第51話 それでいい



 碧人が一緒に来てほしい、と言ったのは、彼のお父さんが入院しているリハビリ病院だった。


 仕事がある平日は避け、土曜になったところで彼の運転で病院へ向かう。ちなみに、無断欠勤(正しく言えば、碧人と会った直後にちゃんと連絡を入れている)という最低なことをやらかしてしまった後だが、体調不良ということで特にお咎めなしになっている。実際、薬を盛られたせいで頭が痛かったりぼうっとしたりで万全な状態とは言えなかったので、まああながち嘘ではない……と思っている。翌日からは毎日出社し、休んだ分を取り返す勢いで働いているので、これで何とか挽回したいところ。


 碧人と同棲を始めて、これまで以上に一緒にいる時間が長くなり、一人になることもなくなったためか、碧人の母親も長坂萌絵も接触してくることはなかった。


 そしてーー次はとうとう、神園前社長と会う、というわけだ。一応会長とでも呼べばいいのだろうか。


 碧人とは血が繋がっていない、でも戸籍上は父親になっている人だ。碧人の母親と同じく、彼をほぼ無視しながら生きてきた外道とも呼べる。


 脳梗塞で倒れ、仕事が出来る状態ではないと聞いていたが、一体どの程度の後遺症があるのかは詳しく聞いていなかった。


 病院へたどり着くと、碧人はまっすぐに個室へ向かっていった。ドキドキしながら小声で尋ねる。


「碧人は来たことあるんだよね?」


「一度だけ。会社を継ぐってなった時に、さすがに何も言わないのはどうかと思って……『お前が継ぐのは賛成出来ない』って言われたけど、他にやりたい人もいなかったし、結局そのまま俺が継いだけど」


「そうなの……」


 私は全く知らない碧人の父親、そしてあの母親の夫。一体どんな人なのだろうと、緊張が増す。


 碧人がある一室の前で足を止め、ネームプレートを確認する。『神園連太郎』そこにはそう書かれていた。


 彼が私の顔を覗き込む。


「大丈夫? 月乃も付き合わせてごめん」


「いいの。ちょっと緊張してるだけ」


「月乃を紹介する義理もない相手だけど、顔ぐらい見せて自慢してもいいか、と思ってね」


 碧人は全く緊張してないのか、余裕のある顔で笑って見せる。その笑顔を見て少しほっとし、私の表情も緩んだ。


 碧人はそんな私を見た後、ノックをし、ついに扉を開く。


 中は綺麗な部屋だった。大きな窓から青空が見え、その手前にベッドが一つある。そこには上半身を起こした男性がいた。やや白髪の混じった髪に、吊り上がった目。細身で頬は少しこけているが、きりっとした表情をしている。


 そしてその隣には、冷たい目をした碧人のお母さんが立って私たちを見ていた。


 碧人は涼しい顔をしたままベッドに近づき、お父さんに言った。


「ご無沙汰しております。体の調子はいかがですか。今日は、結婚したいと思う相手が出来たので連れてきました。興味ないでしょうが」


 お父さんがこちらを見て目が合う。その表情を見て、どことなく威厳を感じた。やはり、あの神園の経営者を長く務めてきただけのことはある。


 私は頭を下げる。


「中谷月乃と申します」


「とても素晴らしい女性です」


 碧人のセリフを聞いた母親は、吐き捨てるように言う。


「よくもそんなことが言えるわ……! あなた、とんでもない女なんです。金目当てのこの女に、碧人は騙されているんですよ。碧人、考え直す最後のチャンスなのよ。このままでは、あなたはすべてを失うことになる。私たち家族も、今まで築き上げた努力も全部水の泡よ。神園だって、そんな女がそばにいたらきっとダメになるわ」


「面白いことを言う。俺には元々、家族なんていなかったじゃないか。さんざん無視されて邪険に扱われてきたのに、今更家族なんていわれても。神園の経営は月乃と付き合いだしてからも順調だよ。むしろ、守るものが出来て頑張らないとって気合が入るぐらい」


「……何を言っても駄目ね」


 母親はわざとらしくため息をつくが、隣にいる会長は何も言葉を発さず、ただ厳しい顔で座っているだけだ。


 碧人はひるむ様子もなく、淡々と説明する。


「交際に反対だからと言って、人を使って月乃に薬を盛り、他の男と不貞したかのような写真を撮るだなんて、普通の人間はやらない。あなたの行為は常識を逸している」


「私は知りませんよ? あなたにふさわしいお嬢様を紹介しただけ」


「その紹介した長坂萌絵が、あなたに全て指示されたと証言してるけど」


「そんなの嘘に決まってるじゃない。とうとう母親の言うことを信じることさえしなくなったの? そんな子じゃなかったわ、ねえあなた? そこの女と付き合いだしてから本当に変わってしまって……でも、心を鬼にするしかないみたいね」


