2 (1) 『自分の立場』
一
(夢か、回顧録か、いずれにしても回想)
……
…
…強烈な日差しが、うずくまる私の背を痛いほどに照り付ける。
街が消し飛んでから、蘇ってから、あまりにも簡単に一晩が過ぎていた。
その間、私はずっと悲しみ続けていたわけではない。
苦しみに悶え続けていたわけではない。
ただ、動けなかった。
何も持っていない。
何も身に着けていない。
唯一共に在った、フラン家としての権威を失った私を、それでも一人にさせないと寄り添ってくれた大切な人すらいない。
世界に対して、ただただ無力。
海流にさらわれるクラゲのように、私は、世界を自由に動き回る力を持ち合わせていない。
それでも、私は膝を曲げた。
顔を地にうずめたまま、足だけで起き上がろうとした。
何もないけど、何も無いなりに、自分から動く努力をしてみた。
でも、ダメだった。
ふんばろうとした足が滑って、転んでしまって、私はただ、うずくまる姿勢から、うつ伏せの姿勢に変わっただけに終わった。
そして、私はまたクラゲになった。
何も無いんだから、私には当たり前のように無力であることしか許されていなかった。
地面は、もうとっくに冷めていた。
街を焼き尽くした魔術の熱はどこかに発散して消えていた。
灰も全て風に流されてしまって、既に世界の一部に溶けていた。
私も、そうなってしまいたかった。
誰も助けてくれないのなら、もはや私に何もないのならば。
明確な言葉でそう考えていたわけではないけれども、熱や灰のように、自然の流転の中に消えていきたいと考えていた。
このまま、うつ伏せのまま、微生物か何かに細胞の欠片まで分解されたなら、どれだけ心地良いだろう?
私は、人間であることを諦めていた。
気持ちは完全に、自己放任に傾いていた。
何より、私には生きる意味が無かった。
……
…
私が自分を諦めて、木になってしまってから、しばらくの時間が経った時。
私の周りに、どこからか、野犬が二匹ほど集まってきていた。
私は、うつ伏せのまま、それらを眺めていた。
街の周囲を徘徊し、人や家畜を襲うことが習慣であったのか、野犬の慣れた風なうろつきを、私はぼんやりした目で追っていた。
私を食べようとしているのかな。
野犬の鼻息が腹に当たった。
毒味か味見か、舌でペロッと舐められた。
そのまま、二度、三度と舐められ続けた。
食べ物として、私は合格だったらしい。
まぁ。
いいや。
食べられて、そのままいなくなっても別にいいや。
私は、もうこの世に存在しない人間なんだから。
何もない人間なんだから。
いなくなってしまおう。
目を閉じた。
野犬の牙が、私の肌に触れた。
いよいよ食べられる。
『あぁ…』
『ぁ…?』
その瞬間、脳に電流が走った。
思い出した。
私が今、どういう異能に侵されているかを。
そして、気がついた。
自分が、たとえ野犬に食べられても消えてなくならないことを。
そうだ。
私は食べられても死なない。
食べられても再生するだけ。
復活するだけ。
だから私は食べ尽くされない。
私は食べられて、痛くて、苦しくても、絶対に死ねない。
肉を千切られて
咀嚼されて
血が飛び散って
痛くて
苦くて
きっと、私は死にたいと思う。
けど、死ねない。
だから、このまま食べられたら私は一生痛い。
一生苦しい。
痛いのがずっと続くのは嫌。
苦しいのがずっと続くのは嫌。
でも、食べられたらそうなる。
食べられたくない。
食べられたらダメだ。
私は逃げなきゃいけない。
『ぁ…、ァッ…!ァアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!』
私は、情けなく叫びながら必死に身体を起き上がらせて、よろめく足で野犬から逃げようとした。
でも、ダメだった。
さっきからずっと動かずにいた私の足は、立ち上がった瞬間に痺れてしまって、上手く走ることなんて出来なかった。
結局、私は、思いっきり躓くことしか出来なかった。
どころか、事態は悪い方向に加速した。
突然の獲物の抵抗に刺激されたのか、野犬は、私が転んだその瞬間に鋭い牙で私のふくらはぎに噛みついて、そのまま筋肉を引き千切った。
