1 (8) 『すがるもの間違い』
一
『ラディカ…!君は…、どうして悪女なんかになってしまったんだ…!』
『お姉様…!もうやめて…!今までの優しいお姉様に戻って…!』
…何度も耳にした言葉。しかし、いつの日か耳にしなくなった言葉。
汚れて、穢れて、悪徳なんて何も知らなかった頃の私がどこかに行ってしまって、大好きだった人達から憎まれることを何とも思わない、『悪女の私』が完成してしまった時、お母様はこれ以上ない満面の笑みで私を抱き締めてくれた。
「ようやく私と同じトコロに堕ちてくれたのね」と、喜んでくれた。
いつも、どこか孤独な雰囲気があったお母様が、私のことを欠かすことの出来ない半身のように思ってくれた。
私の愛で、お母様を満たせた。そのご褒美に、お母様は私に最大限の愛をくれた。
頬が緩んだ。これで良いと思った。これが私の幸せだと思った。
そう、思っていたのに。
オルレは、それでもめげずにいつも手紙を送ってくれた。
レジティは、あの子が大好きな神話学の本に、禁裏の庭園で私と二人、笑顔で写った写真をいつも挟んでいた。
…私は、そんなことで揺さぶられてはいけなかった。
もっと強くて、揺るぎない、どうしようもない悪女にならなければいけなかった。
なのに、気を抜くとすぐにやってくる。
“本当の自分”がやってくる。
逃げても、逃げても。
今では、シスターさんが私にそれを差し出してくれる。
臆面もなく、私は…
…どうすれば良いのか、何も分からない。
二
…気を失っていた、と言って良かった。
いや、本当に気を失ってはいないのだけれども。
そんな現実逃避、甘えなんて、罪深きラディカには許されていないのだけれども。
でも、ともかく、今の彼女はショックに心が潰されてしまって、外界の様子なんて、とてもキャッチできない状態にあった。
…中央広場での失墜から目を覚ました時、ラディカはシャトーに担がれて、中央広場から街の城門までに細々と続く、人気のない路地裏をゆっくり下っていた。
昼はもう、夕暮れに変わっていた。
「…!ラディカ様…!目が覚めたんですね…!」
シャトーは、ラディカの意識が戻ったことにすぐに気がついた。
彼女はすぐさま足を止め、身体を回して、ラディカを担ぐ体勢から、ラディカを正面から抱き寄せる体勢に変えた。
彼女は、目に涙をいっぱい溜めながら、ぎゅうっとラディカを抱き締めた。
その際、未だ無気力なラディカの全体重は自分の力で自分を支えられず、シャトーの上半身に無遠慮に寄り掛かった。
そのため、シャトーはラディカの重みに耐え切れず崩折れてしまい、地面に膝と背を強く打ち付けてしまった。
だが、シャトーは自分の痛みなんてまるで気にしなかった。
彼女はそれよりも、ずっと容態を心配していたラディカが今に目覚めてくれたことへの安堵でいっぱいだった。
「ラディカ様…!良かった…!本当に良かった…!」
シャトーは、自分に覆い被さるラディカに必死に両腕を回して、泣きじゃくった。
「ラディカ様…、何度呼びかけても、返事してくれなかったから…」
「ショックで心が壊れてしまって…、もう二度と、目覚めないんじゃないかって思って…」
「怖くて…、どうしようって思ってた…!」
「でも…、目覚めてくれた…!本当に、本当に良かった…!」
対し、ラディカは、まだ意識が覚醒していないのか、ぼんやりとまぶたを半開きにしていた。
「げぼ…く…?」
そうやって、虚ろに呟くくらいが、今の彼女の限界であった。
「はい…!下僕です…!貴女の下僕の、シャトーです…!」
目覚めたどころか、小さくでも反応さえしてもらえたことが堪らなく嬉しいシャトーは、晴れやかな表情になった。同時に、ラディカを更に強く抱き締めた。
しかし、呆然としているラディカの反応は未だ閉鎖的で、そんなシャトーの心労や愛情を気にも留めずに、朦朧と周りを見回すだけであった。
…ラディカはとにかく、現状を上手く認識できていなくて、認識したかった。
しなきゃいいのに。
…見えたもの。聞こえたもの。感じたもの。
日が落ち、薄暗い路地裏。自分たち以外の気配はない。二人ぼっち。
自分。ぐずぐず泣いている下僕に覆いかぶさる体勢。掛け布団になったみたい。
「(下僕…。かわいそうに…、なんで泣いてるんだろう…?)」
四肢、無造作に地面にくたばっている。それ故、肌から地面がジトッと嫌な湿り気を持っていることが伝わり、分かる。
「(きもい…)」
顔を上げた先、家屋の更に奥に城壁がそびえ立っている。
…ここからもう少し歩けば、アメリーの出口に辿り着くのだろうと簡単に予想できる。
「(夕方…に、街の出口に向かってるってことは、これから馬車に乗るってこと…?)」
「(もう、シテに向けて出発するのかな…?)」
「(でも、馬車が手配できないって、下僕は言ってた…)」
「(あれ…?)」
ふと、思考の外から、声が聞こえた。
「ラディカ様…、さっきはごめんなさい…。たくさん辛い思いをさせて…、それなのに、ラディカ様のためだとか言って、守ってあげられなくて…。本当にごめんなさい…」
嗚咽を含み、気を落とす、哀しい声色。
でも、すごく優しい声。落ち着く声。自分をいつも気遣ってくれるシスターさんの大好きな声。
…下僕、小さい身体でぎゅっとしてくれる。
小さい。恵体の私からすれば、本当に小さいくせに。
でも、下僕の優しさは凄く大きくて、冷めた私の全身にくまなく行き渡る。
「(あったかい…。きもちいい…)」
