1 (7) 『悪女ラディカは死んだ』
一
どこかへ行ってしまったラディカを探しに詰所から出たシャトーの前に現れたのは、当然の帰結とも言えるアクシデントであった。
「…!えっ…!?」
詰所の扉から外に飛び出そうとした時、一瞬だけ外の様子を目にした彼女は慌てて扉を閉め、身を隠した。
そして、彼女は扉の隙間からそーっと外の様子を再確認した。
やはり、そこには戦闘態勢の魔術師たちが溢れかえっていた。
…自分が魔術師であることが第三者にバレる理由とは、目の前で魔術を使うか(当たり前)、魔術師に自身の魔力を感知されてしまったかの二つに一つであった。
(魔術師は、一般ピーポーと違い、魔力を目視することができたよー、…先に言えや)
魔術師に自身の魔力を感知されてしまう要因は、大きく分けて二つあった。
一つ目の要因は、体内からの魔力漏れ。
魔術を行使するための必須要素、魔力。それは“往々にして”魔術師の体内にて自然生成されるのだが、一方で体内の魔力貯蔵には限度があった。魔力の生成を止めることは死ぬ以外不可能だった。だから、体内からの魔力漏れとは必然であった。
高位魔術師で体内の魔力量比の15%、超位魔術師で5%の魔力が否応なしに体外に漏れ出さざるを得なかった。
しかし、例外中の例外であるシャトーは、漏れ出る魔力を完全に0に出来た。何故なら彼女は、異常なことに無尽蔵に魔力を貯蔵できた。
だから、これに関しては、シャトーは全く問題無かった。
今回の場合、もう一つの要因が問題であった。
もう一つの要因、それは、魔術を使用した際に否が応でも発生する、体内から体外への魔力の放出であった。
(魔術は、対象の物質や空間に、適切な形の魔力を射出することで実現する“自然の歪み”のことだよー、…だからこういうのは先に言えや)
…ただし、自身の身体を対象にした魔術(身体強化の変性魔術とか)であれば、魔力の流れが体内で完結するため、体外へ魔力が漏れることは無い。
問題は、体外を対象にした魔術、たとえば、…何もなかった空間に透明のマジックハンドを発現させるとか。
空玖手は高位魔術であった。
突然の高位魔術なんて、魔術師からすれば銃声を耳にしたようなものだった。
そして、中央広場の周辺にはバラルダ公領の長、バラルダ公の邸宅をはじめとした重要な施設が揃っていた。
だからこそ、バラルダ公領が誇る優秀な守護の魔術師たち、そして王立軍の精鋭魔術師たちは、血眼になって原因の魔術師を探していた。
…そんな中、ラディカは中央広場のど真ん中にある噴水の縁にちょんと座っていた。
シャトーは頭を抱えた。
というのも、シスターといえば、少なくとも低位の回復魔術は扱える魔術師と世の中で相場が決まっていた。
加えて、『破戒のシスター』としてアメリー中で嫌われるシャトーは、一方で中央広場周辺を守護する魔術師たちから「実は相当優秀な魔術師なんじゃないか?」と噂されていた。
(噂どころか、実際に魔術師たちに囲まれて「お前、試しに魔術を使ってみろよ」とすごまれたことさえあった)
…そんな、嫌疑がいくらでもかけられそうな人間が、今の中央広場にのこのこ出ていくなんて余りにも阿呆過ぎる。
「ス、スリットスカートの修道服なんて卑猥だからシスターに見えないよね…、いや…、ヴェール被ってる時点でシスターに見えちゃうか…」
「なら服だけ幻影魔術で…、い、いや、それだと体外に魔力が出ちゃって意味ないし…」
「た、体内から自分の容姿に幻影を…、いやいや、そうしたらラディカ様に認識してもらえなくなる…」
そうやって、如何に波風立てずに事態を潜り抜ける方法を、…つまり、自分を守る方法を考えている内に、シャトーは段々、自分のことが醜く思えてきた。
「なんか…」
彼女は、先ほどに怒りに任せてご主人様を平手で叩いてしまったことと合わせて、落ち込んだ。
「自分の事ばっかりだな、私…」
結局、シャトーは堂々と中央広場に飛び出すことにした。
案の定、中央広場を護るバラルダ公領の魔術師たちは彼女の姿を見た瞬間、目の色を変えた。
王立軍の精鋭魔術師たちも、シスター姿の彼女を怪しんだ。
バラルダ公領の魔術師たちの一人が、噴水の前に向かう彼女の肩を背後から叩こうとした。
「…」
しかし、最終的に、彼女は見逃された。
彼女は、衝動的な感情でいっぱいだったが、だからって完全に無策で飛び出すバカではなかった。
彼女は“わざと”体内から魔力を漏らしていた。
ただし、ほんの僅か、彼女が有する莫大な魔力量を基準にしたら、水滴一滴にすら満たないほどに僅かだけ。