歯型の奥に、剥き出しにされた神経と骨が見えた。
叫んだ。
抉られた肉の痺れるような激痛に、よだれと鼻水を垂らして泣き叫んだ。
頭の中は、誰でもいいから助けてほしい気持ちでいっぱいだった。
その時、視線の先にたなびく何かを見つけた。
よく見ると、砂に埋もれた聖骸布が地面から少しだけ頭を出して、ひらひらとしていた。
…それが、私にはどこか、あの人が手を振っているように見えた。
『シスター…、さん…』
『シスターさん…!シスターさん…!』
私は、腕を懸命に使って身体を前に進ませた。
距離は数十センチ。
食い千切られた足を引きずって、何とか聖骸布の下に辿り着いた。
そして、私は、ひらひらしている聖骸布の頭を掴んで、精一杯引っこ抜いた。
私は、握りしめた聖骸布を何とか抱き寄せた。
大事に、大事に、それを抱き締めた。
『あぁ…、良かった…!良かった…!良かった…!』
『助かった…!助かった…!助かった…!』
多分、私は狂っていた。
聖骸布は、実際のところ無機物でしかなかった。
でも、私は、大切な人をハグするようにそれを抱き締めた。
私は、ただの布に対して、存在しないはずの体温を感じた。
布に腕があるわけないに決まっているのに、聖骸布を抱きしめるほどに、聖骸布も自分を抱き締めてくれている気がした。
シスターさんが抱き締めてくれている気がした。
結局、それでも現状は何も変わらなくて、私は、野犬に足を銜えられて、ずるずると荒野にある奴らの巣穴に引きずり込まれていった。
巣穴の奥で、奴らや、奴らの子供たちに、全身を食われ続けた。
肉を食べられ、内臓を貪られ、骨を噛み砕かれ、血や髪すらも啜られて、でも、身体は再生と復活を続けるから、私は、痛みと苦しみに飲み込まれ続けた。
それでも、私は、聖骸布を抱いて離さなかった。
独りじゃない。
私にはシスターさんがいる。
どんな痛みも、苦しみも、シスターさんが慰めてくれる。
そう思い続けることで、聖骸布を抱き続けることで、乗り越えられる。
シスターさんと一緒なら、乗り越えられる。
…そんな気がする。
私は、それでも痛みに溢れてしょうがない、食べ終えた後の手羽先のようになってしまった身体を一瞥した後、力尽きて目を閉じた。
……
…
どれくらいの時間が過ぎたんだろう。
分からないけど、私はようやく、同じ味に飽きた野犬のエゴによって、残飯でも投げ捨てるかの如く巣穴から放り出された。
久々に陽の光に晒された。
でも、私はしばらくの間、ピクリとも身体を動かすことができなかった。
全身が野犬のよだれと自分の血でベトベト。
獣の強烈な臭いが皮膚の裏にまで染み付いて取れない。
瞼が開かないから前が見えない。
筋肉が強張って落ち着かない。
聖骸布…、ずっと私の下にいたばっかりに、血で真っ黒に染め上げられていた。
もう、不思議な色合いは消えていて、肌触りも、かつてのシルクのような滑らかさとは程遠い、パリパリ、カサカサしたものになっていた。
でも、私には、そんな聖骸布が愛おしく見えた。
聖骸布は、私と一緒に汚れてくれた。
シスターさんは、こんな目に陥っても、やっぱり私と一緒にいてくれた。
動けるようになった時、私は、何よりも先に聖骸布を抱き締めて、「ありがとう」と何度も言った。
……
…
荒野を歩き続けた。
もう、身体に傷はない。
支障はない。
でも、苦しみは止まらない。
原始的欲求の枯渇。
腹が臓器を摘出された遺体よりも凹んでいる。
喉が亀裂が走る乾いた大地よりも干からびている。
体内には胃液を出すための水すら残っていない。
自信をもって魅力的だと自負できた身体は、干し肉にもなれないほどに肉厚が失われた。
少しの血と、少しの筋肉と、骨。
それが私。
『お腹…空いた…』
水がほしい。
パンがほしい。
喉も腹も満たしてくれない聖骸布だけを大事に握って、当てなく彷徨う。
こんな風になってしまった自分を何度も憂いた。
食べずに投げ捨てたサンドイッチを何度も思い出した。
でも、枯れた眼からは涙が出なかった。
飢えと歩き疲れのあまり、幾度となく倒れた。
でも、倒れても死ねなくて、いつの間にか体力が戻っていて、だから、また立ち上がることしか出来なくて。
