1 (3) 『契ってそうして空虚な溺死』
一
「ねぇ」
頭の中で記憶を流し終えたラディカは、凍った声でシャトーを呼んだ。
「な…」
「なんでしょうか…?」
「貴女の目に、私はどう見えてるの?」
「ど、どうって…」
シャトーは回答に困惑したが、見たままの答えを伝えることにした。
「ラディカ様は、その見目からして、他でもないラディカ様に思えますが…」
「そう…?」
「でも、貴女、さっき私を指して処刑されて死んだと言ったじゃない。それなのに、私はまだ『ラディカ』なの?」
「だ、だって、ラディカ様は復活されたから…」
その言葉を聞いたラディカは、シャトーをギロリと睨んだ。
「ねぇ、下僕…?」
ラディカは立ち上がり、一歩ずつシャトーに詰め寄った。
シャトーは後ずさった。しかし、彼女は逃げられなかった。なにせ、彼女の後方には、精巧に四角に切り出された、ラディカのモノと同じ“ソレ”があったから。
ラディカは、自分と“ソレ”でシャトーを挟んで問うた。
「貴女の背後にあるお墓は、誰のモノなの…?」
「…!こ、これは…」
シャトーは言い淀んだ。彼女は、出来るならば最期まで“ソレ”の正体をラディカに教えたくなかった。何故なら、家族の訃報が如何に辛くて、聞いた者の身を引き裂くか、知っていたから。
しかし、彼女はラディカのただならぬ様子、すごみに、口を開かざるを得なかった。
「…貴女の、ラディカ様のお父様とお母様…、リヴィジョン殿と、ファンド女皇のモノです…」
「…そう」
「亡くなられたのね、お母様は」
シャトーは沈んで答えた。
「残念ながら、そうなります…」
ラディカは「ふぅん」と軽く反応した。シャトーは、その反応に違和感を抱いてラディカの表情を見た。
その表情は、確かに絶望に近かった。しかし、何というか、その絶望は家族の死に対するものではなかった。
悲しい、ではなく、苦しい、が主体の絶望であった。
「お母様がいないのに、貴女とっての私は『ラディカ』なのね」
それはどこか、言い訳のように聞こえた。
「…?えっと…?」
「他の人にとってもそうなのかしら?私は『ラディカ』で、『フラン家の長女』で、『悪女』なのかしら?」
シャトーはラディカの問いの意味がよく分からなかった。なので彼女は、とりあえずラディカの頭の先からつま先までザッと見た後、客観的に答えた。
「それは…、そうなんじゃないですか…?背が高くて、長い銀髪で、碧い瞳をされてらっしゃる女性といえば、やっぱり一番に連想するのはラディカ様ですから…」
その回答を聞いて、ラディカは何も言わなかった。彼女はただ、目の前のシャトーを横にどかした後、自分の父母のものらしい墓石にそっと腰掛けた。
シャトーは驚いてラディカに伝えた。
「ちょっ、ラディカ様…!?それは貴女のご家族のお墓でして、椅子にされるのは…!」
「黙りなさい」
ラディカは一言でシャトーを制した後、告げた。
「これはお母様のお墓なんかじゃありませんわ。だって、私が生きているんですもの。お母様だってきっと生きてますわ」
「そうね、お母様なら今頃、シテのフランの禁裏で相変わらず従者でもいびってるんじゃないかしら?それか、急にどこかに消えた私のことを心配されてるかしら?そうだとしたら、娘としてはちょっと嬉しいわね?」
「は…?」
「…は?は?」
シャトーは、あまりにも訳が分からなくて、何度も困惑の声を発した。
しかし、対するラディカは時間が経つほどに、自分の母の墓石に尻を置くほどに、気持ちが落ち着いたような、すっきりした表情へと変わっていった。
それは、簡単なすれ違いから生まれた認識のズレであった。
しかし、そのズレはあまりにもラディカの自己認識を歪め、正確な現状把握を不可能にした。
ラディカは確信していた。
自分が死んでないのだから、母も死んでいない。処刑なんか有り得ない。
このシスターはきっと、滅茶苦茶を言って自分を騙そうとしていたのだと。
その理解は、彼女の論理が為せる業であった。
しかし、それはあまりにも無茶であった。
