第56話 サイドストーリー



 小学生の頃、両親に連れられ、父が勤める会社の社長の家に遊びに行ったことがある。


 なぜ社長とそんな個人的な付き合いが? という疑問の答えは簡単なことで、父と社長は元々友人同士、そして会社では秘書として共に働いていたからだ。


 『父さんの友達でもあるけど、上司でもあるんだから失礼のないようにな』そう何度も念を押されたのを今でも覚えている。


 訪れたのは自分の家より立派な戸建ての家で、やっぱり社長は違うなあとキラキラしたまなざしで見上げた。中から出てきたのはちょっと厳しそうだけどかっこいい雰囲気のある男の人、綺麗で料理上手な女の人、それから俺よりいくつか年上の男の子だった。


 絵にかいたような『理想の家族』だった。


 広い庭でバーベキューをして、楽しくてたまらなかった。あとは、年の近い子がいれば完璧だったのになあ、なんて思いながらトウモロコシを食べていると、家の中に人影を見つけた。


 二階の一室に見えるカーテンの隙間から、自分と同じ年くらいの男の子がじっとこちらを見つめていた。


 正直、幽霊かと思った。


 遠目からでも分かるぐらい、男の子は無表情で暗くて、それでいてどこか寂しそうな雰囲気を感じた。大声で叫び出しそうなのを必死に堪えた。父がさんざん言っていた『失礼のないようにな』を、子供ながらに忠実に守ったのだ。





 『お父さん、二階に男の子の幽霊がいる』


 父の袖を掴んでそっと耳打ちした。だが、彼は驚きもせず少し視線を落としただけだった。そして俺の頭を撫でて、


『体調の悪い子がいるんだよ。そっとしておこう』


 そう優しく言った。


 子供の俺は納得したが、そんなわけがないということに成長してから気が付いた。体調不良でバーベキューに参加できない息子がいるなら、なぜ他の家族はみんな揃って外に出てきているんだ? キャンセルをするか、せめて母親はそばについててやるだろう。


 自分が高校生ぐらいになった頃、その質問を父にぶつけた。父は『よくそんな前の事を覚えているなあ』と驚いていたが、あれほど強烈な体験を忘れるはずがないと思った。


 あの時の少年はあまりに可哀想で、こちらを羨ましそうに、そして憎らしそうにしていたからだ。


 父は今度は包み隠さず、あの家の事情について教えてくれた。あの時、二階から見ていた男の子は、社長の本当の息子ではないこと。そのために家族の一員として扱ってもらえていないということ。


 父は表情を歪めて、少年への同情心を話した。友人として、社長に助言はいくつかしたが、まるで受け入れられず力になれなかったことを嘆いていた。


 高校生ながらに、そんな大人の勝手な都合であんな扱いを受けているあの時の少年が忘れられず、理想の家族に見えたあの人たちに嫌悪感を抱いた。






 父と同じ会社に入ってしばらく経った後、社長が病に倒れ、とても仕事には戻れそうにないということが判明した。


 彼には後継ぎがいたのでその人が継ぐのだろう、と社員みんなは思っていたが、まさかの失踪。一気にパニックになる社内で、次男である神園碧人が候補に上がったと聞き、俺は驚きでぶっ飛ぶかと思った。


 なぜなら次男がこの会社に入っている事すら俺は知らなかったからだ。


 どうやら父は知っていたようだが、神園碧人が次男ということをあまり周りに漏らしたくないという社長の思いから、俺にも黙っていたようだった。


 さんざん揉めた後、結局神園碧人が継ぐことに決まった時、俺は心底同情し怒りに震えた。なぜなら、その時の神園は業績がかなり悪化して苦しい時期だったので、それを彼に押し付けたいという周りの魂胆が分かったから。


 すると父はまさかの、自分も引退するから、お前が秘書として支えろと指名してきたので、再度俺はぶっ飛んだ。


 一応父なりの思いがあったらしい。かなり年上の自分が秘書ではやりにくいだろうし、どうしても社長……その時はもう会長か。会長のやり方を押し付けてしまう気がするから、よくないと思ったのだ。


 俺は逃げ出したい思いに駆られたが、子供の頃出会ったあの少年の事が頭でよぎり断れなかった。





 父からがちがちに引継ぎされ、神園碧人と会った時はかなり驚かされた。


 子供の頃の印象とだいぶ変わっていたからだ。背筋が伸び、顔立ちは男前できりっとし堂々としていた。これだけ時間が経てば人は変わるか、と安心していたが、一緒に働き出してそれは間違いだと気づく。