…逆に、低位魔術師を基準にしたら、「コイツ、魔力の貯蔵が全然出来ていない。カス同然だな」と思われるほど多い量の魔力を。
そうして、彼女は、“まだまだ未熟な低位魔術師”に成り切った。
おかげで、バラルダ公領の魔術師たちは噂とは乖離する彼女の弱っちさに訝しむことを止めたし、王立軍の精鋭魔術師たちは一瞬こそ怪しんだが、彼女から漏れ出る魔力量を見た途端、ゴミを見る目で舌打ちをした。
シャトーはやりおおせた。
そうして、無事にラディカの前に立った時、それでも、やけに周りがヒソヒソしているような気がしたけど、シャトーは気にしないことにした。
気にするのは、大切な人のことだけと、そう決めた。
二
「あのっ…!」
…その呼びかけの後に、謝罪を置くか、何を置くか、シャトーは何も考えていなかった。
彼女はただ、ラディカに想いをぶつけたくて、だから呼んだ。
…返事は無かった。ラディカはただ、うつらうつらした表情で、現実と悪夢の間を行き来していた。
「ラディカ様…」
「私は…、その…」
ぽつぽつと、シャトーの口から言葉が出る。
「…やっぱり、先ほどの無礼を謝罪することは出来ません」
「だって、あれはどう考えてもラディカ様が悪いから…、その事実に変わりはありませんから…」
「そろそろ分かったでしょう…?貴女はもう…、悪女じゃいられないんです…」
シャトーの左目がじんわりと熱くなった。でも、右目はまだ現実を捉えていた。
だから、彼女はまだまだ、ラディカにとっては残酷過ぎる言葉を伝えようとした。伝えなきゃダメだと思った。
だが、彼女が次の言葉を口にしようとしたその瞬間、ラディカは静かに座っている姿勢からひっくり返り、噴水の水たまりに落ちた。
吸い込まれるようにして落ちた。周囲がギョッとして噴水の方を向いた。シャトーは急いで彼女を引っ張り上げた。
身体強化の変性魔術は、まだ効いていた。おかげで、彼女の細枝のような腕だけでも大柄のラディカを引っ張り上げることが出来たが、一方で周囲の興味を強く集めてしまった。特に、先ほどの魔術師たちは彼女への嫌疑の念を再燃させてしまった。
中央広場の誰もが彼女たち二人に注目した。
しかし、シャトーの目には、ずぶ濡れになってしまった、あまりにも可哀想なラディカしか見えなかった。
そんなラディカが、小さく口を開いた。
「…でも」
「でも、貴方は助けてくれるじゃない…」
「それは…、私のことが怖いからでしょ…?権威に…、畏怖してるからでしょ…?」
ラディカの表面的な表情は絶望であった。顔色が悪くて、目が重そうだった。
しかし、その奥には下僕がちゃんと下僕でいてくれることへの安心が見えた。
「畏怖なんてしてませんよ…」
「嘘、嘘よ、そんなの…。貴方の目には、私はちゃんと悪女に見えてるんでしょ…?だから、さっき私を謝らせたことを“謝ってくれて”、今だって、私に寄り添ってくれるんでしょ…?」
「えっ…?」
ラディカの前髪からポタポタと水滴が落ちる。眉毛では御しきれない水分がまつげに溜まり、ラディカの目が反射的に閉じる。
「謝ってなんかいません、けど…」
「ううん、そんなことない…。貴方は謝ってくれている…。心の中で、心の底から、私に見捨てられたくないって訴えてくれている…」
「ふふっ…、本当、可愛い下僕ね…。大丈夫、私は絶対、貴方のことを見捨てなんかしないわ…?」
嬉しそうにそう言って、ゆっくりとシャトーを抱擁するラディカ。肌に張り付いた服は彼女の身体のシルエットをハッキリ浮かび上がらせていて、彼女はまるで裸のよう。
冷たい湿り気がシャトーの修道服に、そして肌に浸透した。
…気味が悪かった。
シャトーは咄嗟に「嫌っ…!」と言って、ラディカを振りほどいてしまった。
彼女は、腕を広げたままポカンとするラディカに向かって叫んだ。
「何を…、何を訳の分からないことを言ってるんですか…!」
「何であっさり私を許してるんですか…!?違うでしょう…!?私たちには意見の相違があって、すれ違いと、分かり合えないところがあって…」
「だから、話し合うんじゃないんですか…!?寄り添い合えるように、分かり合えるように、もっと健全で、安全な関係になるために…!」
…『主従関係はある。しかし、ラディカ様はもう、悪女ではいられない』
それが、シャトーがぶつけたい意見であり、想いの真意であった。
話し合いの中で、彼女はてっきり、それに対する反論が来るものだと思っていた。
