1 (9) 『無私へ』

 一


 違和感はあった。

 ラディカ様と時間を共にする時、あの方の『ラディカ様らしくない姿』を見る時、私の心の中に希望が募った時、

 私はいつも、何かが芽吹くような気がして、それが怖くて仕方がなかった。

 …希望の裏に常に絶望が存在するという言説を否定できる道理は無いと私は考える。

 その道理はいたって論理的で、妥当性に溢れているのだから、もしもこれを否定する人が現れたとするならば、その人はきっと不合理で無知蒙昧なのだろうと推察できる。

 …だからこそだ。だからこそ、私は世に希望以外の何も存在しないと妄信しなければならない。

 絶望をしている限り、そんな小賢しい利口さを有している限り、

 私は幸せになれない。

 私は間違い続ける。

 お義父さんは何も間違っていない。



 二


 ラディカをけん引する際に用いていた身体強化の変性魔術は、未だに健在であった。

 おかげでシャトーは、本来なら致死の一撃であった脳天への鈍痛に対し、重症で済んだ。

 それでも、衝撃のせいで彼女の意識は朦朧としていた。

 シャトーの意識がぼんやりながらも覚醒するには、時間が掛かった。

「ぁ…、でぃぁさま…」

 シャトーは徐々に自分の現状を自覚した。

 現状。

 路地裏の地面にうつ伏せで倒れている。

 背中が軽い。

 うっすら目を開けてみると、自分の傍に乱雑に開かれたリュックがくたばっていた。

 空の財布も転がっていた。

 無造作に開かれた『高貴なる冒険』がグチャグチャに踏まれていた。

「…ッ!」

 頭部から血の滴りを感じる。

 ヴェールが妙な水気を持っていて重い。

 手で触れると、滴りどころではなかった。

 頭からは、血が、滝のように流れ出していた。

「(頭の中が軽い…。意識がクラクラする…。考えが上手くまとまらない…)」

 ふと、近くから、女性の悲鳴が聞こえた気がした。

 いや、それはとても遠いところでの出来事だった。

 いや、やっぱり、とても近くでの出来事だった。

 正面に視線をやれば、容易に悲鳴の正体を見つけることが出来た。


「な…、ぁ…」

 …ラディカ様が、壁に押さえつけられていた。

 暴漢の二人に、押さえつけられていた。

 一人(ヒョロヒョロの体型で背が低く、帽子を被っている。以下、帽子と呼称)は立って、ラディカ様の両手を押さえていて、

 もう一人(ガッシリした体型で背が高く、腕に入れ墨がある。以下、入れ墨と呼称)はしゃがんで、ラディカ様を無理やり開脚させていた。

「(あ…)」

「(強姦か…)」

「(…そういや、四等車の御者が、そんなことを言ってたっけな)」

 鑑みれば、この時勢に、人気のない路地裏になんて、見目麗しいラディカ様を連れるべきじゃなかった。

 改めて思う。

 あの時の私は、やはり、少し正気じゃなかった。

 暴漢らが獲物について楽しそうに駄弁っている。

 「尻がデカくて揉みごたえがありそう」とか

 「下着を履いていないのは、きっと痴女だからだ」とか

 そういう、下卑た駄弁り。

 嘲笑い。

 その片手間に、ラディカ様の弱々しい身じろぎが抑え込まれている。

 そして、大した事のない防備…、ボロのチュニックと、スカーフにしていた聖骸布が剥がされようとしている。

 よく見ると、ラディカ様の顔面は腫れていた。

 他に、右手指の全部が無茶苦茶な方向に曲がっていた。

 太ももに根性焼きの痕が幾つもついていた(ラディカ様の股の下に吸い殻が幾つも落ちていたから、多分、それ)。

 あらわな腹が痣っぽく青くなっていた。

 『決して損壊しない性質』を持つ聖骸布と、今にビリビリに破かれつつあるチュニックに、吐瀉したのであろう胃液が染みていた。

 多分、暴漢らに激しく抵抗したからそうなったんだろう。

 ラディカ様、目が腫れぼったくなるくらい泣いて、息が続かないくらい横隔膜を痙攣させてしゃっくりしてるのに、全身は恐怖で縮こまらせている。

 色んなところ、触られたくないところ、触られてるのに、碌な抵抗が出来ていない。

 暴漢らに従順になっている。

 もう既に、暴力で躾けられてしまって、そういう抵抗をする気力を奪われてしまったんだ。

「(へぇ…)」

「…」

「…!!?」

 …その惨状に、ぼんやりしていた意識は、一気に覚醒した。

「(…なんてこと…!!)」

 私は急いで身体に力を込めた。

「(…ッ!目覚めるのが…遅過ぎた…!)」

 立ち上がろうとした。

「(早く…!ラディカ様を…助けなきゃ…!)」

 現状の危機に呼応し、激った身体が自然と動こうとした。


 …だが、一方で、頭の方は至って冷静で、いつだって、私に理知的なアイデアを提供していた。

 思考が、私の身体をピタッと止めた。

 止めてはならない、下僕としてのこの身体を、私の思考は自由にしてしまっていた。



 三


 私はふと、気がついた。

 ラディカ様の頭からは、血が流れていなかった。

 思考が高速で回った。

「(私とラディカ様では、扱いが違う…?)」

 …考えるに、ラディカ様に負傷こそあれど、命に関わる重症が無いのは、暴漢らが『生きたラディカ様』を欲しているから。

 一方で、私の頭に致命的な重症があるのは、暴漢らが、私の修道服から私が魔術師である可能性を連想し、危惧し、殺そうとしたから。

 暴漢らは、魅力的なラディカ様の一方で、私に対しては脅威として以外の観点で、まるで興味がない。

 現に、暴漢らは、欲情をそそるラディカ様のことは視姦する程にジロジロ眺めている一方で、血まみれになって倒れている、貧相な身体をした、ボロ雑巾のような死体の私には見向きすらしていない。