彼女の認識がどれだけ狂おうとも、彼女には見える目があり、聞こえる耳があり、考える頭があった。
現状を踏まえて、…あまりにも何も持たない自分を踏まえて、自分が持つ論理がおかしいことに彼女は何となく気がついていた。
悪女としての論理がもはや古いものであることに、どことなく気づいていた。
この物語の主人公であり、『祝福の力』なる特別なものを宿す彼女であろうとも、現実には逆らえなかった。
だから、彼女は確信が欲しかった。
現実とはかけ離れた自分の滅茶苦茶を肯定してくれる確証を、自分が『ラディカ』であるというその安心を、その目で、耳で、頭で感じたかった。
そして、母の娘でありたかった。
そのための白羽の矢が、彼女の目の前でオロオロしているシャトーに向くことは、もはや周りに従者の一人も居ない、無の彼女の現状を鑑みれば至極当然であった。
二
ラディカは足を組んで、首をかしげてシャトーに問うた。
「ねぇ、下僕。ところで、貴女はどうして私に興奮しませんの?」
「へっ!?えっ!?何ですか…!?今度は急に…」
未だラディカの『お母様は死んでいない』宣言を飲み込めていないシャトーは、これまた唐突にぶつけられた奇っ怪な疑問にひどく驚いた。
「いや、だってさ、貴女には私のことが『ラディカ』に見えてるんでしょ?それなのに、私に興奮しないなんておかしいわよ」
「ねぇ、なんで?なんで私に興奮しませんの?私の美貌は老若男女問わずに魅了するほど強烈なのよ?それなのに、どうして貴女は私にピクリとも反応しませんの?」
ラディカはフラッと立ち上がった後、シャトーをいきなりその場に押し倒した。
その後、彼女は鏡を覗き込むように、シャトーの赤黒い眼をジッと見つめた。
「はっ?へっ!?な、なんですか急に…!?」
二人の顔は、キス寸前と言えるほどの超至近距離まで近づいた。
ラディカのさらりとした前髪が、シャトーの頬に垂れた。
また、前傾姿勢になったことにより、弛んだ古着のヨレヨレチュニックの胸元から、彼女の豊かな上乳をあられもなく露出した。乳頭さえも微かに見えた(ラディカ様が絶賛“つけてない”のは死装束が為、“はいてない”のはシテの文化だからですよ… byシャトー)。
そんなあられもなさに、シャトーは思わず両目を閉じ、ラディカから顔を逸らした。
その様子は、間違いなくドギマギであった。
しかし、ラディカは納得しなかった。
「…やっぱり、貴女、私に興奮なんてしてませんのね」
「だって、貴女ってば私の美貌に虜になってないんですもの。普通なら、私の全てに心を奪われて、目が離せなくなるものよ?それなのに貴女は、照れなんかを理由に目を逸らすのね」
実際、ラディカの美貌は、そう言えるだけのものがあった。
彼女の持つ美は圧倒的で、今だって、ラディカは碌な格好をしていないにも関わらず、どんな絵画や大自然よりも美しかった。
古着のチュニックの、そのダサいスカートからでも威風堂々と伸びる、肉付きの良い、艶めかしい脚。
天界から糸で吊したかの如くピンと張った背。女性的魅惑としての身体の豊満、その圧倒的充足
あまりにも純粋で、透き通っていて、瑞瑞しい、白玉のような肌(…正確には、黄や赤みが混じっているから、白というより、物凄い色白な淡黄の肌)。
艶やかな唇、整った眉。針金を通したようにシャープな鼻筋。
何より目を引く、人類の住まう大陸において唯一無二の銀髪と碧い目。
どんな壮麗な滝よりも雄大に下りた気高く垂れた銀髪。
秘境の湖よりも蒼く、空や海の青から得られる感動ですら太刀打ちできない程の碧を誇る、長いまつげの奥にある碧い目。
その全ては、人間離れした美であった。
それは、シャトーにおける魔術の才に匹敵するほどの稀有であり、ラディカは当然、これに何よりのアイデンティティを感じていた。
だからこそ、彼女は自分の美貌が全く効かないシャトーのことを疎ましく思ったし、自分が否定されていると強く思った。
