第55話 幸せな日々




ー三か月後ー




 碧人が一緒に帰れそうだと連絡があったので、私は駐車場の近くで一人待っていた。


 すっかり春らしくなってきている。冬にさんざん活躍したコートは出番を無くし、今はクローゼットの奥で眠っている。洋服屋に行けば明るい色の服が並び、鮮やかに彩られていた。先週碧人と春服を身に行って、大量に購入したところだ。彼が何でも似合うと連呼するので、調子に乗ってしまったのを反省している。


 あれから三ヵ月が経ち、平和そのものの生活を送っていた。


 長坂さんや春木先輩は、今どうしてるのか分からないほど全く姿を見ていない。東野さんが言っていた通り、向こうももうこっちと関わりたくないと思っているかもしれない。


 一番揉めていたのは、碧人の両親だ。


 母親は離婚したくないと大騒ぎしたそうだが、会長の意思は固く覆らない。弁護士も雇い、過去の不貞や金遣いの荒さをまとめ上げ、母親は言い逃れ出来ない立場になっていたらしい。


 実家や家にある金目の物は売りに出し、そのお金を分けて財産分与する予定だとか。なかなか大きいお家なので、売ればまとまったお金になるだろう。


 だが、会長はここである条件を付けた。母親に、彼が紹介する場所で働くというものだ。住む場所もその工場が持つ小さなアパート。これに従わないなら、過去の不貞などの理由から財産分与を大幅に減らす、と。それと碧人に連絡を取るのも一切禁じ、何かある場合は自分を通すようにという条件もあった。


 無論彼女は猛反発。でももらえるお金も減らしたくない。迷った挙句、条件を飲み込んだ。今まで働いたことなどない彼女が、遠くにある小さな工場ですでにパートをするだなんて、耐えられるのだろうか。

 

 でもこれは、会長の慈悲でもあると思った。いくらかまとまったお金が手に入るとはいえ、まだまだ長い人生。働きもせず生きていくには経験もお金も不足する。彼女が一人の人間として生きていくためには、小さなアパートで暮らしパートをする生活を送らせるのも、愛のある試練だ。


 同時に、碧人へ変な接触をしないかという監視の意味もあるらしい。仕事を辞めたり、引っ越したりしたら会長に連絡がいくようになっているらしく、碧人にこっそり会いに来た時などすぐに気が付けるようになる。


 私はこの話を聞いて、凄く頭の回る人だなあ、と思った。それに、碧人にこれ以上迷惑を掛けない、という強い意思が伝わってきたのは少し嬉しかった。


 碧人は全て聞いた上で、私に一つ相談を持ち掛けた。会長の入院費だけは、これまで通り支払っていく、というものだ。


 家を売ったお金で彼の懐にもお金は入るだろうが、麻痺のある体でこれから生きていくのには大変なことが多い。これまで邪険な扱いを受けたけれど、成人するまでの色々な費用を払ってくれたのは紛れもなくあの人だし、留学などもさせてらもった手前、そのお金だけは返したいと碧人は言った。


 私はもちろん反対しなかった。


 結局碧人と会長は話し合い、入院費の支払いは続けることで話がまとまった。会長は申し訳ない、と再度頭を下げたそう。


 でもそのあと意外なことに、一か月に一度ぐらい碧人は会長の元へ顔を出しに行くようになった。といっても、決して親子の会話をするわけではなく、経営についてたまに伝えたいことや相談したいことがあるのだそう。私もついていったが、本当に十分くらい仕事の話をしただけで帰宅するという、淡々とした面会だった。


 それでも私はなんだか微笑ましいと思った。碧人は許さないと言ったし、今後も許さなくていいと思うが、神園を経営していく碧人が、その重圧を理解できる人に相談できるのはいい事だと思ったからだ。


 親子ではなく、仕事仲間として、彼らは量は少ないが、ちゃんと言葉を交わしている。

 




「月乃、待たせてごめん!」


 振り返ると、碧人が駆け寄ってきたので小さく手を振った。彼は顔を綻ばせて私の隣に立つ。


「全然待ってないよ」


「ほんと? 帰ろうか。今日は俺が夕飯の当番だ」


「お腹空いたねー」


 そう話しながら歩き出した私たちの背後から、呼び止める声がした。


「社長!」


「え? 東野、どうした」


 東野さんが慌てた様子で近づいてくる。彼は手に茶色い封筒を持っていて、それを見た碧人はしまったとばかりに小さく呟いた。


「忘れてた」


 東野さんが駆けより、封筒を差し出す。


「忘れ物です」


「ごめん、すっかり」


「いえ、間に合ってよかったです。中谷さん、久しぶりですね」


 彼は私に微笑みかけてくれる。確かに、同じ会社に勤めているとはいえ、なかなか顔を合わせる機会がなかった。二人でコーヒーを飲んだ時以来だろうか。


「お疲れ様です、東野さん」


「ご婚約おめでとうございます」


 言われて、急に恥ずかしくなり小さく頭を下げた。


 碧人と一緒に暮らして三ヵ月、付き合った期間はまだ四ヵ月。でも、一緒に暮らしてる間も彼は変わらずずっと『結婚したい』と繰り返し言っていた。


 笑って保留にし続けていたものの、徐々にそれも苦しくなり、ついには先日、私の誕生日があったため指輪まで用意して正式なプロポーズをされてしまった。


 もう断れなかった。


 まだ答えを出すには早すぎる気もしたが、今の生活は特に不満が何もないので、受け入れるほかなかったのだ。碧人は家事もやってくれるし、私の意見を尊重してくれるし、ちょっと心配性で愛が重たいけれど、大事にしてくれるのは伝わっている。暮らし始めた頃から変わることはない。


