしまったのであった。

 ついさっきまで味わっていた昼の熱気は、気がつけば深夜の冷たい風に変わってしまっていた。


 目覚めたマリエットのぼんやりとした視界は塞がれていた。

 倒れたマリエットの顔を、マルルが覗き込んでいたからであった。

「頑張り過ぎだ」

 マルルにそう言われたマリエットは、すぐさま自分の失態に気がついて、慌てて飛び起きようとした。

 しかし、彼はそれを軽く制止した。

「心配するな。アイツは無事だ」

 マリエットは、その言葉と共に路地裏の先に目をやった。

 確かに、ラディカは今まで通り死に体のままだった。

「良かった…!」

 マリエットは胸をなでおろした。

 同時に、彼女は今にラディカが無事なのは、マルルが自分の代わりに見張ってくれていたからだと気がついた。

「…ごめん。ちょっと気が抜けてたみたい」

 マリエットは、素直な謝罪と共に伝えた。

「ありがとう。私はもう大丈夫だから、マルルは仕事に戻りなよ。酒場は、夜が稼ぎ時でしょう?」

 マリエットはそう言って、立ち上がろうとした。

 しかし、身体は言うことを聞かなかった。起き上がろうとした足は急に力が抜けてしまって、彼女はその場に尻もちをついてしまった。

「今日は休業日だ」

「アイツのことは俺が見ておく。ルニヨンが飯とベッドを用意しているから、お前はウチで休め」

 マルルは素っ気なく、当たり前のことのようにそう言った。


 長年の付き合いから、マリエットはすぐに理解した。

 休業日というのは嘘だ。

 そうじゃなくて今日は臨時で店を閉めたのだ。

 …目の前のバカを気に病んで。

 彼女はマルルの申し出を断ろうとした。

 しかし、彼女は考えを巡らせた末、断ることは止めて、大人しく休ませてもらうことにした。


 …考えてみれば、マルルが私を本気で休ませたいのならば、私が気絶している間に勝手にベッドに運び込むことだって出来たはずだ。

 それなのに、彼は決してそうせずに、私の目覚めを待っていてくれたんだ。

 マリエットという人間が強情で、自分の意志に反することを勝手にされると怒ることを知っているから、彼はその意志を尊重したんだ。その上で、彼は彼の望む結果を導いたんだ。


 マリエットは、彼の思いやりに、嬉しくなって、同時に、柔軟な強さを持つ彼と自分を比べて、なんだか不甲斐なくなって、だから素直に休むことにしたのであった。

「(強さって、多分、こういうことなんだろうなぁ…)」

 その後、マルルの女房のルニヨンが服を脱がせてくれて、身体を拭いてくれた後、マリエットはベッドに倒れ込んだ。

 そして、彼女は、小難しいことが考えられないほど深い、泥のような睡眠に落ちていった。



 六


 起床は、それから丸一日後のことであった。


 ベッドから身体を起こしたマリエットの前に、ルニヨンは簡単な食事を用意してくれた。

 パンと、オニオンスープと茹でた野菜。

 しかし、マリエットはしばらくの間、何も食べられずにいた。


 …アイツが未だ苦しんでいるというのに、自分だけこんなに恵まれてしまってもいいのだろうか?

 アイツに何もしてあげられない自分が、身勝手にもアイツが一番欲しているであろう物に有り付くなんて、自己中心極まりないのではないか?


 どうしても、そう考えてしまうマリエットにとっては、先程ベッドに倒れこんでしまったことすら、自らの責めに帰すべき行為であった。

 マリエットは、自分から発する全てに対して憂鬱であった。

 思考は、泥よりも重く澱み込んでいた。


「…食べられそうにないかい?」

 ルニヨンは、少し心配そうにマリエットに尋ねた。

「うん、ごめんなさい…」

 マリエットは、しょんぼりと答えた。

 しかし、ルニヨンは、眼前の娘を安心させるために、がははと笑ってみせた。

「謝ることないよ。こんなことで謝ってほしくないよ。そうでなきゃ、私に怒られたことにムカついて夕食の全部を床にぶちまけてくれた小さい頃のアンタのことを、私は火刑にでも処さなきゃいけなくなるよ」