そういう、合理的かつ建設的なラリーの後、妥当性のある着地点に二人で一緒に降りるものだと思っていた。
だが、ラディカは真逆であった。
彼女の中にあるのはいたって非合理。
『お母様』という名の非合理。
それが心の内にある限り、私はずっと『悪女ラディカ』だし、目の前のシスターは『下僕』。
その一点だけは決して変わらない。それを変えなきゃいけないというのなら、むしろ、変えようとしてくる事実の方が変わるべきだ。
だから
「…貴方が言ってることがよく分からないわ」
「私たちにすれ違いなんて無いわよ…?だって、貴方と私は二人で一つって、ちゃんと『契約』したから…」
「…ッ!だから…!その契約は私たち二人の間だけのことで…!だって、貴女が奪ったのは私の左目だけで…!」
…百歩譲って、自分の前だけで『悪女ラディカ』の“フリ”をされるのは構わない。…いや、本当はそれすら嫌になりつつあるけど。
でも、自分以外の前で悪女をされるのは絶対に間違っている。
この人は、まだそれが分かっていないのか?多くの人に迷惑をかけて、牢に閉じ込められすらしたというのに、反省の一つすらしていないのか?
呆れるほどに怒りが沸いてくる。視界が歪んで、口と手足が飛んでいきそうになる。
…そんな中、ラディカが良いことを思い出したかのようにこんなことを言ったものだから、シャトーの感情は怒りを飛び越えた。
「あ…!それでね…?私、貴方に聞こうと思ってましたの…!」
「その…、ね…?貴方が使える魔術の中で一番派手なものは何なのかなって…」
「は…?何ですか…、その質問は…」
「いや、だって、さっき決めたじゃない…?」
「この街は無礼だから、貴方の魔術で吹き飛ばすって…」
…おかしいのは、私の方なのかもしれない。
だって、私は取引をして、身も心も全てをラディカ様に捧げたんだから
あの方の言うことを聞かない方が変なのかもしれない。出来ないことを出来るっていうのは良くないけど、少なくとも、魔術でアメリー一つを消し飛ばすことくらいなら、私は『簡単に出来る』。
でも、それでも、どうしても、私はラディカ様と一緒におかしくなっていくことが『おかしくて』しょうがない。
ラディカ様のために死を選んだお義父さんが『おかしくて』しょうがない。
私は、こんなもののために自分を失いたくない。
今は、右目が大事に思えてしょうがない。
三
緊張が途切れたというか、意識が飛びそうになったというか。
いずれにしても、シャトーはあまりにも荒れ狂う感情の波に耐え切れなくなって、へなへなとその場にへたり込んでしまった。
「どっ…、どうしたの…!大丈夫…?」
ラディカは、一丁前にシャトーを心配した。彼女はへたり込むシャトーの両肩を掴んで、「しっかりして」と軽く揺さぶった。
ラディカと上手くやっていく自信が無くなったどころじゃない。
ラディカと付き合うなんてもう無理だと、シャトーはそんな諦念の寸前まで差し迫っていた。
…やっぱり小教会から外に出たことは間違いだった。
あの二人だけの世界なら、笑って、泣いて、すれ違いながらも二人で寄り添い合えた。
…『常識』とか『正常』とか、そういう堅苦しいことを考えないで、おかしいこともおかしいままに、まどろみの中に溺れていられた。
でも、あそこから外に出てしまったせいで、アメリーに、現実に足を踏み入れてしまったせいで、
私は、ラディカ様の『悪女ラディカ』な部分が受け入れられなくなってしまった。
おかしな関係が正されなければ、私たちに未来は無いと思えてしまった。
「…もしかして、失敗することが不安なの…?そうよね…、魔術で街を消し飛ばすなんて、経験ないでしょうしね…」
「大丈夫…、大丈夫ですわ…。貴方は何があろうとも私の下僕…。ちょっとやそっと失敗したくらいで、貴方を見放したりしませんわ…?」
そう言って、ラディカはシャトーをギュッと抱きしめた。頭を優しく撫でた。
「それにしても…、ふふっ。凄腕の魔術師の貴方でも、やっぱり不安な時は不安なのね…?」
「嬉しい…、そうやって、弱い部分を見せてくれること…。なんだか、貴方ともっと繋がれた気がする…」
「…でも、わがままだけど、貴方には精一杯頑張ってもらいたいから、だから…」
だから、これは勇気が出るおまじない。
そして、ラディカはシャトーの短い前髪をかき上げて、目一杯の愛情で、おでこにキスをした。
彼女は陶然とした表情をしながら唇をゆっくり離した後、少し恥ずかしそうに笑った。
そんなラディカが、シャトーにはもう、受け入れられなかった。
四
シャトーは若干の湿り気が気持ち悪い頬を拭って言った。