ほわんとする。ぬくもり。ずっとこうしていたい。
下僕の口が開く。私は見つめる。
「ラディカ様…?もう、アメリーに居ても、身が引き裂かれて、辛くて、辛くて、しょうがないでしょう…?」
「だから、ね?お家に帰りましょう…?」
「お家に帰って、ゆっくりしましょう…?ご飯食べて、お風呂入って、本を読んで、心を落ち着かせて、そんな毎日を、何日も過ごして…」
「それで…、今までの傷が全部癒えたら、それからは、二人で、誰にも邪魔されずに、のんびり、穏やかに、静かに暮らしましょう…?」
「(お家…)」
「(やっぱり、シテに帰るんだ…)」
目覚めたラディカの脳は、未だ先の記憶を整理し切れていない。
「…っても、今の私は相変わらず貧乏だから、ラディカ様の生活を潤せる程の豪華な料理も、欲しいお洋服も何も用意できませんけど…」
「…でも、ラディカ様のためなら私、頑張って働きます…!アメリーにはもう行けなくなるから、代わりにリーン王りょ…、いや…、ッ、ツロンで…!いっぱい働いて…、お金を稼いで…」
「…それでもやっぱり、私ぽっちの稼ぎでは、多分、ラディカ様にフラン家での生活のような豪華さは、提供できませんけど…」
「(…?貧乏…?私に、フラン家での生活は出来ない…?)」
「(どういうこと…?)」
「(私は…フラン家の長女なのに…?)」
「(あれ…?)」
ラディカの脳内で、記憶の整理が順調に完了していく。
ショックが、彼方から還ってくる。
「でも…、絶対に苦労はさせません…!」
「貧乏生活とは…、もう、おさらばです…!じゃがいもじゃなくて、お肉を蒸かせるようにします…!欲しい本だって、服だって、…装飾の無いようなものなら、たくさん買えるようにします…!旅だって…!」
「旅だって…」
「…旅は、また、いつの日か、落ち着いた時に行きましょう…?シテに…、いや、シテだけじゃない…、ラティアだって、ジャーだって、…新大陸にだって行きましょう…?」
「きっと、ワクワクすることにいっぱい出会えて、小説みたいな冒険が出来ますよ…?」
「(…え?)」
「(旅…、今してるじゃん…)」
「(…シテには、今から行くんじゃないの…?)」
「(…行かないの…?)」
「(やっぱり、馬車がないから行けないの…?)」
「(…それとも)」
「(…行っても意味がないの?)」
「(…なんで?)」
「(え…?)」
ラディカの記憶が、正される。
ぼんやりとした視界から、段々と霧が払われる。
ショックが鮮明に見え始める。
「(私はもう…、ラディカじゃない…?)」
現実が、酷く、倒れてしまいそうな現実が、碧の眼に写し出されていく。
そして、シャトーから、決定的な言葉が下される。
「でも…、今日はもう、疲れちゃったから、お家に帰りましょう…?」
「お家に…、“小教会”に…一緒に帰りましょう…?」
「…!!」
瞬間、ラディカの目は完全に見開いた。
彼女は、息を呑んで、身体を起き上がらせて、馬乗りの姿勢になって、震える声でシャトーに尋ねた。
「小教会に…帰る…?」
「…?そう…ですけど…?」
「帰るの…?私は…、シテじゃなくて…、小教会に…?」
「“お母様と、私の墓がある”、あの場所に…?」
「…」
質問の含意を理解したシャトーは、沈黙した。だが、次の瞬間には、何の誤魔化しもせずに重々しく口を開こうとした。
…咄嗟、顔を引き攣らせたラディカは、シャトーの頬を思い切り平手打ちした。
シャトーは、打たれた頬を押えて放心した。口を朧げに開いて、無言で加害者の目を見つめた。
しかし、当のラディカはシャトーに全く向き合わず、フラフラと立ち上がったかと思えば、ゆらゆらと、今にも消えてしまいそうな小火のような足取りを始めた。
途中、ラディカは何もないところでズテッと転んだ。しかし、彼女は黙々と起き上がって、暗い影を堪能しながら歩んだ。
…彼女は、そのまま、どこかに去ってしまいそうな様子だった。
しかし、自失した精神では、おぼつかない足取りでは、今の弱っちい彼女では、少しの距離を進むことすら不可能だった。
そのため彼女は、シャトーから数メートル離れた地点で力尽き、へたり込んでしまった。
そして、彼女は自分の限界に頭を抱え、空き箱に入れられたダンゴムシのように、みじめにうずくまった。
今に、自分が無力で、何も持たないことを自覚してしまったラディカは、惨たらしく、自我を引き裂かれつつあった。
三
…その様子を見ていたシャトーは、頬の痛みを押し殺した後、自分の身体に鞭打って立ち上がった。
彼女は、自分のちっぽけな疲労や、痛みなんかよりも、今のラディカの方がよっぽど痛々しくて、見てられなかった。
しかし、今までの心労と苦労を考えると、今に、彼女が恐ろしく無理をしてラディカに寄り添おうとしていることは確かであった。
シャトーは、ラディカ以上にゆっくり休むべきだった。
それでも、彼女は静かにラディカの元に寄った。
そして、今に矮小になってしまったラディカを見つめて、心を更に痛めた。
…ただ、その構図は、奇しくも“ラディカを見下すシャトー”であった。
野良とはいえ、シスターとして努めていて、僅かながらも稼ぎがある下民のシャトーと、死んで、もはや何の権利も義務も、役割も存在価値も持たない下民以下のラディカ。
二人の関係は、ここに来てようやく正常なものに正された。
「…どっかいってよ」
持たざる者のラディカが、僻むようにポツリと訴えた。
「そんな拗ねたこと言わないでください」