 彼は少し人とずれていた。仕事はかなり出来るし決断力もあって上司に向いているタイプだが、どこか不安定で自分の事がおざなりだ。目の奥底で自信のなさや寂しさを醸し出している。


 食事すら興味がなく、仕事以外で誰かと飲みに行くこともない。趣味もないようだし、家でも仕事ばかりしているようだった。


 彼が嬉しそうにしていることといえば、さんざん自分を放っていた母親がようやく一緒に食事を取ってくれた時とかで、正直第三者である俺からすれば反吐が出た。


 あんな母親、捨ててしまえばいいのに。都合のいいときだけ息子扱いして。


 子供の頃得られなかった愛情をようやく向けられたと思っている彼が痛々しかった。同時に、彼にもっと人間らしくなってほしいと強く願った。


 普通でいい。美味しい物を食べるのが幸せだとか、友達と飲んで愚痴を言い合うだとか、趣味を見つけて没頭するとか、はたまた好きな人ができるだとか。


 そういう夢中になれる何かに出会ってほしい。そう思っていた。




 そんな時、彼が他の会社の女性をスカウトしてきたので入社させる、と言ったのには心底驚いた。


 基本、人には無関心。会社は軌道に乗っていて、人手を増やしてもいい時期だとは言っていたが、彼直々に誰かを連れてくるのはあり得ないと思っていた。


 なぜそんなことになったのかと理由を聞いたとき、俺はなぜか『これだ!』と心で叫んだ。


 これだ、絶対にこれだ。彼が人間らしくなるきっかけになるんだ。


 友人のために上司に直訴し退職に追い込まれたとかで、かなり熱いタイプの女性らしい。つまり、自分以外の誰かのために必死になれる人。


 きっと彼女のそんなところが非常に気に入ったのだろう。


 そうなるのは必然だった。だって、彼のそばには今までそんな人がいなかったのだから。









 仕事を終えて待ち合わせの店に辿り着いたとき、カウンター席にはすでに見慣れた顔があった。待たせてしまったことに少し慌て、俺は急いで彼の隣に向かう。


「お待たせしてすみません!」

 

 神園碧人社長が俺を見上げる。どこか気まずそうに首を横に振った。


「いや、全然大丈夫。どうぞ座って」


「失礼しますね」


「好きなの飲んで。奢る」


「え! やったなあ」


 メニューを見ながらそう明るく口にしたが、内心少し緊張していた。


 社長が『飲みに行かないか』と誘ってきたことに、驚愕した。一緒に働いて結構経つが、そんなことは一度もなかったのだ。年は近いが相手は上司なのだし、さすがに俺からは誘えずにいた。


 なんだかんだ仕事中にプライベートな話もしたりする仲ではある。でも酒を飲みながら会話を交わす日が来るなんて思っていなかった。


 アルコールを注文し、二人で静かに飲み始める。


「結婚式の準備は順調ですか?」


 彼が婚約したと報告してきた日の事を、俺は忘れないだろう。今まで見た中で一番幸せそうで、満たされている顔をしていた。幽霊と見間違えたあの少年とはまるで別人だった。


「うん、とりあえず式場は決めた」


「おお、ついにですねー中谷さんの希望を聞いて決めたんですか?」


「そうだね、俺も色々探してきたけど、最終決定したのはあっち」


「まあ、結婚式はそりゃ女性が決めたいですよね。これからが大変なんじゃないですか?」


「俺は誘いたい人がそんなにいないから……それほど大きな規模にはならないと思う」


「ああ……いいんじゃないですか? 最近はそういう式が多いみたいですよ。結婚式しない人もいるって言いますし」


「……父を、どうしようか迷っていて」


 彼は困ったように眉を顰め、グラスに口を付けた。なるほど、と俺は頷く。


 血のつながりはない、でも戸籍上は父である会長を式に呼ぶかどうか、ということか。


「ええと、大奥様は?」


「まさか。めちゃくちゃにされかねない」


「安心しました。それでいいと思います。会長については……社長はどう思っていらっしゃるんです? 車いすには乗れるようですし、今は治療ではなくリハビリ中ですから、参加できないということはないと思います。彼も断りはしないと思います」