…尤も、シャトーが彼女の美貌に鈍いのは、四ヵ月前から死体の彼女の身のお世話をし続けて、単に見慣れているからというだけだったのだが。
「ねぇ、どうして?どうしてそうなの?」
しかし、納得のいかないラディカは、小さなシャトーに馬乗りになり、両手でシャトーの両頬を掴みながら尋ねた。
「もしかして、貴女は私のことを殺そうとしてますの?何も知らない私に公開処刑があったなんて唆して、私の美しさを否定して、私という存在を侵害しようとしてますのね?」
「なっ…、なんですか?その発想は…」
「だって、公開処刑なんて嘘じゃない」
「う、嘘じゃありませんよ…?」
「嘘よ」
「嘘じゃないですって…」
「嘘」
「…嘘じゃないですよ」
「う、そ、」
「…嘘じゃないって言ってるじゃないですか!」
事実に反することを何度も押し付けられると、流石に声を荒げたくなる。
特に、シャトーは“理知人”なのだ。道理の通らない理を認める余裕なんて備わっていないのだ。
彼女は苛立った。ラディカのことを訂正せねばならないと本気で思った。
…だが、同時に、彼女は自分の立場を完全に忘れていた。
そのツケは間もなく訪れた。
「へぇ…?貴女、下僕のくせに、私の意見を否定するのね?」
「…えっ?」
「え?じゃないわよ。貴女、さっき言ったじゃない。跪いて、頭を垂れて、忠誠を伝えてくれたじゃない」
「嬉しかったのよ?アレ。あんなに気持ちよく私にひれ伏してくれる下民は、少なくとも今まで見たことなかったから…」
「ねぇ、アレも嘘だったの?そうなの?」
「そ、それは…、その…」
そう言って徐々に迫ってくるラディカに、シャトーは言葉を詰まらせた。
だって、あの忠義は、お義父さんを理由に無理やり捻りだした嘘だから。
ラディカが自分と現実に嘘をついて、自分をあるべき『自分』に仕立て上げている一方で。
それについて、意味が分からないと否定的である一方で。
シャトーだって、自分と現実に嘘を塗りたくって、自分をあるべき『自分』に仕立て上げていた。
『お義父さんの言葉に従っている自分』という虚構を作り上げていた。
三
「ねぇ」
ラディカは、忠義を疑われ焦るシャトーの首筋や鎖骨に指を這わせながら尋ねた。
「取引をしない?」
「と、取引…?」
シャトーは、ラディカの指を気持ち悪く思いつつも、応えた。
「そ、取引、私たち二人にとってウィンウィンな提案、そんな実りある契り」
「私は、貴女に略取されたことと、吹き込まれた嘘のせいで、自分が『ラディカ』である確信が揺らいでしまったわ。まず、それに対する謝罪が欲しい」
「…でも、それよりも先に、私は『ラディカ』に戻りたい。そうじゃなきゃ、私が生きている意味は無いし、お母様に申し訳が立たないわ」
「だから、取引はこうよ。貴女は、私に何か大切なものを献上するの。一度渡してしまえば、もう取り返しのつかないような何かを、私に差し出すの」
「そうしたら、私はそれを必ず受け取るの。そして、私は、それをもう二度と貴女に返せないようにするの。権力者らしく、悪女らしくね。貴女から永遠に何かを奪うの。それで私は『元の姿』に戻れるわ」
「ね?素敵でしょう?」
シャトーは身じろぎしてラディカの指を払いつつ、疑問をぶつけた。
「…それ、私にメリットあるんですか?」
ラディカにとって、それは理外な疑問だったらしく、彼女はキョトンとした。
「えっ…?分かんないの?…貴女って、案外バカなのね」
「分かんないなら、取引の、契りの様子を想像してみなさいな。貴女がもう取り返しのつかないような物を、私に喜んで差し出すのよ?私にそれを奪われることを感謝するのよ?」
「…これって、忠誠心を見せるには絶好のシチュエーションじゃない?」
シャトーはハッとしてラディカの目を見た。
ラディカは、ようやく気がついたのねと言わんばかりに微笑んでいた。
「そうしたら、貴女はもう、私に言い返すことなんて出来なくなるわね…?」
シャトーは生唾を呑んだ。
取引は、彼女にとってこの上ない処方箋であった。