そうやって、歩いて、歩いて、倒れて、歩いて、日が数度昇ったり沈んだりして、それで…。
遠くの方から、声が聞こえて…。
二
そして、ラディカは、悲鳴を上げながら目を覚ました。
それは、ここ数日の彼女の常套で、輪廻転生よりも無常な七転び八起きがスタートする合図であった。
しかし、只今のラディカを包む感覚は、荒野の残酷さではなく、ふんわりとした優しさだった。
彼女は違和感に包まれた。
背に当たる地の感触が、荒野の乾燥した土ではなく、サラサラのベッドシーツだった。
目に入る光が、太陽の眩すぎる煌々ではなく、テーブルランプの柔らかな光だった。
ここは荒野ではなく、マルルの酒場のカウンター奥にある居住空間のうちの一室、マルルとルニヨンの寝室であった。
ただ、最も大きな違和感は、部屋の優しさではなかった。
その違和とは、大事な、大事な聖骸布でも提供し得ない、彼女の心に深く染み込み、彼女をうっとりと安心させる感触であった。
「(あたたか…い…?)」
彼女の頬は、人肌を感じていた。
「…あっ」
具体的には、ラディカの頬は、只今に声を漏らした女性の手にしっとりと触れられていた。
黒髪で、翠の目の、同い年ぐらいの綺麗な女性。
マリエット。
「やべっ…」
マリエットはそう呟いた後、ダラダラと冷や汗を流し始めた。
何故?頬に触れてるだけじゃん。
地の文の限りでは、そうとしか考えられないが、実のところ、事態はそれどころではなかった。
頬に触れるマリエットの手に込められた感情は、慈しみだけではなかった。
彼女はシャツを脱いで、上は肌着だけになっていた。
加えて彼女は、息を若干荒くしながら、ラディカに馬乗りになって、更には背を丸めて、前のめりになっていた。
実際に触れていたのは頬だけだったが、目と目、唇と唇すらもくっついてしまいそうな距離に、彼女の顔はあった。
…ハッキリ言えば、マリエットはラディカを夜這いしていた。
「…いや」
「まだ何もしてないから」
マリエットは上半身を起こして言った。しかし、依然、彼女はラディカに馬乗りだった。
「ちょっと…、そう、ちょっとだけ、覆い被さってただけだから…」
「か、顔を近づけたのは、間近で容態を観察するためで、頬に触れてたのは…、その、体温を測るためだから…」
しかし、ラディカに着せられたシャツガウンは、看病をするにしては異常なまでにボタンが外されていた。
「うぅっ…、えっと」
マリエットは、未だ茫然と呆けるラディカの無垢な表情を見るほどに、心に罪悪感をグサグサ突き刺した。
彼女はストレートな人間で、嘘をつくのが苦手な性分だった。だから、彼女はもう、無理に言い訳することが出来なくなっていた。
「…はい、ごめんなさい…、普通に寝込みを襲ってました…」
「あっ、でも、頬に触れた以上のことをしていないのは本当よ?それだけはマジのマジだから…」
それでも、良心の呵責で胸が痛くてしょうがないマリエットは、愚かな己を律するために、ラディカに頬をビンタしてと頼んだ。自分の頬を指差した後、目をギュッと瞑った。
長い夢から覚めたばかりのラディカは、覚悟を決めるマリエットの一方で、未だ、事情が飲み込めず、意味分からずにいた。
だから、ラディカはぼんやりしながら、頬を叩いてほしいという相手に軽く応えた。
瞬間、マリエットは、弱々しく振り抜かれたラディカの平手の方向に大きく吹き飛び、あまつさえ、壁に大激突した。
「…うぁ?」
理外にも想像以上の力があまりにも簡単に発揮されたことに、ラディカは首をひねった。
けど、首をひねったところで、ぼんやりラディカには、どうして自分がこんな馬鹿力を有しているのか分からなかった。
尤も、マリエットにはよく分かった。
「祝福…本当に実在したんだ…!」
三
その後。
具体的には、大きな物音に反応して、「マリエット!?どうした!大丈夫か!?」と慌てて部屋に飛び込んできたマルルが、「女の園に勝手に入ってくんな!!」と叫ぶマリエットにボコボコにされて、しょんぼりしながら部屋を出ていった後のこと。
「アンタ、私に拾われてから今まで、丸五日くらいは昏睡してたのよ?すごいわねぇ、私もそれくらいグッスリ寝てみたいわ」
ベッドにドカッと腰掛けたマリエットは、横になっているラディカの頭をのんびり撫でながら言った。
