1 (5) 『過度な期待』

 一


 身体強化の変性魔術とは、実は、最低でも超位に位置する高等な魔術であった。

 たかが肉体のバフのくせにね。しかし、その分、効果は絶大であった。

 身体強化を一たび使えば、どれだけのもやしっ子でも、圧倒的馬力と、その仕事力に耐えうる強靭な強度を手に入れることが出来た。

 馬車ウマ娘シャトーが用いた身体強化は尸位に位置した。

 なので、彼女はもれなく、荷車を牽引しているというにも関わらず、本来なら徒歩で半日はかかる距離を、たった半分の時間で踏破することができた。


 …しかし、魔術で身体強化をしたとて、無駄に肉付きの良い女を乗せて、6時間ノンストップで無数に続く丘を昇り降りする労力は甚大であった。

 おかげで、シャトーはアメリーまで残り1里というところで完全に力尽き、ぶっ倒れてしまった(マラソンとかって、ゴール直前になると、途端に身体が疲労に負けて力が抜けるよね。それに近いことがシャトーの身に起きた)。

 休憩を懇願するシャトーに対し、ラディカはそれでも休まず動け、動いたら素敵と彼女を叱咤激励した。

 しかし、馬主が何をどうしようとも馬は脚をガクガクさせるだけで微塵も動かなかった。

 なので、ラディカは仕方なく休憩の許可を与えることにした。


 適当な丘の上、そこにポツンと一本生えた小さな木の下に、二人は腰を下ろすことにした。



 あまりにも疲れ過ぎたシャトーは、荷車を停めた後、木陰でぐったりへばった。

 ヴェールを取って、袖を捲って、スカートをはだけさせて、だらしなく両足を伸ばして、無様に舌を出して、ぜーぜーと過呼吸を始めた。

 一方で、道中、景色を眺めたり、荷車の上でゴロゴロと本を読んだり、シャトーにちょっかいかけて遊んでいただけのラディカは、1ミクロンも疲れていなかった。だから、彼女は、全身汗まみれの疲労困憊シスターを余所に、気の向くままに周辺の散策を始めた。


 …丘の上は見晴らしが良かった。

 視線を軽く遠くにやるだけで、一里先にある、夕暮れに照らされた街、アメリーがくっきり見えた。


 …アメリーは、標高300mの巨大広大な丘を囲う壁の内側に築かれた、城塞型の街であった。

 街は歴史的らしく、全体的に、セピア色の木材や砂色のレンガ、酸化した真鍮などの寂しい色で包まれていた。

 丘のてっぺん、街の中心には中央広場があり、その周囲に街一番の巨大建築物、バラルダ公領の長、上級貴族、バラルダ公の邸宅と、幾つかの行政支局があった。

 また、中央広場から東西南北に、大通りが、丘の麓まで延びていた。

 大通りと大通りの間を埋め尽くすように住宅街が広がっていた。

 丘の上部は上流層の邸宅、中部は中流層の住宅区、下部は貧困層の住宅区であった。

 それは、丘の上部、中部、下部で、住宅に用いられる屋根の質がまるで違うことからして明らかで、この街に蔓延る貧富の格差は、街をパノラマ観察をするだけで丸わかりであった。

 また、大通り沿いは商業区であり、商店や宿屋、レストランが立ち並んでいた。人通りや馬車の数は、やはり大通りに沿って多かった。


 分かりやすい外観。分かりやすい構造。

 アメリーは、鳥瞰すると、まるで物好きが作ったジオラマの街みたいで、何だか面白かった。


「…っひふ、はー、ふぅ。…あ、ラディカ様、ここからの景色は如何でしたか?今日は天気が良いから一望できたでしょう?」

 息を整え終えたシャトーは、一方で依然、身体はグッダグダにくたばらせながら、散策から帰ってきたラディカに尋ねた。

「えぇ、そこそこ、悪くありませんでしたわ」

 ラディカはシャトーの隣に腰掛け、次いで、丁度いい高さにあった彼女の頭を肘置きにして、くつろぎながら答えた。

「古風で、ノスタルジックで、バカみたいにシンプル。おとぎ話の街みたいで、下民が住むには勿体ない趣きがありますわ」


 …ただ、見目のメルヘンさの一方で、アメリーの前身は、戦時の前哨基地であった。


 かつて繰り広げられた、人類と魔族との全面戦争である『300年戦争』。

 大陸の南端、魔族が住まう大地、『スティグマ』から突如として押し寄せた破壊の波に対する人類の存亡を賭けた壮絶な戦い。

 その最終防衛ラインとして、人が集まり、防壁や生活設備を整えられたことが、この街の始まりであった。


「『アメリーは、レクトル家の軍勢が、その総攻撃により魔族の侵攻を遂に押し止めることに成功した奇跡の街であり、人類の希望が産声を上げた聖地である』…でしたっけ?これ、神学校の歴史教育で一番最初に習うフレーズなんですってね?」