与える側のシャトーは、当然のようにラディカの隣に座った。その際、彼女は、ラディカの傍に垂れる長い銀髪を、地面から掬い上げ、自分の膝の上に置いた。
そして、シャトーは、地面に付いたせいで汚れてしまったラディカの銀髪を払いながら、言った。
「…お湯なら、高位の魔術で無限に創れますから、やろうと思えば、小教会の側に大浴場だって造れるんですよ?」
「実は、あの白湯だって私の魔力製だから、飲み放題〜、なんて…」
少しの沈黙、後。
「…返してよ」
ラディカは腕を伸ばし、シャトーから自分の髪を奪い取った。そして、手に掴んだそれを投げやりに地面に放り、再度うずくまる体勢に戻った。
「…せっかくの綺麗な髪、汚れてもいいんですか?」
シャトーは寂しそうに尋ねた。
「…そんなものに、もう意味なんて無いのよ」
ラディカは自暴自棄に答えた。
その答えに、シャトーは首を横に振った。
「…自慢の髪、なんでしょう?」
「無下にしたら、可哀相ですよ…」
シャトーはそう言いながら、自分の短い横髪をストンと撫で下ろした。
ラディカは、そんな彼女を一瞥した後、呟いた。
「恨んでるんでしょ…」
「結局、貴方の髪は、ラディカでも何でもない奴に切り落されたワケだもんね…」
「はっ…」
乾いた嗤い。自傷的自嘲。
「…っていうか、貴方、なんで抵抗しなかったのよ。私がラディカじゃないって、初めっから分かってたくせに…」
「というか、そもそも、なに?貴方…。何もかも分かっていながら、それでもずっと私に付き従って…」
「今も…、隣に座って…」
「もしかして、私を馬鹿にしてるの…?」
「馬鹿に…してるんでしょ…?どうせ…」
「こんな私なんて…」
「こんな…、何もない私なんて…、嫌いに決まってるものね…!」
ラディカは、自己嫌悪の小声を、段々と裂くような絶叫に変えた。
そして、彼女は、発狂しながら、両手で髪を掴んで、千切れるような勢いでグシャグシャに掻き乱した。
その後、彼女は、見るに堪えない姿になって、更に塞ぎ込んだ。
「もう、いいからどっか行ってよ…」
…痛ましく、そう訴えるラディカに、シャトーはどう接するべきか固まった。
嘘でも何でもついて、温かい手を差し伸べるべきか、言われた通り、一旦落ち着くまで距離を置くか、色々と考えた。
どうすることが、“ラディカに寄り添う”ことになるのか、自分なりに考えた。
…そこに、義父という怨恨は介入していなかった。
彼女は、彼女自身の想い一つで、ラディカに真剣に取り組んでいた。
四
シャトーは沈黙の後、答えを出した。
寄り添う、ということを。
「…恨んでますよ。ラディカ様のこと」
「私の髪、何年もかけて、ようやくあそこまで伸ばしたんですから…」
「…切られるのは本当に嫌で、嫌で、なんでこんなことをされなくちゃいけないのか分からなくて、涙が零れて、しょうがなかったです」
彼女の答え。
それは、嘘偽り無く本音を話すことであった。
その効果は、間もなく発揮された。
シャトーの告白を耳にしたラディカは、ピクリと反応し、強張った。
温かで大好きなシスターさんに恨まれている。
ずっと尽くしてくれていた下僕が、内心では自分を嫌っている。
その、至極当然な事実を改めて突き付けられたラディカは、息も絶え絶えになるほどの恐怖に襲われて、身体をガタガタ震わせ始めた。
シャトーは、そんなラディカの様子に余裕で気づいていた。
だが、彼女は構わず告白を続けた。
「…実は、私がラディカ様の命令を聞くのは『ラディカ様のことは、絶対にラディカ様として見ろ』と、そう、お義父さんに教え込まれたからです」
「だから、私がラディカ様に仕えていたのは、決して私の意思じゃありません」
「…私の眼には、最初から、ラディカ様が『ラディカ様』には見えませんでした。…特に私は、ラディカ様のご遺体を管理していましたから」
「何もない貴女を、知っていましたから…」
「『お前は別に、悪女ラディカじゃないだろ』って、心の中でずっと思ってました」
「…だから、そんな貴女が、どうしてそんなに偉ぶれるんだろうって、不思議でたまりませんでした。本当はちっとも偉くないのに、一丁前に高飛車になって、無茶な命令をボンボンと下してきて、それが歯痒くて…」
「…だからこそ、『貴女は処刑されて死んだ、亡霊みたいなもんだよ』って何度も教えてあげたのに…。貴女ってば、私の話をちっとも理解しようとしなかったじゃないですか。…腹の底で確信しましたよ。あぁ、この人多分、馬鹿なんだろうな、本当に頭が悪い人なんだろうな、って…」
歯ぎしりの音が、シャトーの耳にも聞こえた。
それでも、彼女は口を止めなかった。
「…ハッキリ言って、馬鹿で、愚かで、高飛車でわがままな貴女に付き従うのは、凄く嫌ですよ。今でも嫌です」
「『ラディカ様』なんて、本当に大嫌いです」
「当たり前じゃないですか。考えてもみてくださいよ。いつだって、自分の立場も弁えずに、所構わず問題を起こして、少しのことですぐに癇癪起こして、それなのに、悪いことをしても何も反省しない。そんな人のことを、どうやったら好きになれると思います?」
「なれませんよ。無理です。絶対に無理です。そんな人と付き合うなんて、正直、知人ですらゴメンだって心底思いますよ」
「…そんな人である貴女と共にいることは、私にとって明確に苦痛です。罰ゲームですよ、こんなの」
シャトーの、大好きな下僕の腹の底からの本音が、ラディカの心にグサグサと突き刺さる。
