1 (4) 『つかずはなれず』

 一


「ラディカ様〜?おやすみ前に白湯を用意したんですけど、要ります〜?」

 消灯前。お気に入りのパジャマワンピース(自作。フリフリいっぱい付けたからいっぱい可愛い)を着たシャトーは、湯気の立つマグカップ2つを変性魔術でフワフワ浮かしながら、現下、ラディカの宿泊部屋となっている彼女の自室に入った(客室より狭いけど、客室と違って本棚があるからマシだと、ラディカが勝手に居着いた)。

「…さゆ?」

 ランプの薄明かりの中、シャトーの入室に気がついたラディカ(ほかほかの湯浴み後。何も着けず、すっぽんぽんを厳冬用のもふもふ毛布で包んでいる。…あぁ、『ちゃんとした寝間着を寄越せ』とか言われなくて良かった…。そんなのあるわけないし…。普段から自室では裸族らしくて本当に良かった…)は、ちょうど楽しんでいた本をパタンと閉じた後、ベッドに寝転んでいた状態から起き上がり、ペロンとはだけた毛布を直しながら、自分の目の前を浮遊するマグカップに注目した。

「つまり、お湯ってこと?…下民って寝る前にそんなもの飲み下しますの?」

「いやぁ…、普通に働いてる方なら、生姜湯かはちみつ湯だと思いますが…」

「ふぅん。なら、下民以下の飲み物ってわけね?で、味は?やっぱり下民以下の味なの?」

 シャトーは、まず『下民の味』がどういう概念なのか分からず、首をひねった。…それと同時に、彼女の綺麗なロング金髪が主張控えめに揺れた。

「下民以下の味…、かどうかは分かりませんけど、まぁ、美味しくはありませんよ。言うてただのお湯ですし」

「…え?貴女、今、美味しくない飲み物を私に飲ませようとしてますの?なに?意趣返し?」

「あー…、美味しくはない…んですけど、落ち着くんです。飲むと、無味で、単に温かいだけだからホッとして…」

「ぐっすり…眠れます…」

「…ふぅん」

「…やっぱりやめときます?」

「…いや、いただくわ」

 そう言って、ラディカは眼前のマグカップを手に取った。そして、ズズッと中身を啜った後、表情をほえっと緩めた。

 その素直であどけない彼女の様子を見て、シャトーはつい笑みをこぼした。

「(かわいい…)」

 その後、シャトーは少しの間、ベッドに寝転び、足をパタパタさせながら、たまに白湯をすすって読書をする、楽しそうなラディカを眺めて、ぽかぽかと小さな悦に浸った。だが、そろそろ消灯時間であることを思い出した彼女は、ハッと我に返り、脳を幸せ気分から冷ますべく首をブンブン振った。

 彼女は従者モードになるべく少し咳払いした後、伝えるべき事務事を伝えた。

「…こほん、えー、それではラディカ様、明日の朝8時に起こしに参ります。…もう既にそうされているとは思いますが、この部屋の物は自由に使ってくださって構いません。シテまでは長旅になります。どうぞ、今日は存分に羽根を伸ばして、ゆっくりとお体をお休めください…」

「ホテルマンみたいなこと言いますわね」

「現状そうですから…。では、おやすみなさい」

「うん。おやすみー」

 …(「あ、ランプは自分で消すわ」とラディカに消灯を断られた後)、寝転んだ姿勢のまま手だけを従者の方に向けてフリフリ振るラディカに、シャトーは小さく手を振り返して、パタリと扉を閉ざした。

 彼女は扉を背に、ふぅとため息をついた。

 ストレス性のものではない。厳密な理由が分からないため息。…ただ、ラディカに係るため息なのは確か。

「(まだ、お仕えして間もないからかな…。ラディカ様のことが全然分からない…)」

「(すぐに癇癪起こす割に、結構フレンドリーに接しても怒らないし…)」

「(悪女らしく怒ったり、嘲笑ったりするだけかと思ったら、無垢に、あどけない顔をすることもある…)」

 …最も不思議なのは、ラディカには“悪女らしい”不機嫌な顔より、“ただの女の子のような”屈託のない笑顔の方がよく似合うこと。

「(どこか悪女っぽくない気もするし…。でも、悪女な部分はしっかり悪女だし…)」

「うーん…」

「わからん…」

「分からんから寝よ…」

 シャトーは大きなあくびを一つした後、客室にのそのそと歩いて行った。そして、彼女はここでようやく、ご主人様の靴用に、客室のベッドからシーツを剥がしていたことを思い出した。