「へぇ、そうなの?全然知らなかったわ」

「えっ…」

「で、でも、『アメリー』って街の名前は聞いたことありますよね…?」

「まさか、名前すら知らなかったわよ。こんなクソ田舎のことなんて」

「えっ…」

「えっ…!?」

 シャトーはいきなり身体を起き上がらせた。その際、彼女の頭の上に置かれていたラディカの腕が思いっきり弾き飛ばされた。

「嘘…!?あれっ…えっ…でも…、なんで…?」

「…なんで?ってなによ、なに?私の無知に文句でもあるの?」

 ラディカは、自分の許可無く唐突に肘置きとしての役割を放棄した下僕の両頬をむにょっとつねりながら答えた。

「ひあ…、しょの…」

「あにょ…、もんひゅはありましぇん…。すみまひぇんでひた…」

 とりあえず謝罪の言葉を聞けたラディカは、つねる手を放した。

 結構な力でつねられたから、シャトーの両頰は赤く腫れていた。

 だが、彼女は頬を痛みにはまるでかまけず、むしろ、焼けるようにジンジンする頬を活発に動かして、対話を続けた。

「文句はありません…。ただ、そうなんだって思って…」

「…お義父さんがよく言ってたんです。『神学校では、特に、“フランガロ”の建国に深く関わる、最も重大な街であるアメリーについて完全に誤ったことを教え込む。巧妙に作り上げた“間違った歴史”と共にその名を王国民に記憶させて、恒久的に真実を歪めようとしている』って…」

「だから…」

「だから、私は、“嘘つきの神学校”には行けなかったんです…」

 家庭の事情で、ずっと束縛されて、義父からの歪んだ教育だけを受け続けてきたシャトーは、しょんぼりした。

 悲しみに暮れた彼女は黙りこくってしまった。

 そんな彼女を、ラディカは「なんだコイツ」と思いながら眺めた。

 しかし、その深刻そうな表情に、彼女はどことなく、思い当たる部分があった。


 …しばらくして、シャトーは顔を上げた。

 そして、彼女は、何を信じればいいか分からない、哀れな子羊のような顔をして、震える声で、ラディカに尋ねた。

「ラディカ様…!」

「もしかして、神学校ではアメリーのことを勉強しないのですか…!?アメリーなんて、常識的には、実は大したことが無いんですか…!?」

「それとも…、やっぱりラディカ様はフランの末裔だから、“あの方”と同じで、『正しい歴史』を…、小教会を中心としたアメリーの歴史を学んだのですか…!?」

「私…、変に穿って色んな事を考えちゃうタチだから…」

「『建国記』や『オムファロス』が正しいことは分かってるのに、でも、世間のみんなが言う常識の方が気になっちゃって、だから、つい、疑っちゃって…」

「でも…、それでも私は、『正しい歴史』を信じたいんです…。だって、私は…」


 …お義父さんのことが大好きだから。

 もう二度と、お義父さんのことを裏切りたくないから。


「だから…!教えてください…!ラディカ様は子供の頃、何を学びましたか…!?」

「どんなことを、『正しさ』として教わりましたか…!?」


 …必死に訴えるシャトーは、目に涙を浮かべていた。

 それだけ、彼女は切羽詰まっていた。

 真実の追求に精一杯で、今にも心が砕けてしまいそうだった。


 だが、それにも関わらず、事情をカス程も知らないラディカのカスは呑気に答えた。


「いや、そもそも私、マジメに勉強したこと無いから歴史とかよく知らないのよ」


 …シャトーはポカーンとした。

「あ…」

「さいですか…」

 知らんのは無学なだけかい。

 さっきまであんなに思い悩んでいたのに…、シャトーの緊張は唐突にどっかいった。

 彼女は完全に脱力して、再度、ポケッと木陰に倒れた。


 ラディカは、只今に魂が抜けたようなシャトーを横目で見ながら言った。

「私、神学校には6歳の入学年しか行ったことないから、神学校の事情なんて知りませんの。…それに、家庭教師も付けたこと無いわ。そもそも、お母様が『貴女に勉強なんて努力は必要ない』って、仰ってましたの。だから、勉強なんてもの、してこなかった」