 …その上で、予見する。

 もし、ここで私が再び立ち上がれば、暴漢らはすぐさま私の方に振り返って、直ちにとどめを刺しに来るだろう。

 だって、いくら私よりガタイの良い暴漢らとはいえ、魔術で攻撃されたらひとたまりもないから。

 私は立ち上がれば、十中八九、命の危機に晒されることになるだろう。


 一方で。


 …酷い考えだけど。


 …もし、私がこのまま、死んだふりをしていれば、暴漢らは決して私の方には振り向かない。

 既に排除が完了した脅威の残骸、そこら辺に転がるただのゴミとして、私のことを簡単に見過ごす。

「(…)」

 つまるところ

「(ここでラディカ様を見限れば、私は助かる…)」

 息を呑む。

 私の表情に、暗雲が立ち込める。

「(ラディカ様…)」


 絶望の種が転がるのを止めて、根を生やす準備を始めた。

 …普段のシャトーなら、自己保身のために他者を見限るなんてアイデア、思い付きはしても絶対に採用しない。

 彼女は、理知的ではあるが、非常に善人なのだ。

 本当に心優しい人間なのだ。

 だから、人を見限るような真似は決してしない。

 …普段の彼女であれば。


 残念なことに、現在の彼女は希望に裏切られ、絶望したばかりの彼女であり、普段ではなかった。


 彼女は、自分の優しさに疲れていた。



 四


 下卑た嗤い声と、かすかな悲鳴が混ざって聞こえる。

 それでも、私は動かない。

 動かなくても良いと理解しているから。

 …思うに、ラディカ様は暴漢らに殺されない。

 だって、ラディカ様の見目は殺すには惜しすぎるほどに魅惑的だから。あの方は、見目に限れば今でも特別なのだ。

 暴漢らはきっと、ここでラディカ様を散々犯した後、自分たちの巣に持ち帰るに違いない。

 自慢するために、飼うために、自分たちの従順なおもちゃにするために。

 性奴として。

 ラディカ様が「殺して」と懇願しても、生かし続けるに違いない。

 たとえ、私がこの状況を放置したとしても、少なくともラディカ様の命は確実に助かる。

 そんな未来が、簡単に予想できる。

 …非情、薄情だという批判は分かる。

 確かに、私にはラディカ様をお守りする義務がある。

 しかし、思うに、それはラディカ様の貞操等の死守ではなく、命をお守りすることを意味する。

 だって『城』とは、君主の命を護る物であり、決して下のお世話をする物ではないから。

 だから、あくまで『城(シャトー)』でしかない私は、ラディカ様の尊厳を絶対に守る必要はない。

 そんなもの、守れたら守るくらいでいい。


 …考えるに、最善案は、今、重症の状態で下手に動き、暴漢らの格好の的になることではなく、

 ここを耐え忍んで、後に万全な体制で、有利対面で、彼らの巣に殴り込みをかけることだ。

 逆に、ここで下手に、死の危険を侵してまで、ラディカ様の全てを守ろうとするのは愚策だ。

 だって、ラディカ様の身を案じる唯一の存在である私が死んでしまえば、それこそラディカ様は、暴漢らから救われる未来を永遠に奪われることになる。

 ラディカ様は一生、陽の光を見ることなく閉じ込められ、惨めな道具として生きることになる。

 私が死ぬことこそ、ラディカ様における最大の損失で、最悪の未来で、末路だ。

 だから、私は決して死ねない。

 そうすると、私が今、ラディカに手を差し伸べるのはますます合理的じゃない。


 …そもそも私は、戦闘向きの魔術師じゃない。

 魔術で対人戦闘をしたことなんて、一度もない。

 だから、今、この場で暴漢らにタイマンを挑んだところで、勝てるかどうか分からない。

 情けない話だけど。

 身体強化は、重症による全身へのダメージに耐えることで精一杯になっている。

 人気のない路地裏だから、衛兵の加勢も望み薄。

 游赫(りゅうかく)との接続も、意識が飛んだ時に切れたっぽいから、あの子の助けも期待できない。

 考えれば考えるほど、私は返り討ちに遭う可能性しか感じられない。

 一方で、後日の奇襲なら、私は確実に暴漢らを蹴散らし、ラディカ様を助けることが出来る。

 私は、偵察向きの魔獣を軍団で召喚出来る。その子たちに頼れば、アメリーどころか大陸中を徹底的に捜索出来る。

 だから、暴漢らが何処へ隠れようが必ず見つけることが出来る。

 加えて、こちらのタイミングで仕掛けるのであれば、充分な準備の下、勝算を上げられるだけ上げた上で、暴漢らに挑める。

 事前に、自身に魔術的なバフを何重にもかけて、戦闘向けの召喚獣を何十体も出して、その上で、詠唱に時間のかかる大規模な魔術を宣戦布告に撃ち込み、怯んだ隙に畳み掛ければ、いくら戦闘が苦手な私でも間違いなく勝利を掴める。