突き刺さる程に、ラディカは呼吸を荒々しくし、ムシャクシャして、髪の毛を更にグシャグシャ掻き乱した。
顔にひっかき傷を作り、唸り声を漏らして、ただでさえ痛ましかったラディカは、もっとメタクソになった。
それでも、シャトーは口を開き、本音を言う。
ラディカを、もっとメタクソにする。
…ここで、勘違いしないでほしいのだが、シャトーは別に、鬼ではない。
彼女は、今なお、様々な事情を“理知的に”解せる、人の気持ちに非常に敏感に反応する善人であった。
だから彼女は、只今のラディカの心痛を、一寸違わず理解し、自分のことのように共感していた。
彼女自身、こんなことを言うのは、辛くて、苦しくて、ラディカと同じように泣いてしまいそうだった。
しかし、シャトーは辛さも苦しみも抑え、涙腺を締め、話を続ける。
溜め込んでいた本音を、全てぶつけ続ける。
ラディカと、本当の意味で、分かり合えるように。
明日の二人が、笑顔でいられるように。
「…こんなにも嫌いな貴女に、私は、それでも、お仕えしなければならない義務があります」
「ただ、それは、大好きなお義父さんが私に託した意志でしかありません…」
「私が望んで受け入れた義務じゃないから…、本当は、嫌でしょうがないものだったから…」
「…正直、生き地獄だなって思ってました」
「…でも」
本音を言う。
「…今の私は、自分の意思で貴女の隣にいるんです」
ラディカの震えがピタッと止まった。
唐突な優しい言葉。
なんで?
嫌いじゃなかったの?
髪の毛をボサボサにして、切り傷と、涙と、鼻水で顔をグチャグチャにするラディカは、訳が分からないという顔をして、シャトーの方を向いた。
対して、穏やかな顔をするシャトーは、ラディカの方を向かなかった。
まだ、ちゃんと全部話せてないから。
素直な、裸の気持ちで向き合う準備が出来ていないから。
「…多分、ご自身ではお気づきになられてないと思いますけど、貴女には、誰にも負けない、凄く良いところがあるんですよ?」
「権力とか、美貌とか、そういうのじゃなくて…」
「…貴女は、屈託のない笑顔が可愛いんです」
「楽しそうに小説を読む時、好きなものを嬉しそうに話してる時、ホッと温まってる時、ゴロゴロとくつろいでいる時、気持ちいい風を全身で受けてる時…、あと、笑顔ではないけど、寂しくて、ワンワン泣きじゃくってる時、安心して眠りこけている時…」
「貴女は、誰よりも無垢で、無邪気で、可愛いんです」
ラディカは、唖然とした。
「なによ、それ…」
「…やっぱり、気づいてなかったんですね?」
「全く…、もったいないですねぇ?」
シャトーは、ラディカを横目で見つめながらクスクス笑った。
「本当の貴女は凄く可愛いんですよ?それこそ、悪女なんか目じゃないくらい…」
「…そういう素敵な貴女に、私は魅了されちゃったんです」
「あどけなく笑ったり、いたいけに泣いたりする、天真爛漫な貴女となら一緒に居たい。ずっと隣に仕えて、喜びも、悲しみも、全部共有したい」
「そう、本心で想うからこそ、私は貴女のことが大好きで、自分のことよりも気にかけてるんです」
「…決して、馬鹿にしたり、嗤ったりするためではありません」
「私は、ラディカ様のことが大好きですよ」
シャトーは、ラディカから目線を外した後、ふぅとため息をついた。
ただ、そのため息は、今までのようなラディカに辟易したから出たものではなく、ラディカに誠心誠意寄り添えた、自分の全てを伝えきれたが故の、満足のため息であった。
シャトーは、満面の笑みを浮かべた。
「私のことが大好き…、って」
気持ちが昂るラディカは、うずくまっていた四肢を解き、隣に座るシャトーの方に身体を向けた。
「私に付き従うのは嫌…、なのに…?」
「勘違いしないでください。私は、あくまで、”悪女ラディカ”な貴女が嫌いなんです」
「フラン家の長女の、偉そうな貴女が大嫌いなんです」
「悪女で…、フラン家の長女な私が嫌い…」
シャトーへの気持ちが段々と高まる。ラディカの手が、無意識に彼女の頬に触れた。
…先程に平手打ちした彼女の頬を、そっと撫でた。
「悪女じゃない…、フラン家の長女じゃない…、ただの私が大好きなの…?」
「私は、悪女で、フラン家の長女じゃないと、存在意義が無いのに…?」
「空っぽで、何の価値も無いのに…?」
ラディカは、シャトーの頬をむにゅっと押した。
それは、赤子の指が母に甘えるように柔らかであった。
「…くすぐったいですよ」
シャトーは、自分の頬をむにむにと押すラディカの手を軽く制した後、ラディカの目を見て言った。
「別に、命令されなくとも、私はちゃんと貴女を見てますよ」
「見て…くれるの…?」
「こんな私を…?」
「えぇ。そんなラディカ様が、本当に大好きですよ」
「…ふふっ」
シャトーは、頬を緩めずにはいられなかった。
だって、今のラディカは、飼い主の機嫌を伺う犬みたいにオロオロしていて、愛おしかったから。
「…犬役は、私の方ですよ?」
「…?どういうこと…?」
「ふふふっ…、さぁ、どういうことでしょう?」
「…?」
言葉の意味が分からず、不思議そうな顔で小首を傾げるラディカは、何よりも可愛かった。
シャトーの内に、希望が募り始めた。
「ラディカ様」
シャトーは、改めてラディカの目を見た。
真剣な眼差しで、しかし優しい眼差しで、ラディカの心の奥を見据えた。
「ありのままのラディカ様でいてください」