「…帰りますよ」
「え…?」
「小教会に帰りますよ。バカなことをほざくのは、帰り道にでもしてください」
「…バカって何よ。っていうか、え?貴方のお家に帰るの?シテに帰るんでしょ?」
立ち上がり、淡々と修道服のスカートを払うシャトーを、ラディカは見上げて尋ねた。
シャトーはシニカルに笑った。
「はっ?何で?」
「な、何でって…、お母様の元に帰るためでしょ…?」
「お母様?ファンド女皇のことですか?」
「うん…、お母様の元に帰って…。三人でお茶して…」
「貴方のこと…、ちゃんと紹介したい…」
ラディカは今まで無いほど冷たいシャトーに若干怯えつつも、信頼感をもってもじもじと答えた。
下僕は、ちゃんと下僕であるはず。
だが、そうやって安心してイカれる彼女をシャトーは冷たく切り捨てた。
「貴女の『お母様』は、もうとっくに死んだのに?」
…それは、二人の間では嘘ということで片づけた事実。
「は…、は…?あ、貴方…、またそんなバカな嘘で私を弄ぶの…?」
動揺するラディカ。シャトーがあまりにも呆気なく言い放つものだから、一瞬、嘘を事実だと誤認しそうになった。
でも、まだ信じない。そんな事実、あるわけがない。嘘、嘘、嘘。
…しかし、そんなラディカの眼前にいるシャトーは、依然冷たく…。
「フラン・シテ自由労働新聞」
「へ…?」
「…私の部屋の、机の引き出しにあるフラン・シテ自由労働新聞の号外に、処刑時の写真が掲載されています」
「そこに、貴女の遺体はもちろん、貴女のお父様とお母様の首なし遺体も鮮明に写っています。…本当はあんな残酷なものを貴女に見せたくなかったのですが」
「…それでも信じられないようでしたら、墓を掘り起こします。防腐の変性魔術をかけた遺体ですから、首の断面図だって生々しくご覧いただけますよ」
グロデスクな話に顔を真っ青にしているラディカに、シャトーは止めを刺すかの如く言った。
「貴女は、死んだんですよ」
ラディカは、すぐには反論の言葉を口に出来なかった。あまりにも端的に、残酷に死を告げるシャトーの、どこを否定すれば良いのか分からなかった。
…否定なんてしようがなかった。
だって、ラディカはこの期に及んで、ようやく考えが至ったのだから。
「あれ…?」
「なんで、お母様のお墓が建てられていたの…?」
「なんで…、私は貴方の元で目が覚めたの…?」
「なんで…」
ラディカは、自分とシャトーの周りに群がる民衆を恐る恐る見回して言った。
「誰も…、私に恐怖していないの…?」
…これも嘘と言うには、あまりにも無理やり過ぎる。
「まぁ…」
尤も、ラディカ様が『ラディカ様』だと思われていないのは、私の幻影魔術のせいですけどね。
シャトーはそう付け加えようとしたが、これは言わずに飲み込んでしまうことにした。
代わりに、彼女は告げた。
「私に迷惑がかかるだけなら、いくらでも『悪女ラディカごっこ』に付き合いますよ」
「…もういいじゃないですか。私の前だけでも、ラディカ様が『ラディカ様』でいられるなんて、現状を鑑みれば、充分贅沢ですよ」
「そろそろ、自分の立場を理解してください」
それだけ、最後に告げた。それ以上、シャトーは何も言わなかった。
それ以上はもう、黙ってラディカを見つめるだけだった。
ラディカは、そんな彼女が怖かった。
現実から逃げようとする自分を助けようとしてくれない彼女が、怖くて、怖くて、潰れてしまいそうになった。
「なによ…」
「なんで、何も言わないのよ…」
「ねぇ…」
「ねぇ…!なんとか言ってよ…!ねぇ…!ねぇ…!」
「ねぇ…!ねぇってば…!」
耐え切れなくなったラディカは、這ってシャトーにすがった。
彼女は主人の立場であるはずなのに、当の下僕の足元にひざまずいた。
そして、彼女は、下僕の腰元に抱きついて、みっともなく、必死に、命令遵守を懇願した。
「ねぇ…、私の命令を聞いてよ…!」
「破壊してよ…!こんな街…、貴方の魔術で全部ぶち壊して、誰も彼もを皆殺しにしてよ…!」
「私が私じゃなくなる世界なんて、この世から消し去ってよ…!」
しかし、シャトーは何も言わない。何も答えない。
だから、ラディカは無抵抗に現実に捕食される。
「なんで、返事もしてくれないの…?」
「私のこと、ラディカ様って呼んでくれないの…?」
「…もしかして、貴方にも私が『ラディカ』に見えていなかったの…?」
沈黙は肯定。
たとえ、それが事実でなくても、懇願する者に対する無がどれほどまでに絶大かは、考えるまでもないだろう?