「(そう、だから…)」

「(だから…)」

「(…なんか)」

 考えれば考えるほど、下手に動かない方が安パイだということを理解できる。

 後日の解決が、事態に対する最適解だと納得できる。

 それなのに、なんでだろう。

「(メチャクチャ言い訳してる気分…)」


 …理知は常に公平であった。

 理知は、希望に対し合理性と妥当性をもって診断を行う一方、絶望に対しても同様の作業を行っていた。

 シャトーは、簡単に絶望することも難しい人間であった。

 しかし、今の彼女には味方がいた。

 悲しみと苦しみ。

 その二つこそが、絶望して、責任を放り出して自由になりたいとする彼女の背をグッと押していた。

 暴漢に襲われる前、下僕から離れたくない、一緒に居てほしいとすがるラディカから、彼女を引き剥がしたのと同じように。

 今にも、悲しみと苦しみは間もなく仕事を果たした。 


「(でも、やっぱり…)」

「(わざわざ、ラディカ様の“無い純潔”のために無茶をする必要はないでしょ…)」

「(贅沢言わないでよね…。命だけでも後で絶対に助けてあげるんだから、むしろ感謝してよね…)」


 …シャトーは、いつの間にか、ラディカのことを軽率に取り扱うことが出来るようになってしまっていた。




 五


 …あぁ、嫌だ。

 本当に嫌だ。

 気味の悪い感情がこみ上げる。

 なんだか、自分が自分じゃなくなっていくみたい。

 …それなのに、どうしてか、この心の無さが心地良くて仕方がない。

 今に、ラディカ様が喰らっている、心身の束縛や、理不尽な暴力、尊厳の破壊、蹂躙を眺めるほどに

 痛みや、苦しみや、辛さや、悲しさを見つめるほどに

 「それ、私もずっと味わってきたんですよ」と、ラディカ様の耳元で囁きたくなってしまう。

 そんな悪感情が、私の口角をネトリと上げる。

 ラディカ様が他者に苦しめられる姿を見るほどに、心が空く。

 暴漢らを通して、意趣返しをしているような気分になれる。

 悪女に報いを、与えているような気になれる。

「(…あれ?)」

「(私って…、こんなにも悪い子だったんだ…?)」


 絶望の種が殻を割り、心の底に突き刺すための根の槍を覗かせた。 

 …今のシャトーは、少し過激であった。

 自分の身勝手な絶望だけを頼りに『ラディカは悪女だ』と簡単に決めつけてしまって。

 後先考えずに、自分の身を守ってしまって。

 …彼女は、“現状に対しては”、十分で、全く以て正しい思考をしていた。

 理知は、よく働いていた。

 しかし、彼女はラディカについて、あまりにも思慮不足であった。

 残酷かもしれないが、彼女はラディカのことを、もっと、もっと慮らなければいけなかった。

 …特に、ラディカのことを一瞬でも『悪女じゃない』と思えてしまっていたのならば。

 しかし、彼女は今にそれを怠った。

 だから、彼女は後に後悔する。

 ラディカについて、後悔する。


 …ラディカ様の小さな悲鳴が、蚊が鳴くような嬌声に変わった。

 衣服を捲られ、剥がされ、全てを無理やりに暴漢らの前に露出させられた、あられもないラディカ様は、どうやら自分の未来に諦めが付き始めたようで。

 せめて、痛いのはやめてと、媚びを売り始めたようだった。

