崩れ去る日常
──翌朝。
眠い目をこすりながら時計を見ると、時刻は7時前。
「さすがに2日連続で遅刻はできねーよなー……」
いつもなら二度寝しているが、愛しの先生が可愛く『殺すぞ♡』と愛を囁く光景が脳裏に浮かんだので目が覚めてしまった。
それに、昨日の出来事が刺激的すぎて、あまりぐっすりと睡眠ができなかった気がする。
──それにしても、昨日は意外に何とかなったんだよな……。
放送を終了して、速攻で新校舎に何食わぬ顔で戻ったが、全く何も言われなかった。
謎の校内ラジオ番組が突然始まった形となってしまったが、1、2年のいる新校舎に放送は届いていない。
噂が広まるのもスピードというものがあるので、当たり前といえば当たり前なのかもしれない。
旧校舎では話題騒然となったのかもしれないが、幸運なことに学校生活において3年と1年の接点なんてものは全くない。
そして人の興味もそこまで長く続かない。忙しい高校生のことならなおさらだ。
昨日のことなんて、“夏休み明けの変なテンションでなんかイタい放送してたなあ……”くらいの感じで、もう過去の出来事扱いでも不思議ではない。
いつものつつがない一日が今日も始まる──俺はそう思っていた。
◇
学校に行く支度を整えていると、俺がこの世で一番苦手としている人と目が合ってしまった。
「……ういっす」
何も言わないのも不自然なので軽く声をかけると、
「……ん」
気だるそうな声が返ってくる。
声の主は妹の
凛は寝巻き姿の彼女は眠そうに目をこすりながら、朝ごはんのパンを口元に運んでいる。
食卓テーブルに座り、もぐっ。と小動物のようにわずかにかじりついては、薄鈍色の長い髪がわずかに揺れる。
「……ん」
俺を非難するような声色と共に、その切れ長の瞳で、”なんでこっち見てんの?”という意思がこもった視線が飛んでくる。
女子高校生の割に大人びた雰囲気と、なまじ目鼻立ちが整っているので、
……我ながら妹になんて例えをしているのだろう。
まあ……俺たち兄妹のコミュニケーションは、ずっともうこんな調子だ。
──こんな無愛想なのが、今売り出し中の現役女子高生声優の
仕事の時は猫を被って清楚で上品に振る舞っているらしいが、家ではこんなものだ。
きっと声優も人気商売だから仕方のない面も当然あるのだろう。
ファンが求める偶像を演じなければならない瞬間もあるのかもしれない。
そして俺たち兄妹がギクシャクしている理由もここに大きく関係している。
我が家はシングルマザーの家庭で、主な収入源は母親のパートのみで、経済状況はあまり芳しくなかった。
──凛が声優として成功を収めるまでは。
中学生の時にプロアマ不問の大型オーディションに受かってデビュー以降、元々才能があったのか、それとも努力の末なのか、小さな仕事をこつこつ積み重ねて、今の地位を築いたらしい。
異例の出世を果たした理由の一つとして、たまたま彼女が演じたアニメの原作が大ヒットし、原作人気が非常に高いキャラを彼女が演じていたというのが大きい、らしい。
まさに時代の運も彼女に味方したらしく、あれよあれよという間に、今や売れっ子声優の仲間入りをしている、らしい。
……先程から全て、らしい、らしい、と伝聞推定の形になっているのは、全て本人からではなく、母親から聞いた話だからだ。
というのも、凛が声優としてお仕事をするようになったあたりから、ギクシャクし始めて会話することがなくなったからだ。
……暮らしぶりが少しずつ改善し、妹の収入で自分が暮らしていることを自覚してしまった。
──度々学校を休みながら仕事をして、お金を稼いで家庭に貢献している当時中学生の凛。
──中学生らしく、普通に友達と夜遅くまでつるみ、暇さえあれば遊んでいる自分。
そんな妹と兄のコントラストは、言葉にしづらいがとにかく居心地が悪くて肩身が狭かった。
凛としても、自分が必死に働いてる中、遊び呆ける兄を快く思えるはずもなく、次第に兄妹の会話は減っていた。
今でも凛の働きぶりで生活している以上、俺はとやかく言える筋合いではないし、向こうも向こうで積もり積もった不満らしきものがあるようで、我々兄妹はギクシャクしていまっている。
だが──この居心地の悪さからギクシャクももうしばらくの辛抱。
夏休みから、俺は柊木学園高等部理数科の生徒のために新設された寮に移り住むからだ。