「やだ…、やだ…、やだ…!」
「お願い…、お願いだから…!消し去ってよ…!この街を全部消し去って、私が悪女ラディカだってことを証明してよ…!!」
「お願い…、だから…!!!」
「私が私じゃない世界なんて!!全部ぶっ壊してよ!!!!」
喉が壊れるほど叫んだラディカのあがきは、完全に彼女を見捨てたシャトーにより、間もなく無駄に終わる。
そうしてラディカは沼のような絶望に陥る。
そう思ったその時、
「…悪女ラディカか…!?」
ラディカからしたら希望の光とも言える一声が、二人の間に入り込んできた。
声の先には、あからさまに優秀そうな魔術師と鎧兵二人を引き連れた、一人の老人がいた。
「…バラルダ公!?」
民衆の誰かがそう言った。
この、長い髭と煌びやかな服飾が明らかに高貴な、杖を携えた老人は、確かにこの街や小教会が属する地の長である上級貴族、バラルダ公であった。
「バラルダ…、公…?」
切羽詰まった末に希望を見つけたラディカは、蜘蛛の糸を掴むように彼の方に振り向いた。
同時に、少しずつ壊れた笑顔を浮かべていった。
だが、その先には空虚どころではない、恐るべき地獄の窯の底が待っていた。
五
「えぇ…、公の目にも、やはりそう映りますか…。物凄く『そっくり』でしょう…?あの“銀髪女”…」
バラルダ公お付きの魔術師が、ラディカを指差してバラルダ公に囁いた。
「うむ…、確かにアレは誰が見ても驚くな…。なるほど、我が民が混乱するわけだ…」
バラルダ公はギロリとラディカを睨んだ。
一方で、ラディカは『呼ばれるべき名』で呼ばれたことに喜んでいた。
「バラルダ公…、バラルダ公…、…あっ!思い出した…!貴方、昔、お祖父様に謁見しに来た奴ね!?」
無礼な物言いに、お付きの二人がムッとした。バラルダ公は、彼らを制しつつ答えた。
「…バラルダ公領とフラン家の関係は公式のモノではないはずだがな。なぜ、お前が謁見の事実を知っている?」
その反応に、ラディカはパアッと表情を明るくした。
だが、バラルダ公は彼女の期待通りには動かなかった。
「尤も、そんなことは今に問題ではない。たとえ、お前がその過去を知っているとして、この現在にどう関係あると言うのだ?」
問いに対し、ラディカは若干困惑しつつも答えた。
「ほ、ほら…!だから、そんなことを知ってる私…!この私…!誰だか分からないの…?」
「はぁ…、お前が誰か、か…」
そう呟きながら頭を抱えるバラルダ公に、期待の目でうんうん頷きながら問いの答えを待つラディカ。
そんな二人を交互に見て、シャトーは焦燥を止められなかった。
「(そうだ…、今までラディカ様のことで頭がいっぱいで気がつかなかった…)」
「(なんで…、ここにいる誰もがラディカ様を『銀髪の女』だと認識出来ているんだ…!?)」
…アメリーに入る前に彼女がラディカにかけた幻影魔術は、尸位、つまり、魔族の魔術であった。
効果は術者が解除しない限り永続。超位の対抗魔術程度では看破は不可能。それなのに、
「(まさか、これも『祝福』の力…!?魔術による自然の改変を上回るの…!?)」
…いや、考えるべきはそこじゃない。
目の前にある危機に比べたら、祝福の奇跡なんて取るに足りない。
「(これ…、不味いんじゃないか…!?)」
「(もし、バラルダ公が『さっきの私と同じようなこと』をラディカ様にぶつけたら、ただでさえ私の言葉で傷ついていたラディカ様は、もう立ち直れなくなるんじゃないか…!?)」
シャトーは慌てて口を開こうとした。しかし、それは試みに終わった。
彼女の合理性は、残酷にも、現状がラディカの狂気を矯正をする絶好の機会であることを理解していた。
内と外からラディカのプライドをズタズタにヘシ折り、打ちのめし、そうして彼女を『ただの女の子』に戻す。
「(…ごめんなさい、ラディカ様…)」
結局、シャトーはラディカを見守ることにした。
静かに、口を閉じて、気配を消して。
…ただし、自分の胸の前で両手指を軽く組んで、非常時にいつでも『対処』が出来るようにして。
…ラディカは、もっと光が欲しいとフラフラと歩み、バラルダ公に近づこうとした。