嘘を塗りたくって、自分を無理やり動かして、ラディカに仕える彼女にとって、提案された儀式は確かに彼女が抱える問題を全て吹き飛ばしてくれた。
儀式をこなすことで、嘘ではなく、本当の意味で『理想の自分』が生まれる。
互いに、本物になれる。
少なくとも、二人の間ではそう思い込むことができて、狂うことができる。
取引はウィンウィンであった。
少なくとも、当事者間においては。
二人だけで、一緒に死ねた。
「…取引には」
「何を差し出せば良いのでしょうか…?」
震えながらも話に乗ってきたシャトーに、ラディカはクスリと笑った。
ラディカはシャトーから後ずさりして降り、彼女の上半身を優しく起こしてやった後、顎に手をやった。
「そうね…。貴女が献上すべきものは、単なる物じゃダメだわ。それから、貴女の友人や家族でもダメ。貴女自身から何かが欲しいわ」
「そう、貴女から奪える、一度渡してしまえば取り返しがつかなくなるモノ、たとえば…」
ラディカは、チラッとシャトーの方を見た。
彼女の、その赤黒く輝く綺麗な目を見た。
…その目に、自分の美貌が通じない目に、そういえば腹が立っていたことをラディカは思い出した。
だからこそ、彼女は口走った。
「貴女の目」
「それ、私にちょうだい?」
四
昼過ぎの長閑な空。優しい陽の光。
地面は、田舎特有の湿った土。田舎っ子のシャトーは普通にその上に座れる。都会っ子であるはずのラディカも、意外とすんなりぺたんこ座りしている。
ラディカ。目覚めてからまだ身だしなみを整えていないから、髪の毛がボサッとしている。何本かはぴよんと上にはねている。
シャトーはヴェールを被っている。帽子をかぶるって面倒な時に髪を整える手間が省けるから便利。
そんな二人の上で、ゆったりとした雲が泳ぐ。隣でバッタが空を飛ぶ。カマキリが捕獲に失敗する。雑草が緑。花は茶黒。蝶が死んでいる。アリが生きている。
流れる時間。変わらない空間。
ただ座っているだけだとぼぇーっとしてきて、意識が飛びそう。
そんな中での、ラディカの一言。
非常識。
「は…?」
「…え?」
「め…?」
「そう、目」
「貴女の目を、自らの手でくり抜いたそれを、私にちょうだい?」
「…あ、でも、貴女は優秀な魔術師だからこそ価値のある人間なのよね…。だとしたら両目全部を奪うのはマズいか…」
「なら、片目だけで良いわ。そうね、左目が良いわ。左目を抉り取って、私に差し出しなさい?」
ラディカは、何の気のはばかりもなくそう言った。
見ると、彼女は指先で土をつまんで手遊びをしていた。
彼女にとって、先の発言は意識を漫然とさせながらでも伝えられるほどに、何気ない一言であった。
一方で、シャトーは言葉を失った。
顔を強張らせて、両手をギュッと握った。
彼女は、震える目でラディカを見た。視線に反応して、ラディカが微笑んだ。
彼女はそんなラディカの狂気が恐ろしくなった。そんなものが日常に入り込んだ事実に、拒絶反応が出た。
彼女は、自分の方を見てニコニコしているラディカから、無意識に後ずさり始めた。次いで答えた。
「い…、嫌ですよ…!そんなの…!」
「え?なんで…?」
ラディカは首を傾げた。
「目玉が欲しいって、なんだか悪女っぽくて良くない?」
そんな気の抜けた言い分が、事態を真剣に受け止めるシャトーの神経を逆なでした。
「はっ、はぁ…!?」
「た、たとえ悪女っぽいからって、それのどこが良いんですか!良いわけないでしょう!?だって…、私にはデメリットしか無いじゃないですか!」
「え?メリットはちゃんとあるじゃない。貴女だって、さっきそれを理解したでしょ?」
「それとも、もう忘れちゃったの?」
「…ッ!」
シャトーは一瞬、言葉を詰まらせた。
ラディカの主張は、部分部分は無茶苦茶であったが、筋は通っていた。狂気という点においては、一点張りであった。
案外、意志が一貫している真剣な人間とは、どちらかといえばラディカの方だったのかもしれない。
簡単に手の平を返した不埒者は、どちらかといえばシャトーなのかもしれない。