「…まぁ、なんというか、災難だったわね。アンタ」
「どういう経緯かは知らないけど、公開処刑の後、彷徨いに彷徨ってココに辿り着いたんでしょ?」
公開処刑、その単語に、ぼんやりしていたラディカの意識は一気に覚醒した。
「…!!」
「…貴女の目にも、やっぱり私はラディカに映るのね」
妙に意味ありげな言葉に、マリエットは不思議に思いつつも、「まぁ、調べたからね」と頷いてみせた。
その答えを聞いて、ラディカはみるみる顔を青くした。
「(あれだけ死にまくったのに、私はまだラディカなんだ…)」
荒野から部屋に変わって、物理的な痛みや悲しみは確かに無くなった。
しかし、心の内にある荒び、どうしようもない無常さは、未だ健在であった。
ラディカはまた、現実の辛さに打ちひしがれた。彼女は腕いっぱいに掛け布団を抱えた後、うずくまって泣きじゃくり始めた。
若干ピーキーだった。あれだけ酷い思いをした後なので、パニックに陥っていたという面もあった。
しかし、あれだけ酷い思いをしたのに、現状が何も報われていないという残酷さは、少なくとも、弱いラディカがポロポロと涙を流すには十分だった。
マリエットはラディカの心情に想いを寄せながら、静かに彼女の背をさすった。
同時に彼女は、ラディカの泣き顔に、どこかホッとした表情を見せた。
四
「フラン家の長女、暴君フェルメの子孫って言っても、その実はただの人の子なのね?」
しばらくの間泣きまくって、両目を腫れぼったくしたラディカに向かって、マリエットは嬉しそうに笑いながら言った。
「貴女…、誰…?」
ようやく自分以外に意識が向くようになったラディカは、当然の疑問を投げかけた。
「私?マリエットっていうの」
「アンタを拾ってやって、ここまで介抱してやった命の恩人の名よ。記憶に刻み込んどきなさいな」
そう言いながら、マリエットは机の上に置いていたポットとカップを手に取り、紅茶を汲み始めた。
ラディカは、少しだけ彼女の動きを目で追った後、部屋を見回した。
夫婦二人の寝室らしく、タンスやら机やら色んなものが置いてあった。装飾は質素だけど、棚いっぱいの本や、壁掛けフックに掛けてあるフリースの生活感は、部屋に味をもたらしていた。
「…あ!」
ふと、フリースの隣に掛けてあるモノを見て、ラディカは声を漏らした。
彼女は慌てて立ち上がり、おぼつかない足取りで駆け、ソレを手に取った。
彼女は床にへたり込んだ後、聖骸布をギュッと抱き締めた。
「シスターさん…!きれいに…なってる…!」
ラディカは、不思議な色合いと肌触りの良さを取り戻した聖骸布に感動して、布面に頬ずりしながら、また涙を流し始めた。
「そりゃあ、綺麗にしたもの(シスターさんってなんだ…?)」
「…洗うかどうか、めっちゃ迷ったけどねぇ。だってそれ、大陸人の至宝なのよ?王宮一城、シテの大聖堂一堂よりも価値のある、フランガロの国宝なのよ?本当なら洗濯板でゴシゴシ擦るより、保存処理をしたかったわ」
マリエットは、聖骸布を名残惜しそうに見つめながら言った。すると、ラディカが聖骸布を更に抱き寄せて、盗られないようにと身構えたので、彼女は「盗らないわよ」と笑った。
「はい、紅茶」
マリエットは、ラディカの前にローテーブルを置き、その上にティーカップを置いてみせた。
紅茶からは、ほわほわと湯気が出ていて、思わず胸をなで下ろしてしまう茶葉の香りを辺りに放っていた。
「目覚めの一杯っていうより、リラックスの一杯よ。それ飲んで落ち着いたら、もうひと眠りしなさいな」
「あ…、今度は襲わないわよ?だから、安心して休みなさい」
マリエットは屈んで、ラディカに目線を合わせて、優しく微笑んだ。
…ラディカは、目の前の飲料物に唾を呑んだ。
ずっと飲まず食わずでいた彼女の目に、紅茶は嗜好品ではなく命綱に見えた。
本能が手を伸ばそうとした。いや、実際に手を伸ばした。彼女はティーカップの取っ手を指で摘まむまでは進むことが出来た。
しかし、理性が彼女の動きを止めた。
…フラン家の長女として、今の行動を問おう。
誰とも分からない下民から施しをされるとは、果たして、最高位の貴族としてしかるべき姿だろうか?