「貴女は、既に亡くなられたんですから。もう、しがらみも何もなくて、自由なんですから」
「フラン家の長女じゃなくても、悪女じゃなくても、もう、良いのですから」
シャトーは、ラディカの両手を取って伝えた。
見下さず、見上げもせず、同じ目線、同じ体温で伝えた。
「本当にいいの…?」
「私は、ラディカじゃなくて…」
「フラン家の長女じゃなくて…」
「悪女じゃなくてもいいの…?」
ラディカは自分の手を包むシャトーの手の一途な温もりが恥ずかしくて、もじもじしていた。
しかし、碧眼の視線は、間違いなく前方に見える希望へと向かっていた。
シャトーの方へと向かっていた。
そんな、ラディカの素直な様子が、シャトーの心を更に捉えた。
希望が、更に募った。
「いいんですよ」
「バラルダ公も仰ってたでしょう?悪女ラディカは死んだんです。今ココにいるのは、ただの女の子のラディカ様なんです」
「悪女は、復活しなかったんです。ただ、素っ裸のラディカ様だけが復活したんです」
「その証拠に、貴女は、ヨレたチュニックを着ているんです」
「堕ちた権威は、これから先、大したことのない生活しか送れないんです。地味で、貧乏で、輝きの無い日々しか過ごせない」
「…けど、貴女には私がいます。貴女は一人じゃありません。私と貴女で二人です」
「だから、どうか、勇気を持ってください」
「特別な存在じゃなくても、平々凡々でもいいんだって、そう信じてください」
「心のままに、自分に正直になってください」
そして、シャトーは微笑んで伝えた。
「だから、ラディカ様」
「家に帰りましょう?」
「大したことなくて、輝きは無いかもしれないけど、きっと幸せでいっぱいな小教会に」
「私たち、二人の家に」
シャトーの愛に、ラディカは惹き込まれた。
気づけば、ラディカはポロポロと涙をこぼしていた。
それは、自分が解放された事実から来る、透明で、甘い涙であった。
ラディカの身体は、動いた。
シャトーに前のめりになって、抱きつくためであった。
彼女の愛に、応えるためであった。
ラディカは膝立ちのまま、震える腕を、シャトーの背に回した。
一瞬、自分がこんなにも情けない、甘ったるいことをして本当に良いのか不安になって、シャトーの顔を確認した。
シャトーは変わらず、優しく微笑んでいた。自分の全てを受け入れてくれていた。
何より、ここは本当に二人きりだった。
誰の邪魔も入らない。
だから、ラディカは安心して、シャトーに身を預けようとした。
目一杯にシャトーの愛に飛び込もうとした。
…だが、次の瞬間、ぐぅ〜っと可愛らしいお腹の音が、二人の間に割って入った。
二人は、揃ってポカンとした。
「…あっ」
「ラディカ様…、お腹空いてる…」
シャトーは、この状況でお腹を鳴らせるラディカの呑気さが、可笑しくてしょうがなくなった。
彼女は、あははははと、口元を抑えて、いや、抑え切れずに、はしたなく開いた口を見せて、笑い泣いた。
「ふふっ!ははははは!はぁー、もう!」
「ラディカ様ー?こういうシリアスな時は、お腹を鳴らしちゃダメなんですよー?」
シャトーは、おずおずと後ずさって照れるラディカを見て、また堪え切れずにクスクスと笑った。
その後、彼女は足を正座に直して、背負っていたリュックを下ろして、ゴソゴソと中をまさぐった。
幸せな時間が流れている。
シャトーは完全に確信していた。
ようやくラディカと分かり合えて、“悪女と下僕”ではなく、単なる二人としての、幸せに向けた一歩を歩み始められたと確信していた。
希望の実現を確信していた。
「ラディカ様、はいこれ」
シャトーは、包み紙に包まれた一つを取り出した。
サンドイッチ。
シャトーが包み紙を開けると、それは、手の平より少し大きいくらいのボロボロバケットにポテトサラダが挟まっただけのへんてこりんなサンドイッチであった。
シャトーは、膝立ちのラディカに、正座の姿勢のまま、腕を伸ばしてサンドイッチを手渡した。
「ポテサラは奮発しました。ひまわり油、マスタード、ビネガー、それから、オリジナルソースをしっかりと和えて作った、サンドイッチ専用です」
「作った本人が言うのもなんですけど、すごく美味しいですよ。きっと、ラディカ様のお口にも合いますよ」
シャトーは、ニコッと微笑んだ。
ラディカは、改めてシャトーお手製のサンドイッチを、物珍しそうに見つめた。
…サンドイッチは食べたことある。
しかし、見目からして、匂いからして、シテやフランの禁裏で提供されていたものとは程遠い。
レタスも、ハムも卵も何もない。
あまりにも質素なもの。
じゃがいもだけの、あまりにも輝きのないもの。
ずっとリュックに入れっぱなしだったからか、形がべにょっと潰れている。
…でも、さり気なく防腐の魔術が施されていたから、具材は新鮮なまま。
ポテサラが大きくはみ出している。
…きっと、ラディカがお腹いっぱいになれるようにと具をたっぷり挟んでくれたから。
どこもかしこもぶきっちょ。
だからこそ、シャトーの想いがいっぱい詰まってることが分かる。
「(美味しそう…)」
はしたなく、たらっとよだれが垂れる。
「(…食べて、良いんだよね)」
サンドイッチに釘付けになる。
「(私はもう、ラディカじゃないんだから…)」
「(ただの、女の子なんだから…)」
ゆっくりと、小さく、口を開く。
「(私はもう、あの世界から逃げ出しても良いんだよね…)」
悪女じゃなくて良いんだよね…?
