碧人の反抗

第35話 久しぶりの電話



 会議を終え、やや疲れた足で社長室へ戻る。ため息をつきながら椅子に座ると、東野がコーヒーを持ってきたので受け取った。ブラックコーヒーの苦みが頭をはっきりさせる。


 疲れた、と心で呟いた。なんで役員たちはあんなに頭が固いんだ。年を取ると新しいものを取り入れる能力が落ちていくのか? いや、そうじゃない人もいるだろう。そういう人間こそ上に立ってほしいものだが、どうも現実は上手く行かない。


「お疲れ様です」


 東野がそう言いながら、机にチョコレートをそっと置いた。それを見てなんとなく心が温かくなり、早速口に放り込む。滑らかな甘みが幸福感をもたらす。


「最近、東野は甘いものをよく用意してるね」


 俺がそう指摘すると、彼はははっと笑った。


「ええ、今までは出しても食べないことが多かったですから。でも、中谷さんと出会ってから、社長は甘党になられたようなので、用意しています。時々食べる糖分はいいですよ、社長は休息をとるのが下手な方ですから」


 笑われたことに少し不快にもなったが、事実なので黙り込んだ。甘いお菓子を目にすると、月乃を連想させるので自分の機嫌がよくなる。単純にもほどがあると、自分でも呆れていた。あと、本当に甘いものが好きになっているのもある。


 家には大量買いしたメルキーキッスがあるし、休みはビュッフェに行くし、舌が糖分に慣れてしまっているのだ。


 俺は無言で処理し終えた書類を渡し、話題を終えたつもりだったが、東野は受け取りながらさらに続けた。


「お付き合いは順調ですか? まあ、まだ付き合ったばかりですし、順調も不調もないでしょうか」


「付き合ってるけど振られてばかりだ。同棲も断られた」


 俺がポツリと言うと、東野がひっくり返った声で驚いた。


「もう同棲の提案をされたんですか!?」


「……会う時間が足りないと思って」


 月乃と会う時間があまりに足りない。なのに、向こうは平気そうなのが一番苦しい。俺ばかりが相手を好きなようで、胸が痛くなる。


「そ、それはまあ……学生ならともかく、もういい大人ですからね。大人はお互い自立することを重要視します。中谷さんもそうなのでしょう」


「そう言ってた。GPSを入れてほしいって言ったけどやっぱりだめで」


「じーぴーえす!?」


「俺はあの人の全部を把握したくて苦しいけど……でも嬉しくもあった。多分、俺は歪んでて変だって自覚があったから、提案したら引かれると思って。でも、月乃は引かずにちゃんと聞いてくれて、GPSは無理でも連絡を増やすって妥協案を出してくれた」


 正直連絡が少し増えたぐらいでは、こちらはまるで安心しないし足りない。でも、彼女が頑張ってそう提案してくれたことは気づいていたので、その気持ちはありがたかった。


 東野が優しく微笑んだ。


「よかったです。確かに、普通の女性相手なら喧嘩が始まってもおかしくないですからね」


「やっぱりそうなのか……」


「社長はこれまでのことを全て話されたんでしょう? それを踏まえて、中谷さんは社長を選んだのだし大丈夫です。やはり素敵な人ですね。いい人を選ばれました」


「…………」


「まだ何か心配事が?」


 顔に出てしまっていたのだろうか。俺はチョコレートをもう一つ口に入れ、ブラックコーヒーで流し込むと、迷った挙句口に出してしまう。


「……手を出すのが怖い」


 小さく言った言葉だが、しっかり東野に届いていたらしい。彼は持っていた書類を派手に落とし、床にぶちまけていた。慌てた様子で拾うその姿を横目で見ながら、ため息をつく。


 書類をまとめた東野は、わざとらしく咳ばらいをして言いにくそうに口を開いた。


「あーそれは……意外といいますか……社長はどちらかというと相手を全部こう、把握したがる傾向があるので……」


 俺は無言で頭を掻く。その東野の分析は合っていて、心ではとにかく全部を把握したくてたまらない。一分一秒でも長く一緒にいたいし、外に出したくない。可能なら一生家の中で過ごしてほしいくらいだ。


 だが、どうしてかあまりに近すぎると、怖さも感じる。


「今まで女性を好きにならなかったから、こう……」


「あーなるほど、今までは好きでもない女性と適当に夜を過ごしてきたような経験しかないから、本当に好きな人とどうしていいのか分からないんですか」


「……東野って、時々凄くストレートだね」


 つい笑ってしまった。なにせ、その通りだからだ。こいつ、俺の事知りすぎだけど何者?


