第40話 バトル





 翌週の半ば、忙しい仕事を終えてヘロヘロになりながら退社した。今週は忙しかったなあ、まあやりがいがあるし楽しいからいいんだけど。体力の問題だ、もう少し運動とかした方がいいかな。


 会社のエレベーターに乗り込み、カバンからスマホを取り出した。ここで碧人に連絡するのが習慣になっている。彼は相変わらず心配性だし、やたら会いたがるので、こまめに連絡することで何とかバランスを保っている。だが正直、ちょっとめんどくさいときもある。


 これなら、一緒に住んだ方が楽なのかなあ。


 碧人と生活するとして、それはあまり苦ではない気がしている。まだ付き合って間もないが、会う頻度は結構高めなので、過ごした時間は結構長くなってきたと思う。一緒にいて居心地はいいし、何より私の意見を尊重してくれる。二人ともいい年なのだから、本当に将来のことを考えるなら、早めに動くにこしたことはない。もしかしたら、住んでみたらどうしても合わないことも出てくるかもしれない。


 いや、でもまだ一か月で同棲はやっぱり早すぎるか? と反対の意見を言う自分もいる。はあとため息をついた。


 分かってる。多分、日曜のことが自分でも気になってるしショックなのだ。いくら碧人が私の味方でいてくれるとはいえ、あんな綺麗な元カノを彼の母から勧められれば、もやもやして当然だ。


 私って、やっぱり彼を好きなんだな。ちょっと変わったところはあるけど、私を大事にしてくれるし、努力家で優しい。誠実なところが、やっぱり凄くいいと思う。


 苦笑いしながら、スマホでメッセージを打つ。『仕事が終わったから、今から帰ります』明日辺り、早く上がって碧人の家に行こうかな。でも作るのはめんどくさいから、何か買って帰ろう。彼は私が作ると大喜びしてくれるが、別に買ってきたものも嬉しそうに食べてくれるので、何も気にしなくていいのが楽だ。


 送信したとき丁度一階に辿り着き、会社を出る。するとその時、背後から聞き覚えのある声がした。


「月乃さん」


 びくっと体が跳ね、恐る恐る振り返る。碧人のお母さんと、その隣には長坂萌絵さんが立っていた。予想外の登場に心臓がどきどきと鳴った。


「あ、どうも……こんばんは。碧人をお待ちなんですか?」


 私が引きつった笑顔で尋ねると、お母さんは笑顔で言う。


「いいえ。今日は碧人を抜きにして、あなたとお話したくて。ちょっとそこの喫茶店に入りませんか」


 なんと、私を待っていたらしい。勿論、こんな二人とお茶をするなんてごめんだ。だが、あっちから感じる敵意と見下した視線が私を煽った。


 碧人がいない方が、言いたいことが言えるのかもしれない。


 私はそう決意し、背筋を伸ばして答えた。


「分かりました、いいですよ。行きましょう」


 怖気づかない、負けない。あいにく、私は結構好戦的なタイプだ。碧人を邪険に扱ってきた母親面の女と、やわそうなお嬢様に負けてたまるか。


 私たちはそのまま近くの喫茶店に入った。こぢんまりとした静かな喫茶店で、あまり人もいない。一番奥のテーブル席に座り、コーヒーを三つ頼んだ。母親と長坂さんは並んで穏やかに小声で何か会話をしている。仲良しアピールだろうか。


 時間を無駄にしたくないので、私はすぐに切り出した。


「それで、何の御用でしょうか?」


「まあ、そんな怖い顔なさらないで……大体想像ついているでしょう?」


 碧人のお母さんは意味深に笑うと、隣の長坂さんと目を合わせ、次に私を馬鹿にしたような視線で見た。


「どう見ても碧人に似合っているとは思えない……ご自身で気が付きませんか? お願いですから、碧人と別れてください」


 ひくっと、自分の頬が引きつるのが分かる。


 まあ、間違ってはいないだろう。相手は神園のトップだし顔もいい。かたや私は、ただのアラサー平社員だもんね。


 でも言い方ってもんがあるだろう。


「そうですね、碧人さんは私にはもったいないお方だと思っています。選ばれたのは奇跡だと思います、この奇跡を大事にしないと」


 にっこり笑って返すと、今度は向こうの頬が引きつる。


「一体どうやって碧人に取り入ったの? あの子はずっと経営に忙しくて、恋愛面には疎かったはずです。やっと会社も落ち着いてきて、そろそろ結婚相手をと思った矢先、あなたみたいな平凡な女性だなんて……」