幸せになって良いんだよね…?
そして、サンドイッチを口いっぱいに頬張ろうとした。
『…本当に?』
…その時、ふと、ラディカの目に、サンドイッチを頬張ろうとしている自分を、嬉しそうに見つめるシャトーが映った。
…自分を見上げている彼女を目にした。
…同時に、自分が彼女を見下している状態にあることに気がついた。
他者を見下す。
『ラディカ』として、当然な、いつもの光景。
…しかし、手の内には、明らかに、『下民の花』がふんだんに加えられた食べ物が握られている。
『ラディカ』として、唾棄すべきブサイクが握られている。
「…!!」
ラディカの顔が、途端に歪んだ。
彼女の変化に反応したシャトーが、心配そうに首を傾げた。
シャトーが心配した。
シャトーが。
そう、シャトー。
シャトーに、“お義父さん”という行動原理があったように
ラディカには、“お母様”という行動原理があった。
自分の力では、死ぬ直前までどうすることも出来なかった、呪いのような束縛があった。
毒。
……
…
蹴り飛ばされたガーデンデッキを余所に、チェアに腰を掛けたお母様が、庭園を望みながら呟いた。
『朝食はフランメリカ産のフルーツに限るように、軽食のサンドイッチにはキュウリを挟むに限るの』
『微妙な部分よね。私だって、別にキュウリは好きじゃないし。でも、これじゃなきゃ女皇らしくないのよ』
庭園の真ん中で、給仕メイドの一人がお母様の近衛に斬首された。
彼女は「私の故郷の味なんです」と、ピーナッツバターを挟んだサンドイッチを嬉しそうに持ってきた新人だった。
『ねぇ、私の可愛いラディカ?』
近衛が持ってきた給仕メイドの生首、…顔が歪むほどに泣いて絶望したまま死後硬直した生首を眺めて、ほくそ笑んだお母様が言った。
『貴女もラディカなら、分かるわね?』
私は、少しでもピーナッツバターサンドのことを美味しそうと思った自分を恥じた。
…
……
五
…ゾクゾクした。
今に、光の射す方へ進む私に対し、『何をやってるの?』と、冷たい一言が飛んできた気がした。
私が、私じゃなくても愛してくれると言う下僕の温かさが、恐ろしい熱に感じられた。
悪女という、欠けてはならない偽りの自分を焼き尽くす熱。
ダメ。
これに触れてはダメ。
束縛から逃げて、自由になっちゃダメ
苦しみから解放されちゃダメ
お母様から、逃げちゃダメ
…だからこそ、“これ”を持ってちゃダメだと、私はそう、思ってしまった。
…気づけば、ラディカはサンドイッチを地面に投げつけていた。
地面に叩きつけられたサンドイッチは、中身が飛び散らせ、見るも無惨になった。
次第に地面の湿り気に侵食されて、食べ物からゴミに変わった。
蟻がたかるに相応しい、廃棄物。
もう食べられない、踏みにじられた想いしかない、悲しいもの。
「なん…」
「で…?」
シャトーは、ラディカが喉を詰まらせても大丈夫なように、水筒を構えている最中であった。
どこまでも、ラディカのことを気遣っている最中であった。
それなのに、ラディカは立ち上がって、彼女に、優しい彼女に、目を見開き、息を荒くして叫んだ。
「ふっ…ふざけないでくださる…!?こんな、こんな…、下民の残飯なんて…、私の口に合うわけがありませんわ…!!」
「私は『ラディカ』…!死ぬわけないわ…!だって、『ラディカ』なのよ…!?悪女の、『ラディカ』なの…!」
「そんなことも分からなかったの…!?馬鹿な下僕ね…!?次こそはちゃんと弁えて、跪いて、私に相応しい食事を用意しなさいよ…!この役立たず…!役立たずのゴミ…!無様なサンドイッチと同じくらいの、ゴミの下僕…!!」
「はぁ…、は…!はは…!さぁ…!自分の罪を理解したら…、謝罪しなさい…!!とりあえず全裸にでもなって…土下座して…、誠意を…!」
「はは…!ははは…!は…!は…」
「あ…」
…ラディカの空元気は、シャトーが黙って俯くと同時に止まった。
笑顔が失せ、欠片ほどの温かさもなくなったシャトー。
その有り様。
次の瞬間、ラディカはとてつもない焦燥に襲われた。
後悔が身体の底から沸き上がった。無責任などうしようもなさに溺れた。
そうやって自分に絶望するラディカを、シャトーは見向きもしなかった。
彼女は静かに、ゴミになったサンドイッチを摘み、見つめていた。
呟いた。
「こんな残飯でも、今の貴女には贅沢過ぎる食事でしたよ」
シャトーはサンドイッチをそっと地面に戻した後、手に持っていたラディカの分の水筒を、側の壁にブン投げた。
鉄と壁がぶつかる音がうるさく鳴り響いた。
蓋が空いていたので、中の水が全部辺りに飛び散った。
ラディカは怯えながらも、シャトーから目を離せなかった。
彼女は、シャトーが今にどんな顔をしているのか見たかった。
だって、今にシャトーを見下すラディカでは、彼女の顔なんて見えなくて、分からなかったから。
…悪女の時は、それで良かった。
他人の表情なんて、自分の不快に繋がらなければどうでも良かった。
でも、今は違う。
シャトーはぬらっと立ち上がり、修道服を無造作にパンパンと払った。
その後、彼女は黙々と召喚魔術を唱えた。
天位の召喚魔術。