「ほー…、そうですか…、へー…」

 シャトーは生返事をした。気が抜けてしまった彼女にとって、ラディカの話はもうどうでも良かった。

「…貴方ねぇ」

 …普段のラディカなら、この返事は癪に障った。手は出ずとも、「おい」と怒鳴ることくらいはした。

 だが、この時の彼女は何故か、茫然と話を聞く無気力なシャトーのことを怒ろうとは思えなかった。

 逆に、彼女はシャトーのことを可哀想だなと思っていた。

 …いや、実際にはその感情はそこまで明瞭に言語化されていなかった。可哀想と、言葉に出せるほどシャトーに共感できてはいなかった。

 ただ、彼女は、只今のシャトーに、どこかポカンと穴が空いたような雰囲気を感じていた。

 焦燥感という嵐が去った後の、まるで、何か義務に追われた後の抜け殻のような。

 それが、物寂しかった。


 …まるで、自分のようだった。


「…ちょっと、こっち来なさい」

 だから、ラディカは、何気なくシャトーを抱き寄せた。

 それでも飽き足りなかった彼女は、シャトーを脚の間に座らせた。

 ちょこんと自分の股下に腰掛けたシャトーをきゅっと挟んだ。

 自分の大きな身体を活かして、小さなシャトーを、まるで、いたいけな子供を包容してやるように、優しく包み込んだ。

 そして、ラディカは、彼女の頭を撫で始めた。

 優しく、優しく、ゆっくりと。

 憐れなシャトーにぬくもりを与え始めた。


 …何故、自分がそうし始めたのか、彼女には、やはり、詳細な理由が分からなかった。

 だが、ラディカはとにかくシャトーを愛でたかった。


 …それが、自分と同じ、愛に囚われし者への同情だと、ラディカは、知る由もなかった。

 包まれて、撫でられて、目を細めて安心するシャトーもまた、知る由もなかった。


 二人はまだ、それぞれの事情を打ち明け合ったことがなかった。



 二


 木陰の中。

 二人だけの世界。

 二人は時折体勢を変えながらも、ずっとくっついていた。

 今だと、ラディカはシャトーの膝の上にゴロゴロと寝転がっていた。

 また、彼女はシャトーの手を摘んだり、握ったりして遊んでいた。

 ラディカは、ぽつぽつと話した。

「学校に行けなかった分、学位は全部、金で買ったわ」

「…大金を積んだから神学校は首席卒。最高学府のシテ第七大学も当然首席卒。しかも、大学に至っては複数の学部を同時にね」

「しかも、ついこの間、院を飛び級で卒業しましたわ。高名な学者に私名義の論文を書かせてね。…だから私、こんな風でも自然学、魔術学、神話学の博士なのよ?」

「馬鹿みたいな話でしょ?私はその実、勉強のことなんて何にも知らないのにね?」

 ラディカは、苦笑いをした。

「…本当は、学位なんて要らなかったわ。だって私、勉強嫌いだもの」

「勉強より、こうやって、お気に入りの下僕と触れ合ってる方が好き」

 ラディカは、シャトーの指に自分の指を絡めて、クスクス笑って言った。

 その笑顔は気丈ではなく、本当に何も気にしていないようだった。事実、ラディカに学校への未練は無かった。

 でも、似たような境遇だけども、神学校に対して未練のあるシャトーはポツリと尋ねた。

「…もし、ちゃんと神学校に行けていたらって、想像することはありませんか?」

「うーん、ちゃんと行くことが出来ても、途中で投げたんじゃないかしら?…オルレがね、私のことを心配して、『学校でこんなことを勉強した』ってお手紙を定期的にくれたんだけど、私にはいつ読んでもちんぷんかんぷんでしたもの」

「多分、私って根本的にバカなんだと思いますわ。生まれつき勉強ができない体質。落第生」

「…あ、この話は他言無用でお願いね?一応、世間では天才ラディカで通ってるから…」

 …天才ラディカ?そんな噂あったか?と思いつつ、シャトーはあっけらかんとたらればを切り捨てるラディカのことを凄い人だと思った。

 同時に、悲しくもなった。

 だって、こんな疑問が浮かんだから。


「ラディカ様は…」

「…ラディカ様は、人の本性は変わらないと、そうお考えなのですか?」


 その問いを耳にした途端、ラディカの表情は暗くなった。

 彼女は、静かに答えた。

「…変わるわ」

「変わる、変えられるわ。じわりじわりと、矯正の手と、環境と、自分自身の愚かしさによってね…」

「…!そうですか…!」


 ラディカの答えに、シャトーは嬉しそうな顔をしていた。

 一方で、当の回答者の表情は違った。ラディカは、自分で発した答えを喉奥で何度も反響させては、やるせない憂鬱に陥っていた。

 