「つ、釣り合ってないって言ってるんですよ!メリットとデメリットが!」
「釣り合ってない…?そんなことは…」
「ないって言いたいんですか!?そんなのラディカ様の私論でしかないでしょう!?」
「少なくとも、私にはおかしな取引にしか見えません!有り得ない…、認めたくない…!そんな狂気、貴女の方で勝手に楽しんでてくださいよ!!」
けど、たとえ不埒だとしても、流石に目は無かった。
怒涛の勢いで否定の言葉を発するシャトーに、ラディカはシュンと黙った。
少し黙って、彼女は呟いた。
「…もしかして、取引自体が嫌なの…?」
「なんで…?貴女もおかしくなりたいんじゃなかったの…?」
ラディカは、純朴な目でシャトーに問うた。
「取引しなきゃ、私は悪女になれないのよ…?私が悪女になれなかったら、貴女だって悪女の下僕になれないのよ…?それでいいの…?いいわけないでしょ…?」
「だから…、いじわる言わないで取引しましょう…?似た者同士、契って、結んで、“大切なモノ”に一緒に溺れて死にましょう…?」
ラディカは四つん這いになって、前足、後ろ足で一歩ずつシャトーに迫った。
「ねぇ、貴女だって悩んでるんでしょ…?自分という存在、そのアイデンティティに…。貴女も、私と同じで、自分の存在意義に苛まれているのよね…?」
「だからこそ、私への忠義に迷いがあるのよね…?苦しんでいるのよね…?」
「でも、契れば、取引すれば、きっとそんな悩みも解決しますわ…?気持ちが晴れて、心が一つになって、気持ちよくなれるはずですわ…?」
「だから、ね…?一緒に楽になりましょう…?空っぽな幻想にまみれて、幸せになりましょう…?」
今のラディカは、まるでヘドロの怪物のようだった。
無茶苦茶を言ってるのに、妙な説得力がある。拒絶しようとしても心に溶け込む。少なくとも、『同じ悩み』を持つシャトーにはそう聞こえるし、そう感じる。
シャトーの全身が震える。息が荒くなる。
ちゃんとした思考が出来なくなる。
…ひょっとして、本当に目玉を渡す方が正解なんじゃないか?
そんな支離滅裂が、合理として脳裏に過る。
シャトーの理知が、ボロボロと崩れ始める。
常識が、限界を迎えようとする。
五
しかし、理知は必死にシャトーを守ろうとした。
彼女が狂気に飲まれ溺れてしまいそうになったその時、タイミング良く、ラディカの手が、シャトーの頬にそっと触れた。
長い指、ひんやりした肌。
悔しいけど、図星を突く説得。
その全て、恐ろしさ。
まるで、悪魔の手招き。
それが、現実に迫っているという現実。
理知は、それを強い嫌悪感としてシャトーの脳髄に報告した。
脳がゾクゾクとおぞましさを覚えた後、彼女は息を取り戻したかのように、正気を取り戻した。
次の瞬間、彼女は只今に迫る己の危機を理解した。
彼女はラディカを、悪魔を、必死に追い払おうとした。
「嫌…!来ないで…!」
自然と、手が出た。
パチン、と音がした。
シャトーの平手と、ラディカの頬がはじける音がした。
シャトーはその音にハッとして、ラディカの顔を見た。
ラディカの頬は、小さな手の跡でほのかに紅くなっていた。
「あ…」
シャトーの顔は、瞬く間に真っ青になった。
主人に手を出すなど、全く以て忠義に反する行為。
…義父の意志に反する行為。
「いえ…!これは…!その…」
「あの…」
しかし、彼女の口からは、どうしても謝罪の言葉が出てこなかった。だって、自分の平手がどうしても正当防衛にしか見えなかったから。
叩かれたラディカは、迫る様子から一転して、小さく痛む頬を押さえて無言になった。まるで嵐の予兆のように静かに凪いだ。
…今までの彼女の動態を鑑みれば、少しでも気に障ることを聞けば途端に暴力を振るってくる、墓地参拝以前の彼女ならば、叩かれたとなれば、殴る蹴るどころか、即刻処刑を下しただろう。
しかし、どういうわけか、この時の彼女は何もしなかった。加害者に文句を言うどころか、睨むことすらしなかった。
彼女はただ、ひたすらに寂しそうな、悲しそうな顔をした。
