第50話 心に決める

「……じゃあ、嫌じゃなかった? 俺てっきり、月乃が嫌がることをしたのかと。そのあともどこかよそよそしい気がして」


「嫌じゃなかったよ!? ていうか、だったら碧人の家に行ったりしないし……むしろ、手を握って寝るだけだったから、不思議だなって思ってたところ……長坂さんの香りがして、反射的にこう」


「告白されて断ったあと誘われたからね。下着姿で密着されて迫られたけど」


「え゛」


「でも全く心は揺れなかったし、これっぽっちも嬉しくなかった。ぞっとしたくらいだね。月乃以外の女がいかにどうでもいいか思い知った」


 まっすぐ目を見て心の底からそう言った。


 きっと何をされても、この人を嫌いになることも、離れることもないのだと思う。今まで閉鎖的だった自分の人生が、明るくなって新しい物に変わった。そう思えるぐらい、俺にとっては特別な人だ。


 自分でも異常だと分かるぐらいに、執着している。


 俺は左手でそっと月乃の手を取った。


「俺は月乃を裏切らない、月乃を守りたい、ずっと隣にいてほしい。だから、月乃も隠し事はしないで全部話して。俺のせいで色々巻き込んでることは分かってる、でも全力で力になるから」


「……分かった、色々ごめんなさい」


「でも月乃が嫉妬してくれたと思うと……俺はそれだけでしばらく生きていけそうだよ」


 長坂萌絵の発言を聞いて不快に思ってくれていた。その事実が俺にとっては幸福そのものだ。前も、昔の交際について気にしてくれていたけれど、この点だけは長坂萌絵の存在をありがたく思わねばならない。


 勝手に頬が緩み顔がにやける。そんな俺を見て月乃が不服そうに口を尖らせた。


「そりゃ……そう思うよ。あまり伝わってないかもしれないけど、私は軽い気持ちであなたの隣にいるって決めたわけじゃないから」


 ぼそぼそとそう言ったのを聞いた途端、自制が一気に吹き飛んだ。ほとんど意識を飛ばしたようになりながら、彼女を抱きしめて口づけた後、そのままソファに倒れこんだ。


 あふれ出る愛しさが止まらなかった。


 ここ最近、あまり会えてなかったのもあり、気持ちが高揚し頭が沸騰しそうになる。今まで手を出すのを怖がっていた自分はどこにいったんだ、というくらいに。


 我を失ったかのようにキスを繰り返し、彼女の着ている服から手を滑り込ませた瞬間、ぐいっと体を押された。デジャヴだ、またしても同じ構図が出来上がっている。


 驚いて見下ろすと、月乃が真っ赤な顔をして腕を伸ばしていた。


「私……少し前に帰ってきたところで、昨日も今日も、まだお風呂に入ってない……」


 思ったより可愛い発言と顔があって、一瞬固まった。少ししてさらにぐいっと顔を寄せた俺は真剣に答える。


「気にしない」


「私は気にするの!」


「全然いいから」


「それと! 碧人はそんな怪我してるんじゃだめでしょ! 利き手じゃん!」


「別に手が一本ぐらいなくたって」


「だめ!」


 きっぱり言われたので、仕方なしに彼女の上からどいた。だがまあ、前回と違い、ストップを掛けられた理由が明確に分かるので、さほど落ち込まなかった。盛り上がった自分の気持ちを落ち着けるのにかなり労力を使うが。スマホを自分の腕ごと壊したことを、今日初めて後悔した。


 月乃は切り替えるように咳ばらいをすると、話題を戻す。


「それにしても、全てが碧人のお母さんがやってたとすると……もう私たちを認めてもらうのは無理そうだね」


「それに関してはもう考えがある」


 彼女は驚いた顔でこちらを向いた。それと同時に、少し困ったように眉を顰める。


「……碧人? 怖い顔しないで」


「俺はずっと、家族の一員として認められと思ってたんだ。勉強をして、会社の立て直しも頑張って、ようやくあの人の息子になれたんだ、って……でも違う。幼い頃から今まで、俺はずっとあの人の都合のいい所有物だった」