 …でも、もうどうしようもないので、シャトーは寝心地最悪のベッドで、気分の悪い夢見を心地った。



 二


「ねぇ」

「…はい」

「本当に、もっとマシな食事はありませんの?」

 ラディカは食卓の真ん中にちょんと置かれたふかし芋二つを指して苦言した。

「“朝食と言えば”、フランメリカ産のフルーツって決まってるでしょ?それなのに、何?このおかずは。昨日の夕食(マッシュポテト)と大差ないじゃない」

「申し訳ありません…、不甲斐なくて…」

「不甲斐なさ過ぎですわよ。…貴女ってば魔術の鬼才なだけで、それ以外は下民そのものね。知ってる?じゃがいもって、シテじゃ『貧乏人の花』って呼ばれてるのよ?」

 ジトッと睨むラディカに、シャトーは頭を掻きながら言った。

「こればっかりは本当にすみません。ウチ、じゃがいもくらいしかマトモな食べ物が無いんですよ…」

 貧乏、物資不足という概念が無いラディカは目を剥いた。

「…パンもないの?」

「パンは…、その、あー…、な、ない…」

「あるのね?」

「…ありますけど、ラディカ様、多分引きますよ?」

 そう言って、シャトーは食卓にカビの生えたブレッド(1/2)を持ってきた。

「…ぇ」

 絶句。

「これを…、流石にカビを食べる訳にはいかないので、白い部分だけナイフで削るんですよ」

 シャトーは慣れた手つきでブレッドの表面や断面についたカビをこそぎ落とした後、「はい、どうぞ」とラディカの皿の“フチ”にズタボロになったブレッドを置いた。

 ラディカはブレッドを鷲掴んだ後、シャトーの顔面にブン投げた。

「まぁ、そうですよねー…。あはは…」

 「…次回からは防腐の魔術を使うことにしますね」と苦笑いするシャトーに、ラディカは「水」と一言だけ告げた。シャトーは、「はいはい…」と返事しながら、ふかし芋の隣にあるピッチャーに手を伸ばした。しかし、どうにも自分とピッチャーとの距離感が分からない彼女は、手を何度か伸ばした後、ようやくピッチャーを掴み、ラディカのグラスに水を注ぐことができた。

「不便そうね?」

 ラディカはシャトーのもう二度と開かない左瞼を一瞥して言った。

「いえ、まぁ、いずれ慣れると思いますが…」

 気丈な返事。ラディカは「ふぅん」と軽い返事をくれてやった後、席を立った。

「あれ…?ラディカ様、朝食の方は…」

「要らないわよ。朝からそんな重たいもの」

「…それに、“貴女のモノ”がまだお腹の中に溜まっていて、空腹じゃありませんわ」

 それだけ伝えて、ラディカは自室(シャトーのな)に戻っていった。

 シャトーはぽかんとした後、ふかし芋を一つ自分の皿に置いて、塩をふって、もそもそと食べ始めた。

 彼女は思った。

「(あれ、多分、ラディカ様なりの優しさだよね…?)」

 そう考えて、彼女は少し微笑みながら、ガラスの破片や水、マッシュポテトが未だ散乱しているリビングを見た。

「掃除するかぁ…」



 三


「…何してんの?それ」

 昼過ぎ。

 家事と大掃除を終えたシャトーは、リビングにて何やら大変そうにリュックへの荷詰めを行っていた。

 忙しそうにする彼女は、ラディカの呼びかけに反応して、汗を垂らしながら振り向いた。

「長旅の準備です。ここからシテって本当に遠いですから、色々持参しないと大変なんですよ」

「えっ」

「えっ、って何ですか」

「貴女、シテに行くの?」

「行くっていうか、ラディカ様のご帰宅に同行するつもりなのですが…」

 シャトーの発言に、ラディカは静かに黙った。顔を俯かせ、どこか無言の抵抗のような意志を感じさせた。

「…そういや、お母様の元に帰るって言ってましたわね。私」

 ラディカは、寂しそうに言った。

 その言葉に、シャトーはラディカと同じように顔を俯かせた。

 ただ、彼女の落ち込みは、ラディカのそれとは理由が違った。

 彼女は、そもそもラディカがシテに帰ろうとすること自体をよく思っていなかった。何故なら、シテは既に“ラディカが存在しないこと”を前提に回り始めているから。…特に、ラディカに散々酷い目に合わされ続けたレジティが、只今にシテで第二の人生を歩み始めていることに想いを馳せたら、彼女はどうしても、ラディカを家に帰す気になれなかった。

「(…それに、シテに帰ったって、ラディカ様のお母様はもう…)」

 …それでも、シャトーはラディカの下僕だからと、涙を堪えて荷造りをしていたところだったのだ。

「…やっぱり、帰るのはもう少し後でいいですわ」

 だから、ラディカのその一言に、シャトーはパッと明るくなった。

「案外、良いところですものね、このショボ教会も。折角だから旅行気分で楽しむことにしますわ」

「まぁ、そうね。一週間後くらいでいいわ。それまでに帰りの馬車を用意しなさいな」

 それだけ伝えて、ラディカは礼拝堂の方にスッと消えた。

 多分、トイレなんだろう。

 残されたシャトーは、Dデイまでの期限が延びたことにホッとしつつも、不安を抱いていた。


 今のような『かりそめ』は、ここでしか、私とラディカ様の間でしか通用しない。

 外には沢山の人と現実があって、一週間後、ラディカ様は遂にそれに向き合わなければならなくなる。

 その時、私はあの方の下僕として、何が出来るだろう?

 …何をすることが、一番正しいんだろう?


