誰かの妻になる話2

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「あやめ、帰るよ」

 本屋で退屈しながらぱらぱらと雑誌をめくっていると、突然しらない男から声をかけられた。

 まるで妻の名前でも読んでいるかのように、自然で親し気な呼び方だった。

 一瞬、ナンパかと思ったがそんな様子じゃない。

 そもそも、わたしは「あやめ」なんて名前じゃないし……。

 でも男はいたって真剣な目でこちらをみていた。

 ナンパなら、ここで間違えてしまったことに気づいたフリをする。たぶん。

 だけれど、男にはそんな様子がない。

 いつもなら無視をする。

 でも、なぜだか興味がわいてしまった。

 ちょっとだけ、目の前の男の奥さんであろう「あやめ」さんが気になった。

 だから、男の呼びかけに応じることにした。

 男の目には欲望の色はなかったし、なにより男は清潔な感じがした。

 誰かがこまめに世話を焼かないと、ここまで男性が身ぎれいにすることは難しいだろう。

 きちんと洗濯がされているだけでは足りない、女性が嫌悪する部分がすべてとりのぞかれているというのが正しいだろうか。


 わたしはとくに何をいうでもなく、男のあとについていくことにした。

 馬鹿なことをしているのは分かっていた。

 だけれど、好奇心には勝てなかった。

 それにここは良く知っている場所だし、一人で歩かなければ大丈夫。

 何よりも、親友がわたしを探し心配する様子を想像するとちょっとだけ楽しかった。

 子供が親の関心を引きたくて隠れるみたいな戯れのつもりだった。


 男の半歩あとを歩く。

 時代遅れなように見えるかもしれないが、仕方ない。

 わたしはこの男のことは知らないし、どこに行くのかも知らないのだから。

 ただ後ろをそのままついていくのも何か変だから、わたしは半歩だけ後ろに下がって男のあとをついて歩いた。


 男は特に振り返る様子もない。

 わたしが付いてきている気配を感じているのだろう。


 変な感じだ。


 気が付くと周りの景色は見たこともない街並みになっていた。

 別に変な山奥に張り込んでしまったとか、怪しげな時代錯誤な場所に迷い込んでしまったとかそういうのじゃない。


 ただ、わたしがみたこともない場所になっていた。

 さっきまでいた本屋からそんなに離れていないはずなのに、今自分がどこにいるのか見当もつかない。

 せめて住所だけでも検索してみようとするが、スマホのマップはなかなか起動しない。電柱の町名だけでも見ようとするが、なぜだかぼやけていて感じがはっきりしない。


 とたんに怖くなる。


 わたしが一度も来たことがない場所。

 来ることができない場所。

 もう、ここから帰ることができないんじゃないかと。


「ただいま~」


 男は、一軒の家に当然のように入っていく。

 ここがこの男の家なのだろう。

 きっと、家にはすでに「あやめ」さんがいて彼の帰りをまっていることだろう。

 もしかしたら、一緒に買い物にでていたのならあやめさんは怒っているかもしれない。

 一人置いていかれたと。

 そして、見ず知らずの女子高生をつれているなんて。


 だけれど、「あやめ」さんがでてくることはなかった。

 わたしが困惑していると、今度ばかりは男は振り返ってわたしの方に手を差し出した。


「ほら、はやく入りなさい。そんなところに突っ立っていないで。具合でも悪いのかい?」


 逃げ出したかった。

 だけれど、なぜだか体は男の手を振りほどいて、後ろを向いて走り出すことはできなかった。

 怖かったのだと思う。

 全く知らない場所にきて、ここで道に迷ったら一生わたしはこの場所をさまよい続けるかもしれないって。