しかし、彼まで1mほどの距離に近づいたところで、彼女は立ちはだかる鎧兵二人が振りかざした槍に行く手を阻まれた。
それでも、彼女は柵のように自分を阻む槍の一本を掴んで、身を乗り出してバラルダ公に問うた。
「ね…?呼んでみなさいよ…。私の名を、私の存在を…!」
「『悪女ラディカ』って…!!」
「悪女ラディカ…、か…」
ただの復唱。しかし、その瑞々しい言葉はラディカを嬉しくさせる。
彼女の脳は、また不合理に動こうとした。
『きっと、周囲のゴミ共は高貴さの欠片も無い愚民共だから私の凄さに気づかなかっただけなんだ。分かる人には分かるんだ』
そんな都合の良すぎる理屈を並べようとしていた。
しかし、バラルダ公は軽く咳払いをした後、至って冷静な態度で返答した。
「…悪女ラディカは知っているが、他人の空似であるお前のことは知らん」
「私はただ、我が領地、それも中央広場で騒ぎを起こすお前らという問題を除去したいだけだ。…お前の隣にいる『破戒のシスター』は知っている。だが、お前は初めて見る。誰だ?」
「初めて…、誰って…、へ…?」
言葉。違和感。話が噛み合わない。
話、というより、噛み合ってないのは現実と彼女の妄想なのだが。
「私は…、ラディカですわよ…?貴方だってそう呼んでくれているじゃない…。私のこと、ラディカだって…」
ラディカは自分を指さして、バラルダ公に確認した。
「…?馬鹿な勘違いをするな。私は、お前がアレによく似ていると言っているのだ」
「似てる…?違う、違いますわよ…?似てるんじゃくて、私は正真正銘の本物ですわ…?ラディカは、生まれながらのラディカで…、フラン家の長女で…、お母様はファンドってお名前で…、お祖父様は…」
ラディカは、なんとかしてバラルダ公に自分の妄想が正しいことを肯定してもらいたかった。
だから、彼女は、懸命にラディカの身のうちを話し始めた。
また、彼女は長い銀髪をかき上げたり、潤んだ碧眼をパチパチさせたり、豊満な胸に手を当たり、スカートを少したくし上げ、艶めかしい脚を軽く覗かせたりと、とにかく必死に自分がラディカであることを全身でアピールした。
…だが、その不審な挙動は、逆に、バラルダ公の訝しみを確信へと連れて行った。
「…あぁ、そういうことか。なるほどな」
事情を理解したバラルダ公は、周囲の人々と顔を見合わせた後、呆れて失笑した。
「いつもジーヴルと共に妄言を流布していた『破戒のシスター』を見かけた時から、もしかしてとは思ったが…。なるほど、本当にきな臭い面倒事だ…」
バラルダ公は、アメリーの長年の厄介者であるシャトーをジロリと睨んだ。シャトーは咄嗟に目を逸らした。
「見目は幻影魔術か何か、知恵や、その性格と態度は…まぁ、この哀れな女が『破戒のシスター』に洗脳されて祭り上げられたのか、それとも天然の気狂いなのかは、この際どうだって良いか。問題は、我が民を惑わす騒ぎの解決なんだからな…」
失笑をしていたバラルダ公は咳払いをした後、すぅと息を吸った。
そして、容赦なくラディカに吐き捨てた。
「悪女ラディカは死んだ」
「悪女ラディカは、四ヶ月ほど前の晩春に、シテの大広場で公開処刑された」
「…はっ?」
ラディカは固まった。目を白黒させた。
「それは…、下僕がついた嘘じゃ…?」
「皆が知る事実だ」
「…でも、私は生きてる…。生きてるよ…?」
「過去は覆らん」
「悪女ラディカは死に、栄光ある最高位貴族から、蛆まみれの死に体に没落した」
「そ…、それも嘘よ…!嘘…、嘘…!嘘…!」
「なら、今の現状はどう説明する?」
「どうって…!どうって…?」
「どう…」
…本当に不合理に堕ち、狂えるだけ狂いたいというのなら、ラディカこそ目玉を抉り取った方が良かったかもしれない。
なにせ、両の碧の目は現実をありありと映してしまっていた。
バラルダ公に対峙する“奇人”を面白そうな目で野次馬する下民たち。
自分をラディカだと言い張る狂人を見て、彼女を侮蔑する民衆たち。
全て現実。
ラディカは、歯をガチガチと震わせ始めた。