「ラディカ…、様…」
シャトーは、そんなラディカがいたたまれなくて、つい口を開こうとした。謝罪の言葉に似た何かを、取り繕おうとした。
だが、その直前、ラディカはポツリと呟いた。
「…貴女なら、一緒に間違えてくれると思ったのに」
そう言葉を零したかと思えば、ラディカはおもむろに立ち上がり、シャトーに背を向けた。
「もういいわ」
「…へ?」
「もういいって言ったの」
「貴女なんて、下僕にはいらない」
「な…、え…?」
「あ…」
シャトーは一気に焦燥した。流石に、こうなってしまえば謝罪の言葉くらい一つでも二つでもポンポンと出た。
「あ、あの…、ごめんなさい!じゃない…、も、申し訳ございません!その…、ラディカ様のことを、た、叩いてしまって…!」
「な、何なりと罰をお与え下さい!気が済むまで私を殴って、蹴ってください!」
シャトーはオロオロした後、ラディカの前で土下座して、屈服した。
「だ、だから…、どうかお許しを…」
だが、そうして簡単に口に出るシャトーの謝罪は、軽かった。
なにせ、そこに含まれた誠意とは、うすっぺらがバレてしまったシャトーによる、自分の本心を隠すための更なる嘘なのだから。
うすっぺらに、何処まで行ってもぺらぺら。
忠誠心なんて、どこを探しても無い。
シャトーは大切な人より自分が大事。
「いいわよ、別に頭を下げなくて。貴女みたいな嘘吐きの下衆、罰する気にもなりませんわ」
「それじゃあね。『さようなら』すら値しない人。二度と私の前に顔を出さないでね」
その言葉を最期に、ラディカは一歩、歩み出した。
シャトーから遠ざかった。
二歩、三歩、もっと。
「あ、あのっ…!ど、どちらへ行かれるのですか…?」
「シテに、お母様の元に帰るの。面倒臭いから付いてこないでね」
歩数が更に足される。
ラディカとの距離がどんどん離れていく。
シャトーは慌てて付いていこうとした。苦し紛れにお供しようとした。
一歩、二歩。
…しかし、三歩目は踏み出せなかった。
それを踏み出そうとしたとき、命令無視に勘付いたラディカが、シャトーをきつく睨んだ。
だから、シャトーは立ち止まってしまった。そして、今に小教会の建つ丘を下りつつあるラディカを見つめるしか出来なくなってしまった。
一方で、彼女の心は焦りに焦っていた。
「結局…」
「結局、私は変われないの…?」
「あんな後悔をして、それでも、私は私が可愛いの…?」
「私は」
「私は…」
…それでも、シャトーは狂気を前に足がすくんだ。
彼女は、どうしても変わることが恐ろしかった。一歩踏み出した先にある非合理と不条理の世界に、自分が適合できる気がしなかった。
同時に、彼女は立ち尽くすことに正しさを覚えていた。
心地良さを覚えていた。安心を覚えていた。
立ち尽くしていれば、このまま、ラディカを見て見ぬふりすれば。
楽になれると気づいていた。自由になれると気づいていた。
このまま黙っていれば。
一歩も動かずにいれば。
明日から、四ヶ月と三週間ぶりに自分本位な一人暮らしを再開できる。
自由だけど、誰にも共感されない、どろっとした苦さでいっぱいの生活を再開できる。
俯いた。
彼女は「これでいいんだ」と、心に何度も言い聞かせた。
自分らしく生きてこそ、称賛されて然るべき。
納得しようとした。
…でも、どうしてか、戸惑いが収まらない。
この、明らかに正しい選択が、自分の解放と気楽に繋がる選択が、どうしても悪いものに思えてしまう。
罪を感じてしまう。
「私は、自由になって…、楽になって…、本当にいいの…?」
シャトーは、今の自分を誰かに肯定してもらいたくて、辺りを見回した。
しかし、ここは辺境。
当然、誰もいない。
だから、彼女は肯定されなかった。
…しかし、彼女を否定する者ならいた。
彼女は後ろ指を差されてしまった。
彼女は、辺境で、誰もいない世界で、一人、あまりにも大切な人を
見つけてしまった。
見つけなきゃよかったものを。
…そこら辺から拾ってきたようなただの岩。