 淡々と述べると、月乃がそっと俺の手を握る。いつも俺から握っていたので、少し珍しい気がした。彼女は凛とした声を出す。


「子供が親の愛を得ようとするのは自然なことだし、努力してきたあなたは凄い。その努力は無駄なものじゃなかったし、今こうしてあなたの人生の支えになってる。でも、そうまでしないと与えられない愛は、愛じゃない。私はあなたを所有物扱いする母親がどうしても許せないし、あの人は人の親になる資格がないんだと思う」


 心に穴が開くことを、自覚している。


 俺は最後まで本当の子供にはなれなかった。生まれてきてから一度も、本当の愛を与えられてなかった。


 それでも、隣にいる月乃を見て、穴がすぐに埋もれていく。


 この人は確かに俺を受け入れ、隣にいてくれるんだと。あれだけいろんなことに巻き込まれて、普通なら逃げ出したくなるだろうに、変わらず俺のそばにいてくれる。


 俺には月乃しかいない。


 決して月乃を身代わりにしているだとか、執着先を変えただけだなんてことじゃない。俺は初めて会った時から、彼女の誰かを心から大切に思える優しさと、誰かのために戦える強さに惹かれた。自分もその『誰か』になりたいと思った。


 そして俺はなれた。月乃がそばにいてくれるなら、怖いものは何もない。



 もういらない。我慢の限界だ。月乃を攻撃するあの女を、放ってはおけない。




「……大丈夫。きっと数日で、向こうからコンタクトが来る」


「何を考えてるの?」


「別に、相手が欲しがってるものをなくしてあげるだけだよ。悪いことは何もしない、月乃は安心してて。それよりーー」


 俺は彼女に向き直り、そっとその頬に触れた。


「お願いだから一緒に住んでくれないかな? 決着させるには少し時間がかかるから、その間に月乃に何かあったらと思うと、俺は仕事も出来ない。頼むからそばにいてほしい」


 必死に懇願すると、彼女はいつものように返事を即答することはなく、悩むように唸る。俺はさらに続けた。


「朝は俺が送ってく。夜もなるべく時間を合わせるけど、無理なときはタクシーで帰ろう。そうじゃないと、俺はどうにかなってしまう。本当なら月乃には仕事も辞めて、この家で一日中籠っていてほしいんだ。でも、月乃はそれを嫌がるでしょう? だったらせめて、俺の目が届くところにいて」


 閉じ込めておきたい気持ちは山々だ。それが俺にとっては一番安心。他の男と触れ合う機会もなくなるし、事故なども心配もなくなる。でも、月乃という人を分かっているからこそ、そんなことは出来ないと知っている。


 彼女は仕事も好きだし、外で生き生きとしていたい人だ。


 しばらく悩んだ末、今回のこともあって彼女も危機感を覚えたのか、ついに頷いた。


「分かった。そうする」


「本当!? いいの!?」


「うん。言っておくけど、私あんまり掃除とか得意じゃないからね」


「そんな事どうでもいい! ……ありがとう!」


 飛び跳ねてしまいそうなほど嬉しく、その体を強く抱きしめた。何度誘ってもイエスと言ってくれなかった同棲の許可がやっと下りたのだ。


 家に帰れば月乃がいる、毎日会える。もう自分は寂しくないと思った。


 子供の頃嫌いだった食事の時間も、これからは待ち遠しい時間になるに違いない。




 そのまま月乃のアパートから必要最低限の荷物を運び、そのまま俺のマンションに住むことになった。残りの荷物は、業者に代理で運ばせることにする。


 自分にとっては幸せな生活が始まり浮かれてしまいそうだが、そんな場合ではない。月乃の引っ越しの手続きをしつつ、やるべきことはしっかり手を回しておいた。きっとすぐに相手は音を上げるだろう、という確信があった。