 存在しないはずの彼女の左目が、チクリと痛んだ。

 もう見えなくなったはずの左目からの景色が、どうしても、彼女の脳裏に鮮明によぎった。


「あぁ…、どうして…」


 彼女は軽い絶望を覚えつつ、論理的で、合理的な、“理知”に溢れる思考を、ラディカの未来のために働かせていた。



 四


 三日後。

 昼過ぎの太陽の光が気持ち良い頃。

 ラディカは物干しの隣の木陰で、ズタボロブレッドを片手にのんびりと読書をしていた。

「(人って、慣れるもんだなぁ…)」

 洗濯物に励むシャトーは、ラディカサイズのゴツい洋服(これももれなくボロチュニック)のシワを伸ばしながら思った。

 シワを伸ばした洋服を物干しに引っ掛けた後、彼女は物干しの左手側に挟んであるはずの洗濯ばさみを手に取ろうとした。

 でも、無かった。洗濯ばさみは、いつもなら物干しの左側にかためて挟んであるのに、左を向いても洗濯ばさみが見当たらなかった。

 …いつも以上に首を回し、ほぼ90度の角度で左に向くと、ようやく洗濯ばさみが見えた。

「(…私の方は、まだまだ慣れないなぁ)」

 死角が増えて不便なだけじゃない。彼女は左目を失ってから、平衡感覚がこんがらがって躓きやすくなったし、距離感もイマイチつかめなくなっていた。

「…ふふっ」

「…?なに?何か面白いことでもありましたの?」

「え?…いいえ?特には」

 そう言いつつ、シャトーはまたクスクスと笑った。

 …ここのところ、彼女は、不便な自分を体感した時、悲しむのではなく、喜ぶようになっていた。

 だって、左目のせいで不便なのは、自分がちゃんとご主人様に全てを捧げられている証で、お義父さんの想いに忠実な証なのだから。

 だからこそ、彼女は眼帯などで左目を隠したりはしなかった。腫れぼったく、醜くなった瞼を露出させてこそ、自分がご主人様とお義父さんの物であることを周囲に示せると、彼女は本気でそう思っていた。