名だけが掘られている。
「…あ」
墓。
「お義父さん…」
溢れ出す思い出。
瞬間、空虚が、シャトーの背をドンッと押した。
足を踏み外したその先には、やはり地獄が広がっていた。
甘い、甘い、地獄が広がっていた。
六
『…シャトーよ。私がお前をシャトー・ブリアンと名付けた意味、覚えているな?』
あどけないシャトーは、拙いながらもハキハキと答えた。
正解だったから、お義父さんが頭をワシャワシャと撫でてくれた。…大きな手。小さいシャトーの頭なんて、すっぽりと収まってしまう。
お義父さんは、シャトーの頭をポンポンと叩きながら言う。何度も何度も、彼女に言い聞かせる。
『…そう。お前はかの姉妹を仇なす全てから守護し、そして、うち滅ぼす強靭な“城”なのだ。…それこそが、お前の存在意義で…』
『私がわざわざ、お前を拾ってやった理由なんだ』
幸せな思い出。
…
……
…そうだった。
お義父さんは私の幸せなんて望んじゃいない。
それどころか、お義父さんは、私が永遠にラディカ様に束縛されることを望んでいる。
苦しんで、不自由で、悲しい思いをすることを望んでいる。
…あぁ、馬鹿だな私。そんなことすら忘れちゃって。
偽りの忠誠心なんて、本当に馬鹿だった。
根本的に、お義父さんの意志を汲みたいというなら、初めっから“これ”をしなくちゃいけなかったんだ。
私はもう、狂気以外に対して盲目のままでいなきゃいけなかったんだ。
それこそが、大好きなお義父さんを信じることで、愛に応えることなんだ。
私が『シャトー・ブリアン』である意味なんだ。
…私の、意味なんだ。
七
「…ラディカ様!!」
シャトーは叫んだ。消えつつあったラディカの背にめがけて叫んだ。
ラディカは唐突な大声にビクッとした後、不機嫌満々な顔で振り返った。
「…なに?まだなんか用なの?」
シャトーは、胸いっぱいに空気を吸った。
そして、思いの丈をぶつけるように、ラディカに吐き出した。
「…ここからシテまでは、馬車と汽車を駆使しても丸3日はかかります!何より…、始めの馬車を調達するためには、バラルダ公領の中心街、アメリーに向かわなければなりません!でも!アメリーには、ここから徒歩で半日はかかります!」
シャトーは続ける。
ラディカの下僕としてあるべき真剣な顔をして、否定ではなく、忠言を続ける。
「ハッキリ言って、ラディカ様お一人では、シテどころかアメリーにすら辿り着けません!だって、ここからアメリーまでは一本道じゃないから!途中に多くの分かれ道、ぐねり道を挟むから!だから…!」
「だから…、ラディカ様にはお供が必要です!」
「…それで?」
「私には土地勘があります…!それに、いざという時には魔術が使えます!…魔術で戦った経験は一度もないから、ちょっと不安ですけど…。でも、お義父さんはよく言っていました!『シャトーは疑いよう無く大陸最強だ』って…!『魔族ですら相手にならない』って…!だから…」
「…だから?」
…いつの間にか、ラディカは踵を返していた。
ふわりと吹く風に、美しい銀髪をなびかせながら、シャトーの前に佇んでいた。
…心地良い風。ここら辺にはよく吹く、強くも弱くもない、珍しくもないそよ風。
お義父さんに連れられて、小教会にやってきた時にも感じた、変わらない風。
ラディカの銀髪と同じように、シャトーの金髪も優しく撫で、なびかせる。
自分という、尊厳の死を意味する風。
「だから…!」
シャトーは自らの意志で片膝をついた。
平伏の意を表すべく。
ラディカに自分を見下してもらうべく。
彼女の奴隷であることを示すべく。
心の底からの、極めて純粋な敬意をもって。
何より、両手で“それ”をしっかりと差し出して。
彼女は伝えた。
「私を、ラディカの側に置いてください!絶対に役に立ちます!ご命令とあらば何でもします!」
「だって…それが、それこそが…」
「『シャトー・ブリアン』だから…!」
…彼女の両手の平の上に転がる“それ”は、紛れもない『忠誠心』だった。
