第46話 誰の声?

 その時、丁度私のドリンクも運ばれてくる。こちらは澄んだオレンジ色をしていて、ふわりと柑橘系の香りがした。飲もうと手を伸ばしたところで、背後から大きな物音が聞こえる。大きなものが落ちたような音だ。


 振り返ると、若い女性が派手に転んだようで、真っ赤な顔をして四つん這いになっていた。足元は高いヒール。お酒と、ヒールの不安定さが合って転んでしまったのかもしれない。カバンからは財布やポーチが飛び出していた。


「大丈夫ですか!?」


 反射的に彼女に近づいて声を掛ける。申し訳なさそうにすみません、と謝る女性に落ちたポーチを差し出して、怪我がない様子に安堵する。


 彼女はすぐに立ち上がり、恥ずかしそうに店から出て行く。それをぼんやり眺めた後、自分の席に戻ると、隣の長坂さんがじっとこちらを見ているのに気が付いた。


「……えっと、すみません、なんでしたっけ」


「……いいえ。そうやって、見ず知らずの人にもすぐに駆け寄れるところが、碧人さんはよかったんでしょうね」


 先ほどから随分と大人しい発言ばかり続いていて、面喰う。この前の戦闘態勢は一体どうしてしまったというのだ。それほど、碧人に振られたというのが堪えたのだろうか。


 とりあえず、届いたカクテルを一口飲んでみると、少し苦みのある柑橘系のノンアルコールカクテルで、さっぱりした美味しいものだ。長坂さんはふうとため息をつく。


「正直、会うまで碧人さんは別れてくれるかと思ってたんです。中谷さんとは付き合いも浅いようですし、家族にあれだけ反対されたら、ちょっと迷っちゃうこともあるじゃないですか。でも意思は固いようです」


「……長坂さんは完全に身を引くんですか」


 私がズバッと聞くと、彼女は苦笑いをした。


「まあ、そうするしかないんですかね」


 彼女が手を引くとなれば、碧人のお母さんはどうするつもりなのだろう。長坂さんも言っていたが、かなり頑固な様子だし、そう簡単に解決するとは思えない。そもそも、昔の碧人への態度などから見ても、多分普通の人間の神経ではないんだろう。

 

 長坂さんは一気にカクテルを飲み干し、グラスについたリップを指先でぬぐう。


「でも、碧人さんがあれだけ中谷さんに一途なら、お義母さまも出来ることはないんじゃないかな。私も何もできなかったし……最後に思い出を作るだけで精一杯でした」


 ふと、隣を見た。さっきも『私には思い出がある』と言っていたが……てっきり、過去に碧人と付き合った時のことを言っているのだと思っていた。


「思い出?」


「あれ、碧人さんから聞いたんですよね?」


「何がですか? お母さんから騙されて長坂さんと二人きりにさせられて告白をされたとは言ってましたが……」


「……なんだあ、そっかあ」


 彼女は一人で納得したように笑う。その光景が何だか凄く不愉快で、同時に不安にもなった。


「どうりで。中谷さんって、凄く心が広い方なんだなあと感心してたんですけど、そうじゃなかったんだあ」


「どういう意味ですか?」


 私が食いついて尋ねると、長坂さんがこちらを見た。綺麗に伸びたまつ毛が揺れ、すっとその目を細める。


「最後に思い出を下さいってお願いしたんです。完全に振られたから……せめて一度だけ、抱いてくださいって」


 つい、呼吸を忘れる。あの日、碧人から長坂さんの香水の香りがしたことが蘇った。甘いあの香りが凄く嫌で、私は彼を拒否してしまった夜のことを。


 長坂さんは慌てたように言う。


「あ、でも……そしたら忘れますって約束したからです。そうすれば中谷さんの負担の減るだろうっていう、彼なりにあなたを考えてのことだったんですよ。だからその」


 彼女から視線を外し、ゆっくり目の前のカクテルを見た。店内のジャズのBGMと、長坂さんの言い訳が混ざって耳に届いていたが、脳まではやってこなかった。


 最後の思い出に……碧人が?