「(狂うって、多分、こういうことなのかな…?)」

 ちょっとでも狂えている自分に、彼女はゾクゾクと感動を覚えていた。

 ただ、一方で、ラディカの方は、そんな痛ましい彼女の有様を見るほどに、少しだけ顔を曇らせていた。


……


「下僕」

 ちょうど洗濯物を終えたシャトーに、ラディカが声をかけた。

 ラディカは振り返ったシャトーに向けて、ちょいちょいと自分の隣を指差した。

「あ、はいはい…」

 シャトーはおばあちゃんみたいな返事をした後、ラディカの隣に腰掛けた。

 二人の座る間隔は少し空いていた。それが気に食わないラディカは少しムッとした顔で、もっと寄れとシャトーを手招きした。

 シャトーは、また「はいはい」と言いながら、ラディカとぴったりくっつくまで身体を寄せた。

 むふーと満足したラディカはシャトーの肩に腕を回して、先ほどまで読んでいた本を二人で一緒に読めるようにした。


「…また読んでるんですか、それ」

 シャトーの目の前に開かれた本は、文字よりも絵が多い、まるで幼児向けの絵本であった。

 タイトルは『高貴なる冒険』

 …剣と魔法の世界のお姫様、『カンヂダエ王妃』が全てのしがらみから逃走し、雄大な自由と快美な愛を謳歌する物語。

 特に高尚な文章も目を見張る技巧もない、ただの少女向けファンタジー小説。普通なら7,8歳にもなれば卒業する、ゆるふわ幼稚小説。

「他にも面白い本はいっぱいあったでしょう?メルヌイの『熱現象原理』とか、キーンの『同位魔術における物質の運動』とか…」

 シャトーは、自分の本棚を思い出しながらラディカに尋ねた。

「なんで、よりにもよってそれなんですか?」

 その疑問は嫌味っぽくはなかった。本当に、純粋に気になって質問している雰囲気で、声色からもそれはよく伝わった。

 だから、ラディカは気楽に答えた。

「そんなの決まってるわ。面白いからよ」

「面白い、ですか…?」

「面白いわよ。特にココ。ラストのシーン。カンヂダエ王妃が、自分が一番穏やかになれる、さびれた水車小屋でゆっくりと目を閉じるのところ」

 ラディカは現在読んでいるページの間に左手の親指を挟みつつ、右手で後ろのページをパラパラめくって、シャトーに指し示した。

「憧れるわ、こういうの…。カンヂダエ王妃、お城を飛び出して、見たこともない場所を冒険して、色んなものを食べて、色んな景色を見て、色んな人に出会って、恋をして…」

「本当に、自由で羨ましい…」

「へぇ…」

 シャトーは、うっとりとしているラディカの顔を見ながら静かに考えた。

 …少女小説が対象年齢以上の人間にとって全く楽しめない物だとは思わない。

 思い出補正か、分野内の技工か、いずれにしても多少なり高尚な理由で、それらに目を見張ることは出来る。

 しかし、感心は出来ても“熱中”は出来ない。

 思索を凝らせても、“純粋な面持ちで心の底から楽しむこと”は出来ない。

 だって、大人とは、つまり、そういうおこがましさを手に入れてしまった人間を言うのだから。

「(…でも)」

 シャトーは読書を再開したラディカを見て思った。

「(こうやって、木陰に腰掛けて、ほんわりとした世界の中で、小さく鼻歌を歌いながら『高貴なる冒険』を読み進めているラディカ様は、本当の子どもみたい…)」

 なんでだろう。ラディカは、年齢も身体もしっかりとした大人そのものなのに。

 どういうわけか、彼女には純粋で、無邪気で、子どもみたいな無垢さの方が良く似合う。

 彼女のそういうあどけなさを目撃した時、シャトーの頬はつい緩んでしまう。

 彼女のことを「かわいい」と、そう思ってしまう。 


 ページがめくられていく間、シャトーは本よりも、かわいいラディカを見つめていた。

 いつの間にか、読書は最後のページに差し掛かろうとしていた。

 すると突然、ラディカの表情はふっと暗く、悲しいものに変わった。

 …何か、嫌なことを思い出したような顔になった。

 彼女は最後のページを読むことなく、力なくパタムと本を閉じた後、それを自分の膝の上に置いた。

 そして、彼女は空いた両腕でシャトーをぎゅっと抱き締めた。

「…あのね」

 ラディカが小さく口を開いた。

「お母様は、この本が嫌いだったの」

 彼女は、ただそれだけを言った。

 その後は、何も言わなかった。

「それは…」

 シャトーは、どう声をかけて良いか分からかった。

 分からなかったから、彼女は黙って、ラディカに抱き締められることにした。


 二人、ずっとそうしていたら、やがて、日が暮れた。



 五


 最終日。出発の前日。

「下僕、お風呂」

 それは、いつものラディカの催促であった。

「あ、お風呂ならもう湧いてますよ」

 意外なことに、小教会にはちゃんとした浴槽があった。

 尤も、それは上下水道が配管されたものではなく、シャトーの魔術により運用がなされている、実質、ドラム缶風呂と何ら大差ないものであったが。

 しかし、ラディカはこれをすごく気に入っていて、毎日のように入っていた。

「湧いてるのは知ってるわよ。私は付いてきなさいって言ってるの」

 …ただ、ラディカがシャトーを風呂に誘うなんてことは、今まで一度も無かった。

「えっ…?」

「入るんですか…!?私も…?」

「そう、だから、そう言ってるじゃない」

「…それは、洗髪係として、お背中を流す係として、とかではなくて…?」

「あの浴槽は狭いけど、小さい貴女なら足の間に挟めばギリギリいけますわ」

「えぇ…」

「マ、マジで言ってるんですか…?」

 …ここのところ、ラディカからシャトーへのスキンシップが増えていた。

 妙に触られたり、くっつかれたり、昨日なんて「着替えを手伝え」や「一緒に寝てくれなきゃ殺す」なんて告げられた。

 シャトーは、ラディカからあられもない姿を幾度となく見せつけられていた。

 彼女はそんなラディカのことを「もしかして、美貌に無反応なことを未だに根に持ってるのか?」なんて訝しんでいた。

 しかし、実際のところは違う。

 ラディカは、何となく寂しかったのだ。

 シャトーだけが自分の言うことを聞いてくれることを、シャトーがいなければ自分が独りぼっちになってしまうことを、彼女は無意識に理解していた。

 尤も、頭では分かっていなかった。頭は今でも自分を『悪女ラディカ』と認識しているし、公開処刑なんて嘘だと信じている。

 しかし、心と、身体が否定しているのだ。どれだけ現実を否定しても心は空っぽのままで、首には横断する斬り傷があるような気がするのだ。

「これは命令よ」

 だから、ラディカは意地でも、無茶苦茶でもシャトーと離れたくなかった。出来るならば、1秒でも長くくっついていたかった。

「め、命令…」

 シャトーは下僕なので、従わざるを得なかった。

「…分かりました」

 シャトーは神妙な顔で答えた。

 そして、彼女は強い覚悟を決めたような、深い絶望に陥ったような目でラディカを見つめた後、言った。

「ご一緒させていただきますが…、お願いですから…、私の本当の姿を見て、笑わないでくださいね…?」

 …たかが、女の子同士でお風呂に入るだけでしょ?何をそんなに真剣に受け止めてるの?

 それが、ラディカの正直な感想だったが、この考えは間もなく覆った。

 脱衣所から、悪女の甲高い高笑いと、下僕の苦しそうな泣き声が酷く響いた。


……


 常に必要分しか所持せず、ストックなんて持たないのは合理主義者の特徴だと思う。まぁ、一人暮らしで、もてなす客なんて知らないっていうならば、それでも良いだろう。

 でも、こうやって二人で風呂に入るなんて例外に対処ができないから、やっぱり合理主義者っていうものは欠陥だらけの不良品なんだと自覚させられる。


 一本一枚しか持っていなかった結い紐も、フェイスタオルも全てラディカ様が独占してしまった。

 自分の家の風呂とはいえ、まさか、人前で湯に髪をつけるわけにはいかないので、私は入浴前に長い金髪をシニヨンしようと苦闘した。しかし、そうやってモタモタしている間に、風呂場の方からラディカ様の「下僕!早く来なさいよ!私を放置する気なの!?」と怒声が飛んできたため、結局、私は乱雑に巻き上げた髪に手元の櫛をぶっ刺して対処するしかなくなった。


