第42話 心地いい部屋
「萌絵との付き合いは、今思うと誠実なものじゃなかったと反省してる。でも、君もずっと俺を好きだったというのはさすがに無理がある。母から俺と結婚するように言われて君も立場があるんだろうが」
「私があなたを本気で好きじゃないと、なぜあなたに分かるの?」
「……他の男とも会ってたこと、知ってるよ。ラインが表示されたのを見たからね」
俺がそう告げると、一瞬彼女が視線を泳がせたのを見逃さなかった。でも、すぐに表情を取り繕う。
「碧人さんの気を引きたくて、嘘のメッセージを送ってもらってたの。気にしててくれたのね、言ってくれればよかったのに」
「言うほどの関係じゃなかった、それだけだ。月乃が他の男と隠れて会ってたら、俺は自分が何をするか分からない」
萌絵の表情が固くなる。少し低い声で、彼女が言う。
「本当にあの人が好きなの?」
「好きだよ」
「信じられない。どこが? よくいる普通の女性に見える」
「いないよ。どこにもあんな人はいなかった」
力強くそう答える。萌絵はじっと俺を見つめたまま、微動だにしない。
帰ろうと足を踏み出したところで、腕を強く掴まれた。
「駄目。碧人さん、あなたは私と運命なの。かっこよくて頭がいい、神園を立て直すほどの実力のあるあなたにふさわしいのは、私」
「……何をどう言われても、俺は月乃以外の女性に興味ないから。頼むからもう関わるな」
「ねえ、意地を張らないで? 私が他の男性と会ってるようなそぶりをしたり、帰国したことを連絡しなかったのを怒ってるんでしょ? 謝るから。私にはあなたしかいないって、分かったの」
「意地じゃない、いい加減にしてくれ」
「待って」
彼女はそう言うと、突然羽織っていたカーディガンを脱いだ。下に着ていたのはノースリーブのワンピース。ぽかんとしていると、肩からするりと服を脱ぎ、ワンピースがすとんと床に落ちた。下着姿が目に入る。
その状態で、萌絵が抱きついてくる。
「じゃあ、最後に一回だけ、思い出を作りましょう。大丈夫、私たち相性よかったし。黙ってたらばれないから」
彼女の肌が密着し熱さを感じたところで、自分の全身によく分からない不快感が走り、体が固まってしまった。そんな自分に、驚き戸惑った。
ほんの少し前まで形だけとはいえ付き合っていた女性だ、会えば肌を重ねることだってあった。でもその相手が、今少し触れてきただけでぞっとするほど拒否感が強い。寒気を覚えるほどで、あまりに耐えがたい。
自信のある顔でこちらを見上げた萌絵を、強めの力で引きはがした。向こうは驚いたように目を丸くする。
「ほんとやめろ。俺は月乃しか興味ないって言っただろ。寒気がする」
低い声でそう返すと、そのまま玄関へ向かっていく。そんな俺の背中に、萌絵が言った。
「あの子、浮気してますよ!」
ぴたり、と足を止めゆっくり振り返る。
萌絵はじっとこちらを見ていた。そして、顔を歪ませて笑いながら言う。
「中谷さん。浮気してますよ。碧人さん、そういうの許せないんじゃない?」
その言葉を理解するのに少し時間がかかった。しばし動けなくなったあと、ようやく体が言うことを聞くようになり、すぐに怒りに満ちた自分の声が喉から出た。
「言葉には気を付けろ。君と違って、月乃はそんな人じゃない」
俺の声を聞き、萌絵は少したじろいだ。彼女の前ではこれほど感情を出したことがなかったので、驚いたのかもしれない。
すぐに背を向けて、玄関へと向かい、家を飛び出した。もう追ってはこなかった。
車に乗り込み、エンジンを掛けるとすぐに発進させる。苛立ちとどこか落ち着かない感情を胸に抱きながら、無意識のうちに月乃のアパートへと向かっていた。
インターホンを鳴らした後、驚いた顔をして玄関に立っていた月乃は、パジャマ姿だった。すでに風呂に入った後なのだろうか。化粧も落とし、どこか幼い顔立ちだ。
月乃がここに住んでいることはそれこそ付き合うずっと前から知っていたが、訪ねたのは初めてのことだ。月乃は『掃除が出来てない』と言いいつも断っていたからだ。それと、職場からだと俺の家の方が近いので、自然とうちに集まるようになっていた。彼女が嫌がるなら、と無理に家に上がったことはなかったが、今日はどうしても来たかった。
多分、まだ知らない月乃の面を手に入れたくなったからだ。
月乃が浮気している、だなんてことはこれっぽっちも信じていないが、ただ彼女の気持ちが自分ではない他の男に移る可能性はあると思っている。そう考えだすと不安が止まらず、気が付いたらここに来ていたのだ。
「今日は会えないって……」
「思ったより早く用事が終わったから。……上がりたい、入ってもいい?」
俺が聞くと、困ったような顔をしたが、しぶしぶ招き入れてくれた。玄関は小さな靴箱と、その上には彼女の好きな犬のキャラクターのグッズが飾られていた。
「本当に散らかってるよ。碧人の家と違って狭いし」
「全然かまわない」
靴を脱いで上がると、一気に気持ちが昂った。やっと月乃の部屋に来れた喜びだった。
短い廊下を抜けると、確かに広いとは言えない部屋があった。1DKと言ったところだろうか。雑誌や本がやや乱雑に置かれ、畳んでいない洗濯物と思しき衣類の山もあったが、何も気にならなかった。むしろ、全部が愛しいとすら思えた。
小さめのソファがあったので腰かける。月乃はお茶を淹れて持ってきてくれる。
「ありがとう」
「急に来るとびっくりするから。これからは先に連絡して」
「……ごめん」
カップに入った紅茶を啜り、心を落ち着かせる。さっきまで抱いていた嫌悪感はすっかり無くなっており、心地よさだけが部屋にあった。こうも違うのか、と驚くぐらいだ。
「何かあったの? 今日、お母さんと会うって」
月乃が恐る恐る尋ねてくる。俺は月乃に嘘をつく気はないので、そのまま告げた。
実家に帰ったら母はおらず、なぜか萌絵がいたこと。そこで好きだったと告白を受けたが、きっぱり断ってきたこと。……向こうが服を脱いで迫ってきたことまでは、詳細に言わなくてもいいだろう、こんな話、俺も月乃も気分を害するだけだ。まず、思い出したくもない。
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