 帽子のヒョロヒョロした手が房を激しく掴み、摘まみ、しだく。

 しゃがむ入れ墨のゴツゴツした手が肢体を乱暴に撫で回す。

 また、指が、肢体の先にある“それ”にまで侵食し、内に、隠れていく。

 本格的に、道具としての扱いが始まる。

 これに合わせて、ラディカ様は、僅かにだが、娼婦のように腰を振り、尻を上げる。

 過呼吸になりながら、少しでも慈悲を分けてくれと、過度に従順になる。

 あえぎ声、猫なで声を上げながらも、暴力への恐怖に身を震わせる。

 アンビバレントにグチャグチャになる。

 …しかし、無視を決め込んだ私は、そんなラディカ様から目を背ける。

「(知らんぷりー)」

 …けど、耳だけはラディカ様の方に向ける。

 気になるから。

 でも、それだけ。

 後は何にもしない。

 死体のフリをするだけ。

「(ぶぇ…)」

 …時間が経つのが遅い。

「(はぁ…)」

「(…あ)」

 …ふと、思った。

 そういやラディカ様、今、どうして凌辱されて苦しそうなんだろう?

 …普通に考えれば変な疑問だけど。

 ラディカ様に対しては、変じゃないはずだ。

 だって、ラディカ様といえば、酷い性生活で有名なのだから。

 『たまたま見つけた好みの男を脅して、その男の婚約者の前で密に性交をしてみせて遊んだとか』

 『弱みを作ってゆするために実のお父様を押し倒して関係を持ったとか』

 (他にも色々)

 …処刑後の新聞が散々流布していた悪評を見る限り、ラディカ様は酷いアバズレのはずだ。

 レイプだって自ら行う、穴女のはずだ。

 下品な情動に、この上なく無頓着な売女のはずだ。

 新聞が、ラディカ様のことを『股が緩く、頭が緩い』と揶揄していたのを見たことがある。

 …それなのに、何がどうして、今のラディカ様は、ご自身の醜く穢れて腐った肉体を更に散らすことについて、あんなにも辛く、苦しそうな表情をしてるんだろう?

 何が未練なんだろう?

 何を失うことが、そんなに悲しいんだろう?

 もう既に、色んなものを失っているだろうに。

「(いいじゃん…。どうせ、ラディカ様は悪女なんだから…)」

「(甘んじて受け入れろよ…)」


 …酷い、かな。

 こんなことを考えるなんて。

 でも、それは違う。

 それは違って、今までの私が甘過ぎたんだ。

 よく考えれば、ラディカ様は、その権力を使って、何人もの無実な人々を理不尽に不幸に追いやった、極悪人なんだ。

 それこそ、過去に惨たらしい公開処刑にかけられた程の、凄まじい悪意の持ち主だったんだ。

 『悪女ラディカ』なんだ。

 この上なく最低な人間なんだ。

 そう易々と、幸せになって良い人間じゃないんだ。

 だから、今にラディカ様が受ける不幸は、因果応報だ。

 死んで、地獄に落ちなかった代わりに与えられた、生きたラディカ様への相応しい天罰だ。

「(…ま、神様がいるかどうかは、さておきね)」

 そう考えると、今に私がラディカ様を裏切って、見捨ててしまったのも同じ道理で、因果応報だ。

 私だって、新聞に載る程ではないけども、ラディカ様の毒牙にかかった犠牲者なんだ。

 悪女に誑かされて、必要以上に傷つけられた。そんな恨みを持つ被害者なんだ。

 そんな可哀想な私が、どうしてラディカ様を幸せにしなくちゃいけない?


