第52話 彼の本音
しばらくぽかんとしていた母親だが、すぐに顔を真っ赤にさせ、会長に唾を飛ばしながら叫んだ。
「聞きましたか、あの暴言! とんでもない女だわ……もう碧人とは親子の縁を切りましょう。ね! 大吾を呼び戻すんです、あなたの権限でそうしましょう!」
すると、そうまくし立てる彼女に会長は静かに手を伸ばし、持っていた書類を取った。そして次の瞬間、それを怒りに任せたようにぐちゃぐちゃに握りつぶしたのだ。麻痺があるのか、片方の腕は上手く動かないようだが、たった一本の腕でも怒りが伝わってくる気がした。
予想外のことに、私たちは驚きで立ち尽くす。特に母親は、何が起こったか分からないというように呼び掛ける。
「あ、あなた……?」
「馬鹿女が……」
初めて彼は口を開き声を出した。低く擦れた声で、舌は上手く回らないようだが、聞き取るには十分な発語だった。
彼は書類を床に投げ捨てると、顔を歪めて呟いた。
「黙って聞いていれば……なんて馬鹿な……お前はずっと変わらないんだな」
そう言って、すぐ近くにある床頭台の引き出しを開けた。そこから一枚の紙を持ち出し、隣にいる妻に見せる。それを受け取った彼女は、一瞬で真っ青な顔になった。
「離婚届……?」
私と碧人も同時に息を呑んだ。
離婚届を持つ手を震わせ、母親は詰め寄る。
「なに……何を!? これ、いつのまに! わ、私はあなたのことを思って看病もしてきて、あなたを思って今回のことだって」
「碧人、ずっと、聞いていた。私が退いた後のことを」
妻の言葉は無視し、会長は静かな声で碧人に呼びかける。ゆっくりとした口調で、必死で喋っているのがよくわかる。碧人はただひたすら驚愕の顔で見ていた。こんな風に話しかけられるのは、初めてだったのかもしれない。
「私の秘書だった、東野は、今でもときどき来てくれてね。彼の息子が、今ほら、お前の秘書をしているから、そこから話を聞いて……あんな状態だった神園を、お前が必死になって立て直してくれたことを、私は聞いていた」
つまりは、東野さんから東野さんのお父様へ、そこから会長へ伝わっていたのだ、碧人の働きぶりが。かなり経営が危うくなった会社がみるみる生き返っていくのを、彼はどんな気持ちで聞いていたのだろう。
予想外の言葉に、碧人も少したじろぐ。
「え……そう、だったんですか」
「私は……お前にひどいことをし続けた。一度は親になろうと決意したのに、生まれたお前が、あまりに、向こうの男の顔に似ていて……いや、言い訳だ。ただ、受け入れるだけの器量が、なかっただけだ。謝っても許されるわけが、ない」
活舌の悪い言葉を必死になって言うその姿から、彼の本気度が見えた。言葉を選びつつ、上手く回らない舌を必死に動かしながら碧人に言葉を届けようとしている。
「どうせ、うちの家にはもう、金もそんなにないだろう。妻の様子を見て、分かる。今まで好き勝手させた、私に責任がある。いつまでも馬鹿な、こんな女の言うことは無視しなさい。そして、神園を、これからも頼みます。素敵な方との結婚も、おめでとう。これからは私たちとは縁を切り、生きてください。こっちは自分で何とかする。今まで本当に、申し訳ない」
彼はぎこちなく頭を下げた。
「あ……あなた、ねえ!? 離婚ってどういうこと? 親子の縁を切るって? 大吾はどうするの、私はどうなるの!?」
「もう終わりにする。お前の浮気性と、金遣いの荒さにはずっと前から愛想を尽かしていた。もっと早く、こうするべきだった。大吾はいい大人だ、一人で、生きていけてる。あいつは、元々、経営には向いてなかった。あいつなりに幸せに、やってるだろう」
「嫌よ、そんなの嫌よ! 今更どうしろっていうの……全部上手く行ってたのに、どうしてこんなことに? 全部、全部上手く行ってたのに!」
叫ぶような泣き声が病室中に響き渡る。それでも、会長は表情一つ変えずに冷めた目で自分の妻を見ていた。かなり前から離婚のことを考えていたのだろうか。
碧人を見てみると、複雑そうな顔をしていた。虚しさ、悲しさ、少しの喜び、脱力など、簡単には表現できない顔だった。
「これからどうするつもりなんですか」
「あの家を、売って金にする。離婚して、私は一人でやっていく。この女は、働きにでも出ればいい。体は動くんだからな」
「……」
「……あんな扱いをしてきた碧人に、会社を任せ、面倒を見てもらっていることが……本当に申し訳なくて、たまらなかった。すまなかった。そしてありがとう」
碧人は言われた言葉を噛みしめるようにしながら目を閉じる。そして次に一度頭を下げ、私の手を握ると、凛とした声で言う。
「あなた方を許すことは一生ありません。家族に戻ることももうないでしょう。ただ、俺がこの世に生まれてこられた、それだけは感謝します。そうじゃなければ、月乃に出会えなかったので。お元気で」
それだけ言うと、彼は私の手を引いて病室から出てしまった。背中に、こちらに怒鳴りつける母親の声が聞こえたが、無視してそのまま立ち去った。彼女の金切り声は凄まじく、廊下に出てからもしばらく耳に届いていた。
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