第39話 誰?
それから数日が経った。
私は相変わらずの毎日を送っている。仕事に励み、平日は時間があるところで碧人のマンションに遊びに行く。土日も空いているところは彼と会っている。なんだか、会う頻度が自然と増えてきている気がする。
時にはカフェに行って甘いものを食べたり、映画を見に行ったりもした。彼はいつでも嬉しそうに私と外出してくれるので、私も楽しかった。ただ、あれ以降母親とどうなっているのか話題に出ることはなかったし、碧人も話すのを避けている気がした。
その日は日曜日で、彼と昼に食事に行ってまたマンションに帰ってきたときのこと。車から降りて、二人でエントランスへ向かいながら、ランチに食べた美味しいハンバーガーの話をしていた。
「あーお腹いっぱいだあ。でもあのハンバーガー美味しかったなあ」
私が腹部をさすりながら言うと、碧人が笑った。
「月乃は何でもおいしそうに食べる」
「おいしかったからだよ」
「でも確かにボリュームが凄かった。俺もかなりお腹いっぱいだから、残すかと思った」
「もったいないから無理やり詰め込んだ。しばらく低糖質生活をしようと思う」
「月乃にダイエットなんかいらないよ」
笑いながら歩いていると、ふとエントランス前に誰かが立っているのが見えた。女性の二人組が、じっとこちらを見ている。遠目から見ても上品なオーラが分かった。
なんとなく嫌な予感がして隣を見ると、碧人も同じように顔を引きつらせていた。それでも止まることなく近づいていくと、やはり、それは碧人のお母さんだった。
彼女はにこにこした顔で立っていた。やけに優しい笑顔なので逆にぞっとしたぐらいだ。彼女は私には目もくれず、碧人に声を掛けた。
「碧人! やっと帰ってきたのね」
碧人は無言で私の手を握った。彼の母親の前で恥ずかしくなったが、振り払うのはよくない気がしてそのままにしておく。碧人は明らかに不機嫌な声を出した。
「急になに? わざわざ待っていたの?」
「だって、あなたが連絡をちっとも返してくれないんだもの」
「返す必要がなかっただけだ」
「もう直接お話した方がいいと思って、今日こっちに来たのよ。そして、あなたに会ってほしい人がいるの」
碧人の母親がそう言うと、ずっと彼女の後ろで俯いていた女性が顔を上げてこちらを向く。私たちに近づき、微笑んだ。
綺麗な女性だった。年は二十代半ばくらいだろうか。黒髪のストレートの髪にたれ目で優しそうな目元が印象的で、すらりとスタイルもよく、女性らしさがにじみ出てる人だ。多分、世の男性が理想とする結婚相手は、こういう人なんだろうと思う。
「長坂萌絵です」
ぺこりと頭を下げる。目の前で起こっている現象に、怒りを通り超えて呆れてしまった。
つまりこれは、碧人の母が『ふさわしい』と思って選んだ女性なのだろう。それを、現彼女の前で紹介するって……どんな状況なのだ。
碧人が一体どう怒るだろう、と思って隣を見た時、彼の様子がおかしいことに気が付いた。長坂萌絵という女性を見つめたまま、瞬きも忘れて驚愕の表情をしている。そしてそのまま、数歩下がった。
普通ではないその反応に心配になり、声を掛けようとする前に長坂萌絵が言う。
「碧人さん、お久しぶりです」
「え……?」
二人は知り合いらしい。一体誰なのだろう、と訊くより前に、碧人の母親が割り込んできた。
「私と、お父さんも古くから仲良くしている長坂さんところのお嬢様よ。今回、碧人の話をしたところ、なんとあなたたち知り合いだって言うじゃない! 凄い偶然ね、運命だと思ったわ。お綺麗で若くて家柄もいいし、とってもいい人だと思ったの」
私の存在は完全に無視してくる碧人母のメンタリティ。それはもう置いといて、未だ呆然としている碧人に小さな声で呼びかけた。
「碧人?」
私の声にハッと反応する。彼はさらに私の手を強く握ると、母親を睨みつけた。
「なんの真似? 俺は月乃以外と付き合わないって言ったはずだけど。ふざけるのも大概にしてくれ」
「違うのよ、あなたが月乃さんとお付き合いする前から萌絵さんとは話がまとまっていたの。だから、一度紹介するだけしなくちゃと思って」
「どっちにせよ失礼だろ。月乃にも、長坂さんにも」
そう碧人が声を荒げた時、長坂萌絵が優しい声で割り込んだ。
「碧人さん、お元気そうでなによりです。もう萌絵、って呼んでくれないんですか?」
それを聞いて、碧人の表情が固まる。そしてそんな碧人見て、私も固まる。
……名前で呼ぶ間柄だった、ってこと?