 …この金髪は、私が私である理由の一つだから、本当はもっと大切にしたいのに。



「はぁ〜…、痺れるくらい沁みるわねぇ…」

 ラディカはおっさんみたいなため息をついた。

 同時に、彼女は足の間に挟んだシャトーの小さな身体を、抱き枕のようにぎゅっと抱き締めた。

「ホント、良いサイズ感ねぇ…、“貴方”。ちびっこく生まれてきたことは、貴方における最大の功労ね…?」

 外側は温かい湯に包まれ、内側はシャトーの身体に満たされて、彼女は本当に幸せそうだった。読書している時のように、楽しそうに鼻歌を歌っていた。

 対し、シャトーは、すこぶる肉肉しいラディカの身体を地味にうっとおしく思っていた(太ってるわけではないけどねぇ、何分実りが良すぎんのよ)。

「(…小さいより、そっちの方が良いに決まってるじゃないですか。そっちの方が、女性らしくて…)」

 彼女は、自分の身にまとうラディカの身体の包容力が心地良くてしょうがないこともまた、少し嫌だった。

 なんだか、“自分の嘘”の限界を思い知らされているようだった。



「…結局、私からの謝罪って、なくても良かったんですか?」

 湯船のお湯が温くなってきて、風呂に入っているというのに少しずつ身体が冷え始めてきた頃。

 シャトーは、ラディカにポツリと尋ねた。

 ラディカは、…もっと温まりたいとシャトーの身体を先ほどよりももっとギュッとしている彼女は、「何の話?」と首を傾げた。

「…ほら、ラディカ様に左目を渡したのは、あくまで私が貴女の下僕になるための儀式であって、他に謝罪が必要だったじゃないですか」

「嘘をついた、贖罪が必要じゃないですか…」

 シャトーは、自分を締めるラディカの腕を、震える両手で握って呟いた。

「私は…、ラディカ様になら、もっと奪われてもいいんですよ…?」


 …目だけじゃない。耳でも、歯でも、舌でもいいから、他にもご主人様に奪い取ってもらえれば、私はもっと本物になれる。

 そうすれば、私はもっと狂気に堕ちて、楽になれるのに…。


 お風呂でラディカと二人でぽかんとする時間は、シャトーにとって毒であった。ぼんやりとした空間は、常に高速で回転する彼女の脳には都合が良くて、彼女はつい、内省を始めざるを得なかった。

