第24話 猿神


 紅緑こうろくの用事が済むまでミズキは夜哉よるやの屋敷で世話になることになった。屋敷には彼に仕えるみずちが二人いて、話では双子の姉弟らしい。


 見た目は至って普通の若い人間の姿をしているのだが、耳が魚のエラのような形をしていた。動きやすい忍び衣装のような衣服を着て、凝った装飾の槍を片手に携えている。



「ミズキ様、わたしは風空ふうくうと申します。隣が弟の雷空らいくうです」

「オレは雷空と申します、よろしくお願いします」



 風空と雷空と名乗った姉弟は頭を下げる。少年少女らしいそっくりな若い顔立ちではあるものの、雷空は少し吊り目だった。


 風空は長い緑髪を兎の耳のように二つに結い、雷空は黄色の短い癖っ毛でくるくるとしている。髪の色が違うので双子の二人を見分けることは簡単だ。



「二人は夜哉様にどうして仕えているのですか?」

「わたしたち姉弟は夜哉様に拾われたのです」

「オレたちを使用人として雇ってくださった命の恩人です」



 双子の蛟は両親を亡くして当てもなく彷徨っていた。麻焼あさやけの町裏でその日暮らしをしていたけれど、まだ幼い子供だった二人には過酷な世界だった。力も無いので縄張り争いに勝てず、食べ物も奪うことも難しい。


 そんな時に姉である風空が身体を壊した。高熱を出して苦しむ姉をどうにか助けたかった雷空だったが、医者に見てもらえるほど信頼も対価も持ち合わせてなかった。日に日に弱っていく姿にもう駄目かもしれないと諦めかけた時だった。


『おや、小蛟がいるじゃないか』


 町裏を仕事で訪れていた男が現れた。立派な竜の角にすぐにただの妖かしではないと察した雷空は「姉さんを助けてください」と縋りついた。男は側で倒れる風空に目を向けて事情を理解したのか、困ったねと眉を下げていたのを覚えている。


 泣く雷空に苦しむ風空の二人を見て男は仕方ないと倒れる彼女を抱き上げた。


『おいで、助けてあげるよ』


 それが水神の夜哉だった。彼は風空を医者に見せて二人を屋敷へと住まわせ、「お前たちはここにいるといい」と助けるだけでなく、幼かった自分たちを大きくなるまで育ててくれたのだ。



「わたしたち姉弟は夜哉様に助けられた身です。感謝しきれません」


「恩を返すべく、オレらは仕えています」

「なるほど……」



 二人の事情を聞いてミズキは納得する。助けてもらっただけでなくて、身も知らぬ子供を育ててくれたのだから恩を感じるのは当然だ。




「夜哉様は優しいですよね」

「はい。夜哉様は命の恩人ですが、私はもう一人の父だと思っています」



 時に厳しく、時に優しくしてくれた夜哉は父のようだった。だから、もう一人の父親のように慕っていると二人は笑む。ミズキはその表情から夜哉への信頼と愛情を感じ取った。


 そんな話をしながら廊下を歩いていると、二人は「こちらが客間です」とミズキを部屋に通してお茶菓子を出した。


 客間の窓から池が見えるのだが、色鮮やかな朝顔が水面を彩っていてそれかまた綺麗で見惚れるように眺める。



「何かありましたらお呼びください」



 そう言って二人は頭を下げて部屋を出ていく。残されたミズキは景色を眺めながらお茶菓子を食べることにした。


 大福は程よい甘さの餡に舌がとろける。頬が落ちるのではないかというほどに美味しくて食べる手が止められない。団子にも手をつけてふふふと笑みが溢れる。こんなにも甘味が食べれるというのは幸せだった。


 甘味が名物とされるだけあって、どれも美味しくて飽きが来ない。これは暫く食べていられるなとミズキは外の景色へと目を向ける。


(朝顔ってこんなに色鮮やかなんだなぁ……)


 目が冴えるような紫や青の色使いにミズキは驚いていた。それが澄んだ池の水面に映り、煌めく光景は美しい。


 はむりと大福を口に含んでミズキは固まった、全身を悪寒が駆け巡ったのだ。皮膚がひりつくような感覚に冷や汗が出る。これはなんだろうとか外を観察して目が合う――巨体な猿が顔を覗かせていた。