そんな行動を、…フラン家の権威に唾を吐くような行動を、お母様は許してくれるだろうか?
今の私は、一体誰だ?
死なないラディカは、誰の物だ?
五
ラディカは伸ばした手を引っ込めた後、悲し気に俯いた。
マリエットは首をかしげて尋ねた。
「あれ?もしかして紅茶は嫌い?」
「寝起きにしては香りが強過ぎたかしら?じゃあ、水にする?」
そう言って、彼女は机の上から水筒を持ってきて、ラディカの前で蓋を開けてみせた。
「ほれ、飲めい」
しかし、差し出された水筒に対し、ラディカは俯いたままだった。
「んぁ?何よ。飲みたくないの?」
「…でも、駄目よ。アンタってば、ガリガリにやつれて干乾びてるんだから。今はいっぱい食べて、いっぱい飲まなくちゃ駄目なんだから」
「それとも、自分では飲めない?私に飲ませてほしいの?」
マリエットはほくそ笑みながら、ほれほれと水筒をラディカに押し付けようとした。
水筒の口を、震えるラディカの口にあてがおうとした。
だが、次の瞬間、ラディカは水筒を持つマリエットの手をバチンと弾いた。
強烈な威力に弾かれたため、水筒は手から離れ、先ほどのマリエットと同じように壁に激突した。どころか、水筒は壁にめり込んだ。
…それは、かつて、どこぞのサンドイッチにしてやったのと同じ、葛藤が故の敗北行動であった。
ラディカは、また後悔することになった。彼女はビリビリと痺れる手を押さえてポカンとするマリエットと、水筒からぱたぱたと零れる水を交互に見て焦燥した。
同じ過ちを二度もするなんて、自分の愚かしさに胸が苦しくなった。
だが、彼女の内の理性は止まろうとしなかった。
彼女の口は、かつてと同じように、優しく手を差し伸べてくれる善人相手に威嚇をしようとした。
『この私を誰だと思ってるの?』
悪女としての口が、そんな空虚な言葉を発そうとしたその瞬間。
ラディカは、マリエットという人間に直面した。
「…!!」
マリエットは、理不尽に自分が拒絶されたと理解した瞬間、間髪入れずラディカの胸ぐらを掴み、彼女を壁に思い切り叩きつけた。
「なっ、ぁ…!?」
あまりにも躊躇の無い暴力に、ラディカは一瞬、訳が分からなくなった。
ラディカは抵抗しようとした。しかし、先ほどまでの軽快な笑顔とは打って異なり、鋭い怒りを込めて睨むマリエットに委縮してしまって、彼女はただ怯えることしか出来なくなってしまった。
マリエットは熱量のある怒りをもって言った。
「アンタ、自分の立場が分かってないのね?」
「アンタは今、私に助けられてるの。分かる?アンタが寝ていたベッドも、着ている服も、さっき飲ませてやろうとした紅茶も、水も、全部私が用意した物なの。アンタの身体や、聖骸布が綺麗になっているのだって、全部私の力があってこそなの」
「アンタもいい年なんだから理解しなさいよ。この現状の何処を探しても、アンタ一人の力がもたらしたものは無いのよ」
「…それとも、もう一回路頭に迷ってみる?」
その脅しに、ラディカはゾッとした。
反射的に、彼女から小さく「ごめんなさい」という言葉が漏れた。
その言葉を聞いたマリエットは、ふうと緊張の息を吐いた後、ラディカから手を放した。
彼女は、表情を先ほどまでのラディカを叱り付ける為の厳しいものから、ラディカを安心させるための優しいものに変えた。
そして、マリエットは柔らかい口調で言った。
「別に、私に感謝しろとは言わないわ。礼だって要らない。言いたくなければ、ありがとうの一言だって言わなくたっていい。身体が回復したら、そのときはアンタの思うがまま。気の向くままに何処かに去ってしまえばいいわ」
「でもね、助けられている時くらいは素直になってなさいよね。抵抗しないで、身勝手にお節介を焼く物好きな私を気持ちよくさせておきなさい。その方が利口よ」