 ラディカが気持ちよくのんびりしていた間、シャトーは悶々と湧き上がる不安と戦っていた。

 だからこそ、彼女はおねだりをするようにラディカに尋ねた。

 それなのに

「あぁ、それね。それならもういいのよ」

「えっ…?」

「まぁ、普通なら貴方レベルに不敬を働いたゴミには、全裸土下座でも何でもさせて、心の底からの誠意を無理やり引き出してやるところなんだけどね」

「でも、貴方は特別。貴方は私の下僕だけど、一番の下僕なの。だから、そこら辺のメイドや従者共にするような程度の低い扱いはしたくありませんわ」

 ラディカは、自分の手をシャトーのお腹に当て、小指で彼女のへそをくりくりほじった。

 それはまるで愛撫のようで、母以外の人に愛を示したことがないラディカなりの慈しみ方であった。

 だが、そんな彼女なりの優しさが、シャトーをますます苦しめた。

 シャトーは、無意識にラディカの腕をきゅっと握った。

「…そんなにも、私にくっついていたいの?」

 ラディカは、そんな寂しそうなシャトーを愛おしく見つめた。

「ホント、似た者同士なのね。いや、どっちかっていうと同じ穴のムジナか…」

 ラディカはシャトーの手をほどいて、彼女の首に腕を回した。前傾姿勢になって、ちょっとだけ彼女を押し潰すような体勢になって、彼女を感じた。小さいけど、あったかい。

 その後、身体を起こしたラディカは、おもむろにシャトーの髪に刺さった櫛を抜き取り、ペタッと湯面に貼った金髪の少しを手に取って言った。

「一緒に暮らして、ずっと思ってたけど、本当に綺麗な金髪ね」

 …そう思うなら、もっと丁寧に扱ってほしいと思いつつも、シャトーは嬉しそうに照れた。

「そりゃあ…、長年手入れしてきて、ようやくここまで伸ばせた私の自慢ですから…」

「不快ね」

「えっ…」

 間髪入れずに飛び込んできた反感に、シャトーは一気に体が冷えた。

「私と同じくらい長くて綺麗な金髪、ずっとうっとおしいと思ってましたの。でも、貴方のことを大切にしたいから、命じるかどうか悩んでましたの」

「でも決めた。貴方、断髪をなさい。…いや、私が貴方の髪を切ってあげるわ」

 そう言って、ラディカはザバッと湯船から上がった。リビングに向けて歩き出したのは、ハサミを持ってくるためだった。

「えっ…、ちょっ…!ラディカ様…!待って…!」

 シャトーも慌てて湯船から出ようとした。しかし、そうやってご主人様を止めようとする彼女に、ラディカは言った。

「今、一歩でも風呂から出たら下僕失格よ」

「…ッ!」

 シャトーは、一歩も動けなくなった。縮こまって、湯船にへたり込む彼女に、ラディカはニコッと笑った後、また鼻歌を歌いながらリビングの方へ消えていった。

「なんで…」

 …耳や歯、舌を失うくらいならまだ構わない。

 でも、この髪は違う。

 この髪は、私が『理想の私』になろうとした結果なんだ。

 大切な、私の財産なんだ。

「ラディカ様…、どうして分かってくれないの…?」


……


 …礼拝堂でピカピカのガロ像に祈りを捧げる義父に、玄関から飛び込んできたシャトーが嬉しそうな声で尋ねた。

『お義父さん!見て見て!お小遣いで結い紐買ってきたの!』

 義父が振り向くと、そこには、後ろを向いて、結い紐を使ってオシャレに作った低めのお団子を自慢する無邪気なシャトーがいた。ぽむぽむしたお団子とは対照的に、うなじから背にぱらぱらと垂れる後れ毛が若干煽情的だった。

『これなら、街のみんなも可愛いっていってくれるかな?そうしたら、布教活動ももっと上手くいくかな?』

 興奮気味にそう尋ねるシャトーに、義父は苦笑いして答えた。

『あぁ…、まぁ…、そう、かもしれないな』

 あまり芳しくない答えに、シャトーはしゅんとした。義父の方を向いて、手を前で組んで、俯いた。

『…こんなのじゃ、シャトー・ブリアンには成れないかな…』

 そうやって落ち込んでいるシャトーに驚いて、義父は慌てて彼女の方に駆け寄った。

『そんなことはない…!そんなことはないぞ…!お前は、いつも私に尽くそうと頑張ってくれているじゃないか…!』

『私はただ、お前が無理をしているんじゃないかと心配なだけで…、それで…』

 そう伝えて、大切に抱き締めてくれる義父に、シャトーは顔を上げて、頬を緩めた。

『私…、可愛くなるのは好きだよ…?』

『無理なんか、してないよ…?』

『そうか…』

 義父は安堵して言った。

『お前には、長い髪がよく似合うと思うよ…』



 茫然自失から目を覚ました時、シャトーの目の前には湯面に浮かぶ金髪があった。

 ただし、それらはもう、彼女とは繋がっていなかった。

 ハサミを持つ手と反対の手で、肩につかないくらいの長さになってしまった金髪をさらりと撫でて、ラディカは満足げに微笑んだ。


 その日、シャトーは一緒に寝ろと命じるラディカのことを頑として断った。



 六


 早朝。

 ラディカが起きる前に出発の準備を全て終わらせなくちゃと自室からリビングに降りようとしたシャトーは、階下から感じる妙な人の気配に驚いた。

 礼拝堂に行くと、そこには目を腫れぼったくして礼拝堂の長椅子にぶすっと座っているラディカがいた。

 太陽もまだ昇っていないというのに、寝間着姿のシャトーは驚いて尋ねた。

「ラ、ラディカ様!?随分とお早うですね…」

 シャトーの声に、ラディカはチラッと彼女を一瞥した。が、すぐに顔を逸らして、再びぶすっと膨れ上がった。

 ラディカは拗ねていた。独りでいるのは嫌だというのに、それでも別室で寝やがった下僕に寂しさをぶつけたがっていた。

 よく見ると、彼女の目元には隈があった。彼女は早起きしたのではなく、寝られなかったのであった。

 シャトーは微妙な気持ちになった。

 彼女は謝る気は毛頭なかった。だって昨日のことは完全にラディカの方が悪いのだから。

 しかし、自分も少し強情すぎる気がした。髪をバッサリ切り落とされたと言っても、まだボブくらいの長さはある。後ろ髪に合わせて前髪をパッツンに切りそろえたから、全体は整ってるし、可愛いっちゃ可愛い。