 微妙な差であった。 

 二人は間違いなく似た者同士だったけど、方向性が違っていた。


「下僕」

 ラディカはシャトーの手を離して言った。

「私の頬、つねってもいいのよ」

「えっ…、何ですか急に…?」

 シャトーは困惑した。

 それでも、ラディカは言った。

「頬、つねりたいでしょ?私への鬱憤、溜まってるでしょ?」

「ほら、さぁ、つねって。真っ赤に腫れるくらい引っ張ったっていいのよ?」

 ラディカは、シャトーの目をじっと見て行動を促した。

「いや、出来ませんよ。私は貴女の下僕なんですから…」

「…どうしてもそうして欲しいなら、『これは命令だ』と、そうおっしゃってください」

 シャトーはラディカから目線を逸らして答えた。

「や、嫌よ。貴方から自主的につねられないと意味が無いわ」

「分かった。じゃあ、貴方がつねってくれるまで、私、貴方の膝から動かない。このまま何日でも、何年でも、居座ってやりますわ」

「えぇ…」

 シャトーは本気で嫌な顔をした。

 …たとえ、ラディカからすれば、つねるつねられるが大したことのない行為であったとしても、下僕である彼女の方は違った。

 ご主人様に加害を加えるなんて、そんなの反旗を翻すのと同じだった。

 でも、それでも、ラディカが期待の目でジッと見てくるものだから、シャトーはやるしかなかった。

「…むぇ」

 片頬を引っ張られたラディカから、情けなく声が漏れた。

「も、もういいですか…?」

 つねる、というよりつまむレベルの軽い力でラディカをいじめるシャトーが尋ねた。

「らめよ、もっろちゅよく」

「えぇ…?こ…、こう、ですか…?」

 うにょーっと、ラディカの頬が伸びた。美人が形無しになって、子どもっぽいふざけた顔になった。

「も、もういいですよね…!もう、十分つねったでしょ…」

 不敬に耐え切れなくなったシャトーはパッと手を放した後、眉を下げて、罪悪感たっぷりだという顔をした。

 一方で、ラディカは少しだけヒリヒリする頬の感触を味わいながら、によによしていた。

「もう…、ラディカ様は一体どうなりたいんですか…」

 シャトーは肩を落として尋ねた。

 ラディカは上機嫌のまま答えた。

「ふふっ…、貴方の前なら、少しくらい“そのこと”を忘れても良いと思ってますのよ?」

 その答えに「はぁー…?」と不遜に首を傾げるシャトーを見て、ラディカはまた笑った。


 二人しかいないこの世界なら、ちょっとくらいお母様のことを見て見ぬふりしてもいいかも。

 そんなことを思うラディカの目線を一身に受けるシャトーは、悪女っぽくない今のラディカにときめきつつも、それはそれとして、しっかりとラディカ様の下僕でなきゃと、お義父さんのことを思い出していた。


 ところで、問題とは、往々にして認識の差異によって生じるのだ。

 


 三


 休憩している内に、陽が沈み始めた。

 自分はのんびりと過ごしているというのに、どうして時間の方はせかせか進みやがるのだろうか。


「…ラディカ様、本当におやつ食べないんですか?」

 シャトーは、前から抱き着いて、軟体動物みたいにベタベタに密着しているラディカに尋ねた。

「んー…、まだいいかなー…」

「そうですか…。なら、また食べたくなったら言ってくださいね?」

 シャトーは少し残念そうな顔をしながら、自分の分のサンドイッチを頬張った後、水筒の水を一口含んだ。サンドイッチの包み紙を丁寧に折り畳み、修道服のポッケに仕舞った。ついでに、取り出していたラディカの分のサンドイッチを再度包んだ後、リュックに仕舞った。