詠唱後、空気の揺らめきと共に、頭が蛇の尻尾で、羽根つきの腕が4本付いていて、足が象のような、背丈5mくらいの巨大な怪物がラディカの背後に現れた。
「游赫(りゅうかく)、その方を連れて、先に家に帰っててください」
それだけを怪物に命令した後、リュックを拾い上げたシャトーはラディカの元から立ち去り始めた。
一歩、二歩、三歩、もっと、もっと。
早足に、路地裏の闇に消えていく。
「…あ」
「げぼく…」
「まって…」
「まって…、まって…、まって…!」
ラディカは、シャトーの方に手を伸ばした。
呼び止めようとした。
だが、その直後、シャトーの命令に従う怪物が剛腕で紳士的にラディカを抱き上げた。
「なに…?いやっ…!はなして…!」
ラディカは、怪物に必死に抵抗した。
抵抗により、ラディカのことを優しく抱かえていた怪物の腕は簡単に解かれた。彼女は怪物の腕と腹の間をスルリと抜けることが出来た。
ドテッと地面に落っこちたラディカは、すぐに立ち上がって、シャトーの方に駆け出した。
その際にできた膝や肘の打撲も、手の平の擦り傷も何も気にせずに、背後で命令遵守をしたい怪物が重々しく手を伸ばしても、彼女は当然振り切って、無我夢中でシャトーを追った。
ラディカは、この期に及んで気がついた。
自分が、どれだけシャトーを必要としているか。
彼女がいなければ、彼女がいなければ、ラディカという存在は生きることが出来ない、孤独に死んでしまう。
ラディカはもう、シテに帰るとか、悪女とか、どうでもよかった。
とにかく、ただひたすらにシャトーから離れたくなかった。
六
ラディカはすぐ目の前にシャトーを捉えた後、ホッとした。
呼び止めようと声をかけた。
だが、シャトーは追いかけてきたラディカのことを完全に無視した。声をかけられても、聞こえないふりをした。
やがてラディカは縮こまってしまい、トボトボと後ろを歩くしか出来なくなった。
怒っているであろう、シャトーの背を追って、テコテコと足を動かすラディカ。
その様子は、駄々を捏ねたけど無視されたから、寂しくなってお母さんを追う子供と例えるに相応し過ぎた。
「…なんで付いてくるんですか」
少しして、あまりにも憐れなラディカに呆れたシャトーは、耐え兼ねて尋ねた。
「だって…、貴方がそっちに行くから…」
ラディカは、置いてかないでとシャトーの袖に小さく手を伸ばしながら答えた。
しかし、シャトーはその手を払って言った。
「私は働きに出るんです。ここで働けなくなる前に、稼げるだけ稼ぐんです。ラディカ様が付いてきたって意味ないですよ」
「働く…?稼ぐ…?なっ、なんで…?一緒に家に帰るんじゃなかったの…?」
「二人で一緒に、ご飯食べて、お風呂入って、本を読んで、ゆっくりするんじゃなかったの…?」
「それなのに、なんで私一人だけを家に帰すの…?ねぇ…?ねぇってば…」
ラディカの弱々しい問いかけに、どうしても善人なシャトーは耐え切れなくなって立ち止まった。
内にある優しさが、どうしても非情になり切れなくさせる。
シャトーは、肩を震わせながら、やり切れない怒りを込めて言った。
「働かなきゃ、一文無しなんですよ…!!」
シャトーは『貴女のせいで』とは言わなかった。
それは、彼女に残る最後の情だった。
「…私がじゃがいもだけで大丈夫でも、貴女はそれじゃ嫌なんでしょう…!?もっと、自分に相応しいモノじゃなきゃ嫌だって言うんでしょう!?この期に及んで!ここまで来てもフラン家の長女で、悪女だから!!」
「…っ!ぁ…ちが…」
ラディカは「違う」と否定したかった。
さっきの衝動的な過ちを、自分じゃない、『悪女』のせいにして、シャトーに許してもらいたかった。
でも、出来なかった。
自分がラディカではないことは重々に分かってるのに、彼女はそれでも、悪女が惜しかった。
自分からお母様を切り離したくなかった。
「…離してください」
シャトーがそう言った。
ラディカは、無意識にシャトーの修道服の背を摘んでいた。
「…仕事の募集は、日が沈み切る前に始まるんです。今からだと急がなきゃ間に合わないんです」
「…それに、バラルダ公による私への警戒網がもうすぐ張られます。その前に、働けるだけ働かなきゃいけません」
「だから、離してください」
ラディカは首をふるふると横に振った。
修道服を手繰り寄せて、摘むのではなく、掴むに変えた。
必死に、シャトーを求めた。
「…この期に及んで」
「本当に…、貴女って人は…!!」
堪らなくなったシャトーは声を荒げた。
彼女は、修道服を掴むラディカの手を力任せに払って、振り返った。
「…!」
…ラディカが目にしたシャトーの顔には、確かに強い怒りや悲しみが混ざっていた。
だが、それはあくまで、彼女の一部に過ぎなかった。
その顔を構成するものは、何よりも絶望であった。
奪われた希望に対する、陰鬱さであった。
「こうやって私を追いかけるくらい、一人が嫌で寂しいのでしたら…、どうしてさっき、サンドイッチを食べなかったんですか…!!」
「どうして…、あそこまで来て、私ではなく『自分』を選んだんですか…!!」
夢見がち、善人、理知的、献身的、人の感情に敏感。
そんなシャトー故に、彼女が内に膨らませる他者への期待は大きい。
