碧人の誤算

第41話 家



『では、今日の夜、家で待っています。ようやくゆっくり話が出来るようで嬉しいわ』


 スマホを覗き込み、文章を確認した後ため息をついてエンジンを掛けた。暗くなってきた道を走らせる。人々が寒そうに歩く街中をすり抜けていく。


「せっかく誘われたのにな」


 小さな自分の声が車内に響いた。


 月乃から、『仕事が早く上がれそうなら家に行ってもいい?』とラインが来ていた。普段なら二つ返事でいいよと返事をするところだが、今日は先約が入っていた。


 母だ。


 普段なら、月乃と会えるとなれば飛び上がって喜ぶところで、今日もそうしたかったのは山々だったが、まずは目の前の問題を片付けることが先だと思ったのだ。それで、自分を奮い立たせ月乃からの誘いを断り、実家に車を走らせている。


 この状況を何とかしなければならない。


 母と月乃と食事をした後から、ずっと連絡は来ていた。『一度話したい』という主旨のものだったが、月乃への暴言が許せなくて無視し続けていた。


 そしたら、相手は見合い相手を自宅に連れてくるという暴挙に出てしまった。


 月乃の前であんなことをしてくるなんて、信じられなかった。まるで月乃を空気のように扱い、笑顔で俺にだけ話しかけてくる姿は恐ろしいとすら感じた。


 しかも相手が……長坂萌絵。


 親と関係のある人だなんて一切知らなかった。とっくに終わった相手だと思っていたのに、今更こんな形で再会するだなんて。苛立ちで頭を掻いた。


 一年以上前、会社近くのカフェでよく会っていた人で、向こうから声を掛けてきたのが始まりだった。誰が見ても可愛らしい顔立ちでスタイルもよく、ビジュアルがよかったので返事をした、ただそれだけだ。


 告白されて付き合ってほしいと言われたので、うんと返した。好きでもない相手と付き合うのは不誠実だっただろうか? でもあの頃、人を好きになる感覚なんてよく分からなくて、自分を好いてくれる人と付き合えば何かが変わるのかと思い込んでいた。


 ぼんやりと運転しながら、過去のことを思い出す。


 恋と呼ぶには程遠い関係だった。


 顔は可愛いと思った。でも愛しいとは思わなかった。しかし、向こうはこちらを好いてくれているんだと思い、前向きに考えようと思っていたが……。


 付き合ってすぐに、『アクセサリーが欲しい』と言われて、大学時代の苦い思い出が蘇った。


 ああ、結局この子もそうだったのか、と。俺が神園の社長だとは知らなかったと言っていたが、きっと嘘だろう。そうげんなりしつつ、面倒だったので『好きなのを買えばいい』といくらか現金をあげたことがあった。結局、あの子はあの金で何を買っていたのか、それすら忘れてしまった。


 会うのは月に一度、多くて二度。それ以外の日に連絡はとらないし、会うのも夜で、食事を取ったのも数回。月乃のようにデザートを食べに行きたいだとか、映画を見に行きたいだと言われたこともあったが、気が乗らなくて『仕事が忙しい』で断っていた。向こうもあっさり引き下がった。


 やはり、付き合っていると呼んでいいのかどうかも怪しいな。一人苦笑いをする。


 それでも向こうは文句を言ってこなかったので、お互い様かと思って関係を断つことはしなかった。二人とも、寂しいときに会える都合のいい人間と思っていた。ただ夜を共にして、『好き?』『可愛い?』としつこく聞かれて『うん』と適当に返し、その場で満足する、たったそれだけの関係だった。


 それに……一度、彼女のスマホの画面に、ラインが届いて表示されたことがある。


『萌絵、一昨日は楽しかったよ! また俺の家で会おう』


 それをぼんやり眺めながら、ああやっぱり他の男がいたのか、とだけ思った。悲しいとか、寂しいとかそんな感情は一切なく、むしろこんな自分が誰かに愛されるわけがないと知っていたので、納得でもあった。適当な夜に会ってねだればほしい物を買ってくれる男、彼女にとって俺はそれだけの存在だ。萌絵を責めることも何もせず、そのまま放っておいた。


 途中で向こうが留学をすると言う話を聞き、日本を発った後も二回ほど連絡のやり取りをしたが、そのうち忙しくて返すこともなく、向こうもそれ以上送ってこなかった。完全なる自然消滅。


