第43話 握る手
黙って聞いていた月乃は、しばらくしてポツリと言葉を零す。
「一昨日……仕事から上がると、碧人のお母さんと長坂さんが待ち伏せしてて」
「え!?」
知らない事実に大きな声が漏れてしまう。月乃はどこか暗い表情をしながら続けた。
「まあ、碧人と別れてほしいとか……そういうことを言われて」
「なんですぐ言わなかったんだ!」
「今日言おうと思ってた。直接話したかったし……」
自分が知らないところで、二人が月乃に接触していたなんてまるで知らなかった。同時に、あの二人に怒りがこみ上げる。
「ごめん、本当にごめん……!」
「別にいいの、私も別れる気はないってきっぱり言ってきたし」
「え! そう……そっかあ……」
こんな時だというのに、自然と口元がにやけるのが止まらない。月乃がきちんと断ってくれたという事実が、とても嬉しくてたまらないのだ。
だが、月乃の表情はどこか晴れない。
「……あのさ、長坂さんと……付き合ってたってことは聞いたけど。その、あんまり碧人は本気で好きじゃなかった、って」
「うん。俺の初恋は月乃だから」
「……そう。そっか……」
どこかすっきりしない顔だ。それが気になり、深く追求しようとしたが、その前に向こうが話題を変えるように言う。
「知ってると思うけど、私は結構強めの人間だから、碧人のお母さんたちともがっつり戦うよ! だから別に平気なんだけど、あれだけ反対してるなら、今後どうしよう、って」
「別に母からの許可がなくても結婚は出来るよ」
「け、結婚までまだ考えてないんだけど」
「今日のことも踏まえて、俺はもう一度母としっかり話す必要がある。これ以上好き勝手はさせない」
「……そう。まあ、碧人が今日、長坂さんにもきっぱり言ってくれたから、それで諦めてくれたかな。だとしたらいいね、長坂さんが引いてくれれば、お母さんも諦めるかも」
「うん、そうかもしれない」
下着姿で迫っても拒絶されたとなれば、普通女性としてのプライドはへし折られるだろう。これ以上、俺の気を引く手段もあるまい。
話題が途切れたところで、月乃が淹れてくれた紅茶を飲む。ふわりといい香りが鼻を抜け、肩の力が抜けていく。今更、ちらちらと周りを見てしまい、それを気付いた月乃は眉を顰めた。
「あんまり見ないで。散らかってるって言ったじゃん」
「全然大丈夫だよ」
「碧人の家の方が広いのにずっと綺麗だし」
「適度にハウスキーパーいれてるからだよ。それに、広いよりこれぐらいの方がずっと落ち着く気がする。俺の家はどうも生活感がなくて……」
昔はこれよりもっと狭いアパートに住んでいたこともある。いつも私物が少ないタイプだった。月乃の部屋は逆に、たくさんの雑貨や写真などが飾られている。
好きなキャラクターのぬいぐるみ、友人との写真。中には近藤由真も姿も見える。よく分からない可愛らしい置きもの、かと思えば置いてあるのは少年漫画。
どれもすべて月乃らしくて、微笑ましかった。そして、そんな部屋の中にいるということが酷く自分を揺さぶった。完全に、舞い上がっている。
カップを置き隣の月乃を見ると、丁度紅茶を飲んだところで、彼女が小さく唇を舐めた。たったそれだけの様子がとてつもなく自分を煽り、今まで押さえつけていた感情があふれた。ずっと自分をギリギリで抑えてきていた小さなストッパーが、外れる。
「月乃」
短くその名を呼ぶと、小さな体を力強く抱きしめた。そして、そのままソファに倒れこんでいく。月乃の体はいとも簡単に俺の下敷きになった。
高ぶる気持ちを必死に抑えながら、その唇にキスを落とした。他に何も考えられないくらい、頭の中が真っ白になっている。柔らかな肌がなお自分を掻き立てた。
その途端、強い力が俺を押し返した。
驚きで見下ろしてみると、月乃が怯えたような顔をして、必死に両手を突き上げている。その光景が予想外のことで、情けなくもそのまま固まってしまった。
……拒絶された。
何度も会い、部屋にも来てくれた彼女は、さすがにステップを上がることを覚悟しているのだと思い込んでいた。だが実際は、月乃は困ったような複雑な表情で俺を見上げている。
「……あ、ごめ、今日は疲れてて」
小さく震える声で彼女が言う。はっとし、慌てて体を起こした。月乃もゆっくり起き上がり、乱れた髪を手で押さえる。
「ごめん、急に来たのに、俺」
「ううん、こっちこそごめん。最近ちょっと、色々忙しくってね」
「気づかないでごめん」
そう謝るも、心の中ではショックを受けている自分がいるのも事実だった。拒否されるとは全く思っていなかったのだ。なぜ? 本当に疲れているだけ? 何が嫌だった? と、頭の中で疑問がぐるぐると回る。
嫌われてないだろうか、と不安が襲う。だが、それはないと自分で否定した。ついさっき、月乃は俺と別れるつもりはないと母に宣言してくれたと聞いたばかりじゃないか。俺を嫌っていたら、そんな風に戦ってくれたりしないだろう。
だから違う。違うはずだ。月乃は俺から離れていったりしないはずだ。
自分に何度も言い聞かせながら、そっと月乃の手を取った。
「手は……握ってもいい?」
「……うん」
小さな手からぬくもりを感じ心を落ち着かせる。これまで、こうして手を握るだけで満たされていたはずなのに、どうも不安が離れない。
……手なんか出さなきゃよかった。月乃が嫌がることをするぐらいなら、何もしなければよかった。
後悔の思いを抱きながらひたすらその手を握る。だが、月乃が握り返してくれる力が、いつもより弱い気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます