月乃の失態

第44話 いまさら



 碧人が私を抱きしめてキスをした瞬間、自分の鼻にふわっと甘い匂いがついた。どこかで嗅いだことがある匂いだと記憶をたどれば一瞬で分かった。喫茶店でコーヒーを飲んだ時、長坂さんから香ってきた香水の匂いだった。


 今日、実家には母親ではなく長坂さんがいた、そこで告白を受けて断ってきたという報告を受け、少し安堵していた。でも、いくら同じ部屋にいたといえ、香りがこんなに移るものだろうか? よっぽど密着しなければこんなことにならない気がする。

 

 とはいえ、碧人が私を裏切っているとは思ってない。ただひたすら、混乱していた。そして、どうしても今日は受け入れたくなかった。


……結局、長坂さんとの過去の付き合いについても聞けなかった。


 付き合ってすぐ指輪を贈っただとか、好きだと何度も言っただとか……心にもなくても、彼はそんなことを言っていたんだろうか。今、私と向き合ってくれているように。でも、そんなことを気にしてる私がおかしいのだ、だって過去の話を蒸し返したところで得られるものなど何もないのだから。


 それでもつい拒絶してしまうと、碧人は分かりやすくショックを受けていた。目を見開き、小さく開けた口から悲し気な声を漏らした。申し訳なくて、でもどうしてもまだ心の整理がついていなかった。


 碧人は叱られた子供のような顔で私の手を握った。そんな彼から、またふわりと甘い香水の香りが漂ってきて、私は上手く手を握り返せなかった。





 碧人が帰った後、盛大にため息をついた。


 まだ帰りたくなさそうな彼に気付いていたが、泊まって行っていいよとは言わなかった。今はちょっと一人になって、色々自分を落ち着かせたい。


 すっかり冷えた紅茶を流し込み、ソファにごろりと寝そべった。


「ていうか、もうどう考えても修復不可能なくらい嫌われてるじゃん」


 母親が謀って息子と女性を家に二人きりにした、って。あの人、私の目の前で長坂さんを紹介したりと手段を選ばないことは分かっていたが、想像の遥か上を行っているな。


 私は碧人の家族が嫌いだ。嫌いな人間にどう思われても構わないーーと、思っているのだが、さすがに付き合ってる相手の親からこうも妨害されれば、多少傷つく。


 そんなに碧人の相手としてふさわしくないんだろうか、私? そりゃ長坂さんに比べたらそうだろうけどさあ。いくらなんでも、ここまで悪口言われたらへこむって。


 これからどうしよう、と考えているとスマホが鳴る。碧人からかなと思い、寝転がったままスマホを覗き込むと、違う名前があった。


『本当に本当にごめんな

 反省してます

 一度連絡ください』


「げ」


 自分の口からそう声が漏れる。


「しまった、まだブロックしてなかったんだっけ。ブロックブロック」


 私は慌ててその場で春木先輩をブロックした。


 一昨日、彼から突然謝罪のメッセージが届いた。長々と書いてあって読むのも面倒だったが、要約すると『ごめんなさい、反省しています、一度会ってくれませんか』という主旨のものだった。何をいまさら言い出すのだろう、もうあの事件は過去の事だと割り切っているのに。


 おおかた、碧人が春木先輩の事でも何か報復して、それが痛くて私に謝罪して許してもらう、という作戦かな。まあ、ブロックしちゃえばもう終わるだろう。


 春木先輩から連絡が来たことを、碧人に言った方がいいんだろうなと思っていた。彼は私の全部を把握したがるし、隠し事などを嫌うタイプだ。でも、言ってどうなる? 想像するだけでぞっとする。


 ただの謝罪ラインだけど、絶対ぶちぎれるだろう。何をし出すか分からないので、このまま何事もなかったように過ごすことにした。ブロックしたしね、私は返事をしてないしね。些細なことをあえて大事にする必要はない。それに、今はそれどころじゃないんだから。


 用がなくなったスマホを放り、両手で顔を覆った。


 なんだか……付き合ってそんなに経ってないのに、忙しいな……。


 碧人と二人で過ごすのは楽しいしほっとする時間で好きだけど、なにせ周りの人間のクセが強すぎる。


 私、本当にいつかは碧人と結婚したりするんだろうか? そうなったら、あの母親は黙ってないと思うし、もっと凄い嫌がらせをしてくる気がするのだが?