……だと、俺は思っているのだが。


 もし、月乃が遠くへ行ってしまったとして、連絡が返ってこなくなったら国を越えてでも会いに行く。これが本当の恋だと思っている。そもそも会うのが月に一度数時間だけだとか、連絡もしないだとか耐えられない。だから、長坂萌絵は決して俺を本気で好きではなかったと思う。

 

 そんな相手が再び目の前に現れて、親の勧める結婚相手だとは。


 こんなことに月乃を巻き込んで、本当に申し訳なく思う。呆れられたらどうしよう、と不安で仕方がない。母の言動も、そして俺の情けない過去の恋愛についても、月乃に幻滅されないか心配でならない。


 俺がブランド物を贈ると言ってもきっぱり断り、損得なしにそばにいてくれるのは、あの人しかいないんだ。


 何度目か分からないため息をついた頃、ようやく見慣れた家が見えた。気をぐっと引き締め、車を駐車する。


 前も言ったが、もう一度母にはしっかり伝えよう。月乃以外の女性には興味がないし、絶対に長坂萌絵とは結婚しないと断言する。そして、これ以上余計なことをするなと釘を刺さねば。


 車から降り、玄関へ向かう。カバンから鍵を取り出し、ドアを開けると、ふわりと美味しそうな匂いが鼻をかすめた。だが、以前ほど心は踊らなかった。前は母と食事が出来ると言うだけで嬉しかったのに。


 靴を脱ぎつつ、奥から誰も出てこないことに首を傾げた。いつも、俺が帰ってくると必ず玄関まで迎えにきていたものだが……料理中で手が離せないのだろうか。


 特に気にせずリビングへの扉を開けると、明るい部屋が待っていた。ダイニングテーブルの上には料理がいくらか並んでおり、俺の帰りを待っていたように見えたが、そこに母の姿は見当たらなかった。


 持っていたカバンを適当にソファに置き、何か買い忘れでもあったのだろうかと考えながら振り返る。


 その時一瞬、自分の呼吸が止まった。


 リビングの扉の前に立っていたのは母ではなく、長坂萌絵だったからだ。


「……なんで」


 唖然として呟くと、彼女は笑顔でこちらに歩み寄ってくる。淡いブルーのワンピースにカーディガンを羽織っている彼女は、付き合っていたころとまるで変わらない姿だった。


「一度、碧人さんと二人で話したいと思って……お義母さんが協力してくれました」


 そこで理解する。母は俺たちを二人きりにさせるために嵌めたのだと。すぐに置いたばかりの鞄を手に取り、冷たい声で答えた。


「特に君と話すことはない」


「待って。私はあなたと離れた後も、ずっと碧人さんが好きだったの。また会えて凄く嬉しいの」


「好きだった、って……さすがに無理があるんじゃないかな。半年も連絡を取ってないし、帰国後もメール一通よこしていない」


「やっぱり! 私が連絡をしなかったからいじけているのね」


 そんな突拍子もないことを言われ、目が点になった。萌絵は嬉しそうに続ける。


「碧人さんは忙しい人だし、嫌われたくなくて連絡はしなかったの。それに、あなたから連絡が来るのを待ってたのもある……だって、連絡するのはいつも私だったから。結局碧人さんから連絡してくれることはなかったから、関係が終わったことは分かってた。でも日本に帰ったら、いつかまた戻れるって信じてたの。帰国後、まさかあなたのお母さまから結婚相手に勧められるなんて思ってなくてびっくりした。多分運命なんだよね。今、碧人さんには交際相手がいるみたいだけど、寂しかったのを一時的に埋めてるだけなんでしょ? 本当は私が帰国した、っていう連絡を待ってたのよね?」


 何がどうなったらこんな考えになるんだろう、と唖然とした。俺から連絡をしなかったことで関係が終わったことは分かってたけど、でもまた戻れると思ってた? なぜそうなる。


 色々突っ込みたかったが、とりあえずしっかり否定したい部分だけ指摘した。


「俺は寂しいから月乃を利用してるわけじゃない、好きでたまらなくてやっと付き合えてもらえたんだ。君と戻るつもりなんて全くないし、結婚だって月乃以外は考えられない」


 俺がきっぱり言うと、分かりやすく相手の表情が真顔になった。

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