 幼い頃の苦い記憶を思い出し、わたしは男の差し出す手に従うことしかできなかった。


「具合が悪いなら早く言いなさい。ほら、スリッパはここにだしたよ」


 男はそんなこと言いながら、わたしの世話をかいがいしく焼く。

 そんなことをされている間に急にめまいがしてくる。

 ああ、そうだ。

 学校帰りにアイスを食べていくはずだったのに。

 たぶん、軽い脱水症状のせいだろう。

 わたしがその場に座り込むと、視界がまっくらになった。


 気が付くと、わたしはどこか知らない布団に寝かされていた。

 小学生の頃、保健室のベッドで寝た時を思い出す。

 誰の匂いもしない、石鹸で綺麗に清められた固いシーツの感触のせいだろう。

 男は心配そうにこちらを見つめる。

 心配そうなわりに慌てた様子はなく、気が付くと脈をとっていた。

 めまいを起こしたせいなのか、はたまた夜になったのか、視界は薄い黒のフィルターがかかったように暗かった。


「喉が渇いて……」


 わたしがやっとのことで口にくると、男はすぐに水を持ってきてくれた。


「ゆっくり飲んで。あわてずに」


 知らない人からもらったものを飲むなんてどうかしているかもしれないと思った。

 だけれど、今のわたしにはこれしか選択肢がない。

 このままじゃ、もっと体の具合が悪くなる。

 これ以上、自分を追い詰めることはないだろう。

 わたしが水を飲み終えるのを見守ったあと、


「今日はゆっくりやすんで。おなかがすいたときのために冷蔵庫に軽食を用意しておくから、無理してはいけないよ」


 男はとてもやさしい声でそう言って、去っていった。

 食欲もない。

 脱水のせいか頭も痛い。

 わたしは目を閉じた。

 これは悪い夢なのかもしれない。

 ずきずきと痛むこめかみのリズムのなかで一つの考えが浮かんだ。

 そう、これはきっとただの夢だ。

 目が覚めたら、きっとわたしは教室の机で突っ伏している状態で、すぐそばでは親友が一緒に帰るために待っていてくれている。

 難しい顔で、文庫本のページでもめくりながら待ってくれている。

 きっと、そうに違いない。

 ならば、わたしができることは一つだけ。

 この夢から覚める。


 よく子供の頃に見たアニメや漫画では、夢から覚めるために自らの頬をつねったりする描写がある。または現実かどうか確かめるために自分の頬をつねって痛かったら現実とか。

 だけれど、あれはまったく効果がない。

 だって、夢の世界なのだから。

 あれは実際の肉体をつねるものではない。

 それに頬をつねれば痛いというのはあらかじめわかっていることである。

 それなら夢の中であっても、変わらずに痛いはず。


 夢から覚めるためにできることは、わたしには何もない。


 わたしがどんなに目覚めたくても、この夢から抜け出す方法はない。

 それならば、わたしはこの夢のなかでできるだけ静かに過ごそう。

 流されるまま。

 逆らわずに。

 いつか夢が覚めるのを待とう。


 次に目を開いたとき、外は明るくなっていた。

 少しだけ気分も良くなっていた。

 部屋をでて、階段を降りる。

 よくテレビドラマにある家と同じような作りだった。

 キッチンに食卓テーブル。ソファーに部屋の一角に襖で区切られているのは和室だろうか。


「おはよう、あやめ。よく眠れたかい?」

「ええ……」


 一瞬、すべてを否定しようと思った。

 目の前の男はわたしが「あやめ」さんじゃないと主張すると怒るだろう。

 なぜだか手に取る様にその感覚があった。

 これが夢ならばそれで起きられるかもしれない。

 一方でこの夢がよりひどい悪夢になるかもしれない。