 猿をそのまま大きくして、筋肉を足したような図体の雄猿がキツそうな狩衣を纏っている。すぐに只者ではないことをミズキは察して距離を取ろうとするも、雄猿は素早く飛んできて手を掴まれる。



「あの女のいう通りだ! なんと愛らしい人間か!」



 興奮しているのか息を荒げながら雄猿は言った。



「どうだ、おれの妻にならないか!」



 はぁっとミズキは声を上げた、この雄猿は何を言っているのだろうかと。いいだろう、いいだろうと頷く彼に無理ですと慌てて答える。



「私は紅緑様の妻なので無理です!」



 手の甲の所有印を見せるも、雄猿には通用していないようで「それがどうした」と返されてしまう。



「そんなもの上書きできるのだから、おれには通用しない! おれの妻になれ!」


「嫌ですよ! 私は紅緑様の妻でいたいです!」



 もう一度、断るミズキに雄猿は苛立ったようにキィキィと鳴いた。あいつの何処がいい、あんな奴の元よりもおれの方がいいと声を荒げる。



「紅緑様の妻で何不自由していないので、別の方の夫になる理由はないです」



 紅緑の妻でいるけれど、不自由を今まで感じたことはない。一人で外に出ることはできないが、彼は頼めば気晴らしにと一緒に散策してくれる。今日だってその一環として此処まで連れてきてくれたのだ。


 これと言って不満らしい不満は今の所はなくて、妻を辞めたいなどと思ったこともない。自分が妻でいいのだろうかと考えることはあるけれど、他の妖かしの夫に移るかと問われれば違うというのが答えだ。


(と、いうか。絶対に紅緑様、怒るだろうから……)


 紅緑が怒るのは目に見えていた。ミズキを誰にも渡したくないような言動を彼はしているのだ。他の男の元に行ったなどと知られれば、どんなことになるのかはなんとなく想像ができてしまう。


(あの時のように怒ったらどうしようか……)


 老師の事件の時の怒りようは正直、怖かった。やはり、見た当初は恐怖というのを感じてしまう。後から怖さというのは無くなっていたが、そう思ってしまったのは事実だ。もう一度、見たいとは思わない。


 なんとか離れようと試みるも手を強く握られているためそれもできない。雄猿は「おれの妻に」と言って一歩も引く気配がなかった。



「どうなされましたか、ミズキ様!」

「如何なされましたか!」



 困ったなとミズキが思案していると騒ぎを聞きつけた風空と雷空がやってきて、雄猿を見て二人は目を瞬かせる。



「猿神様! 何故、此処に!」



 猿神と呼ばれた雄猿は二人を威嚇して牙を剥き出しながらミズキの肩を抱いた。その様子に雷空が「おやめください!」と制止した。



「猿神様、その方は紅緑様の奥様です!」


「そうです! 雷空の言う通り、ミズキ様は紅緑様の奥様。いくら、猿神様が妖神あやしがみと言っても紅緑様を怒らせては……」



 風空がそう説得するも猿神は黙れと聞く耳を持たない。あんな奴、恐るるに足らんわと豪語する彼は余程、力に自信があるのだろう。ミズキは妖神なのだから強いのかと納得した。



「おれがこの娘を妻にすると言ったらするのだ!」

「考え直してください! 貴方様でも紅緑様には……」

「黙れ、小蛟が! おれはあんな奴に負けるものか!」



 どうにか説得しようとする風空の力も虚しく猿神には届かない。雷空がなんとかミズキを引き剥がそうと駆け寄るも、手を伸ばした瞬間に弾き返されてしまった。


 床に転がる雷空に風空が視線を移した一瞬の隙に猿神はミズキを抱えて部屋を飛び出して行ってしまった。



「しまった!」


「姉さんは夜哉様に伝えてくれ! オレが追いかける!」



 雷空は返事も待たずに駆け出した。そんな弟にコラっと声を上げるもすでにおらず、風空は仕方ないと夜哉に伝えるべく、部屋を出た。




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