第16話 彼の妖神の怒りは恐ろしい



 だいぶ日も落ちてゆっくりと薄暗くなっていく山を二人は走っていた。きつい急斜面の山を無理矢理に登らされてミズキは息を荒げる。老師が休むことなく走ったために呼吸もままならない。


 やっと登り切った先には大岩が一つあり、その前には丸い透き通った石が置かれている。石の側まで来ると老師はミズキを投げ出した。


 どんっと地面に転がされて打った腰の痛みに思わず呻く。老師は何やら呪文のようなものを唱え始めた。


 途端にずんっと空気が重くなる。悪寒が全身を這い、ミズキはびくりと肩を揺らした。起き上がって大岩の方に目を向ける。側にあった丸い透き通った石がぱきりぱきりと音を鳴らして弾け――大岩が真っ二つに割れるとそれは現れた。


 巨体を揺らす大百足がそこにいた。無数の足をわなわなと這わせ、鋭い牙から汁が滴っている。どれほどの大きさなのか把握はできないが、大岩から出ている身体が全てではないように見えた。


 目の前の大百足はじっとミズキを見ている。声も出なかった、瞬きすらできないほどに身体が動かない。恐怖。頭は現状を処理しきれていない。息の吸い方を忘れたように呼吸ができず、胸が苦しくなる。身体の震えは止まらなくて、けれど目が離せなかった。



「大百足様! 生贄でございます! どうか、どうかお力をお貸し下さい!」



 老師は命を乞うように叫んだ。生贄、その言葉に頭がやっと理解する、私は喰い殺されるのだと。


 大百足は一度、巨体を捻らせて大きな口を開けてミズキに飛びかかった。


(あ、食べらてしまう)


 怖いというのにその時は何故か冷静だった。


 目の前に大百足の口がやってきたかと思うとしゅんっとミズキの頬を何かが掠める。


 無数の液体のような触手が背後から飛んできて、それらは大百足の顔に巻きつくとミズキから引き離す。巻き付かれた大百足は雄叫びを上げて暴れ回るも、触手は巻きつくのをやめようとしなかった。


 これは彼だと、ミズキは我に返って後ろを向く。



「っ……」



 ミズキは声を詰まらせた。


 そこには両腕を液体のような触手にした紅緑こうろくが立っていた。けれど、いつもの彼とは違う。赤い赤い瞳は鋭さを増し、ぎらりぎらりと煌めかせて燃えるように揺らめいていた。


 返り血のような赤い液体が頬を彩っている。赤黒い色をしているので見づらいが、神職の衣にもべったりとついていた。表情一つ変えず、ただそうただ、老師を睨みつけている。


 老師は震えながらもミズキの方へと走る。人質にするつもりなのか、彼女の腕を掴もうと触れた瞬間、ぱんっと目の前で腕が弾け飛んだ。びちゃりと噴き出る血がミズキの頬にかかる。



「穢らわしい手で気安く触るなっ!」



 響く怒声にミズキは固まる。


 彼は怒っている。その瞳で人を殺せるのではというほどに研ぎ澄まされた眼から目が離せない。腕を切り落とされた老師は噴き出る血と痛みに悶え地面を転がっていた。


 紅緑がミズキの元へと歩み寄る瞬間、大百足の胴体が前を掠めた。眉を寄せて舌打ちをすると、暴れる大百足の身体全体に触手を巻き始めた。



「ミズキちゃん!」



 そこへ夜哉よるやが現れる。状況を確認し、紅緑が何をしようとしてるのか理解して慌ててミズキを抱えて飛んだ。


 それとほぼ同時だった。みちみちと締め上げられ、ぶちゃっと醜い音を鳴らして大百足の身体が破裂した。ぐちゃりぐちゃりと大百足だった破片が飛び散って、見るも無惨に息絶える。そんなものに目も向けず、紅緑は地面を這っている老師の頭を踏みつけた。



「おまえ、ワタシへの復讐か」

「あ、あ、あ……」



 がたがたと震える老師に紅緑は容赦せず、何度も何度も頭を踏みつける。



「ミズキちゃん、大丈夫かい?」

「は、はい……」



 放心状態のミズキに夜哉は申し訳ないと謝罪する。あの老師は紅緑に一度負けて恨みがあったのだと教えてくれた。


 随分と昔、力があるからと町で悪行をしていた老師がいた。町人は困り果て、紅緑に助けを求めたのだという。その頃、彼はまだ町で暮らしていたのでそれを引き受けた。


 老師は紅緑には敵わなくて命乞いをして負けを認めたのだ。結果、町にも居られず、追い出され行方をくらませた。


 彼は紅緑を恨んでいたらしく、いつか仕返しをしてやろうと策を練っていた。それがこの大百足だったようだ。



「老師と聞いて、もっと早く調べていればよかったんだ。本当に申し訳ない」



 幾分と昔のことで二人とも記憶から抜け落ちていたと何度も謝る夜哉にミズキは頷く。視線はずっと紅緑に向けられていた。


 夜哉は何かに気づいたのか、慌てて見遣る。紅緑は老師の頭を鷲掴んでいた。ぎちぎちと手に力を籠めながら据わっていない瞳を向けている。



「あぁ、どうしてくれようか。殺すだけでは晴らせぬぞ、この怒り」



 低く唸りながら言う紅緑の姿からミズキは目が離せない。



「紅緑、それぐらいしておけ!」

「生かしておけばまた何か企むだろう」



 夜哉の言葉など聞く耳持たないといったふうに紅緑は呟く。生かしてはおけない、また何か企まれては面倒だ。目を細めてぎゅっと老師の頭を握り締める。


(怖い)


 つぅっとミズキの頬を涙が伝う。



「やめろ、紅緑! これ以上、お前の妻を怖がらせるつもりかっ!」



 夜哉の怒鳴るような叫びに紅緑の動きが止まる。ゆっくりとその瞳がミズキを捉えた。


 ミズキは泣いていた。ぼろぼろと涙を零しながら、声もなく。


 怖かった。大百足に喰われそうになったことが、怒る紅緑が、目の前で誰かが殺されるかもしれないことが。死んでいたかもしれない状況だったことを頭が理解して、それらがぐちゃくちゃになって怖かった。


 泣いている彼女を見て紅緑は老師を投げ捨て駆け寄ってきた。腰を抜かし座り込むミズキと視線を合わせるようにしゃがんで優しく抱きしめた。



「すまないね、本当にすまないね」



 怖かっただろう、もう大丈夫だよ。頭を撫でながらいつもの落ち着いた口調で言う。


 これは普段の時の声音だ、低く耳触りの良い彼の声だ。この抱きしめかたも、そうだ。ミズキはゆっくりと落ち着きを取り戻していく。



「ごめんなさい」



 鬼人の言うことを信じて勝手なことをしてごめんなさいとミズキは謝った。ぼろぼろと涙を溢れる涙を紅緑は拭ってやりながら「おまえは悪くないよ」と見つめる。その瞳に鋭さも怒りもなくて。



「おまえを責めたりも怒ったりもしないさ。騙した奴が悪いんだ」



 おまえが謝ることはないよと紅緑はふっと微笑む。



「こわ、怖かった、ですっ」



 ぶわりとまた涙が溢れてきた。怖かったとミズキはしがみつきながら泣く彼女を紅緑は抱きしめた。


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