 …ラディカ様には、確かに素敵な部分がある。

 それは認める。

 でも、そんなものはオマケみたいなもので、根本の部分はやっぱり悪女だ。

 新聞や、世間の噂が言う通りだ。

 死んでも、死んだ後でも、それは決して変わらないんだ。

 絶望して、ようやく知れた。

 ラディカ様は悪女だ。

 私は、舞い上がってしまっていた。

 ラディカ様の、悪女っぽくない部分を見てしまって。

 それが、実は本性なのかもしれないって、馬鹿みたいに信じてしまって。

 そのせいで、私は、ラディカ様が、別の何者かに変わってくれるかもしれない、なんて変な期待をしてしまった。

 馬鹿な考え違いをして、

 笑い合えると思い込んでしまった。

 幸せに、一緒に在れると勘違いをしてしまった。

 その末に、私の想いは簡単に裏切られて、心が張り裂けそうな程、悲しい思いをした。


 あぁ。

 馬鹿者だな、私。

 ラディカ様は根っからの悪女って最初から分かってたんだから、もっとドライに接するべきだったんだ。 

 それなのに、存在しない希望を頼りに、鬱憤を押し殺して、何度も自分を言い聞かせちゃって。

 本当に馬鹿だ。

「(私、ちょっと良い人過ぎたんだろうな…)」

「(真面目過ぎたんだろうな…)」


『…過度な実直は苦だぜ?突っ走れても、曲がれずに、壁にぶつかるしかないからな』


 良い言葉だな。

 反省しよう。

 そして改めよう。

 私は単に、お義父さんの亡き想いさえ汲めればいいんだから。

 それが私の義務なんだから。

 ラディカ様なんて所詮、そのための道具に過ぎないんだから。

 優しさも、温かさも

 真面目さも、実直さも

 全部捨てて

 今、恥部の全てを、暴漢の二人に指や舌で弄ばれている、恥辱的なラディカ様のことは、見なかったことにしよう。

 そして、この後起きるであろう全ても、その末路も、考えないようにしよう。


 絶望の種が伸ばした根が、ツプ、ツプと心の底に挿入る。

 私という存在が、犯され、書き換えられ、消えて、なくなろうとする。

 …それがなんとも、甘い快楽のように心地良い。

 だって、ラディカ様に絶望すれば、悪女だと決めつけてしまえば、何も考えなくて済むから。

 何も期待せず、何も煩わしく思わず、何も悲しまずに済むから。

 楽になれるから。

「(…あぁ、そうか)」

「(人を軽んじるのって、こんなにも楽で、簡単だったんだ…)」

「(いいな…。こんなことなら、もっと早くにやっておけば良かった…)」

 シャトーの瞼が、ゆっくりと重くなり始めた。

 彼女は、現実を見るのが面倒になった。

 もう、煩わしい思考も、向き合いたくない現状も、何もかも投げ出してしまおう。

 ラディカ様のことなんて、消し去ってしまおう。

 そう、思った。

 だから、目を閉じた。


 おやすみ。



 六


 …しかし、シャトーはどうしても眠りに落ちることが出来なかった。

 現実逃避をすることが出来なかった。

 頭がクラクラしてるのに、身体がこれ以上なく気怠げなのに

 眠いのに

 彼女はまだ、考えるべきこと、向き合うべきことがある気がして、しょうがなかった。


 分かんない。

 なんでだろう。

 絶望したのに、優しさを捨てて冷たくなれたのに。

 まだ、ラディカ様に何かがある気がする。


 もしかしたら、もしかしたらの希望的観測。

 まだ、心に残っている。

 どこか、期待している。


 希望的観測?

 いや、それには確かに、証拠がある。


『私は、ラディカ様のことが好きですよ』

 そう、私は、“悪女じゃないラディカ様”が今でも大好き。

『かわいい…』

 あの、素直で、あどけない、屈託のない笑顔が可愛いラディカ様が大好き。


 あれは、確かに本当のラディカ様だった。

 何も、嘘偽りなかった。


 …それじゃあ、悪女は?

 ラディカ様にとって、悪女は何なの?


 …あれ?


 あ…?

 なんだ…?


