第53話 余裕のない顔






 碧人のマンションに帰ってくると、彼はソファに座る前に何も言わずに私を抱きしめた。もはやなんて声を掛けていいのかも分からず、ただその大きな背中を撫でるしか出来なかった。


 両親のそれぞれの考えは驚くものだった。大吾さんを呼び戻して碧人を追い出す案も凄かったけど、それより驚いたのは、妻に離婚を突き付けて碧人に頭を下げた会長の姿だ。


 彼の言っていた言葉が蘇る。


『一度は親になろうと決意した』……そう言っていた。もしかして、本当は碧人のことも大吾さんのように普通に育てるつもりだったんだろうか。でも、碧人が想像以上に浮気相手に似ていて、怒りが蘇ってしまったんだろうか。


 本人も言い訳だ、と言っていたが、確かにその通り。生まれた碧人には何の罪もないし、あの人たちがしてきた仕打ちはひどいものだ。でも、以前碧人が言っていた『母を縛り付けるために出産を許可した』という背景とは、少し印象が違った。


 あの人なりの葛藤があったのだろうか。


 そして、そんなひどい目に遭わせた子が、自分の会社を立て直してくれたと知ったとき、一体どんな気持ちだったんだろう。


「お母さんたち、どうなっちゃうんだろうね」


 抱きしめられたままポツリと言うと、彼はようやく体を離した。


「父は頑固で、一度決めたら考えを変えない人だ。多分、離婚は逃れられないだろう。かなり昔の事とはいえ、母には不貞の証拠もあるし、他にも色々問題はあったみたいだから」


「……どう思った? 謝られたこと」


 碧人は私からすっと視線を逸らす。


「びっくりした。何より、許さないと言った自分にも。俺は今まで、家族に怒りを抱くことすら抜け落ちてたのに、そんな言葉が出てくるとは思わなかった」


「それでいいんだよ。それが普通だよ」


 私は嬉しいと思っていた。碧人が、自分をあんな扱いした両親に怒りを抱いてくれることが。彼が自分という存在をようやく大切にし始めた気がしたからだ。


 彼は少し口角を上げる。


「月乃が、俺のためにいっぱい怒ってくれたから……嬉しくて、なんかどんどん人間になっていく感じがした」


「碧人だって私のためにたくさん怒ってくれたでしょ。だからおあいこだよ」


「啖呵を切った月乃はかっこよかった。近藤由真を守るために戦ってた時のことを思いだしたなあ」


「ま、また古い話を」


 碧人は一人で少し笑ったあと、すぐに真顔に戻る。


「まあ普通に考えて今、兄が戻ってきたからと言って、すぐに経営者を変えるなんてことは出来ないからね。母はそんなことも分からないのか、と……あの人はずっと、自分で働いたこともほとんどないし、周りを自分の思い通りに動かしてきただけの人だから。いい加減、それが普通の状況じゃないと分かってよかったんじゃないかな」


「……あの様子じゃ、大人しく引き下がらなさそうだけど」


「だろうね。まだ全部解決したわけじゃなさそうだ。でも、体は不自由とはいえ父は頭はしっかりしてる。それなりに考えがあるんだろう」


 そう言ったまま、碧人が黙り込む。私は心配でその顔を見上げた。


 ああは言っても、子供の頃からずっと大事に思っていた家族を失くすのは、やっぱり辛いものがあると思う。母親はあんなんだったし……結局自分のことをちっとも大事に思っていないんだと再確認し、少なからずショックは受けているだろう。


 そんな私を見て、碧人は微笑み、そっとキスを落とした。再び強い力で抱きしめられる。


「俺が神園からいなくなるって聞いても表情一つ変えずにいてくれる月乃を見て、本当に嬉しかった。そんな状態になっても俺の隣にいてくれるんだ、って」


「当たり前だよ」


「……ありがとう。月乃、本当に大好き。月乃と出会えてなかったら俺は今どうしてたんだろう。どれだけ感謝してもしきれないよ」


「大げさ……」


 恥ずかしくなって少し笑うと、碧人が私を離す。そして、こちらの様子を窺うようにどこかよそよそしく言った。


「俺……手の傷、だいぶよくなったよ」


 そう言われた途端、どきんと心臓が鳴った。彼が何を言いたいのか察したのだ。同棲を始めた私たちだが、彼の右手の傷が癒えていなかったので、私たちはまた手を繋いだまま寝るに留まっていた。


 つまりは、だ。


「そ、そうだね」


「ベッド行こう」


「え!? このタイミングで!? それにまだ昼間だけど!」


「このタイミングだからだよ。俺もう、待てないよ」


 少し眉間に皺を寄せて言ってきた顔が可愛くて、ぐっと言葉に詰まった。


「最初の頃は全然そんな感じじゃなかったじゃん……」


「どうしていいか分からなかっただけだよ、下心は持ってたに決まってる。今は月乃が本当にずっと俺の隣にいてくれるんだ、って安心したら、もっと欲しくなった」


 ねだるような、でも無理強いはしない言い方がずるかった。そりゃ私も結構前に心を決めていたわけだし、今更嫌がるわけがじゃない。


 ただ暗くなってからの方がいいのでは、と思うだけだ。


 ちらりと見上げると、確かに余裕のなさそうな彼の顔が視界に入り、白旗を上げた。そんな顔をされたら、もう引き延ばすなんてできっこない。


 私が頷くと、それを見て彼は周りに花が咲いたかのようにぱあっと笑顔を見せた。そして私の頬を両手で包むと何度もキスを繰り返し、こっちが恥ずかしくなるぐらい『好き』の言葉を降らせた。


 嬉しそうな碧人を見て、私自身の頬も緩むのを自覚した。


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