「さあ。私のどこがよかったなんて、私じゃ分かりません。碧人さんに聞けばいいんじゃないですか」


「碧人とあなたは違う世界の人間なんですよ。碧人には萌絵さんのように、家柄もよくて若い、綺麗な女性がふさわしいです」


「ですから、私に言われても。碧人さんに言えばいいじゃないですか。あ、もう言ったけど拒否されたんですよね」


 平然と言い返す私に、相手は信じられない、というように目を丸くした。


「態度も言葉遣いも悪いなんて……! 本当に、碧人は一体あなたのどこがよかったのかしら。騙されてるんだわ、あの子は経営の才能はあるけど、心はちょっと幼い所があるから……」


「あの、そりゃ確かに私も自分が秀でた人間じゃないとは思います。でも、自分の子供が選んだ相手をそうも嫌いになる理由はなんですか? 碧人さんを信じていないんですか?」


 不快感を隠さずにそう聞くと、母親はすっと目を細め、勝ち誇ったような表情で言う。


「あの子は私がついてないとダメなんです。それを碧人も分かってる。今はあなたの味方をしているけど、すぐに目が覚めますよ。あの子は私に褒められることが何より幸せなんです、きっとすぐに私の言うことを聞くようになるわ」


 心にもやっと、黒い塊が生まれた。


 幼い頃碧人にあれだけの仕打ちをしておいて、どの口が言うの? ああそうか、依存しているのは碧人だけじゃない、この母親もなんだ。碧人がいつまでも母の愛を求めてばかりいると思ってる。


 どれだけ邪険に扱ってきても、自分に認めてもらうために勉強を頑張り続けた。会社の危機には立て直しもした。いつだって自分の期待に応えてくれる、いい人形と思っているのだ。


 テーブルの下にある拳を強く握りしめ、爪が手のひらに食い込んだ。


「……碧人は人形じゃない。彼は確かに、ずっと飢えていたあなたからの愛にとても喜びを感じていました。でも、碧人ももう大人です。いつまでもあなたの操り人形だと思わないでください。そもそも、幼い頃碧人にあんなことをしておきながら、母親面するつもりですか?」


 向こうがカッと顔を赤くさせたが、私はなおも続けた。


「子供は所有物じゃない。碧人を思うなら思い通りにさせるんじゃなく、彼の意思を尊重して成長させてあげてください。あなたのそれは愛なんかじゃない、それを碧人もすぐに理解します」


「黙りなさい!」


 彼女は声を荒げ、テーブルを強く叩いた。置いてあったお冷が揺れ、水が少量零れる。ふーっふーっと鼻息を荒くし、怒りで目を吊り上げている碧人の母親に声を掛けたのは、ずっと黙っていた長坂さんだった。


「お義母さん、落ち着いてください。取り乱しては、相手の思うつぼです」


「……そうね、ごめんなさい、ちょっと我を失ったわ」


 鈴のような綺麗な声で、長坂さんは優しく言う。


「少し、中谷さんと二人でお話させていただいてもよろしいでしょうか?」


「それは、構いませんが……じゃあ、私は少しの間外で待っていますね。気を付けてくださいね萌絵さん、相手はとても下品で失礼なことを言う人ですから」


 私をじろりと睨み、碧人の母親は席を立った。興奮してしまった自分の頭を冷やしたいのもあったかもしれない。


 二人きりになったところで、やっとコーヒーが運ばれてきた。この異様な雰囲気のテーブルに持ってくるのを店主が躊躇った可能性が高い。私は貰ったホットコーヒーをそっと啜った。


 目の前に座る長坂さんは、涼しい表情でそれを見ている。綺麗なワンピースを身にまとい、香水なのか甘い香りがした。わずかに口角を上げ、見るからにいいとこのお嬢さんというオーラをまとった彼女は、柔らかな声で切り出した。


「急に訪ねてきて、お時間を取らせて申し訳ありません。それにこんな非常識なお話を……」


「あーいえ、大丈夫です」


「私と碧人さんの関係は、お聞きになりましたか?」


「はい、少し付き合っていた、と伺いました」


 私が言うと、彼女は小さく頷いた。


「一年半……ぐらい前でしょうか。私の行きつけのカフェで毎朝、碧人さんと会っていたんです。彼は出勤前にコーヒーを買いに立ち寄っていたんでしょう。一方的に一目ぼれしたのはこちらです。その時は、神園の社長だなんてことは知りませんでした。連絡先を渡して、待ちました」