 違和感。

 その後。


「あ…、ぇ…?」

「なん…、で…?」


 思い浮かんでしまった。

 たった一つの、冴えない疑問。


「(そういや…、そうだ…)」

「(そう…、たとえば、ラディカ様が、本当に悪女だったとして…)」

「(何というか…、どうして…)」


 目の前のラディカ様を改めて見る。

 そして、確かに思う。


「(どうして、ラディカ様には、こんなにも、色っぽさが似合わないんだろう…?)」


『ラディカには“悪女らしい”不機嫌な顔より、“ただの女の子のような”屈託のない笑顔の方がよく似合う』

 それもまた、観測可能な確かな事実。

 理知が認める、間違いのない真実。

 悪女との矛盾。


 不可解。

 不可解。

 不可解。


 …が、それもつかの間

 その不可解の解は、幸か不幸か、間もなくシャトーの元に届いた。

「…ッぐァ!あァ…!」

 突如、ラディカの身が大きくよじれた。

「…うぉ」

「もしかしてとは思ったけど…、マジか」

 入れ墨は、ラディカの身じろぎを軽く抑えながら、意外な事実に感嘆に近しい声を漏らした。

「んぉ?何?」

「いや、見てみろよこれ」

 そう言って、入れ墨は、帽子に、先ほどまでラディカの恥部を無理やり押し拡げていた自分のブ太い指三本を見せた。


 赤黒に染まったそれらを見せた。


「えっ?血?マジぃ?」

 帽子も、入れ墨と同じく驚きの声を漏らした。次いで、「こんな美人なのに?うっそだぁ?」と嗤った。

 入れ墨もまた、ラディカを嗤いながら、帽子の感想に同意した。

「いやぁ、まぁ?さっきから触ってて、固ぇし、ほぐれねぇから、あんまり遊んでねぇのかな?とは思ってたんだけど…」

「でも…、まさか…なぁ?」


 …シャトーは、目を見開いた。

 顔を上げて、力が入らない身体を無理に起こした。

 白黒する瞳で、入れ墨の指を見た。

 そして、ラディカを見た。

 只今に起こった悲劇に、この上なく絶望している彼女を凝視した。

 悲劇。

 悲劇。

 明らかな悲劇。


 破瓜。


「まさか…、そんな…」

「嘘…、なんで…」

「なんで…、ラディカ様は、まだ…」


「処女、なの…?」



 七


 …シャトーの生活環境における情報の隔離具合を鑑みれば、こと、情報弱者である彼女において、新聞が与え得る情報の信憑性は極めて高かった。

 加えて、新聞の情報が世間一般の風評と一致すれば、たちまちそれは真実となった。

 彼女は、合理的であるが故に、論理的帰結に従い過ぎ、妥当性の高い情報を鵜呑みにしてしまっていた。

 …しかし、それは明らかに理知のもたらす弊害であった。

 彼女は、情報と、整合性と、経験則の上で間違いなく悪女であるラディカが、本当の本当に悪女であるかどうか、ラディカの心情を感知することを通してしっかりと見極める必要があった。