「はぁ…」

 妥協して、ご主人様に寄り添おうと決めたシャトーは、ため息をついた後、ラディカの隣に座った。

 シャトーはラディカの方には向かず、ただ、自分の膝をポンポンと叩いて言った。

「…残す準備は道中のおやつを作るだけです。本当は奮発してクッキーでも焼こうと思っていましたが、ご所望されないのでしたらどうぞ」

 ラディカは涙目でシャトーの膝を見た後、黙って頭をポスッと載せた。

 その後、彼女はあっという間に眠りについた。くぅくぅと寝息を立てて、安心しきった表情でまどろみに落ちていた。

「本当、手間がかかりますね…、貴女って人は」

 シャトーは無意識にラディカの頭を撫でようとしたが、ふと思い立って伸びる手を止めた。

 ご主人様を飼い猫のように扱うなんて、下僕として良くないんじゃないかと思った。

 けど、結局、彼女はラディカの頭を撫でることにした。

 だって、すやすやと眠るラディカは無垢な子どもそのもので、決して悪女じゃなかったから。

 こうする方が良いと、そう思ったから。


……


 昼前。

 外に出たラディカは、周囲をキョロキョロと見回した。

 が、やはり、何をどう見ようともいつもと同じ、無数の丘と僅かな木々しか見つけられなかった。

 帰りの馬車なんてどこにも無かった。

「どういうことよ、これ」

「まぁ…、要するに、アメリーまでは徒歩になります」

「…本気で言ってますの?」

「準備は?この一週間で、旅の準備をしたのでしょう?」

「あ、あー、そのー…、準備ってのはですね…」

 シャトーは背負っていたリュックの巾着を開けてみせた。

 中には財布、水筒2本、紙で包んだサンドイッチ2つと、ボロ雑巾で保護した謎の陶器が7点、不思議な色合いの布が1枚、それから、『高貴なる冒険』の一冊が、ひしめき合い、押しつぶし合いながら入っていた。

「アメリーまでの道中での飲食料と、お金と、…あと、小教会中を探して見つけた、旅の資金になりそうな換金物…」

「それが準備と?」

「はい…」

 ラディカは、分かりやすくため息をついた。

 同時に、彼女は拳を握った。無意識の行動だった。

 しかし、彼女はチラッと、申し訳なさそうにするシャトーの表情を見て、拳を解いた。

 彼女は悪女として下僕に罰を与えられない自分をもどかしく思いながら、告げた。

「…歩くのは嫌よ。絶対に嫌。だって、そんなの権力者じゃないじゃない」

「何とかしなさい」

 それだけ言い残して、ラディカは墓地の方に行った。

 てっきり殴られると思っていたシャトーは、痛くも痒くもない自分の頬をポリポリ掻きながら、眼前から去るラディカを目で追った。

「なんというか…」

 シャトーは、自分とラディカの関係が、下僕とご主人様であることを差し置いて思った。

「ラディカ様、ちょっと変わられた…?」



 墓地の方に向かってみると、ラディカは、墓石に座って、脚を組んで、ブサイクな顔をしていた。

 ただし、それは左端の墓ではなく、真ん中の墓であった。

「(…まぁ、自分のお墓に座る分には良いのかな…?)」

 そんなことを思いつつ、シャトーは現状の打開策を考え始めた。


 …権威の有無とか関係なく、実際問題、今のラディカ様を歩かせるのは酷だよなぁ。

 底の厚いブーツ(身長5cm UP!)を履いてる私はともかく、未だシーツを靴代わりにされているラディカ様を半日も歩かせるのは嫌だよなぁ。

 でも、歩く以外に旅を始める方法なんて…


 …魔術に頼る?

 私一人だけなら、変性魔術で空を飛ぶなり、瞬間移動するなり出来るけど、ラディカ様が付属しないんじゃあ、意味無いしなぁ。

 召喚魔術はどうだ…?