そう言って、マリエットは壁にめり込んだ水筒を引き抜いて、机の上に戻した。
その後、彼女はラディカに視線を送った。
しかし、当のラディカはマリエットの視線から逃げるように俯いた。
彼女は確かに後悔した。怒られて反省さえした。しかし、彼女はどうしても自分から発現してしまう、道理の通らないフラストレーションに心を支配されて、歯ぎしりをするしかなかった。
六
ラディカは、マリエットの言うことに反論なんてなかった。
あるはずがない。だって一度、その過ちのせいでとんでもない後悔をしてしまったのだから。
しかし、彼女の内に長年をかけて蓄積された、フラン家の長女、そして、お母様の娘としての自分という毒が、彼女を素直にさせなかった。
こんなにも、こんなにも苦しくて、切羽詰まっているというのに…。
…もしも、荒野で、野生の空間で、誰かから檻の中の動物に餌をやるかの如く水や食料を投げ与えられたのであれば、彼女は喜んでこれを受け取っていただろう。
その時の彼女はきっと、犬のようにみっともなく地面に這いつくばって、撒かれた水の溜まりを舌で必死に舐めまわしたり、手を使わずに餌を貪っただろう。
たとえ、餌を与えた相手がその無様な様を見て嗤ったり、更には、這いつくばる彼女に目掛けて小便をかけて侮辱してみせたとしても、野生の彼女ならば一向に気にしなかっただろう。
しかし、町で、一軒家で、ベッドで寝てしまって、何よりも他者との交流という機会に恵まれてしまった末に、貧富、社会、つまるところ、人間的な要素に再度晒されてしまった彼女には、そうすることが出来なかった。
『下民』を前にして、彼女は今まで通り悪女でいるしか出来なかった。
フラストレーションは、だからこそのモノでもあった。
もし、未だに身も心も愚かな悪女のままで、誰の尊厳も踏み躙れる冷酷さを有していたのであれば、彼女は今よりも幸せだったかもしれない。
苦しまずに済んだかもしれない。
しかし、あのシスターが彼女を大きく変えてしまっていた。
あのシスターが彼女を甘やかして、叱って、その末に『悪女ラディカ』から純粋な幼子に戻してしまったが為に、彼女はもはや、愚かしさに身を包むことは出来なくなっていた。
彼女は、前を向くしかなかった。
大切な人の死に報いるために、二度と後悔をしない為に、そして、今度こそは大切な人を素直に愛するために…。
しかし、成長ほど痛みと苦しみにまみれている道は無く、その道を歩むには、ラディカはまだまだ幼かった。
まるで、よちよち歩きを始めたばかりの、どこに歩いていくか分からない不安定な二歳児である彼女に、成長痛は耐え難い痛みであった。
彼女には、助けが必要であった。
七
マリエットは、壁を背にへたり込んでいるラディカの横に座り、そっと彼女の横顔を見た。
酷い顔をして思い詰めながらも、極めて美しい彼女の横顔を眺めた。
その後、マリエットは天井を向いて少し考えた。
マリエットは賢い女性であった。
マリエットは、そっぽ向くラディカが、意地悪をしたいがためにこんな態度を取っているわけではないことを察していた。
目の前の彼女に、具体的な内容は分からないが、何らかのっぴきならない事情があることを何となく察していた。
マリエットは思慮を深めて、ある一つのことを思いついた後、決断した。
コイツがどんな事情を抱えていようとも、コイツの命の危機に関わらない限り、それを最大限尊重しよう。
でも、私のしたいことはキッチリとさせてもらおう。
多分、それが強さってもんだから。
そう、心に決めた。
「…さっきは脅しちゃって悪かったわね」
マリエットは言った。
「アンタは多分、純粋なんでしょうね。自分が危機的な状況にあるにも関わらず、自分の首に巻かれている呪いのような事情に従順になれる。その呪いの正体が一体何なのかは、私は知らないけども」