 そして、たった三日経ったところで、早くも俺の想像通りのことになった。


 これまで俺が電話を掛けても出ず、メールも返してこなかった母が、慌てたように電話をよこしたのだ。


 丁度月乃と帰宅し、さて夕飯を準備をしようと動き出したところで、着信があった。母からであることを告げ、俺は電話に出る。月乃は静かに夕飯を支度をしながら聞き耳を立てていた。


「もしもし?」


『あ……碧人!?』


 向こうはかなり焦っているようだ。俺はそ知らぬ顔で尋ねた。


「どうしたの、そんなに切羽詰まった声を出して」


『カードが使えないって言われたの。今はとりあえず現金を下ろして使ってるけど……どうしてかしら?』


「散々こっちの電話を無視したことに対する謝罪もなしか」

 

 俺はソファに勢いよく腰かける。電話の向こうは、悪びれる様子もない。


『ちょっと忙しかっただけよ……そんなことより、カードはどうしたのかしら? すぐに連絡して確認してくれる? 新しいカードをすぐに持ってきて頂戴、現金だけじゃ不安だわ』


 スマホを耳に当てたまま、ゆっくり目を閉じる。月乃にした仕打ちを反省するそぶりもなく、金の心配しかしていない。それでも、これまでは必要とされているのだと思い込んでいた。


 あの人が必要としてるのは俺じゃなく、金だ。


「カードはもう止めた。新しいものも渡さない」


『……え?』


「父の入院費も来月からは払わない。自分たちで何とかしてくれ」


 俺が言い放つと、金切り声が耳に響いた。


『何を言ってるの!? それはあなたの義務でしょう!? 親を助けない子供がどこにいるの? 急に……あの女ね、結局あの女にそそのかされて騙されてるんだわ! だからとっとと別れろって言ったのに!』


「萌絵から聞いた? あなたの作戦、全部失敗に終わってるよ。月乃を眠らせて不貞のシーンを撮影する方法だけど、俺はそんなのに引っ掛からないから。手段を選ばないやり方に、俺はもうついてけないんだよ。堪忍袋の緒が切れた」


『碧人、落ち着いて頂戴。よく思い出して? あなた、会社の経営が軌道に乗ったころ、私に褒められるのが何より幸せそうだったじゃない。元の優しいあなたに戻ってほしいの。今なら間に合うわ、あの女と別れて戻っていらっしゃい。その方があなたの幸せなのよ』


 今度は泣き落としなのか、涙ぐむような声で言ってきたが、何も俺には響かなかった。むしろ、どうして今までこんな安っぽい言葉を信じてきたんだろうと不思議なくらいだ。


 神園が傾いていた頃、当然ながらうちの家にも影響が出ていた。昔は裕福だった実家だが、父が倒れた頃には、財産はかなり減っていた。


 そこに父の治療費や入院費。母は生活の質を落とすことが出来ず今まで通りの生活を続けた。入ってくる金はないのに出費だけ増え、どんどん貯金は無くなっていった。


 俺が継いだ後神園がまた軌道に乗り、収入も増えてきた頃には、両親の通帳の中身はかなり寂しいことになっていたことを、俺は知っていた。


 なので父の入院費を支払い、母にはカードを渡して生活してもらっていた。それが子供としての役割だと信じて疑わなかったからだ。


 でも全て止める。今までろくに働いたこともなかった母が路頭に迷っても知ったことではない。


 彼女は俺を怒らせすぎた。


「いつまでも俺が従順な子供だと思ったら間違いだよ。あんたは母親じゃない」


『……そう、そうなの。後悔するわよ』


 母の憎しみがこもった声がしたので、意外だった。あの人は俺に泣きつくしかないと思っていたからだ。


「するのはそっちだ」


『いいわ、一度会って話しましょう。お父さんも含めてね。そこで、あなたは私に従うしか方法がないって教えてあげる』


 勝ち誇ったような声を聞いて、言い返そうと思ったがやめておいた。熱くなった方が負けだ、と思い、俺は冷静な声で答えた。


「分かった、一度あの人にも状況を話したいと思ってた。今度、行く」


 月乃が心配そうな顔でこちらを見ていたので、俺は優しく微笑み返した。大丈夫だよ、というように。



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