 今目の前にいる男が穏やかな男ではなく、狂ったように激高した人間にり、そのまま夢が続くとしたら、わたしは現実では不可能なむごい目にあうことも可能なのだ。

 いくら夢とは言え、そんな状況は遠慮したい。


「とりあえず、朝食にしよう。今日は君の好きなものを用意したよ」


 確かに食卓にはわたしの好きな食べ物が並べられていた。

 ホットケーキにヨーグルトに果物。

 どれも、普段は食べないけれど朝食として憧れるものばかり。

 でも、同時にテーブルの上にはガラスのボウルに入ったクマのグミやカラフルな粒のチョコレートが並べられているのをみてやはりこれは夢なんだなと苦笑いする。

 とく、山盛りになったチョコの山には水色のチョコが入っておらず、その横に小さく水色のチョコだけ小さな白小皿の上によけられているのがいかにも夢らしく馬鹿げている。

 わたしはM&Mのチョコの青だけはよけて食べるのだ。

 昔は食べたのだけれど、今は食べない。

 親友にあげている。

 親友は嫌そうな顔をするけど、食べたときに青く染まった舌を「見て、見て!」と見せてくる姿がとても可愛い。

 そんなことが夢にも反映するなんて、わたしはつくづく親友のことが好きなのだなとちょっとだけおかしくて笑ってしまう。


「いただきます」


 わたしは男に促されるままに朝食を食べ始めた。

 不思議なことに、夢の癖に朝食はきちんと味がした。

 夢の中だと味とか匂いがしないとか、夢は白黒だとかいろいろ言われているけれど、わたしの中では、夢の中にいる間は現実と変わりがない。

 夢の中での出来事が夢だと判断することはできない。

 夢の中でどんなにおかしなことが起きようとも、その夢の世界のわたしにとってそれは当然起きうることになってしまう。


 ホットケーキは覚めて、溶けかけたバターにはちょっとだけ油の膜ができていたけれど、おおむね美味しかった。

 キツネ色の焼き目も申し分ない。

 間違いなくこれは、わたしが着に行ってかっているコンビニの冷凍ホットケーキであった。

 電子レンジで解凍するだけで手軽に食べることができる。

 調理の手間や洗い物の手間がいらない。

 レンジで温めるだけだから簡単だし、絶対に焦げ付くことのない。

 考えてみれば夢みたいに素晴らしいホットケーキだった。

 いつもどおりの味に安心する。


 気が付くと目の前の男は銀色のナイフを手にしていた。

 殺される。

 そう思うと胸のあたりが跳ね上がり、ぎゅっと締め付けられるような痛みが走った。

 わたしはなにかまずいことをしてしまったのだろうか。

 たとえ、夢とは言え包丁で刺されたら痛いだろう。


「林檎を剥いてもらってもいいかな。いつも甘えてしまって情けないけど、やっぱり包丁は苦手でね」


 男はそういって、微笑んだ。

 わたしはちゃんと柄の方が自分に向けられた状態の果物ナイフを受け取る。

 小さくて使い込まれたそれは手に良くなじみ使いやすかった。

 赤い皮にナイフを入れると、空気中に果物の香り漂い始める。

 すべてが夢とは思えないくらいリアルだった。


「どうぞ……」


 わたしは目の前の男に切り分けた林檎を差し出した。

 ナイフは念のためにわたしの側に置かせてもらう。


「ありがとう」


 シャクシャクと林檎を咀嚼する音が、その場を支配する。

 男は特に変な行動をとる様子もない。

 一体この状況はなんなのだろう。


「ねえ、あなたの目的はなに?」


 単刀直入すぎるかもしれないと思いつつも、わたしは自分の気になっていることを口にした。ただ、あえて「あなた」という呼び方にすれば、目の前の他人を呼ぶ「貴方」ともとれるし、自分の夫を呼ぶ「あなた」にもとれるように気を付ける。