 再出発の準備を整えた。

 シャトーは、ヴェールを被り直して、言った。

「それじゃあラディカ様、日が暮れる前に街に入っちゃいましょうか」

「そうね」

 ラディカは、呼応して起き上がった。それと共に、シャトーも立ち上がり、自然な流れで、土に汚れたラディカのおしりをパンパンと払った。

 その後、身体の伸びをしながらスタスタと荷車に寄ったラディカは、当たり前のように荷車の上に乗り込み、胡座をかいた。

「さ、行きましょ」

「えっ」

 暗に荷馬車の続行を命じられたシャトーは、「…マジ?」と思いながら、おずおず尋ねた。

「あの…、ここからは人目もありますから…、ご自身の足で歩いていただくことは…」

「は?貴方、ご主人様を歩かせるの?」

「そうですよねー、そうですよねー…」

 シャトーはガクッと肩を落とした。

「荷車の件はかしこまりました。…でも、申し訳ありませんが、これだけはお願いします」

 そう言って、シャトーはリュックから、不思議な色合いの、スポーツタオルのように細長い布を取り出して、ラディカに渡した。

 それは、不思議な色合いの赫とシルクのような肌触りを誇っていた。

「良い布ね?」

「聖骸布です。…お義父さんがかつて、シテの大聖堂から盗んできたものだから、多分本物です。シーツ以外にラディカ様のお身体を包むに相応しい布といえば、それくらいしか持ち合わせていなかったので、持ってきました」

 シャトーは、改まって伝えた。

「…ラディカ様、どうか、それでお顔を隠してもらえませんか?」

 ラディカが顔を隠すこと、シャトーはそれを、二人が街で無事に過ごすための必須条件だと考えていた。


 …実は、意外なことに、アメリーの街でラディカが身バレする可能性はかなり低かった。

 理由は二つ。

 一つに、アメリーを含むラッガド公領の人々の情報源は、『南フラン報』という写真はおろか挿絵すら毛ほども充実していない田舎の地方紙のみであった。

 とどのつまり、アメリー、ひいてはラッガド公領の住民は、殆どの場合でラディカの顔を文字の上以外で知らなかった。

 もう一つに、ラディカは既に死んでいた。また、復活など魔術をもってしても有り得なかった。

 …この世のどこに、織田信長のそっくりさんを掴まえて、「オダノブ生き返ったで!!」と叫ぶ人間がいる?


 だから、普通に考えれば、ラディカが顔を隠す必要性はそこまでなかった。

 しかし、アメリーは今、普通じゃなかった。

 近年のアメリーの街はかなり慌ただしかった。

 というのも、アメリーは、10年前から始まった魔族による大陸への再侵攻を受けて、かつての役割、…前哨基地としての役割を取り戻しつつあり、現下、王国中から軍事力と物量が集結していた。

 今でも丘から見下ろせるアメリーの壁門には、門を行き来する、本来ならシテに常駐しているはずの王立軍の重装騎兵や高位魔術師、更には、全国各地からやって来た大量の物資を積んだ荷馬車が多数見えた。

 シャトーがラディカに顔を隠してもらう必要があると決断した理由は、まさにココであった。

「(もし、あの中に、実際にラディカ様に謁見したことがあって、かつ、『祝福』の存在について噂程度でも知っている人がいたら…)」


 …もし、万が一、被処刑者が“神懸かり的理由”で生存していたという事実が、権威性こそ価値の政治の世界に知れ渡ったら、一体どうなってしまう?

 元より、ラディカは絶対的な権力者で、存在自体が王国政治のパワーバランスを揺るがす存在だった。

 そんな彼女が、神の御業で復活して、絶大だった権威性を更にパワーアップさせて、今現在の王国政治、…つまり、“ラディカという巨大なピースが存在しないことを前提に構成された権力構造”に戻ってきたとしたら、果たしてどうなる?

 そんなの…、考えなくても不幸だと分かる。


「…ふむ」

「確かに、これは私に相応しい献上品ですわね?」

 聖骸布の妖しい赫に見惚れたラディカは上機嫌になった。

「流石ね、下僕。これで私の悪女感は更にアップですわ。褒めてつかわす」

 ラディカはシャトーの顎の下をうりうりと撫でて存分に褒めた。

「えへへ…、あ、ありがとうございます…」

 シャトーは、褒められたことに照れた。

 それと同時に、彼女はラディカが自分の想いを汲み取ってくれたんだと理解して、喜んだ。

 その想いに示し合わせをするかのように、ラディカは、シャトーにニッコリと微笑んでみせた。

 シャトーは理解を確信に変えて、更に喜んだ。嬉しくて、ふにゃふにゃになった。

「それじゃあ、ラディカ様…?早速、その聖骸布を…」

「えぇ、そうね」

 シャトーの呼びかけに応じて、ラディカは、聖骸布をバサリと翻した。

 そして、彼女は、何の迷いもなく、聖骸布をスカーフのようにシュルっと首に巻いた。

 …首?