 頭で真実を決めつけるのであれば、心で、真実の裏に隠された真相を見つける必要があった。

 その上で、ラディカという人間について、納得をする必要があった。

 …しかし、愚かなシャトーはそうしなかった。

 絶望などという、何もかもをラディカのせいに出来る便利な理由を見つけてしまったが故に。

 楽をしてしまっていた。

 愚かな彼女は、手遅れになってから、ようやく気がついた。

 取り返しのつかない過ちを犯して、やっと知ることが出来た。

 ラディカの正体。


「本当の…、ラディカ様は…」

「悪女じゃない…?」


「あ…」

「ラディカ…、様…」

 …思考がそこまで巡った時、シャトーは、ラディカと目が合った。

 そして、シャトーの眼に映った。

 「助けて」と必死に懇願した、その跡として細く残る涙の痕と

 それを伝った先にある、もう、唯の光を失ってしまって、二度と輝きを取り戻せない、手遅れになってしまった虚ろな眼が

 悲痛のラディカが

 今に見えた、純粋な煌めきを持つ現実に照らされて、徐々に希望を取り戻す、身勝手なシャトーの瞳と

 今にある、真っ暗闇の現実が鮮明に映ってしまって、もはや、何の希望も取り戻せない、見捨てられたラディカの瞳

 本当は悪女じゃないかもしれない

 しかし、それでも、守るべきだった彼女

 もう、守れなくなってしまった彼女

 お前が守らなかった彼女

「あ…、ぁ…!」

 脳にじわりと、しかし、爆発するように広がる後悔

 ガチガチと震える歯

 歪み、歪み、歪む視界

 荒く、荒い、呼吸できない呼吸

 反芻されていく自らの愚行、愚行、愚行

 自らの、愚か過ぎる考え


 全て、間違い


「あ…ぁぁ、…ぁッ…!!」

「…っあああああああああア!!!!」

 …シャトーは、心の底からグチャグチャになった。

 自分という存在の何もかもが憎くなった。

 死んでも、死に切れなくなった。


 最悪だ。最悪だ。最悪だ。

 私のせいで、私のせいで、私のせいで。

 ラディカ様に、途方もないものを失わせた。

 きっと今まで、大切にし続けてたのであろう、大事な、大事なものを、失わせてしまった。

 どう取り繕おうとも償えない、とんでもない痛みを負わせてしまった。

 私なんかじゃ遠く及ばない、あまりにも大きな絶望をさせてしまった。

「(私を、私なんかの好きにさせたから…!)」


 シャトーは、あまりの自責の念に、溢れ出る膨大な涙に、ラディカを見る目のピントが合わなくなった。

 それでも、彼女はラディカの方を見た。

 身を震わせて。

 守るべきだったのに、暴漢らに手籠めにされ、完璧に蹂躙されてしまったラディカを見た。

 自分の愚かしさがもたらしてしまった、惨憺たる結末を、目を逸らさずに見た。

 そして、彼女は、溢れんばかりの悔恨を漏らすようにして伝えた。

「ごめん…なさい…!」

 止まらない懺悔の気持ちと共に、苦しみでいっぱいの嗚咽が漏れる。

 ラディカへの、謝っても、謝り切れない謝罪が漏れる。

「私が…馬鹿で…愚かだったから…」

「そのせいで…守れなかった…!」

「守るべきだったのに…、本当は、守るべきだったのに…!」


「ラディカ様…!」

「本当に…本当にごめんなさい…!」


 …自分が壊れてしまう程の心痛、ラディカへの想い、止め処無い謝罪の言葉が押し出したドロドロで冷ややかな血は、シャトーの内から絶望の種を流れ落とした。


 シャトーはもう、ラディカを疑わなかった。


 彼女の赤黒い瞳は、一心にラディカに向いていた。

 二人だけの、狭い未来へと向いていた。


 彼女は最早、何をおいても、ラディカを守る決意に包まれていた。



 八


 …ここで、この話を終えるのが良いと、私(作者です)も思う。

 そこそこ綺麗だし。

 だが、私は恭しく注釈をする。

 だって、何よりも、これはシャトーの尊き人生なのだから。


 …実のところ、『ラディカを信じ、守る』という決断は、一見ほど崇高なものではなかった。

 むしろ、シャトーという存在の健康を鑑みれば、これ以上無くおどろおどろしい採択であった。

 なにせ、これには大きな代償があった。

 それは、最初の方に語った、重大なテーゼが物語る。

 希望や絶望をする自由を捨て、何があろうとも誰かを信じて疑わないとすることは、己の内に、他者への盲目的な狂愛を許すことになる。

 また、もう二度と後悔したくないからと、誰かを守るために戦いに出ることは、己の傷と死、又、他者への危害と是に伴う怨嗟という、苦しみを受け入れることに繋がる。

 考えるに、そういう極端な結末に陥らないために常識というものは存在する。

 物事には多少の諦めが肝要で、いつも妥協と分別を忘れないことで、長寿と豊かさは実現する。

 そうして、人は適度な幸福を手に入れる。

 これで良いと、ホッとできる生を享受する。

 …つまるところ、只今に、ラディカを信じ、守ると固く誓ってしまったシャトーが被った代償とは、一つに、絶望の種どころか、正常な思考と判断能力すらも吐き出してしまったことであり、もう一つに、まるで気立った猛獣のように、後先考えずに、守るべきもの以外の全てを軽んじて、敵に立ち向かおうとするピーキーさを獲得してしまったことであった。