 社長は複雑そうな顔をした。


「呼ぶ義理はないと思ってる。でも、母もいない、兄もいないし月乃のご家族にどう思われるかと……結婚の挨拶に行ったときに、簡単に家庭環境について説明はしたけれど」


 俺は唸り腕を組んだ。確かに、父親一人だけでも参加者がいればだいぶ変わるだろう。


 今やすっかり丸くなり、社長に対してはちゃんと謝罪と感謝の気持ちを伝えている。式に参加しても、ちゃんとした立ち振る舞いをしてくれるだろうとは思う。


 麻痺があるので、移動や食事など大変かもしれないが、一人付き添いを雇ったり色々対処はできる。



「社長としては、別に『来てほしい』とは思っていないけど、『立場的に来てもらえるとありがたい』って感じですか」


「相変わらずはっきり言うね」


「会長がいることで社長の気が散ったりしないというのであれば、別に呼んでもいいんじゃないですか? 今までさんざん、社長に苦労を掛けたんですから、こういう時ぐらい協力してもらっては? 今の会長なら、ちゃんと立場をわきまえてそれなりにしっかり対応してくれると思いますよ」


 ここ最近、社長が中谷さんを連れて時々お見舞いに行っていることを、俺は知っている。二人のわだかまりが消えたわけではないだろうが、多分『他人』から『仕事について相談する相手』ぐらいには昇格している。


 中谷さんのご家族は事情を知っているとはいえ、例えば友人だとか親戚だとか、そういう人たちが参列した際、社長の家族が一人もいない状況は確かに気になってしまうだろう。いないより、いた方がいいかもしれない。


 俺の返答を聞いて、なぜか彼は小さく笑いだした。


「ほんと……東野ってストレートに物を言うよね。ずっと思ってたけど」


「まあ、正直な方だとは思います」


「父を利用しろ、なんていうの君ぐらいだよ」


「使えるものは使わないとね」


 俺がさらにそう言うと、彼は笑い声を大きくさせた。つられて自分も笑ってしまう。


 少し前まで、彼がこんな風に笑う姿すら見たことはなかった。愛は人を変えるというのは本当らしい。


 しばらく笑ったあと、社長は『考えておく』と結論付け、話題を変える。


「今日はちょっと緊張してたけど、普通に話せてよかった」


「いや俺こそ緊張してましたよ。まあ、でも社長室で色々話すこともありますから、会話には困らないと思ってましたけど、まさか飲みに誘ってもらえるとは」


「……思えば、東野はいつも俺の話を聞いて助言してくれたし、暴走しがちな時には止めてくれたからね。ちゃんとお礼を言ったことがなかったと思って。ありがとう」


 まっすぐこちらを見て言ったその目は優しく、とても柔らかな表情だったので、一瞬息を止めた。


 ……そんな風に思われていたとは。


「とんでもないです。俺はただ社長と中谷さんの仲を応援してただけです」


「と、いうか聞いたことなかったけど、東野は彼女とかいるの?」


「いますよ。付き合って三年になりますか」


「えっ!!?」


 初めて俺について質問されたかと思いきや、意外とばかりに目を丸くされた。なぜだ。やや不満に思い口を尖らせた。


「え、俺に彼女がいるのそんなに驚きます?」


「いや、違う、ごめん。東野は絶対モテるタイプだと分かってたけど、なんとなくこう、想像がつかなくて……そうだったのか」


「そろそろ結婚かなーと思ってるんですよ! ちょっとプロポーズについて相談させてください。指輪とかどうすればいいんですかね。好みじゃないとか言われたら立ち直れなくないですか?」


 酒の力もあり、会話がどんどん盛り上がっていく。お互いの交際相手について話しながら、まるで普通の友人同士のように笑い合った。


 不思議だなあ、と思う。


 あの時バーベキューに参加できず家に籠っていた少年と、今こうして並んで酒を飲んでいる。




「じゃあ、東野が無事結婚が決まった時は、俺も参加するよ」


「ええ!? 社長がですか? 恐れ多いと言いますか……」


「どうして? 友人として参加してくれるって言ったのはそっちだ。それに今日話してて、ちょっと安心したんだ」


「何がですか?」


 俺が尋ねると、彼はいたずらっぽく笑った。


「東野は普段、自分を『俺』って呼ぶんだと知ったから」



 あ、と小さく声を漏らした。


 確かに、仕事中は自分を『俺』とは呼ばないことにしている。状況にもよるが僕か、私を使っている。


 でも今は無意識に漏れてしまった。仕事モードではなく参加できているという証だった。



 俺は小さく笑う。


「鋭いですね」


「嬉しかったよ」


「……次は俺から誘ってもいいですか」


「いいに決まってる。俺は他に友達なんていないからね」



 普通の人のようになってほしいなと思っていた。


 甘いものを食べて一息ついたり、好きな女性と楽しい時間を過ごしたり、友達と酒を飲んだり。


 俺はこの人に、そういう人になってほしいなと思っていたんだ。




おわり


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

初恋を知った彼の愛は重め。 橘しづき @shizuki-h

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