「うん。鏡が無いから姿の確認は出来ないけど、どうせ私のことだから、これも最高に似合ってますわよね。がはは」

 もちろん、顔なんて隠れていなかった。

「それじゃ、先を急ぎましょ」

「え…」

 シャトーは当然、困惑した。だって、なんか思ってたんと違うし。

「いや…、それは顔を隠す用で…。どっちかっていうと、ストールかマスクとして使ってほしいのですが…」

「なに?私に文句?」

 …まぁ、そうっすよねー。他人の意図を汲み取るのって、難しいですよねー。

 期待、し過ぎでしたかねー。はははー。

 はぁ…。

「…はい、分かりました。それじゃあ、幻影の魔術をかけることにしますね…」

「(まぁ…、これでも顔は隠せるから、いいか…)」

 シャトーは、対象がブロンドのデブに見える幻影魔術をラディカにかけながら、本当に、本当に大きくため息をついた。

「(分かり合えないかなぁ…、ラディカ様と…)」



 四


「えぇっ!?タンドまでの車馬賃、そんなにするんですか…!?」

 夕刻。アメリーへ入門した二人は、宿よりも先に、翌日の馬車を確保すべく領営の乗合い所に訪れていた(宿から馬車を手配すると、ちょっと割高だから)。

 目的地のシテに辿り着くには、アメリーから南東、フラン・ガロ王国と隣国ラティア・ガロ共和国連邦との国境にあるフラン領タンドに向かい、そこから王領リーンを通り、シテまで伸びる南方鉄道に乗り込む必要があった。

 ということで、シャトーはまず、タンドまでの馬車を調達したかった。だが、そこで突きつけられたのは、順調な旅の終局であった。

 両手に全財産の31フランと6スー(フランは紙幣。日本円で2000円。スーは硬貨。日本円で100円)が入った財布を握りしめるシャトーは、そこまで立派とは言えない、雑な色をした馬の御者に、改めて車馬賃を問い質した。

「あぁ、間違いないよ。ウチみたいなポンコツ馬車…、四等車でも、タンドまでなら最低40フランは貰いたいね」

 シャトーは震えた。というのも、普段の馬車の相場は、三等車で15フランであった。車輪がバネで出来てるんじゃないか?ってくらい跳ねる四等車なら、8フランもあれば乗れた。

 先刻までのシャトーは、せっかくラディカを乗せるのだから、奮発して三等車を手配しようと思っていた。しかし、どの三等車を当たっても、タンドまでは60フランだとふっかけられた。だから、今に諦めて四等車にあたったのに…。

「ぼ、ぼったくり…じゃなくて…?」

「世情だねぇ。今のアメリーの御者業界は、あまりにも景気が良すぎるんだ。シスターさんも見たろ?街を闊歩する王立軍の兵隊を。王国は、アレを常駐させるために、この街に大量の物資を送ろうとしていて、そのためにバラルダ公領中の馬車を片っ端に買い占めまくってるんだ。それも馬鹿みたいな高値で」

「おかげで、御者はボロ儲けだが、一方で人運びなんかやってられなくなってね。俺だって、小銭でシスターさんを運ぶくらいなら、明日も物資運搬の列に並ぶさ」

「それで…、40フラン…」

「そ、最低限ね」

「そんな…」

 シャトーの脳内プランは崩れ去った。同時に、彼女は膝から崩れ落ちた。

「まぁ…、今のアメリーはシスターさんみたいな人でごった返してるよ。せっかくの秋なのに、リーン王領で美食旅行が出来ないって、そこら中の人が食べ飽きたオリーブ煮をつついて嘆いてるさ」

「尤も、野郎共は団子より花。ちょうど冬越えのために必死になってる売女共を食い散らかすべくツロン市に行くのが今時期の楽しみだったのに、それが出来ないからって股間に鬱憤をパンパンに溜めてるよ。はははは」