 極端。


 恐るべき過ちを生み出してしまった理知と、そんな自分を捨てて、無私へと至る。

 全てを手に入れる代わりに、全てを失いかねない。

 シャトーは、そんな危うい存在と化したのであった。


 …でも、彼女は、それでいいと断定する。

 彼女は、そんな自分が素敵だと考える。


 彼女はもう、義父のことで迷わない。

 だって、彼女にはもう、考える脳が無いから。


『…いいか?私の可愛いシャトーよ。世間は御方について穿ったことばかり言うがな、あんなもんは全部嘘だ。本当のラディカ様は、きっと素晴らしい方だ。あの方もまた、レジティ様同様、神に選ばれし存在なのだ。素晴らしい方でなければ、道理が叶わんってもんだ』


「あはっ…、ははは…、ははははは!!!」


 甘美

 甘美

 甘美


「(あぁ…そうなんだ…!)」

「(お義父さんは、やっぱり、何もかも正しかったんだ!)」

「(合理的で、妥当的で、何もかも間違っている馬鹿な私には、最初から、大好きなお義父さんを疑う資格なんてなかったんだ!!)」


 起き上がったシャトーは、何よりもまず自分の右目に指を突っ込んだ。

 抉り取った球のそれを、ぞんざいに地面に捨てた。

 じんわりと激痛が走った。目の前が真っ暗になった、それに関する恐怖が全身を襲った。

 でも、そんな極限が心地良過ぎて、しょうがなくて、彼女は絶頂さえしていた。


 無明の爆発。

 私が本気で魔術を使ったら、この街一つなんて簡単に消し飛ばせちゃう…

 そしたら、街の人たちが大勢死んじゃうよぉ…!

 だから何?

 ラディカ様のためならば、別に良くない?


「(私と、お義父さんと、ラディカ様だけが存在する…、そんな世界…)」

「(考えただけでゾクゾクする…!!)」


 何も見えない。

 でも、それでいい。


「(あぁ…、それ以外のことなんて要らない…!それ以外のことを大切にしようとする私なんて、もう要らない…!!)」

「(…だから、私なんて存在はもう、死んでしまえばいいんだ!!!)」


「はははははははははははっ!!!!」


 理知を憎み、世界をエゴイスティックに取り扱う。

 彼女を規律していた基本原理を無視し、それらの排斥と言っても過言でない言動を取る。


 シャトーは、壊れてしまった。


 しかし、彼女は同時に夢を叶えた。

 濃硫酸のような強烈な失敗に脳をドロドロに溶かされてしまって

 もう、自律できない、ポンコツになってしまって

 彼女は“狂いたい理知人”から、正真正銘の“狂人”に成ることが出来た。


 愛するお義父さんの言葉、その意志は束縛ではなくなった。

 それは、彼女を構成する全てになっていた。

 ラディカへの疑り、悪感情は消え失せた。

 ラディカへの想いは、神への信仰よりも重い、カルト的崇拝へと変わっていた。


 彼女は、それこそが、『信じる』という行為の意味であり、『シャトー・ブリアン』であり、何よりも『私』であると、解釈した。

 そうして、彼女は、己が歪みに心身の全てを許し、ずっと未完成だった無私を実現したのであった。


 …あぁ、レジティ様

 私は、遂にやりました

 お義父さんの全てを愛せました


 貴女と、貴女のお姉様のおかげです


 ふふっ、ふふふっ、ふふふふっ…


 …世間一般の、平凡な感覚なら、思考停止は愚で、盲信は悪なのだろう。

 故に歪みとは、批判され、否定されるべきなのだろう。

 歪さを排すための物語、正義の追求、共感の創出こそが小説らしい面白い物語で、人々の快楽で、私は故意にそういうものを提供すべきなのだろう。


 だが、これはシャトーの生だ。


 本質的に、あなたへの娯楽でも、刹那的な消費物でもなく、彼女が懸命に歩む生だ。

 だからこそ、あなたも、私も、この物語を真に楽しむことはできない。

 私たちは、この歪に慄くしかない。

 物語の初めに表された、ラディカの歪、悪女っぷりに向けていた目、唾棄と同じものを彼女に向けるしかない。


 …改めて伝えるが、この物語において最も重要な登場人物の一人として抜擢された彼女とは、あなたや、私や、他の全てとは違う。

 彼女は、何者でもない私たちとは違い、特別な何かを持っている。

 特別な何か、それは、彼女の出生や育ち、保有する突出した天賦の才を見てもそうであったが、何よりも、“お義父さんへの愛”という異形の想いを見るに、そうなのだ。


 彼女には、ずっと紡いできた己と、愛がある。

 そういう、尊さにまみれた過去がある。


 だからこそ、彼女は今、この上なく幸せなのだ。

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