「大事な妻と平穏な生活。これ以上、望むことなんてあるかい?」


 男は自らが淹れたコーヒーをすすりながら返事をした。

 わたしの問に対する答えとも、ただの世間話ともとれる、少々ずるい会話だった。


 だけれど、今のやりとりから分かることもある。

 やっぱり、わたしは目の前の男にとっては妻の役であり、二人は一緒に暮らしている。

 この夢で求められているのはそういう役割なんだ。

 ならば、男の望むように役割を演じてやろう。

 それと同時にわたしの望みを通すのだ。


「ねえ、あなた。今日はお買い物に行きたいわ」


 妻らしくおねだりしてみる。

 まあ、テレビドラマで得たイメージの妻だけど。

 でも、そもそも目の前のとっくに成人している男が見ず知らずの女子高生を妻だと思っているのも変な話だ。

 多少の粗には目を瞑るのが夢というものだろう。

 とにかくこの家から出たかった。

 この家からでて、知っている場所に戻れればきっとわたしは目覚めることができる。

 なぜだかその時はそんな風に思っていた。

 わたしは期待を込めたまなざしで男を見つめるが、


「昨日、行ったばかりだよ。節約のために買い物の回数を減らすって二人で決めたばかりじゃないか」


 わたしは決めていないのだけれど。

 男は「二人で」というところをやたら協調するように言った。

 特に怒っている風ではないが、静かにこちらに言い聞かせるようだった。


「そうだったわね。じゃあ、お散歩は?」

「昨日、具合を悪くしたばかりだろ。少し安静にしてなくちゃ」


 なんとかこの家からでるために色々提案してみるがどれも効果なし。

 わたしはあきらめて、やることもないし目の前の皿を洗うことにした。

 人の台所というのは勝手が分からなくて緊張しそうだが、案外簡単だった。

 よく知っているなにかに配置が似ているのだ。


 そうだ、学校の職員用の給湯室。

 誰でも使えるように、分かりやすく者が配置されている。

 おかげで特に困ることなく、わたしはこの家の妻のふりを上手にすることができた。

 そんな感じでわたしはこの家の家事を片付けることにした。

 特にやることもないのだ。

 いつもならスマホをみていればあっというまに時間が過ぎていくというのに、見当たらないのだ。

 いつもならスマホが手元にないと、大騒ぎをするのだが、別にいい。

 これは夢なのだから。

 わたしはスマホがない分、適当にやることを見つけては片付けた。

 男性の一人暮らしにしては、磨き上げるというほどの掃除が必要なほど散らかっている場所はなく、「あやめ」さんはきちんと家事をしていたらしい。

 もしかしたら、「あやめ」さんもスマホを持っていなかったのかもしれない。

 スマホがないと何もやることがないのだ。

 動画を見ることもできないし、ゲームもできない。

 この家はテレビもなかった。

「あやめ」さんはどうやってここで暮らしていたのだろう。


 この家に来てどれだけの時間が経ったのだろう。


 暇なので一日三回の食事の時間には凝ったものを作る。

 そんなにレパートリーがある方じゃなかったけれど、料理の本とにらめっこして知らない料理もなんとなく作れるようになった。

 ここではめんどくさくて時間がかかる方がありがたい。

 他にすることもないのだから。

 できるだけ時間をつぶしたかった。

 不思議なことにこの家にはだいたいの食材がそろっていた。

 最初は小難しい料理の材料を理由に買い物にいけると思っていたが、夫に言うとなんでもでてくる。

 例えば、森茉莉のエッセイにのっていた美味しそうだがなんだかとてもめんどくさい料理を作るために牛すね肉の塊がないか尋ねる。

 冷蔵庫に牛すね肉がないのは確認済みだった。

 だけれど、夫はすぐに用意してくれるのだ。

 買い物にいっているわけではない。

 この家には貯蔵庫があってそこに買い置きのものがあるらしい。

 あんなに大きな肉の塊を貯蔵しておけるなんてきっと大きな冷蔵庫がキッチンと別にはあるのだ。

 とても贅沢だ。

 いや、夢なんだからどこからともなく現れているだけかもしれないけれど。

 この家の生活は奇妙だった。

 でも、わたしは徐々にこの生活に慣れていった。

 男はわたしが嫌がることはしないし、無理強いもしない。

 ただ、ちょっと無関心な気もするが、大人というのはそういうものなのかもしれないと自分を納得させた。


「ねえ、作って貰いたい料理があるんだけど、いいかな?」


 ある日、男は珍しくわたしに頼み事をしてきた。

 今まで、どんなに家を磨き上げようと凝った料理をしようと、逆にサボっていようと特に文句を言わなかった男から、頼み事をされた。男がこちらに珍しくこちらの様子をうかがっている。