「…私、一応聖職者なので、そういう話は止めてもらえますか?」

「…は?聖職者っても異端で、しかも野良の破戒僧だろ?いつもファンキーな街頭演説してるくせに、この期に及んで体裁を気にするとか、生意気だね」

 四等車の御者は下卑た表情でシャトーを嘲笑った。それに対し、シャトーは何も言わずに俯いた。

「あー…、ははは、流れで煽っちゃった。悪かったね。…でも、ファンキーシスターさんなら、旅行くらい、魔術でどうとでもなるんじゃないのかい?」

「…まぁ、私一人なら、どうとでもなるんですけど…」

 シャトーは面倒臭そうに後ろを振り返った。そこには、荷車の上に寝そべって、腹をボリボリ掻いて、呑気に『高貴なる冒険』を読んでいるラディカがいた。

 ブッ、と屁をこく音が聞こえた。

「…随分ファンタスティックな荷物だね」

「ホント…ラディカ様ったらお荷物…、じゃない!あの方は私のご主人様です!!」

「ご主人様…?あぁ…、世迷言を拗らせ過ぎて、遂に頭がおかしくなっちゃったのか。まだ若いのに、可哀想だねぇ。値切りはしないけど」

「…まぁ、タンドまで行きたいなら、安宿に泊まりながら車馬賃を稼ぐか、なけなしのお金で徒歩での長旅の準備でもしなよ。とにかく、今ドキの馬車は30フランぽっちじゃ無理だからね」

 それだけ伝えて、四等車の御者は「ごめんねー」とシャトーを追い払った。金が無いからどうしようもないシャトーは、トボトボと踵を返すしかなかった。彼女は無言で荷車の元に行き、暗い顔のまま、安宿に向けて荷車を引き始めた。

 唐突に動き始めた荷車に驚いたラディカは、シャトーの頭上めがけてたんこぶが出来る威力のチョップをかました。その後、頭を抑えてうずくまる下僕に尋ねた。

「それで?私の馬車はどれになりましたの?言っとくけど、さっき貴方が交渉してたみたいなボロは嫌よ」

 ラディカは、向こうに居る四等車と雑な毛色の馬を一瞥して、ペッと唾を吐いた。

「…それすら手配できなかったんですよ」

 シャトーはうずくまりながら、苦虫を噛み潰したような顔をして、ポツリと呟いた。

「?…ふぅん?そう?よく分からないけど、それなら他を当たればいいわ。事情が事情、流石に貴方が役立たず貧乏だってことは、私も飲み込めてきましたから、特等車とは言わず、一等車くらいなら甘んじて許してやりますわよ?」

「…そんなの、平時でも無理ですよ」

「えぇ…?一等車って上級貴族が乗る程度の雑魚車ですわよ…?貴方、そんなのも用意できないの…?」

「はぁ…、貴方ってば、そういうところは役立たずよねぇ…?」

 ラディカの下僕であるシャトーは、ジンジンとしたチョップの痛みにも、無神経な言葉の数々にも、何も反撃しない。

 というか、できない。

 懸命に苦労する彼女は、何もしない、わがまましか言わないラディカに対し、ただひたすら下唇を噛んで、涙を堪えて、荷車を引くことしか出来ないのであった。


……


 安宿に着いた後、シャトーは心の底から安堵した。というのも、地域一帯の車馬賃が爆上がりしているということは、周辺からアメリーに向かいたい人々の足すらも止まってるわけで、そのおかげで、客足がピタッと泊まっていて困っていた宿屋は、少しでも客を入れようと軒並み宿泊代を大幅に下げていた。

「本当に!?本当に一泊1.5フランでいいんですか!?朝食付きで、二人部屋なのに、そんなはした金で…!?」

「いいさいいさ、是非はした金で泊まっておくれ。私たちゃこの頃、儲けが欠片もなくて困り果ててたんだ。1.5フランぽっちでも、『破戒のシスター』ちゃんでも、喜んでもてなすよ」

 安宿の女将はおおらかに笑って、シャトーにそう伝えた。

 シャトーは嬉しさのあまり、その場でカウンターに掴まってピョンピョンとジャンプした。その後、彼女は、宿の外、大通り沿いに停めた荷車の上で、相変わらず小説を読んでいるラディカ(変な奴過ぎて周りの注目めっちゃ集めてる)に駆け寄って、耳をピコピコさせながら喜びの報告をした。

「やりましたよ!ラ…、ご主人様!普段なら3.5フランはかかる宿に、半額以下の値段で泊まれますよ!ベッド2つ借りて、しかも朝食付きで!」

「ん…、あ?なに?宿借りましたの?どこの?」

 顔を上げたラディカは、適当に周りをキョロキョロ見回して、借りたらしい宿を探した。

「もう!ラデ…、ご主人様ったら!ここですよ!ここ!」

 シャトーは自慢したげに自分の背後にある建物を指さした。…ただ、それは、宿屋と言うより民泊で、一軒家に屋号の彫られた看板がついただけの建物で、まさにボロの安宿であった。