ちなみに今は7月下旬で、登校日も残り1週間ほど。
将来的には普通科や中等部向けの寮を作る計画も上がっているらしいが、まずは試験的導入としてまずは理数科の生徒に入寮してもらうことになっている。
まずは試験的導入であり、生徒側が入寮に関して一切お金を払う必要がない、というのはなんとも太っ腹な話だ。
これに関しては柊木学園の運営母体の柊木グループ様々だ。本当にありがたい。
俺は柊木学園高等部のパンフレットを読んでこのことを知り、理数科を受験することを決意した。
名門進学校のため真剣に勉強に取り組む必要があったが、肩身の狭いこの家を離れて心置きなく高校生活を謳歌できる、ということを思えば、受験勉強にも自然と身が入った。
……まさか男しかいないというのは流石に予想外ではあったが、多少の犠牲も仕方はない。
ちなみに、凛は柊木芸能学園に通っている。
俺が通う柊木学園と同じ柊木の名を冠しているが、両者の関わりは皆無で、ただ運営母体が同じ柊木グループというだけだ。
──と、時計を見ると、乗りたいバスの時間が迫っていることに気づいた。
せっかく早起きしたというのに、遅れる訳にはいかない。
「……じゃ、いってくる」
「……ん」
一応挨拶をしておくと、意外にも返事は返ってくる。
別に険悪ってほどでもないんだよなあ……やっぱギクシャクという表現が一番あっている気がする。
それにしても、こんな早い時間に学校に行くのはいつぶりだろうなあ……と考えながら、学校に向かうバスに乗ったところで──事件が起こった。
◇
(バスの雰囲気がいつもと違うような……?)
現在俺が乗っているバスは柊木学園行きなので、乗客9割は柊木生徒。
女子生徒が、やけにこっちを見て友達とひそひそ話をしている。
(ははーん、さては俺に惚れたな──)
と、自惚れる俺ではない。そもそも俺はあいにくそんな評価を下せるほど自己評価は高くない。あー二宮くらいぶっちぎりでイケメンだったら人生イージーモードだろうなあ……。
それにしても。
……やけにこっち見てくるな。一体なんだろうか?
(あーなるほど……俺の顔になんかついてんのか!)
さすが察しのいい白崎さんだぜ、と思いながら適当に顔を触ってみる。
が、異常はない。
(あれ、違うのか? あー分かった寝癖か!)
窓に映る自分を確認する。
しかし特におかしいところはない。いつも通りの自分が映っているだけだ。
(え、なんだこの状況……割と恥ずかしいんだが)
何もないところで転んだのを大勢にも見られているような、それに似たような形容しがたい羞恥心が湧き上がってくる。
(しかも、なんか距離を感じるんだよな……)
バスの前方にある二人掛けの座席の窓側に座っているのだが、なぜか誰も隣に座ってこない。
しかし、自分より前方の二人用の座席は全て埋まっている。
立って学校まで我慢する人も一定数いるのは理解しているが、学校が近づくにつれて乗客が増えていくので、いつもならとっくに誰かが座ってくる時間だ。
(今日のバス、いつもより空いてんのかもな……)
と思って、後ろを振り返る。
すると──全席埋まっていた。
何故か俺の隣だけすっぽりと空いている。
(え……なんで!? 待ってめっちゃ怖い!)
もうなりふり構っていられず、何度も身だしなみをチェックする。
(チャック空いてるとか!? 襟が立ってるとか!? 制服に穴が開いているとか!?)
しかしどれにも当てはまらない。
(落ち着け。気分はさながらどんな窮地でも勝ち筋を手繰り寄せる軍師参謀のように……とにかく落ち着けっ!!)
心なしか、慌てふためく俺を見る周囲の視線が多くなっていく気がする。
さらに追い打ちをかけるように、
「ねえねえ……(ぼそぼそ)」
「あの人……(ぼそぼそ)」
「もしかして……(ぼそぼそ)」
と、ひそひそ話をする女子生徒の声が聞こえてきた。
(え、ねえ何これ? 恥ずい。なんかこれ超恥ずい! わっけ分かんねえ! 早くこの場から逃げ出したいんだが!!)
窮地に陥り、半ば錯乱状態の軍師参謀が下した決断は──
『ピンポーン。次、停まります』
バスの降車ボタンを16連打することだった。
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