 ルニヨンは、冗談を交えながら、豊満な腹を叩いて、母としての豪快さを娘に見せた。

 彼女の気の良さに当てられて、マリエットは少し笑顔を取り戻した。


 少し柔らかくなったマリエットに安心したルニヨンは、そっと彼女に尋ねた。

「…アンタ、友達を助けたくて大変なんだってね?」

「え…?」

「だから、友達を助けたいんだろ?って言ってんだよ。そうなんだろ?」

「そう…」

 マリエットは答えた。

「なのかな…」

 しかし、頷きはしなかった。


 『友達』

 その言葉がマリエットの心に引っかかった。

 言葉に対し、頷くには心がモヤモヤしてしょうがなかった。

 何というか、そうではない。

 自分からこの言葉を発したこともあったけど、その時も、妙な違和感に襲われた。

 そうなりたくない訳ではない。アイツとはちゃんとした関係で繋がりたい。

 でも、友達は何か違う。何か違って、私たちはもっと深いはず。

 だから、素直に頷けない。


「私とアイツが…、友達…?」

「まだ、出会って少ししか経ってないのに…?」

 マリエットは、ラディカのことを友達と見なすルニヨン対し、適当な理由を掲げて小さく抗議した。

「あ?なんだ、そんなことで悩んでるのかい?別に過ぎた時間なんざ、友達に成れるか云々には関係ないだろ?」

 ルニヨンは、当然のように言った。

「そう…、よね…」

 マリエットはルニヨンに簡単に言い負かされて、言葉を失ってしまった。

 だが、彼女はどうしても納得できなかった。

 彼女は、ラディカに対する感情については、特に機敏に、厳密になりたかった。

 たとえ、母親のような存在であるルニヨン相手であろうとも、その定義をされたくなかった。

 何故なら、彼女の内にはラディカに対する溢れんばかりの好意があった。

 彼女は間違いなく、絶対的にラディカと仲を深めたいと考えていた。それは、ラディカを一目見たときから決して揺らがない想いで、叶わなければ、自殺さえ選んでしまう程に願っていた。思い悩んでいた。

 今まで行ってきた、彼女へのお節介も、その裏目的は、その暁にラディカから好かれたいからであった。そういう邪まな想いが彼女にはあった。

 でも、その『好かれたい』というのは、何というか、「仲良くなって一緒に遊びたい」とか、そういう意味じゃなかった。

 それは、もっと、こう、単に「一緒にいたい」というか。

 なんというか…。

 やっぱり…。


「アイツは友達じゃない…」

「と、思う…」

 マリエットは言語化できない、もどかしい想いをふり絞った。

 ルニヨンは、弱弱しいくせに強情なマリエットの妙な態度に驚いた。そして、彼女は更に尋ねた。

「違う?違うってか?…いや、違うことはないだろう?」

「ああそうだ、アンタがどう言おうと違う訳がないね。あんなに必死になれる相手ってのは、友達か家族、それか好きな人のどれかに決まってるんだ」

「アンタとあの子は…、当然に家族じゃないね。ってことは、友達か好きな人のどっちかだ。なら、どちらかと言えば、あの子はアンタの友達だって結論付けられる。違うかい?」

 ルニヨンは口調こそ乱雑だが、かつては高名な冒険者だった。だからこそ、問い詰める時は言い逃れできない程に理屈を組み立てて迫った。

 マリエットは、簡単に袋小路にされた。

「でも…、友達じゃないもん…」

 それでも、彼女は苦し紛れに呟いた。

 すると、次の瞬間、ルニヨンは閃いたように明るい調子で指摘した。

「あぁ!友達じゃないってことは、アンタ、あの子のことが好きなのかい!そうか、アンタはあの子に恋焦がれてるのかい!」

「…え?」

「えっ…?えっ…!?なっ、何言ってるの…!?私が、アイツに…恋!?」

 ルニヨンの急降下爆撃のような指摘に、マリエットの顔は急激に真っ赤になった。

 口角が高速で上がったり下がったりして、何か言葉を発して取り繕おうと必死になった。

 彼女はあからさまにアワアワし始めた。

 だが、ルニヨンは遠慮なく、マリエットの心にズカズカと土足で入り込み、抉った。

「よく考えりゃ、いくら困っている人を助けたいって言っても、出会ったばっかりの人間の為に何日も泣きはらしたり、徹夜してでもずっと傍にいようとするってのは少し妙だね。どれだけの大善人でも、流石にそこまではしないだろうね。特に泣く方。そういうことは特別な相手、大好きな相手にしかしないだろうね。違うかい?いや、違わないね」