その光景、忠義、有様に、同じ苦しみを持つ不自由なラディカは強く惹きつけられた。
彼女は、シャトーに心を奪われた。
もう、この下僕を捨てる理由はどこにも無くなった。
「…面を上げなさい」
「貴女が嘘つきじゃないことは、もう十分伝わったから」
ラディカは、そう告げられても依然平伏したままのシャト―の両手から、“それ”を摘んだ。
そして、彼女は“それ”を口に含み、転がし、飲み込んだ。
それが、取引で、契りで、二人が『二人』でいるための儀式だった。
現実からどろっと堕ちて溺死するための儀式だった。
その後、ラディカはゆっくりと屈んだ。
シャトーと同じ高さの目線になった。
そして、ラディカは指先でシャトーの顎をくいと上げた後、彼女に向けて優しく微笑んだ。
「…本当に素敵よ、貴女」
「…!ありがとう、ございます…!」
シャトーは、一方で血まみれになりながら、もう一方で涙ぐみながら応えた。
だが、同時に思った。
「(何で私、感謝してるんだろう…)」
「(不自由になったのに…、また苦しむだけなのに…)」
「(こんなこと、どう考えても間違ってるのに…)」
「(でも…)」
それでも、シャトーは感極まっていた。
ラディカに、もう一度拾ってもらえて、
心の底から安堵していた。
同時に、恍惚としていた。
取引の末に、いけない『契約』をしてしまって、
遂に、身も心もラディカに飼われてしまって、
もう、どうしようもなくなってしまって
悦に入っていた。
甘美に、トロトロに溶けていた。
笑みが止まらなかった。
束縛されて、自由を失って
これから、ご主人様と一緒に真っ逆さまに堕ちていくことが、たまらなく嬉しくて、しょうがなくて
犬のように、尻尾をたくさん振っていた。
シャトーは、愛する人のために自分の人生を台無しにできて、最高に幸せであった。
七
…これは、この物語の重大なテーゼ。
幸福とは、苦しみのなさではない。
人は、苦しみのなさ以上に後悔のなさを望む。…というより、人は、心身に壮絶な苦しみを賭しても生に後味の悪さがないことを望む。
また、幸福とは、不自由のなさではない。
人は、不自由のなさ以上に愛の多さを望む。…というより、人は、心身が雁字搦めに束縛されようとも、生に肉欲的温もりと、言葉の安心が満ちることを望む。
幸福とは、生の澱みのなさである。
後悔という、生の推進力に対する障害のなさと、愛という生の加速力の充足こそ、幸福なのである。
全ての人は、無意識にそれを理解している。言葉でどれだけ否定しようとも、魂がそれを肯定している。人は幸福の定義から逃れられない。
だからこそ、ラディカも、シャトーも、只今に己の心を苦しめる選択をし、一方は母に、もう一方は義父に身体を縛られ、奴隷となった。
それが、彼女らの目に、澱みない生であると映ったから。
…ただし、彼女たちはまだ気がついていない。
その選択が、苦しみに見合うほどに、後悔の不在を保証していないことに。
その束縛が、不自由に見合うだけの愛を提供しているかどうか分からないことに。
長生きしたくば、物事には、多少の諦念と妥協が必要だということに。
だから、彼女たちは、己の不健康に戸惑う。
己の危うさを、愚かしさを疑うことになる。
そうして彼女たちは、やはり正しさが恋しくなる。
変わりたくても、戻りたくなる。
彼女たちは、迷い続ける。
一番の幸福を求めて
最もな自分を求めて
苦しみ、後悔し
快楽と、自由に憧れて
何よりも、愛を求めて
歪みながら、それでも生きる。
死ぬまで。
そう、死ぬまで。
───────────────────
【人物紹介】
『ラディカ』
断っておくけど、年がら年中他人の目ン玉求めてウロウロしてるわけじゃねぇかんな。こんなグロテスクなことするの、生まれて初めてだかんな。
『シャトー』
よく考えたら左目が利き目だったから、右目にしとけば良かった。右目だけ生活マジ不便。ふふっ
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