 しばらく固まっていた。私を守るために、私と一緒にいるために仕方なくそうしたということ? 最後に一度だけ、思い出作りで……。


 一瞬、二人が抱き合うシーンが脳裏に浮かんだ。


「中谷さん? ごめんなさい、気を悪くさせたかな」


 心配そうに顔を覗き込んでくる長坂さんが視界に入り、同時にすーっと頭が冴えていく感じがした。私はきっぱりと言葉にする。


「嘘ですね」


 迷いはない、断言だった。


 一瞬驚きと混乱で我を失ってしまったが、今は確信している。これはこの人の嘘だ。確かにあの夜、碧人から長坂さんの香りがしたが、そんなものは何の証拠にもならない。


 あの彼が、私を裏切るような行為を取るわけがないという気持ちの方がずっと強い。


 長坂さんは、やや戸惑ったように視線を泳がせた。そんな彼女に続ける。


「碧人へ不信感を抱かせたかったんですか? そりゃ、最初はびっくりしたし、嫌な気持ちにもなります。でも冷静に考えればわかることです。私にGPSつけたがるぐらいの人が、そう簡単に私を裏切ったりしません」


「GPS? 碧人さんが? 何を言ってるんですか、彼はそんな事するわけないでしょう」


 鼻で笑ったのを見て、わざとらしく目を見開いた。


「あれ? 付き合ってる間、すごく大事にされて愛されてたって言われてたのに、あなたにはなかったんですか? すぐに一緒に住もうと言われたり、結婚しようと言われたり、彼の愛はちょっと重めなんですよ」


「嘘言わないでください、負け惜しみでそんな事言ったって」


「負け惜しみはどっちですか」


 声のトーンを下げ、一気に低くさせた。彼女はびくっと反応する。


「碧人に最後抱かれた、なんて真っ赤な嘘が、負け惜しみの他なんだっていうんですか? とにかく私たちの邪魔したいのはよくわかりました。今日も、そうやって私を混乱させるために呼び出して話したんですね。こなきゃよかった。信じた私が馬鹿でした」


 カバンを持って立ち上がると、彼女はきっとこちらを見上げて睨みつけてきた。やっと本当の顔が見れたな、という感じだ。猫を被るのが上手いなあ、私も見習った方がいいかもしれない。最初の方のしおらしい姿に、すっかり騙されていた。


「碧人さんにあなたは相応しくない!」


「本音、ありがとうございます。でも選ぶのは碧人なので。では」


 そう言って店から出ようと、足を踏み出した時だ。


 がくんと膝が折れ、その場に崩れ落ちた。あれっと自分でも不思議に思いながら、体がやけに熱く、力が入らないことに気付く。冷たい床に両膝をついた。


 どうしたんだろう、私? 頼んだのはノンアルコールカクテルのはず。もし間違ってアルコールが入ってたとしても、一杯の酒でこんな風になるわけがない。一体何が起こったというのか。


 目の前に、上品なヒールの靴が見えた。必死に頭を持ち上げて見てみると、長坂さんが口角を上げながら私を見下ろしている。


「……なに、を」


 そう口にすると同時に頭がぐわんと回る。彼女の高い声をかろうじて拾えた。


「あー大丈夫ですーちょっと飲みすぎたようで。迎えを呼びますから平気です」


「む、かえ……?」


 店員に言っているのだろうか。強い眠気と、眩暈、頭はぼーっとして思考が回らない。でもそんな中で、彼女がここに碧人を呼んでくれるはずがないということだけは冷静に分かる。


 一体何を考えているの? 何がしたいの?


 意識は半分飛び、体は全く言うことを聞いてくれなかった。




「……です、ちゃんと」


「……だね。横にならせて……」


「すぐ近くの……」


「それで大丈夫」


 低い声と高い声が交互に聞こえる。


 片方は長坂さん。


 でももう一つの声は、碧人じゃない。


 絶対に、碧人じゃない。






 瞼が開いたとき、普段自分が使っているシーツとは違う色であることにまず気が付いた。

 

 ずきりと頭が痛む。だがそれも一瞬で、痛みはすぐに治まった。だが、どうもぼうっとした感覚が残っている。体は鉛のように重く、気合を入れないと腕さえも持ち上がらないぐらいだ。


 それでも必死になって体を起こす。ぐらりと景色が揺れたが徐々にピントが合ってくる。やがて周囲の状況を理解したところで、絶句する。


「……ラブホテル?」


 あからさまなデザインだ。部屋の構造も、ベッドも、近くにある小物も、間違いなくラブホテルと思しき場所だ。


 唖然とし、最後の記憶を必死に呼び起こした。


 帰ろうとしたところで急に眩暈のようなものに襲われ倒れてしまった。そのあと、男性の声と長坂さんの声を聞いた、気がする。あれは碧人じゃないかった。


 ぞっと寒気が走り、腕をさする。何が起こったのか分からず、ひたすら混乱した。


 ふと、ベッドすぐ横にある再度テーブルが目に入る。そこにメモが一枚あることに気が付いた。急いで手に取ってみると、絶望の気持ちにさせられた。



『本当にごめんな

 中谷もたいへんみたいだね

 俺もどうしようもなくてさ』



 春木先輩の字だった。




 

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