だからこそ、裏切られてしまえば、どん底へ簡単に真っ逆さま。
『ラディカ様と分かり合えるかもしれない』
『ラディカ様のことを、どうしようもなく大好きになれるかもしれない』
『ラディカ様と、共に笑い合えるようになるかもしれない』
…少し、自分勝手かもしれない。
勝手に希望を抱いて、勝手に絶望するなんて。
しかし、シャトーはこれまでの間、ずっとラディカに我慢してきた。
そして、尽くしてきた。
いつか変わってくれる、促せば変わってくれると、そう信じて。
そして、ついさっき、あと一歩のところで苦心と努力が報われようとしたのに、彼女は裏切られたのだ。
彼女のこれまでの全ての努力を、サンドイッチと共に無下にされたのだ。
たった一つの行動。
しかし、決定的な行動。
それが、シャトーの心をポキリと折ってしまった。
彼女はもう、立ち直れなかった。
「もう、貴女はずっと、『ラディカ様』のままでいればいいじゃないですか…!わがままで、自己中心的で、寄り添う人の気持ちなんて考えない…、悪女のままで…!」
「そうやって、ずっと一人で生きていけばいいじゃないですか…!!死んでも…!死んでないって言い張って…!孤独になったらいいんですよ…!!」
シャトーは、ボロボロに涙を流しながら訴えた。
ラディカのことなんか気にせずに、無茶苦茶になって自分の絶望をぶつけまくった。
「…私は私で、貴女の面倒を見る責務は全うします。…貴女の下僕として、貴女がどれほど酷い人であろうとも、それだけは必ず全うします。それは、貴女がどうとか関係なく、お義父さんの望むところだから…」
「だから…、それだけはちゃんとするから…」
「お願いですから、もう、私のことを求めないでください…」
「子どもみたいに甘えたり、無邪気な姿を見せたりして、私に変な希望を見せないでください…」
「『ラディカ様は、きっと素敵な人だ』なんて、自分に言い聞かせて、そのために自分の気持ちをどこまでも押し殺して、貴女に必死に寄り添おうとするのは…」
「辛くて…苦しくて…、もう嫌なんですよ…!」
かすれ切った声でそう呟いた後、シャトーはただ、ぐずるだけになった。
彼女はもう、自分の想いだけになってしまって、ラディカのことなんて何も気にかけていなかった。
そんなシャトーを相手に、ラディカはどうすればいいか分からなかった。
彼女には、人と対等に接した機会が殆ど無く、故に、経験値が余りにも足りなかった。
だから、彼女は何をすればシャトーへの裏切りを償えるのか、検討もつかなかった。
…ここで、ラディカは、シャトーと同じように本心を伝えれば良かった。
先ほどのシャトーが選び取ったように、それは最良の接し方で、人間関係の究極なのだから。
それに、思慮深いシャトーなら、今に絶望の対象になったラディカが相手でも、誠心誠意謝罪され、その上でお母様とのしがらみを包み隠さず打ち明かされたのならば、先の誤った行動について理解を示してくれたに違いない。
どころか、温情深い彼女なら、それをキッカケに、より深くラディカに同情しラディカへの想いを確固たるものにしてくれたに違いない。
絆は、深まったかもしれない。
だが、あまりにも未熟過ぎるラディカは、そういう問題の根本的な解決策について、全く思案が巡らなかった。
先に、シャトーにされて嬉しかったことが、ラディカには出来なかった。
もう19歳にもなるラディカは、子どものように感情的で、単調で、複雑さに心底弱い人間であった。
だから、今の彼女の頭の中には、ただひたすらに「ごめんなさい。許して」「寂しい」「だから、一人にしないで」という、問題の塗り薬にもならない、表層的で、自己中心的な願望だけが渦巻いていた。
ラディカは、…まだ幼い、人間関係を前に進めるすべを知らない彼女は、この度も、何も熟慮もなくその願望を伝えようとした。
シャトーに問題の解決を全て丸投げするような、彼女を困惑させるだけのわがままを、この期に及んで伝えようとした。
まだ、少女のようで、ただの女の子でしかない、振る舞いをしようとした。
…だが、その瞬間、ラディカの視線は、俯いて泣きじゃくるシャトーの方から、彼女の背後に変わった。
シャトーもまた、自分とラディカの二人を、家屋ではない、何か別の影が覆っていることに気がついて、顔を上げた。
直後、二人の脳天に、鈍い衝撃が響いた。
バタリと倒れた二人の頭上には、彼女ら獲物を見下す暴漢が二人、いた。
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【人物紹介】
『ラディカ』
サンドイッチは普通に好物。
『シャトー』
出されたものは何があっても完食する。
【説明し忘れたこと】
…超絶ウルトラスーパーレイト情報ですけど、フラン・ガロ王国(今現在の作中舞台)では、入浴は一般的です。気候がかなり寒冷なのと、魔術のおかげでインフラの充実を待たずに済むことが理由です。同時代に糞尿の処理もマトモに出来なかった元ネタとは違うんですねぇ!
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