 いやでも、召喚で出てくる魔獣って、大体変なのばっかだしなぁ(腕がアホみたいな数生えたゴリラとか、通常の150倍ネトネトした巨大ナメクジとか…)。

 そんなのにラディカ様を運ばせるわけにはいかないよなぁ。

 というか、個人的にそんなのと一緒に人前をウロウロしたくない…。


 シャトーは考えの最中、チラッとラディカの方を見た。

 ラディカはお墓に座ったまま、ぼんやり顔をしながら、いつの間にかそこにいた羽うさぎに千切った雑草を与えていた(今までどこ行ってたんだコイツ)。

 …あれだって、連れて行きたいと言われても絶対に連れていけない。


 超位の魔術は、産物ですら周囲に見せたくない。

 …ただでさえ、周囲から『破戒のシスター』って煙たがられてるんだから、これ以上悪目立ちはしたくない。


 あと、物質創造は使えるけど使いたくない。

 魔族の魔術の中でも、特に使いたくない。


 …魔術での解決は、諦めるしかないかぁ。


「うーん…」

 振れる袖の無さに煮詰まったシャトーは、またラディカの様子を見た。

 ラディカも、シャトーの方を見ていた。

 目が合った。しかし、ラディカの方はどこか不安げな顔をしていた。

「あ…」

 シャトーは自分の頬に手を当てた。自分が、悩みに苛まれて面倒臭そうな顔をしていたことに気がついた。

「えっと、あ!あぁ!い、今、良い方法を思いつきますから!もうちょっとだけ待っていてくださいね…!」

 安心させるべくそう伝えるシャトーに、ラディカはまだ若干不安そうにコクリと頷いた。

 シャトーは周囲を見回した。

 なんとか、なんとか、ご主人様を歩かせずに済む方法は無いか。


 そう焦った末に、彼女は一つ、打開策を講じることが出来た。


 ちょうど墓地は、じゃがいも畑の一部を改装して作ったものであった。

 その過程で、腐葉土を固い土に入れ替える作業を、彼女はしていた。



 七


「…ふむ、乗り心地にさえ目を瞑れば悪くありませんわね?この駄馬車」


 小教会からアメリーにかけて延々と続くあぜ道。

 曲がり、くねり、幾つもの丘を上り下りする小道。

 そのど真ん中を、人一人を乗せた土運び用の荷車が、小さなシスターに引かれ、ゴロゴロ転がる。


「そりゃあ…良うござんした…!」


 単なる貧乏ガリガリチビシスターでは、発育のすこぶる良い女性をドカッと乗せた荷車を引いて前進することなど、不可能そのものであった。

 ただ、シャトーは身体強化の変性魔術が使えた。

 それ故に、彼女は不可能を可能にし、只今に筋肉モリモリマッチョマンの全力以上の馬力を発揮して、ラディカを運ぶことが出来た。


 …人力以上、馬力以下の速度で進む荷車。

 ガタガタと揺れる。

 いくら魔術で身体強化をしているとはいえ、シスターは、奴隷並みの重労働のためにひぃひぃと苦しそうに息を吐く。


 …ゆるやかに流れる景色と時間。

 遠くでサワサワとざわめく一本の青い木。

 よく見ると、ほんの一部は秋の到来を喜び始めている。

 ふらふらと頭を揺らす草花。

 物言わぬくせになんだか楽しそう。

 その周りを飛ぶ、越冬のために頑張って働くクマバチ。

 血が繋がってるからか、空を飛べなくても、地を這ってでも頑張る蟻。

 不規則にひらひらして、見た目じゃ何考えてるか分からない、地味色だが綺麗な蝶々。

 それを妬むように、雑草にふんすと居座る、みっともない蛾。

 他、地をうねる名前も知らない、長い虫。

 カサカサと、傍にヤモリもいる。イモリかな?

 あっ、食べた。


 …ラディカは、呆けてそれらを見渡す。

 どれも、大したことのない光景。

 きらびやかな首都のシテでは、高貴なるフランの禁裏では決して見ることのできない、しょぼい光景。

 “誰もが知るラディカ”にとっては、見るに値しない光景。

 でも、今のラディカは、シスターと二人きり。


「はぁ…」


 …ため息が出る。

 この一週間、飽きるほど見てきた。

 ここは、どうしようもない程に王国のド辺境で、ド田舎。

 何もない、面白味の欠片もない場所。

 …でも、権威の届かない、しがらみも何もない。


 “城の外”。


「ふふっ…」


 背後には段々と遠のく小教会。

 お母様の墓。

 しかし、後ろさえ見なければ、周りには悠然な自然が広がっている。

 のんびりとした自由が広がっている。


 …ラディカは大きく息を吸った。

 美味しい空気と共に、気持ちいい心地が肺をいっぱいにした。

 ふわっと、幸せが溢れた。


「ねぇ、下僕…?」


 だからこそ、彼女は、震える心に堪らなくなって、シャトーに伝えた。


「本当に悪くないわね…!この駄馬車…!」


 …その言葉は、額面だけはトゲトゲしていた。


「そりゃあ、良う…」

「…いえ、本当に良かった…!」


 …しかし、ラディカの内側を知ったシャトーは、微笑まずにはいられなかった。

 だって、今に、そよ風になびいた横髪を大胆にかき上げ、自分の居る世界に夢中になっているラディカは、ファンタジー小説のヒロインのような、明るい喜びに満ちた表情で…。

 まるで、悪女とは真逆で…。


 屈託のない笑顔をされるラディカ様は、本当に可愛らしい。


 …ラディカと共に過ごした日々を通して、シャトーの中にある『ラディカ』のイメージは、ゆっくりと溶け変わりつつあった。

 最初は、いきなり暴力を振るうし、無茶苦茶なことを言ってくるしで、世間のイメージ通り『悪女ラディカ』としか思えなかったけど、

 それだけじゃない。

 ラディカ様だって人間なんだ。

 “たまに癇癪を起こすだけ”で、あの方だって笑って、泣いて、寂しがって、安心する、色んな想いと葛藤を持った普通の人なんだ。

 私と、何にも変わらないんだ。


 シャトーはもう、ラディカのことが怖くなかった。

 むしろ、じわりじわりと好意を抱いていた。

 だからこそ、彼女の心は踊っていた。

 これからの旅に、ラディカと共に歩める道筋に、希望を抱いていた。


 この旅が終わった時、ラディカ様のことが大好きになれたらいいな…。

 それこそ、本当に、いつまでも傍でお仕えしたいって心の底から思えたら…。

 ラディカ様だって、きっと同じ気持ちだよね…?


 …ただし、シャトーは完全に失念していた。

 二人だけの世界は、小教会を抜けた先には、もうどこにも無いということを。

 これから向かうアメリーには千差万別の人がいて、何より、『世間』があるということを。

 『契約』は、二人だけのものだということを。


 シャトーの心の底に、小さな種が転がった。


 何の種かは、まだ知らない。






──────────────────────────

【人物紹介】


『ラディカ』

 バカだから挿絵のない本は読めない。


『シャトー』

 一人暮らしだからと、自室の本棚に堂々といかがわしい本を置いてたことをスッカリ忘れてた。その件をアメリーまでの道中でラディカに詰られて、マジで死にたくなった。

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