 考えることが多すぎて、頭がパンクしそうだった。





 翌日の事。


 仕事を終わらせ、へとへとになりながら退社する。いつものように、今から帰宅するという連絡を碧人に送る。凝った肩を回しながらエレベーターを降り、会社を出て駅へと向かう。今日も夕飯は作るのが面倒なので、コンビニで何か買っていこうかな、なんてぼんやり考えていた。


 すると駅前に、知っている顔があったのでつい足を止めてしまった。相手は私に気付き、ぱっと表情を明るくさせる。


「中谷……!」


 『嘘でしょ』が、正直な感想だった。


 春木先輩がここまでして私とコンタクトを取ろうとするのは、完全に予想外だったのだ。事件も片付き、時間も経ったというのに、一体なぜ急に?


 私は顔を歪め、彼の横を素通りしようとした。


「あ、待って!」


 彼は私の腕を掴む。苛立ちながら振り返る。


「なんですか? もう先輩と話すことはないんですけど」


「俺、あんなことして、さらには電話でとんでもないことを言って……許してもらえるとは思わないけど、どうしても直接謝りたかったんだ。本当にごめん!」


 私の腕を離さないまま頭を下げる。駅前でこんなことをされるなんて、たまったもんじゃない。やっぱり春木先輩から連絡が来ていることを、碧人にちゃんと相談すべきだったのかもしれない。


 仕方なしに答える。


「分かりました、謝罪は受け入れます。じゃ、そういうことで」


「待って! お詫びに、食事を奢りたいんだ。都合がいい日ないかな?」


 未だ私の腕を離さない。強い力に嫌悪感を抱きながら、きっぱりと断る。


「結構です。悪いと思うなら、もう関わらないでくれますか」


「あのさ……傷つけた分、これからはそれを挽回できるように頑張るから。言ったと思うけど、俺はずっと中谷に憧れてたから、どうしても諦め切れなくて」


 予想外のセリフに、ただひたすらぽかんとした。何を言い出したんだろうこの男は。私を土井に売って、それだけじゃなく電話でさんざん失礼なことを言ってきた男が言うセリフとは到底思えない。意味が分からな過ぎてもはや恐怖すら感じた。


「いや、私お付き合いしてる人いますから。無理です。じゃ」


「別にいいよ、それでも」


「何もよくないです」


「じゃあ、最後の思い出に食事を一度だけ行ってくれないかな? それで諦めるから!」


「言いましたよね? 今付き合ってる人がいるので無理です。もうこうして待ち伏せしたりするのもやめてください」


「それってやっぱり、神園社長?」


 否定する理由はなかったので頷くと、彼はどこか憐れむような目で私を見てくる。


「大変だろうね、あの神園さんと付き合うって。あれだけ優秀で立場がある人だし、顔もいい。モテるだろうな、知らぬ間に誰かから恨みを買ったりしてそうだ」


「だとしても、ちゃんと彼は守ってくれる人なので安心です。私が攻撃された時だって、全力で守ってくれました。私は彼のそんなまっすぐなところに惹かれたんです」


 睨みながらきっぱり言い放つと、ようやく諦めたのか腕を離した。私はすぐに急ぎ足で彼の前から立ち去る。振り返ってはだめだと思い、前だけを見て改札を抜けた。


 ホームまで来て周りを確認し、追ってきていないことにほっとし、ようやく体の力が抜ける。ふらふらと近くにあったベンチに座り込んだ。


 正直、怖かった。春木先輩って、働いてるときは普通にいい人だったのに、どうしてあんな風になったんだろう? やってることも言ってることも無茶苦茶だ。


 項垂れていると、スマホが鳴る。取り出してみると、碧人からだった。気を付けて帰ってねと書かれている。彼はまだ仕事中だとも。その文章を眺めながらぼんやり考える。


 碧人に言った方がいいだろう。でも、絶対大事になってしまう……。これ以上厄介ごとを増やしたくない。春木先輩がもうあれで諦めてくれれば、それでいいんだけどな。ラインはブロック、家がどこかは知らないはずだし、漏れているのは会社の場所だけだ。会社の周辺は人通りが多いし、二人きりになったりすることはないだろう。


 考えた挙句、とりあえず碧人には伏せて返信した。彼も対応しなければならないことが多くあるはずで、負担を増やしたくなかった。多分、きっぱり断ったから、春木先輩ももう諦めただろう。


 そう一人で納得し、スマホをしまうと丁度電車がやってきた。もう一度辺りを見回したが、春木先輩と思しき人はいなかったので安心して乗り込んだ。


 その後、家に帰るまでも注意深く周囲を観察したが、さすがにつけられたりはしなかった。


 やっぱり、もうこれで最後だったんだな。


 私は安心してアパートに入った。



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