視点が合わなくなり、まるでモルヒネ中毒者の離脱症状のようになった。
そんな彼女を、バラルダ公は追撃するように鼻で嗤った。
「…しかし、よりにもよって、民衆の敵である悪女ラディカなんかになりきろうだなんて滑稽この上ない。狂人の考えることは、つくづく分からんもんだ…」
「まぁ…、何を企んでいたかは知らんが、今、それすら失敗に終わるのだ」
「…憐れな。お前は本当に無様だな」
「お前はラディカでも何でもない。単なる気狂いだ」
その一言の後、民衆らは揃って冷笑を始めた。
クスクスと、限界寸前のラディカを指差して、おかしな奴だと嘲笑った。
同時に、民衆は、ラディカを完膚なきまでに叩きのめしたバラルダ公へ盛大な拍手を送りだした。熱狂的な数人は「バラルダ公万歳!」と彼を讃え始めた。
ラディカが欲しがっていた権威者への反応が、バラルダ公の方に集中した。
自分に向けられていない、自分には関係ない音圧。
ラディカという惨めな存在は押し潰されようとした。
明瞭にそこに在る現実が、彼女をズタズタに殺そうとした。
…だが、そんな現実に、辛抱が出来ない性分のラディカがじっとしていられないのは自明の理であった。
「そんなの…」
「そんなの嘘よ…!」
「嘘よ…!嘘、嘘、嘘よ…!!!」
「…っあああああああああア!!!!」
ラディカは発狂と同時に、呑気に彼女を嘲笑って油断していた鎧兵2人を押しのけて、バラルダ公に襲いかかった。
「…!!中位変性!縛板そ…」
咄嗟に、お付きの魔術師がラディカの前に立ちはだかり、十字を切って魔術を唱えようとした。
しかし、彼もまた油断していたので、詠唱はラディカの猛進に間に合わなかった。彼はラディカに肩を掴まれ、勢いよく横に退けられた。
バラルダ公はがら空きになった。
ラディカの拳が、彼の顔面を捉えようとした。
…唯一、ラディカのことを本心から慮るシャトーだけが、ラディカの発狂に即座に対応し、適切な魔術を事態に提供することが出来た。
六
「«超位 変性魔術 現霧楼(げんむろう)»!!」
『両手指を軽く組んだまま、腕を前に突き出す』
魔術詠唱のための動作。
≪現霧楼≫は、『対象における特定の物質に対する干渉効を完全に失わせる魔術』。
この場合の“対象”はラディカ。
“特定の物質”はバラルダ公。
そのため、≪現霧楼≫を受けたラディカの拳…、いや、全身は、まるで霧のようにバラルダ公を通り過ぎていった。
そうして、ラディカは何にも勝つことが出来なかった。
彼女の現実に対する最後の抵抗は、ただ、勢い余って地面に転ぶだけに終わった。
どこまでも無様なラディカは、転んだ痛みに縮こまり、現実を追い払うことが出来なかった自分の拳を抱き、弱々しく泣くしか出来なかった。
…一方、そんな哀れなラディカに対し、周囲は全く関心を示さなかった。
周囲…、特に魔術師たちの視線は、しょうもない気狂いのラディカの方ではなく、只今に魔術詠唱の動作を解き、立ち尽くす異質なシスターの方に集まっていた。
「なんだ…?何が起こった…!?魔術か…!?」
「一瞬だがあの魔力量…!ハッタリじゃねぇ!超位魔術だ…!!」
誰かが叫んだその言葉に、バラルダ公は驚愕してお付きの魔術師の方を向いた。
「…超位魔術だと!?」
「え、えぇ…!」
お付きの魔術師は頷いた。
「間違いありません…!アレは、かつて私が『フル・パロット』と共に任に就いていた頃に肌で感じていた魔力と同質、同量…、いや、それ以上の…!」
「大陸最強の彼以上だと言うのか…!?」
魔術師たちの驚嘆と、バラルダ公の驚愕を皮切りに、周囲も動揺し始めた。
全ての人々が彼女に慄き、恐怖し始めた。
騒ぎの中心は、一気にシャトーになった。
異形の彼女は、諦念した目で周囲を見た。
「(…遂に、バレちゃったな)」
…彼女は、出来るならば人前で超位魔術を使いたくなかった。
というのも、超位魔術は、あまりにもハイレベル過ぎて人類の尺度では測れない魔族の魔術や、使える人間が少なからずいる高位魔術とは違い、人類の限界にピッタリと当てはまるため、“凡夫”が彼女の凄まじさを理解するには丁度良い塩梅の魔術であった。