「凄いわねぇ、アンタ。もしも私なら、そんなもの間違いなくかなぐり捨ててるわ。だって、そんなものの為に自分が封殺されるなんて、私なら耐えられないもの」
ふと、マリエットはラディカの方を一瞥した。
すると、ラディカは更に落ち込んだ様子になっていた。
「えっ、あっ…!」
その様子を見て、マリエットは慌てて訂正をした。
「ちょっ、落ち込まないでよ!今のはアンタを馬鹿にしたくて言った訳じゃないから!」
「…つまり私が言いたいのは、アンタが強いってことよ」
「…強いのよ、アンタは。あれだけズタボロになって、その後ですら自分を守れるんだから。アンタにはきっと、どんな時でも自分を曲げない芯の強さがあるのよ」
「それは…、すごく、すごく凄いことよ。中途半端に利口な私じゃ絶対にできない、誇るべきことだわ…」
「…」
ラディカは黙って何も言えなかった。
以前なら、褒められれば付け上がることが常套であった彼女だが、今はただ、黙ることしかできなかった。
…アンタはただ、強さの方向を間違えてるだけなのよ。
これから色々なことを経験して、たくさんのことを学べば、必ず正しい方向に向けるわ。
…そうなれば、アンタは無敵よ。きっと、この世の誰よりも強かで品やかな、これ以上なく美しい女性になれるわ。
ラディカは、そんなことを真剣に伝えてくれるマリエットの途方もない優しさが辛かった。
本当は、「私なんて強くない」と言いたかった。
でも、それは出来なかった。
だから、また俯くしかなかった。
八
少しの間、マリエットは、俯くラディカを相手に一人で駄弁った。
趣味とか、好きな食べ物とか、そういうどうでもいいことを喋った。
そうして話題が尽きた後、マリエットは先ほどに思いついた話をラディカに切り出し始めた。
「…ねぇ、アンタ。アンタってば高潔だから、浮浪者が慈悲に恵まれるみたいな、タダで施しを受けることが嫌なんでしょ?」
「だから、私の水が飲めないってわけなのよね?」
「…別に」
「…別に、そんなのじゃないですわ…」
ラディカは拗ねるように言った。
殆ど当たってるのに、彼女はわざと否定した。
「ふうん、まぁいいわよ」
マリエットは、ラディカの心境を見透かしたような態度で、彼女の反対意見を意にも介さなかった。
「アンタが何をどう考えていようとも、絶対に巻き込んでやるって決めていたことだからね」
「…?」
ラディカは、マリエットの発言の趣旨が分からず、つい俯くことを止めた。
どういうことなの?と聞きたくて、マリエットの顔を見た。
見ると、マリエットはニヤリと笑っていた。
「アンタに頼みたいことがあるの」
マリエットは、一呼吸おいて言った。
「私の仕事、手伝ってくれる?」
意外な提案に、ラディカは拍子抜けの顔になった。
彼女は思わずマリエットに尋ねた。
「仕事…?」
「貴女の仕事って…、何…?」
マリエットはこの言葉に反応したかと思えば、自慢げに微笑んだ。
彼女は勇んで立ち上がり、壁掛けフックに掛けていた中折れ帽を被った後、ラディカの方を向いて言った。
「私ね、『冒険者』やってるんだ」
その中折れ帽は、シャツとウールパンツに良く似合っていた。
マリエットは、最高に幸せそうな表情で、ラディカに自分を誇ってみせた。
──────────────────────────
【人物紹介】
『ラディカ』
生まれつきの銀髪って周りだと祖父と母、妹しか見たことが無い。そういう意味でも銀髪がちょっと自慢。
『マリエット』
実は密かに自分らしい髪型を探して迷走中。去年はツインテールにしてた。
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