第54話 コーヒータイム

 月曜の朝になり、碧人の車で一緒に出社した後、駐車場で別れて碧人は社長室へ、私は自分の職場を目指していた。


 週の初めということもあり気合を入れて歩く自分だが、時折ぐっと腰が重く痛む瞬間があり、嘆きながらそっと腰をさすった。


 下半身がだるい。あれから碧人が全く手加減してくれなかったせいだ。


 凄くこちらを気遣ってくれたのはいいのだが、一体どこにそんな体力を隠していた! と責めたくなるほど、彼のパワーは凄かった。私の体力がまるでついて行けていない。これが続くとなかなかきつい物があるぞ、前橋さんに相談……出来るかそんなこと。


 一人で自分に突っ込みながら歩いていると、背後から声を掛けられた。


「おはようございます、中谷さん」


 振り返ると、東野さんがにこにこ顔で立っていた。相変わらず爽やかな人だな、と思いながら頭を下げる。


「おはようございます」


「すみません、出勤前の忙しい時間で申し訳ないのですが、ほんの少しだけお話いいですか? 中谷さんと二人でお話する機会はそうそうないので」


 いたずらっぽく笑う東野さんを見て、前言っていたセリフを思い出す。私と二人でお茶でもしたら碧人に殺される……って、大げさだけど彼がいい顔をしないのは間違いないだろう。


 最近は帰りも時間が合えば碧人と一緒に帰るし、合わないときもタクシーとかを使ったりとかなり用心していたので、東野さんと話す機会がなかったのは確かだ。


 でもこの人は碧人のことをよく知っていて色々教えてくれたりするし、私は彼と話すのは好きだ。


「大丈夫ですよ。まだかなり余裕がありますから」


「ありがとうございます。あ、せめてコーヒーぐらいは奢らせてください」


 そう言って、近くの自動販売機でコーヒーを買ってくれた。そばにあった簡易的な休憩スペースに腰掛ける。あまり人通りもないので、話すにはいい場所だと思った。


「社長とは順調みたいですね。すっかり社内でも公認カップルになって」


 向かいに腰かけた東野さんが笑った。そうなのだ、前橋さん以外に交際を打ち明けた人はいないのだが、すっかり噂が出回ってしまっている。前橋さんが言いふらしたなどではなく、碧人の車で送迎されているのを目撃されたからみたいだ。


 こちらは苦笑いで返す。


「まあ、朝も一緒に通勤してますし、ばれないのが無理ですよねははは……」


「元々あなたへの好意を公にしていたのでよかったですよ。働くうえで困っていることはありませんか?」


「好奇の目で見られることはありますけど、大したことじゃないです。社長と付き合うとどんな感じだとか、興味本位で聞かれたりしますけどね。嫌な感じで訊いてくる人はいませんし、楽しく過ごせています」


「ならよかった」


「あの、碧人からも話があると思いますが、会長と週末に会って……」


 私からそう切り出したが、彼は驚いた顔をしていなかった。優しい笑みで頷いている。


「って、もしかしてご存じでしたか?」


「父から聞きまして」


「あ、なるほど……そのことも初めて知りました。東野さんのお父様から、会長に色々伝わってたみたいですね」


「父と会長は未だに友人関係にありますから。今回の離婚届を用意したのも父みたいです。会長がそこまでのことをしているのは、さすがに僕も知らなかったんですけど」


 コーヒーを啜る彼の顔はどこか嬉しそうに見えた。彼はそのまま続ける。


「まだしばらくバタバタしそうですけど、会長が決断されたのはいいことです。中谷さんも忙しかったでしょう? ここ一か月ほど、あなたは大変だったと思います」


「まあ、否定はしませんね……」


「長坂萌絵と春木高志のその後について、お聞きになってますか?」


 尋ねられ、首を振った。碧人はそんなことを一切言っていなかったし、それより同棲だの両親との戦いだので、精一杯だったのだ。


 東野さんは頷く。


「社長はあなたに恩を売るような形になるのを嫌いますからね、言っていないかと思ってました。中谷さんをあんな目に遭わせた二人を許すわけがないと分かってはいると思いますが」


「まあ、碧人は怒ってましたけど……」


 彼はにやりと笑い、人差し指を一本立てた。


「長坂萌絵。これは、社長が何かをするより前に、向こうから謝罪に訪れています。長坂萌絵は両親に今回のあらましを伝えたらしく、真っ青になったご両親と三人で、土下座する勢いで謝罪しました。その時の様子と言ったら……」


「言ったら?」


 東野さんんは思い出したのか苦笑する。


「ご両親はとにかく頭を下げてへこへこ。あそこは最近経営が危ういですからね、神園を敵に回したくないんでしょう。それはある程度予想できる図ですが、長坂萌絵の方が普通ではなくて」


「普通ではない?」


「……社長の方を一度も見ることが出来ず、真っ青な顔でガタガタ震えたまま頭を上げられませんでした。以前お会いしたときはお綺麗な人でしたが、その時はなんだかやつれてげっそり。あれは演技なんかじゃなく、明らかに恐怖で追い詰められていましたね」


「恐怖? 追い詰められていた? 何がですか」


 きょとんとして尋ねるも、彼は少し困ったように視線を泳がせた。そしてどこか誤魔化すように咳払いをする。


「まあ、中谷さんへした仕打ちを聞いたとき、社長はとんでもなく長坂萌絵に怒っていて……彼女から見れば、過去に付き合った社長は、穏やかで大人というイメージだったんでしょう。まあ、社長が彼女に興味がなかったゆえの態度なんですけど。そんな社長が怒ったことがあまりにショックだったみたいです」