碧人は一瞬黙ったあと、私の手を引いて歩き出した。オートロックを素早く解除しながら早口で言う。
「お引き取りください。俺には月乃がいるので。他の女性には何も興味ないです」
それだけ言うと、開いたガラスの扉に体を滑り込ませる。
「碧人!」
母親がそう呼んだが、碧人は振り返らなかった。私の手をしっかり握ったままエレベーターに乗り込み、すぐに扉を閉めてしまう。
閉まりゆく扉から、外の様子が少しだけ見えた。ガラスの向こうに立つ二人は、なぜか嬉しそうに微笑んでいた。
部屋に戻った瞬間、普段なら私に飲み物を淹れてくれる碧人は、ソファにどしんと座り込み、手で顔を覆ってしまった。私がすぐに隣に腰かけると、彼は無言で抱き着いてくる。そのぬくもりをしっかり受け止めながら、さっきの状況を頭の中で整理していた。
凄い宣戦布告だったな……私の前で嫁候補を紹介するだなんて。碧人の母親は、息子が私を捨てて乗り換える自信があるんだろうか。
しかし思い返せば、凄く綺麗な人だった。美人だけど家庭的そうな雰囲気がある。あれだ、やまとなでしこって感じ。私より若そうだったし、普通に考えれば向こうの方がずっと優良物件だろう。
「ごめん……母親があんなことして」
碧人がポツリと言った。その背中を撫でながら私は答える。
「まあ、びっくりしたけど……碧人のお母さんに嫌われてるのは分かってたし」
「え!? どうして」
「感じてたんだよ、ピリピリとした敵意をね。女特有のアンテナで感じるの」
私が言うと、碧人は離れて落ち込んだように俯いた。
「ごめん……いやな思いをさせてたんだ」
「いいの。別に気にしてなかったし」
あなたが庇ってくれたの、知ってるから。
……これは言った方がいいのかな。わかんないや。
碧人は深いため息をついた。
「確かに、月乃と付き合う前に『紹介したい人がいる』とは言ってたけど……今更こんなことをしてくるなんて信じられない」
「知り合いだったの? 長坂さん」
ズバッと尋ねると、碧人は分かりやすく言葉に詰まった。視線を泳がせながら、私に答える。
「……前、付き合ってた」
意識が飛びそうになるのを何とかこらえた。
なんていうことだ、あれが元カノ? 待ってほしい、私とは全くタイプが違うしめちゃくちゃ綺麗な子じゃないか。
若いしおしとやかそうだし、あんなのと付き合っていたというのか。
真っ青になってしまった私に、碧人が慌てて言う。
「けど、前も言ったと思うけど、付き合ってたって呼んでもいいのかどうか怪しいぐらいで……」
その発言は確かに以前も聞いたことがある。彼は海外から戻って働き出してから、女性に言い寄られることが多くなり、それなりに付き合ったこともあると。でも、どれも本気で付き合ったことなどなかったと。
それは分かっているはずなのに、心の中で生まれる黒いもやもやがまるで収まりそうにない。一般的に見たら、逆立ちしても敵わないぐらいの高レベルな女性相手に、自信を失くしてしまう。
私は小さな声で尋ねる。
「いつ頃付き合ってたの……?」
「確か、一年半ぐらい前から……」
割と最近。
「どれくらい付き合ってたの?」
「別れた、って明確な終わりがなくて。自然と連絡を取り合わなくなった、って感じだから。でも一年ぐらいは会ってた」
まあまあ付き合ってる。
「どこで出会ったの?」
「会社近くのカフェでよくコーヒーを買ってたんだけど、そこで話しかけられて……今の今まで、両親とつながりがあるってことは知らなかった」
私の質問に、碧人は全て答えてくれた。気になるから質問を重ねたけれど、聞けば聞くほど不快になるし気になってしまう。いくら彼が、彼女のことを本気で好きになれなかった、と言ってくれても。
付き合ってた元カノはめちゃくちゃいい女で、しかも母親のお墨付き。普通に考えて、私に勝ち目がない。
黙り込んでしまった私をじっと見つめた後、碧人はふ、と顔を緩めた。そして、どんどん顔に笑みが広がっていく。不思議に思い首を傾げると、碧人は恍惚としたように私を眺めている。
「ごめん……こんな時だっていうのに……月乃が、俺の過去に興味を持ってくれたんだ、って思ったら嬉しくなって……月乃が不愉快な顔になればなるほど、喜んでしまう」
「……悪趣味」
「ごめん。でも嬉しい。妬いてくれたんだ? 大丈夫、俺は何があっても月乃しか見えないし、月乃から離れることはないから。そうなるぐらいなら、死ぬ」
「し、死ぬは言いすぎ!」
「死んだ方がいい。絶対に月乃しか見えてないから、月乃は堂々としてればいいんだよ。早く一緒に住もう。まだ結婚してくれない?」
「こんな状況で結婚も何もないでしょう」
呆れてそう答える。母親は大反対だし、他に結婚相手を紹介してくる始末だし。
碧人は大きなため息をつく。
「もう一度、俺から母さんにはキツく言っておくよ。月乃は何も心配しなくていい、俺のそばにいてくれればいい」
きっぱり言い切る彼に、それ以上何も言えなかった。あの母親がそう簡単に引き下がるわけがない気がするけど、もう彼を信じるしかない。
それに自信過剰だけれど、碧人が今更長坂さんとよりを戻すとは思えなかった。これだけ私に精一杯愛情を伝えてくれているので、疑うなんてことはこれっぽっちもない。
……いまだに、大人の階段は上ってませんが……
そう考えた時、ふと長坂さんとはそういう関係があったのだろうかと気になった。とはいえ、さすがに聞きづらい。私は疑問を心に押し込んだ。
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