 そう一人でしゃべった彼女は、近くに置いてあったカバンを手に取り、中から何かを取り出した。書類のようなもので、それを勝ち誇ったような顔で私たちに見せつけるようにひらひらと揺らした。


「これ、何か分かる?」


 私たちは目を凝らしてみるが、やや距離があって文字が読めない。顔を顰めていると、母親はすぐに答えを言った。


「見つけたのよ、大吾の居場所を」


 きょとんとしてしまった。大吾、とは碧人のお兄さんの名前だ。


 元々神園を継ぐ予定だったのものを、その重圧に耐えきれず逃げ出したという。そのあと、どこで何をしているか消息は一切不明だったらしいが……。


 碧人も不思議そうに尋ねた。


「それが?」


「分からないの? 大吾を連れ戻せば、あんたが会社を経営する権利はないのよ! 元々大吾が継ぐはずだったのよ。今の神園の状態なら、大吾も安心して戻ってこれるでしょう。これで碧人、あなたは終わりです。すぐに退きなさい」


 その言葉を聞いて、開いた口がふさがらないというのはこういう時のことを言うんだ、と思った。


 目の前でにやにや笑う女が人間とは思えなかった。クズで、救いようがなくて、どう生きればこんな歪んだ人間が育つんだろうと疑問に思う。


 もとはと言えば自分の不貞で碧人を身ごもり、(いや、おかげで碧人はこの世に生まれたわけだけども)そのあとは彼を無視するような生活を送り続け、必要な時になったら縋って褒め称え、言うことを聞かなくなったら即座にポイ、か。


 碧人がここまで頑張って神園を引っ張ってきたのに、もうお役御免だと?


「でもまあ、ここまで頑張ってきたことは私たちも分かっています。碧人、最後のチャンスです。元の温かな家族に戻りましょう? 今なら引き返せる。頭を下げて許しを乞いなさい」


 私はゆっくり隣の彼を見上げた。どれほど悲しい顔をしているのかと不安になりながらそうしたのだが、驚くことに碧人の表情は何も変わってはいなかった。


 ただまっすぐな目で、自分の母親を見つめている。


「分かりました。じゃあ、そうします。俺は神園を辞めて転職します」


 素直にそう言ったので、母親は一瞬驚きで怯んだ。碧人はなおも続ける。


「俺は今まで、ただあなたに認められたい一心で頑張ってきました。でも、頑張っても結局は本当の愛を得られないんだと、ようやく分かりました。俺には偽物の愛は不要です。俺の駄目なところも含めて隣にいてくれると言ってくれた月乃がいればそれでいいです」


 全く表情を変えない碧人にカッとなった母親は、今度は私に向かって叫んだ。


「せっかく神園の社長夫人になる予定だったのに残念ね!? 今からこの子は無職になります。今住んでるマンションも持ってるものも全部なしになるわ! 誤算だったでしょうねえ?」


「いえ、まったく」


 軽く答えてしまった。これまた全く顔色を変えない私に、向こうは唖然とする。私の困り顔をが見られると思い込んでいたのだろう。


 私は一つ深呼吸をして、一歩前に出る。そして、遠慮なく二人を睨みつけた。


「そもそも、私が碧人の遺産目当てで付き合ってるなんて見当違いなんですよ。いくら遺産があっても、こんなクズみたいな女が母親としてついてくるなんて、普通の人間なら逃げ出すに決まってるでしょう! 私はちゃんと碧人の真面目で、努力家で、ちょっと不器用だけどしっかり私を大事にしてくれるところを好きになったんですよ。いいじゃないですか、碧人は仕事を辞めて小さなアパートにでも引っ越せばいいんです。転職活動中は私が支えますよ。言いたいことはそれだけですか? じゃあ私からも!」


 ばっと二人を指さした。怒りが沸騰して収まらない。


「どいつも、こいつも! 碧人の親みたいな顔するのやめて! あなたたちがやってきたことは立派な虐待だと思うし、性格が歪みすぎてて本当に顔も見たくない。もう一人の息子を早く呼び出して神園を継いでもらったら? 社員はどう思うかな! 言っとくけど、碧人は社内でも凄く評判で、信頼を得てる。社員が付いてこなくなったら会社は終わりなんだよ!」


 一息でまくし立てると、乱れてしまった息を落ち着かせるために酸素を必死で吸った。そんな私を背後から、碧人が肩に手を置いてくれる。振り向くと、彼は非常に優しい顔をしていた。


 ありがとう。そう言っているのが伝わってくる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る