 マリエットは突き詰められて、俯くしか出来なくなってしまった。

 彼女は涙目になりながら、「うぅ…」と小さくうなり始めた。

 ルニヨンは、その様子をジッと見た後、口を開いた。

「…安心しな、私はアンタを絶対に拒絶しない。ただ、自分の子にはどんな想いに対しても素直になってほしいだけさ」

「心配せんでも、アンタがどんな考えを持とうとも、私の娘さ。私だけじゃない。旦那もベイも同じ気持ちさ。たとえアンタが邪教に堕ちたとしても、アンタのためにメシとベッドを用意してやる」

「だから、話してみな。そうすれば、ずっと曇ってしょうがない気持ちもちょっとは晴れるかもしれないよ」

 その言葉は、ただ人の想いをからかいたいだけのいじめっ子とは違う、母としての包容力をマリエットに見せるためであった。

 事実、ルニヨンの言葉に、マリエットはゆっくりと救われていった。

 彼女は、何があろうとも自分の母でいてくれるルニヨンのことが嬉しかった。

 安心して、心配が何も無くなった。


 赤面して暴れていた顔が、徐々に落ち着きを取り戻していった。

 同時に、マリエットは自分の内なる想いに、少しずつではあるが、正面から向き合えるようになっていった。

 彼女は目を閉じて、ラディカに思いを馳せた。

 柔らかな、少し巡らせるだけでも頬が緩んでしまうような甘い思考に、真剣に向き合った。

 深く、向き合った。


 そして、彼女は目を開いて、口を開いた。

「私には、まだ分からないわ…。可愛い女の子にちょっかいをかけたことは何度もあったけど、恋は、したことがなかったから…」

「友達だって出来たことがないから、友情と恋情の違いとか、私にはよく分からない…。だから、この気持ちの正体が一体何なのか、私はまだ知らないわ…」

「でも、アイツのことを絶対に守りたいっていう気持ちは本当なの…」

「仕事柄、危機に晒されている人を助けた経験は何遍もあった…。その時も当然、本心で、必死で人を助けた…。困ってる人を助けたい、って気持ちが、相手によって強弱つくことはないわ…。えこひいきなんてしない…。誰であろうと、困ってるのなら私は全力で助けるわ…」

「でも…、アイツに対する感情はちょっと違うの…。アイツだけは、少しだって傷ついちゃダメって意固地になっちゃうの…。アイツが傷つくくらいなら、私が命を落としたって構わない、そんな極端なことだって思えてしまう…」

「何というか、アイツに対しては、助けるだけじゃなくて、守らなくちゃダメって思うの…。私がずっと傍にいて、面倒を見なくちゃダメだって思うの…。じゃないと、私がクシャクシャな気持ちになっちゃう…って、そんな風なの…」

「なんで、こんな気持ちになっちゃったのかな…」

「確かに、アイツを初めて見た時から私はときめいていた…。だってアイツ、美人だから…。素敵な人だなって感情は、最初から持っていた…」

「でも、今みたいに過激な想いは持っていなかった…。この想いは、アイツの面倒を見ているうちに、私の隣で安心して寝てるアイツを見ているうちに、段々と膨らんできたの…」

「アイツの顔を見ていると…、何だかもう、心がこねくり回されているみたいなの…。声を聴くだけでも、表情がふにゃって変になっちゃって…」

「…それで、その…、いつしか、アイツを守りたいって思い始めて、他にも、もっと…、アイツに触れたいって…、手を繋いだり、抱きしめたいって…」

「…それ以上のことだってしたいって、そう思うようになったの…」

「ねぇ、ルニヨン…?これが、こんな変な想いが、恋なのかな…?」

 マリエットは、ポトポトとこぼすように、心の奥底から、深く、熱い想いを吐露していった。


 …ルニヨンからすれば、只今のマリエットは明らかに恋する顔をしていた。

 しかし、マリエットは、その気持ちに、表情に、『恋』と名付けることには未だもどかしいようであった。

 彼女は『うぶ』であった。

 ルニヨンは、そんな彼女の初々しく悩む様子を嬉しそうに眺めていた。

 恋する乙女の可愛らしさを、微笑んで見つめていた。






──────────────────────────

【人物紹介】


『ラディカ』

 意外と素朴な味が好き。貴族時代でも素のパンをモソモソ食ってた。


『マリエット』

 何でもかんでもとりあえずポケットに入れるせいで、気が付けばポケットの中に小宇宙ができてる。

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