 こんなことは初めてかもしれない。

 わたしはその頼み事を聞き入れることにした。


 あまりにも神妙な顔をするのでたいそう手間がかかって面倒な料理でも頼まれるのかと思ったが、男の頼みはなんとカレーが食べたいという簡単なものだった。

 ちょっとうつむき気味に照れながら、

「あやめのカレーが食べたいんだ」

 そう告げられたとき、わたしは男のことがとても気の毒になった。

 見ず知らずのわたしを自分の妻と間違えるくらい狂っている男。

 とても気の毒で悲しい。

 同時に狂うほど愛された「あやめ」さんという存在がすこしだけ羨ましくなった。


「いいですよ」


 わたしが快諾すると、男は「ありがとう、ありがとう」と神にでも縋るようにお礼をいった。

 なんでそんなことに感謝するのだろう。

 今まで、わたしがこの家のためにやってきた細やかな手入れなどには気にも留めなかったくせに。

 たかがカレーを作るくらいでこんなに感謝されるなんて、この男はずれている。

 面白くない。


「材料は用意しておくから、あやめは準備ができるまで休んでて」


 男はわたしがこの家に来た時のようにかいがいしく世話をやいてくれた。

 わたしはカレーのレシピを探そうと自室に向かう。

「あやめ」さんの部屋を自室というのも変な感じがするが、一方で最初のころよりずっと馴染んでいるような気もする。

 この家では色んなころがあいまいになる。


「あやめ」さんがどんな人だったか、正直この部屋をみてもよく分からない。

 クローゼット一つとってもそうだ。

 リバティープリントの細身のワンピースの横には、海外風なグラマラスなカシュクールのワンピースがつるされている。

 さらに、その横には一目でユニクロと分かるシンプルなMサイズの服。

 学生と違って、大人はTPOに合わせて服装を変える必要があるのは分かっているけれど、こんなに趣味もサイズもバラバラだなんて……。

 確かに、服を買うときにデザインや自分がどんな風に着こなしたいかによって、本来の自分のサイズとはことなるものを選ぶことはある。

 だけれど、これではあまりにもばらつきすぎだ。


 本棚だってそう。

 白泉社の少女漫画に、創元社のSF文庫本、新潮社の夏の百選、ハーレクインロマンスに絵本。

 よく、本棚はその人の頭の中を映し出すなんていう。

 だけれど、これはそれぞれ好む人間が違いすぎている。

 少女から大人になっていくにつれて、子供の本と大人の本が入り混じることはあるかもしれないけれど、親友の本棚がそれだわたしは本はあまりよまないけれど表紙やあらすじを眺めたり綺麗に本棚にならべられた背表紙をそっとなぜるのは好き、この本棚は違う。ぜんぜんバラバラだ。

 新潮文庫の斎藤綾子の小説だけは読んだことがあった。真面目そうな文庫本なのに書いてあることは、学生の身分であるわたしには刺激が強かった……もちろん、最後まで読んでわたしはその本を本棚ではなく、誰にも見つからないように机の引き出しに隠している。