「(でも、この状況に対して咄嗟に出せた最適解はアレだけだったから…)」
そう自分に言い聞かせつつも、彼女は、自分の魔術の才がバレたことにより辿るであろう末路を予見し、嫌な気分になれた。
しかし、今は、その憂鬱さよりも、ラディカが最悪の事態を巻き起こさなくて良かったと安堵することにした。
彼女はゆっくりとラディカに歩み寄った。
すると、この超常の存在に、鎧兵らや魔術師、果てはバラルダ公までもが、息を呑んで道を開けた。
脅威的な力に対する畏怖だけが彼女を見送った。
…そんな中、胆力のあるバラルダ公だけは、通り過ぎるシャトーを睨み、振り絞るように叫ぶことが出来た。
彼は、彼女が常々予見していた、憂鬱な末路をそっくりそのまま再現してくれた。
「…『破戒のシスター』、シャトー・ブリアンよ!お前が有力な魔術師である可能性は、以前から噂には聞いていたが…。まさか…、まさか…!人類に4人しか存在しない、超位魔術師に匹敵する存在だったとは…!!」
「…どうやら、お前がジーヴル・ベルと一緒になって叫び続けていた、『国家転覆の狂言』は絵空事ではないようだ…!お前を、我が領地から追放することは勿論のこと…、すぐにでも、この事実を貴族議会に提出し、お前への王立軍全軍の動員を決議させる…!」
「偉大なる王国は、必ずお前に抵抗してみせる…!総力戦すら辞さん…!この世界が、お前のような狂人の自由になると思うなよ…!?」
バラルダ公はとにかく懸命に、威嚇するように彼女に吠えた。
対し、一応、自分も所属するバラルダ公領のボスの話だからと、立ち止まって聞いていたシャトーは、本当に暗い顔をした。
「…過大評価ですよ」
シャトーは、今に怪物を見るような目で自分を睨み、過呼吸になっているバラルダ公に小さく呟いた。
「だって…」
「国家転覆なんて…、私が“私”じゃなければ、とっくの昔に出来たことだから…」
「…それが出来なかったから、私は愛に生きて、お義父さんは失意の内に殺されたんだから…」
シャトーは、バラルダ公に深々と頭を下げて言った。
「…私に対し、どんな目を向けてくれても構いません。どんな悪評も受け入れます。ですが、どうか、矛だけは向けないでください」
「それに、公領からの追放もやめてください。わがままでごめんなさい。ですが、本当にやめてください。大人しく小教会に閉じ籠もって、二度とアメリーに足を踏み入れませんから、どうか勘弁してください」
それだけ伝えた後、シャトーは、当惑するバラルダ公を横切って、倒れているラディカの元に寄った。
彼女は、脱力するラディカの上半身を、小さな身体で何とか起こした後、何も言わずに抱き締めた。
そして、静かに想った。
「(私も少し、言い過ぎたかな…)」
「(…でも、今回の一件は、ラディカ様にとって、本当に良い薬になった…)」
「(ラディカ様に、ご自身がもうラディカ様ではないと分からせることが出来て本当に良かった…。それだけで、アメリーに来た甲斐はあった…)」
「(…打ちひしがれて、かわいそうに震えるラディカ様は見てて辛いけど…)」
「(これこそが、ラディカ様が向き合うべき現実だから…)」
「(…後は、私が寄り添うんだ)」
「(頑張らなくちゃいけない。これからの未来で、ラディカ様と笑い合えるように…)」
「(ラディカ様に仕えることを選んだ、自分の選択を後悔しないように…)」
シャトーは、改めて死んでしまったラディカに肩を貸し、…というか、ほぼ彼女を背負い、よろめきながら立ち上がった。
「…行きましょう、ラディカ様」
そして、シャトーは重い、重過ぎる荷物であるラディカを、引きずるようにして歩み出した。
奇異や、衝撃や、敵意や、色々なものを背に受けながら
多くのものを失いながら
それでも彼女は、中央広場を後にした。
それが、幸せに繋がる選択だと信じたから。
ラディカと共に在れる未来だと信じたから。
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