 受け入れた時の彼の喜びようといったら凄かった。子供みたいに目を細めて笑って、こういうところが好きだなあ、と再確認できたくらいだ。


 まだ婚約した段階なので、これから色々動いていくところだ。


「ついにですね。こうなるだろうなと思っていました。僕も嬉しいです」


「あ、ありがとうございます」


「結婚式を挙げるなら、ぜひ呼んでくださいね」


 にっこり笑って言ったのに反応したのは碧人だ。彼は驚いた顔で東野さんに尋ねる。


「来てくれるの?」


「当然ですよ。あなたの秘書として、そして友人として」


 さらりと言った言葉に、碧人が息を呑んだ。友人、という響きに驚いているのかもしれない。私はそんな彼を見ながら笑った。


 二人は周りから見ると、どう見ても仕事仲間なだけじゃなくってかなり仲のいい友達に見える。でも本人に自覚はなかったようだ。友達は一人もいない、なんて嘆いていた頃もあったもんな。


 碧人は一瞬戸惑った様子だったものの、すぐに優しい声で答えた。


「ありがとう、必ず」


「はい、お待ちしています」


 東野さんはそう言うと、私たちにひらひらと手を振って去って行ってしまった。その後姿を見送った後、ゆっくり車に向かって歩き出す。


 碧人がどこかフワフワした足取りなのに気が付いていた。この人は嬉しいとき、案外顔や態度に出やすい。


「東野さんと一度、飲みにでも行ってみたら?」


「二人で?」


「二人でだよ。面白そう」


「……考えたことがなかった」


「碧人は私との時間以外いらないって前言ってたけど、友達もいいもんだよ」


 彼は嬉しそうな、それでいて困ったような顔でいた。私は微笑ましく思いながら車に乗り込み、シートベルトをしていると碧人が小さな声で言う。


「月乃と出会ってから、今まで見たことがない物がたくさん見れてる。誰かを好きになったのも初めてだし、おかげで友達がいることも気づけた。偽物の愛情を断ち切ってやっと人間らしくなれた気がする」


 それを聞いて、心がふわりと温かくなった。


 彼の言う通り、やっと碧人は普通の人としての感覚を手に入れたのかもしれない。子供の頃から得られなかったいろんな優しさや愛を知ることが出来たなら、こんなに嬉しいことはない。


 もしかすると、彼のちょっと重い愛情表現もこれから変わっていくのかもしれない。そしたら、もうGPSだとか連絡をマメにだとかも、求めてこなくなるかも。


「あ、そうそう、来週の土曜日、由真と晩御飯食べてくるね」


「来週? 分かった、送迎する」


 即答されたのを聞き、私は恐る恐るいう。


「いつも私が出かけるときに送迎してくれるけど、大丈夫だよ。長坂さんももう接触してこないしさ……」


 ところが、碧人はこちらを見て真剣な顔で言う。


「それだけじゃないよ。変質者にあったりしたらどうする? 変な男がナンパしてくるかも。俺は別に暇なんだからいくらでも使えばいいんだよ」


「で、でもさあ……」


「月乃になんかあったら、俺は生きていけないよ」


 私の頬に手を伸ばし、そっと撫でた。その手から熱い体温が伝わってくる。一瞬どきりとしながら、心で嘆いた。


 やっぱりそう簡単には変わらないかあ……まあ、プラス思考に行けば愛されてる、ってことでもあるし、外出禁止とか言い出すわけじゃないし、まあ放っておいていいのかなあ。


 すると彼がそのまま私に口づけた。キスなんて毎日重ねているというのに、いつでも彼は『足りない』とばかりに求めてくる。食べられるようだ、と思った。


 しばらくして離れた碧人は、少しだけ口角をつりあげる。


「可哀そうに」


「え?」


「俺に捕まって、もうどうしようもないよ。ちょっと面倒かもしれないけど、月乃が隣にいてくれるって言ったんだ、ずっとずっと俺に甘やかされていて」


 ……確かに、とんでもないのに捕まった気はする。


 たまに困る。でも仕方ない、確かに隣にいると言ったのは私自身なのだ。今更どうあがいても無駄なこと。


「分かってるよ、もう手遅れだってね」


「分かってるならいいや。もう結婚もするんだもんね。月乃は一生俺のそばにいるんだもんね」


「う、うん」


「これからもずっとだよ。さて帰ろうか。早く家に行って月乃から充電をもらわないと」


 そう嬉しそうに言った彼はエンジンを掛ける。そのまま車は私たちの住むマンションへと向かっていった。



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