 考えてみればこの家はちぐはぐなところが多い。

 家の中ではこれでもかというくらい、色んな場所が磨き上げられている。

 いかにも高そうな家具の横には、安売りのドン・キホーテで買ったみたいなプラスチックの衣装ケースがぞんざいに放置されている。

 家の中は細やかな掃除がされているのに、外装はぼろぼろ。

 普通は家をそんな風に手入れできる人は外装も業者に頼んだりするはずだ。

 庭に至っては、玉砂利や花壇のあとから昔は凝った作りの庭だったはずなのに、今は雑草は生い茂り、雑草がない場所の土は掘り返されているしまつだ。


 この家は何か変だ。

 だけれど、見知らぬ男に別な女の名前で呼ばれていくわたしもおかしいと思うので何が正常で何が異常なのかの判断はわたしがするべきではないのかもしれないけれど。

 とりあえず生きているし、誰からも害されていないからラッキーそう思うことにした。


 しばらくして、一階に降りていくと男が準備を終えていた。

 磨きあげられたキッチンに、男があらかじめ材料を切り分けて、小さなボウルやバットにいれていてくれているさまは、まるで料理番組みたいだった。

 その材料の中に市販のカレールーが並べられていないけれど、わたしは動揺しない。

 先ほど、本棚から引き抜いたレシピノートには確かにカレーのレシピがあった。

 存在のはっきりしない「あやめ」さんはずいぶん、几帳面な人だったらしく、材料の分量から作り方まで分かりやすく書かれていた。

 わたしは男が用意してくれた材料の分量を再度、測りなおして確認をする。

「あやめ」さんのレシピにはそれぞれの作業の時間まで書かれていて、下手な料理番組よりも分かりやすかった。


 完成した料理を食卓に並べると男は大喜びした。


「あやめのカレーだ……」


 と、涙を流して食べるのだ。まるで神に感謝するように。

 今まで無反応だった分、自分の作った食事にここまで感謝を示されると嬉しかった。


 それからしばらくは、また退屈な日々が続いた。

 今までどおりやることのない退屈な日々。

 どんなに家を磨いても、凝った料理を作っても男は無反応なまま。

 この間と同じレシピでカレーを作ってみたが、男は特に何もいうこともなかった。

 一体何が違うというのだろうか。

 わたしは腹を立てると同時に、男からほめられ感謝されたいという思いが自分のなかでどんどん大きくなっているのが分かった。


 ある日、男は言った。


「あやめの肉じゃがが食べたいんだけど、お願いできるかな?」


 わたしは頷き、二階の自室にレシピノートを見に行く。

 あれから何度も眺め、ものによっては作ったことがある。

 肉じゃがも作ったが、男は無反応だった。

 この前は何か手順を間違えたのかもしれない。

 そう思いわたしは入念に手順を確認した。

 キッチンに戻ると前のときと同じように、男が材料を綺麗に皿に並べて準備してあった。

 レシピを確認してもなんら前回と違うところが見当たらなかったので不安だったが、男は今回も感動し、涙を流しながらわたしの作った肉じゃがを食べた。


「あやめの肉じゃがだ……」


 その声は感動で震えていた。


 それから、男がわたしに料理を依頼することがどんどん増えていった。

 準備も後片付けも男がやる。

 わたしがやるのは料理という一番楽しいところだけ。


 男に料理をリクエストされない日は、レシピノートのものを男の関心を引きたいのと練習を兼ねて作るが、男は今までと変わらず無反応だった。

 自分ではまあまあ上達していると思うのに、どんなに手間をかけようと、どんなに上手にできても男の関心を得られるのは、男から頼まれたときだけだった。


「あれ、材料たりないんだけど……?」


 あるとき、男がいつも通り材料を用意してくれていたのだが、材料が足りないことがあった。


「ああ、本当だ。ごめん、在庫なかったんだ。すぐに用意するから」


 男は、慌てたように言った。

 そして、男は貯蔵庫ではなく、部屋の一角にかる襖を開けた。


 襖がほんのすこし開いただけなのに、部屋には異臭が漂った。

 どうして、いままで気づかなかったのだろうかと思うような異臭が鼻をつく。

 襖一枚で匂いをこんなに遮ることができるのだろうか。

 いや、違う。

 この家の異常さがわたしの意識を反らしていただけだ。

 本当はこの部屋は、いやこの家はずっとこの異臭を放っていたのだ。


 襖の向こうは想像通りの畳の部屋。

 だけれど、想像と違うのはその畳が敷かれた周りには木の柵で覆われていた。

 そこは座敷牢という言葉がぴったりだった。


 よく物語にでてくる座敷牢は家の端や地下のだれも寄り付かないところにあるけれど、この家の座敷牢は家の中心。

 本来なら、家族が集うリビングにあった。