「はあ……怒っただけでそれほどショック受けますかね? そんなやわそうな人に見えなかったんですが」


 理想だった人が思ってた感じと違った、ってだけで、やつれるほどショックを受けるだろうか。イマイチ納得できないが、東野さんはどこか言葉を濁した。


「ああ、まあ……社長の怒りっぷりは凄かったので。とにかく、社長にびくびくして顔も見れないほどになっていたので、あれはもうこっちに関わってこないでしょうね。ちなみに社長はあっさり長坂との取引を中止したので、向こうは今頃大変な目に遭ってるでしょう」


「そうなんですか……」


「犯した罪と比べれば可愛いもんだと思いますがね。それから春木高志について」


 東野さんは二本目の指を立てた。


「彼はもうすぐS県へ行くことになります」


「え!? きゅ、急にどうしたんですか!?」


 突然そんなことを言われて驚く。だが彼はさらに信じられない言葉を発した。


「ちなみに彼一人ではないです。両親も一緒です」


「……え?」


「彼の両親は現役でサラリーマンをしています。夫婦は同じ会社ですが、春木高志とは別の会社で勤めています。その三人とも、同日にS県へある支社へ飛ばされることが発表されました。想像してみてください。全く関係のない会社に勤めているのに、一家全員が同日に同県へ異動だと発表があった……偶然だなんて普通、思いませんよね?」


 にこりと笑う東野さんに対し、私は少しぞぞっとしてしまった。


「よく三人とも、なんて出来ましたね……」


「春木の会社には、以前中谷さんの嫌がらせがあった時に会社に注意していたので、今回の件を伝えればあっさり決まりました。両親の勤める会社は偶然にも神園の下請けです。こちらの働きかけで案外簡単に出来たそうですよ。さて……自分だけではなく両親まで飛ばされた、となれば、春木はどう感じるでしょうか?」


「私なら、怖いですね……」


「そう。これは社長からの最大の警告です。春木だけではなく親にも影響がある、と。彼はやっと事の重大さに気が付いたようで、長坂萌絵と同様、直接社長に謝罪に来ています」


 そこで、震えながら春木先輩は今回のことについて碧人に説明したそう。


 曰く、碧人のお母さんからある日突然コンタクトがあった。どうしても二人を別れさせたい、そこに協力してくれれば、お礼としてお金はもちろん、仕事も昇進できるように掛け合う、と。断れば今の会社にいられると思うな、なんていう脅し文句付きだったそう。


 果たして、経営に全く関わったことのないあの母親が、理由もなく人を昇進させたりクビにさせたりできるほどの力があるんだろうか。多分、無理だろう。出まかせを先輩は信じて実行してしまった、というわけか。


 彼は判断を間違えたなあ。本当に敵に回すと怖いのは母親の方ではなく、碧人だったのに。


「内容は長坂萌絵が言っていたことと相違はなかったので、主犯はやはり大奥様で間違いなさそうです。中谷さんの不貞の証拠を撮影するために手助けしたとのことですが、実際にはあなたに触れたりはしていないそうです。春木は無事家族と共にS県へ異動……まあ実際のところ、社長はもっとえげつない報復を考えていたんですが、今回の罪を公にするとなると、あなたが傷つくことになるかもしれない。なので残念ながら、この程度の事しか出来ないと社長は悔やんでいました。本当なら再起不能になるぐらいのことをしたかったみたいです」


 一体どんな報復を考えていたというのか。ごくりと唾を飲んだ後、想像するのは止めて東野さんにお礼を言う。いつも私が知らずにいることを、こっそり教えてくれる。


「いえ、私も大事にしたくない気持ちがあるので……ありがとうございます……」


「春木も相当怯えていました。社長は彼を見ると僕ですら震え上がってしまいそうな威圧感を出すので……一言でいえば『ヤバイ奴』って感じでした。春木も関わってはいけない人間なんだと痛感したでしょうねえ。遠くに行きましたし、よっぽどもう会うこともないかと」


 この短期間の間に、私と碧人を引き裂こうとした人間が次々消えている。あれから確かに、長坂さんも先輩も何も関わってきていない。碧人の母親もあんな状況だし、彼らの計画は破綻して終わったのだろう。


 私はふうとため息をついた。


「ありがとうございます。嵌められた私も悪かったんですけど、碧人は色々動いてくれてたんですね」


「僕は社長の境遇をなんとなく知っていたので……彼が普通の人のように恋愛をし、幸せになってほしいと思っていました。思ったより恋愛にのめりこむタイプだったのは予想外でしたが、最近の社長は人間らしくて見ていてほっとします。あなたの入社を決めたいきさつを聞いてから、なんとなくこうなる気はしていました」


 東野さんはそう言ってわずかに微笑む。コーヒーを一口飲むとそれを持ったまま立ち上がった。


「さあ、今からお仕事だというのに長話をしてすみませんでした。中谷さんも大変な日々でしたがこれで落ち着くでしょう。あなたがちゃんと戦ってくれる人でよかったと思います。もしすぐに社長を諦めてしまっては、彼はもう人を信じることなんてできなくなったでしょうから。ありがとうございました」


 静かに私に一礼すると、彼はそのまま立ち去って行った。私はほとんど中身が残ったままのコーヒーを両手で包み、少しぼうっとした後、働くために意を決して立ち上がった。


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