「…は?何よコレ?宿じゃなくて下民の豚小屋じゃない。馬鹿ねぇ貴方。宿ってのは、もっとこう、綺羅びやかで、大きな扉があって、玄関に使用人が何人も並んでるような場所ですわ」

 ラディカは歪な常識に基づいて、シャトーに対し、呆れたとため息をつき、首を横に振った。

「…そんなカジノみたいな宿、アメリーのどこを探しても存在しませんよ。ここ、一応街ですけど、本質的には田舎ですよ?」

 せっかく気分が良かったのに、ラディカの妄言のせいで興が削がれたシャトーは、眉をひそめながら、呆れたとため息をつき返し、首を横に振り返した。

 ラディカは唖然とした。

「…マジですの?こんな豚小屋が、この街で一番良い宿屋ですの?」

「…えっ、いや、安宿だから一番良い宿なワケが…」

 シャトーは反射的に否定しようとした。しかし、そうやって否定してしまったら『一番良い宿に泊まらせろ』論争が始まるであろうことを、彼女は余裕で感知できた。

 彼女は、もう、面倒臭くなった。

「…いや、そうです。その通り、ここがアメリーで一番良い宿です」

「(私たちの身分に相応って意味ではね…)」

 だから、彼女は主に嘘を付くことにした。…俯いて、目を逸らして、申し訳程度の言い訳を心の中で付け足して。


 …なんだか、シャトーは段々とラディカという人間の問題が分かってきた。

 彼女には、確かに良いところもある。しかし、現状、それを覆い尽くし、有り余るほどに悪いところばかりで手に余る。

「貴女はもう、『ラディカ』じゃないんですよ…?」

 そう、呟きかけもした。

 ただ、シャトーは“合理的思考”を基に、只今に発揮されるラディカの悪いところの根本的な原因が、自分が故人であり、もう、横暴できる身分にないことを認知できていない点にあるのではないかと仮説を立てていた。

 また、それさえ解消できれば、悪いところは、つまり、権力に裏打ちされた“悪女”なところは、自然と消滅するんじゃないかと予想していた。


 …ただ、そんなことを考えてみた時、どうしてか、左目がズキッと痛んだ。

 『契約』の…、何か重大な条項を忘れているような気がした。


 それでも、シャトーは、ラディカがアメリーで文句を言いまくり、その結果、現実に揉まれまくることは良いことじゃないかと考えていた。

 それは、凄く“残酷な方法”だけど、後々、わがままを理由に、大掛かりな旅の途中で手を付けられない程の大問題を起こされるより、アメリーで何度と辛い現実に直面して、挫折して、ゆっくりと、“もう、何もかもが自分の思い通りにはならないんだ”ということを、学んでいってもらえればと思っていた。


 二人の将来のために。


 …ただし、シャトーは、その計画が、『ラディカがシャトー以外には危害を加えないこと』『ラディカの絶え間ない癇癪に対し、シャトー自身が辛抱強く我慢できること』を前提にしていることを失念していた。

 彼女は、少しの間の同居を期に、ラディカという人間の良いところを知ってしまったために、ラディカに過度な期待をしてしまっていた。

 『良いところがちゃんとあるラディカ様なら、きっと変われるはずだ』

 そんな、変な希望を抱いてしまっていた。

 だから、こんな無茶で、若干の矛盾さえ孕んだ期待をしてしまっていた。


 …後に大きな絶望に変わるかもしれない、そんな危険の“種”を、シャトーは既に飲み下し、心の底に沈めてしまっていた。


 しかし、今日のところは、種は芽吹かなかったので、シャトーは、ぶつくさ文句を言うラディカを宿泊部屋に案内した後、気持ちを切り替えて、車馬賃を稼ぐために日が暮れた街に駆け出した。


 ラディカと分かり合える明日を夢見ながら。

 そう、夢見るように、自分に何度も言い聞かせながら。


 どうせタンドまで歩いてはくれないご主人様のために、身を粉にするのであった。






──────────────────────────


【人物紹介】


『ラディカ』

 今から働きに出るというシャトーを行かせたくなくて死ぬほど駄々をこねた。


『シャトー』

 まさか19歳が床にひっくり返って両手両足をジタバタさせている様子を見る日が来るとは思わなかった。

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