「お願いです。やめて……やめてください」


 弱々しい声が聞こえる。女性のものだけれど、しゃがれて疲れきっている。

 何かを引きずる音が聞こえたあとに、部屋の異臭に血の臭いが混ざった。


「お願い。だめ。あなた、やめて……やめてください!」


 男の声は聞こえない。

 ただ、絶叫にも等しい嘆願する声が聞こえたあと、鈍い殴打する音、濃い血の臭い、そして何も聞こえなくなった。

 不安になって、座敷牢の方をのぞきこむと、そこには片手と片足が欠損した女性がうつ伏せに倒れていた。

 ぐったりとしていて動く様子はない。


「ああ、ごめん。今日は材料ちょっと用意できそうにないや。本当にごめんね」


 女性のことを隠そうとするでもなく、特に言い訳をするわけでもないその当然という様子がより不気味だった。

 わたしはあいまいに頷く。

 目の前の現実が受け入れられない。

 手足の一部がない女性。

 血の臭い。

 材料を用意すると言って男がこの部屋をあけた事実。

 ずっとわたし自身が気づかないふりをしていたこの異臭。


「あやめ」さんのカレーの意味に気づく。

 あやめさんのレシピのカレーではなく、その材料の特殊性に。

 だから男はわたしが頼まれずに自発的にあやめさんのレシピで作った料理には何の反応もしなかったのだ。


 わたしが料理していたのは人肉。


 普通なら、その罪の意識と生理的な嫌悪感でいてもたってもいられなくなるだろう。

 だけれど、わたしは何事もなかったような顔をした。


 もちろん、わたしが人肉を料理したことにショックをうけていないわけではない。

 まあ、持ち主が生きているというのは少し救われたかもしれないが、「あやめ」さん本人にとっては残酷な状況だ。

 だけれど、人間というのはっ極限状態におかれると意外と冷静になるものだ。

 生存本能とでもいうのだろうか。

 わたしは叫び声をあげたりその場で嘔吐することなどなく、


「そっか、材料がないなら仕方がないね」


 とだけ平気な顔で男に言ったのであった。

 男の調子に合わせたのかもしれない。


 それからしばらくは料理を頼まれることはなかった。


 ただ、視界の隅、意識のどこかにはあの「あやめ」さんがいる座敷牢が常にあった。

 そして、本棚やクローゼットの歪さの原因にもたどり着く。

 そう、「あやめ」さんはおそらく一人ではない。

 過去に何人もの「あやめ」さんがいたから服のサイズや本の好みがバラバラなのだ。

 そして、ところどころ掘り返された庭には……。


 帰りたい。

 なぜ、こんなところまでついてきてしまったのだろうか。

 そもそもわたしは誰なのだろうか。

 夜、布団の中で一人震えた。

 帰りたい。

 わたしがかろうじて冷静を装うことができるのは座敷牢にいる、「あやめ」さんの損z内のおかげだ。

 彼女がいる限りわたしはまだ食べられる番の「あやめ」さんではないから。

 大丈夫、時間はある。

 なんとかして、男から逃げ出す方法があるはず。


 そして、チャンスは意外なくらいすぐにやってきた。


「あやめ、散歩に行こう。好きなものを買ってあげるよ」


 男はこちらの機嫌を取るように言った。

 もしかしたら、また「あやめ」さんのカレーを作る様に頼まれるのかもしれない。

 それとも、この間の光景をみて騒がなかったわたしを共犯者にできたと信じているのかもしれない。

 どちらであるかは分からないけれど、外に出るチャンスだと思った。

 出ようと思えば出られる状態にあるはずなのに、わたしは男と一緒でないとこの家から、たとえ庭であっても、出られないと思っていた。


「わあ、ありがとう。すぐに準備するね」


 わたしは素直に返事をした。


 久しぶりの外は記憶にある様子とあまり変わらなかった。

 ずいぶん長い間、男の家で暮らしていたような気がするけれど、実際はそこまでの時間がたっていないのかもしれない。


 気が付くとわたしは男とはじめてであった本屋にいた。

 あのとき、面白半分でついていかなければ。


 帰りたい。わたしは強く願った。

 あの奇妙な家から抜け出したい。

 文字通り、男に血も肉も絞りつくされる前に。


 だけれど、逃げたいのに逃げることができない。

 体が動かないのだ。

 声を出すだけでもいいのに。

 いまここで助けを求めれば誰かが気づいて助けてくれる。

 本当にそうなのだろうか?

 わたしの名前は本当は「あやめ」で、男との生活の異常さは精神に異常をきたしたわたしの妄想なのではないだろうか?

 そう思うと、声さえも上げることができなかった。

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