「長坂さんのお母さんと、碧人のお母さんは知り合いだったんですよね?」


「その通りです。でも、私は碧人さんとの付き合いを母には言ったことがなくて……親は親、私たちは私たちと思っていた節があります」


 なんだか話していると、結構まともっぽい人だぞ。私は先を促す。


「えっと、今回はどうしてまた碧人の結婚相手に?」


「簡単なことです。私がまだ碧人さんを好きだからです」


 ぴたりとコーヒーを飲む手が止まった。長坂さんは微笑んでこちらを見ている。


「……でもあの、碧人から聞いたんですけど、半年くらい前に自然消滅したって聞いてます。好きなのにどうしてそんな終わり方を?」


「ああ……実は私、つい最近まで留学していたんです。遠距離になって、私も忙しいし碧人さんも忙しくて、すれ違って……いつからか、碧人さんから連絡が返ってこなくなりました。終わったのかな、って悲しんでたけど、帰国してから一度ゆっくり話したかった。それで帰ってきたところで、偶然にも碧人さんとの縁談の話があって驚いたんです。運命ってあるんだなーと、嬉しくなっちゃいました」


 顔を綻ばせて両手で頬を包む長坂さんを、私はじっと無言で見続ける。


「多分、碧人さんも忙しくて、そして寂しくなったんだと思います。遠くにいる私より、近くにいる人を好きになったのかも。でも私はそれを責めないです。もう一度会えば必ずまた元の二人に戻れる、って信じてますから。だって、碧人さんって凄く私を大事にしてくれたんですよ」


「大事に……?」


 聞き返すと、彼女は体を前のめりにさせた。


「すっごく優しくて、マメではなかったけど何度も好きだって言ってくれて。可愛いって言ってくれたんです」


 碧人から聞いた話が脳裏に蘇る。


 ずいぶんと印象が違う。


 彼は本気で人を好きになったことはないと言っていた。でも、長坂さんのことをとても大事にしていたみたいだ。一応付き合ってるから、態度は理想的な彼氏を演じていたんだろうか? でも、彼はそういう演技が出来ない気もするが……。


 好きだと言って、可愛いって優しくしてくれた、か。


 心でもやもやが大きくなる。結局、今私に見せている顔を長坂さんにも見せていたんだろうか。


 それと同時に、目の前の女性を見る目が変わる。てっきり見た目から、やわそうなお嬢様と思っていたがとんでもない。私にマウントを取り、見下している。これはなかなか手ごわい女と見た。鼻をくすぐる彼女の甘い香水の匂いが、ひどく不愉快だ。


「そうなんですね……」


「中谷さんはお付き合いされて一か月でしたっけ? じゃあ、指輪はもうもらいました?」


「指輪?」


 彼女は意味深な笑みで、ようやくホットコーヒーを左手で取った。その薬指に、銀色の輝きを見つけて絶句する。


 涼しい顔でコーヒーを飲んだのち、穏やかな声で言う。


「一か月もしないうちに貰いました。私の宝物です。愛されてたんだな、って……夜も凄く優しかったし」


 私はもう、限界だった。


 目の前のコーヒーをほとんど残したまま立ち上がる。きょとんとしてこちらを見上げる長坂さんに、怯むことなく言う。


「あなたがいくら輝かしい日を語ろうと、私は興味がありません。なぜなら全て過去の話だからです。私は碧人と今を生きています。碧人と別れる気もないしあなた方に屈しません。失礼します」


 それだけ言い残すと、私は長坂さんに背を向けて立ち去った。一度だけ背後を振り返ったけれど、彼女は一つも表情を変えずにコーヒーを飲み続けていて、その余裕ある態度が癪に障った。


 店を出ると、碧人の母親が立っていてぶつかりそうになる。彼女はなぜか勝ち誇った顔で私を見た。私はとりあえず頭だけ下げると、そのまま何も言わずに駅の方へ向かって歩き出す。イライラが止まらず、叫び出したい気分だった。


 彼氏の過去の恋愛話を気にするようなタイプではない。いろんな過去があってこそ今、その人が存在しているわけで、過去に怒ったり嫉妬したりするのは間違いだとずっと思ってきた。


 でも今回は、どうしても胸の中がぐちゃぐちゃになった。


 大丈夫、大丈夫だ。碧人が今まで向けてくれた愛情を疑ったりはしない。彼はいつでも精一杯私を大切にしてくれているし、土井を捕まえることだってしてくれた。


……ただ、初恋だと、前に付き合った人とは本気じゃなかったといった言葉は、矛盾していると思った。


 指輪を贈り、好きだよと愛を囁き、夜も共にしたなら、それが本気じゃないなんて都合がよすぎると思ったのだ。私には未だ手を出してこないくせに。


『ひとつの嘘や隠し事はバレた時に不信感を買う。他のことも嘘なんじゃないかと疑われるし、あとで矛盾も生じる』


 いつだったか碧人が言ったセリフだ。


 別に初恋だ、なんて、言わなければよかったのに。




 駅に着いた頃、スマホが鳴ったので急いで取り出す。碧人からの返信が来たのかと思ったのだ。


 だがそこに見た着信相手は、全く違う人だった。


「……なに? 今更」


 私の低い声が周りの雑音に混ざって、消えた。




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