 付き合っていた、と言ってもいいのかどうか分からないような適当な関係ばかりだった。いつも向こうから言い寄ってきたのを、好みの外見だったら応えてみた。でもそのあとは必要時しか連絡せず、デートらしいものもほとんどしなかった、なんとも不誠実な関係だった。


 まあ、それで向こうも素直に引いていたので、元々あっちも本気じゃなかったんだろう。


 そんな経験しかない自分が、本当に大切な人を目の前にしてしまったら、何も動けなくなってしまった。大事で大事で、早く進みたいのにどこか怖い。とんだビビりが生まれたものだ。


 一度手を出してしまったら恐らく、自我がぶっ飛ぶ。それもまた、恐ろしい。


 東野は一瞬考え込むが、すぐにあっけらかんとして言う。


「でもまあ、それほど大きな問題ではないんじゃないですか。大事にされてる、と相手は思いますよ。早すぎるよりいいと思います。時間が経てば解決するでしょう。GPSつけたがるより健全な悩みです」


「そんなにダメだったかGPS」


「僕ならドン引きです」


「……」


「はは、でも中谷さんは僕じゃないですから。あ、盗聴とかしないでくださいよ」


「嫌われるのが怖いから、しない」


「嫌われない保証があったらするんですね……」


 コーヒーを飲み切り、カップを置くと東野が下げてくれる。さて、雑談もほどほどにして仕事をせねばならない。少しでも早く終わらせて、月乃とちょっとでも電話がしたい。ああ、同じ家に住めたら幸せなのに……。


 カップを運ぼうとした東野が、何かを思い出したように振り返った。彼は眉を下げ、俺に言う。


「そういえば……大奥様から連絡が来ていました。社長から連絡が返ってこないけど忙しいのか、と。また時間があるときに顔を出してほしいみたいです」


 言われて思い出した。少し前、確かに母からメールが来ていたことを。確か、いい見合い相手が見つかったという連絡だった。


 しまった、完全に忘れていた。月乃のことで頭がいっぱいだったのだ。


 そのことにも自分で驚いていた。神園を継いでから、あの人に認められて褒められるのが一番うれしく思っていたのに、そんな母の存在を忘れていただなんて。


「そうだった……見合いをしろ、とか言われてたんだった」


「まだ中谷さんを紹介するのは早いかもしれませんが、彼女の存在はお話しておいた方がいいのではないですか」


「ああ、そうする。帰ったら電話しておくよ」


 結婚しろ、相手を見つけろ、と言っていた母に、月乃について教えたら喜ぶだろう。まだ結婚は先だろうし、本当にそこまでたどり着けるか分からないが、見合いなんてしなくてよくなった。


……いや、必ずたどり着いて見せる。


 今更彼女以外の人間など、考えられない。





 家に帰り、まずシャワーを浴びた後、月乃のラインを読み返した。家に着いたという主旨、それから今は買ってきた弁当を食べていると、画像付きで送られてきていた。よくある弁当屋のものだ。


 微笑ましく思いつつ、うちに来てくれればいいのに、と少しもやっとする。許されるなら、俺は月乃のアパートに飛んでいくのだが、あいにく許されていない。うちに来て、一緒に食事をして、一緒に寝ればいいのに。でも、一人の時間も必要、だなんて彼女は言っていたっけ……。


 一人の時間が長すぎる自分にはよく分からなかった。誰かと一緒にいる方がずっと楽しいし、嬉しいのだ。


 彼女に返信したあと、母のことを思い出してその場で電話を掛けた。冷蔵庫の中から水を取り出しながらスマホを耳に当てていると、明るい声が聞こえた。


『碧人?』


「もしもし? なかなか連絡できなくてごめん」


『いいのよ、忙しかったんでしょう? 仕事は大丈夫なの?』


「ああ、順調だよ」


『それは素晴らしいわ!』


 母の明るい声を聞くのは久しぶりな気がした。冷えた水を飲み、ソファに腰かける。


『忙しいのにごめんなさいね。元気そうだから安心したわ。それと、前もメールしたんだけどねえ、碧人にいい相手を紹介できそうなの! 若くて、私が昔からお世話になっている奥さんの娘さんで』


「あー……そのことだけど母さん。実は、最近お付き合いする人が出来たんだ」


 そう口にするだけで微笑んでしまう。月乃の顔が目に浮かび、幸福感に満ちる。


 てっきり、相手は『そうなの!』と喜ぶかと思いきや、息を呑んだあと、しばらく沈黙が流れた。不思議に思っていると、わざとらしい明るい声がする。


『あ、だからなかなか連絡も返ってこなかったのね! そうか、そうだったの。お相手はどんな方?』


「うちの社員だよ」


『……へえ、ご年齢は?』


「今二十九歳」


『……そう』


 そう言った後黙り込んだので首を傾げる。


「母さん?」


『一度ご挨拶がしたいわ。お休みの日にうちに連れていらっしゃい。私の手料理をご馳走するわ』


「いや、まだ付き合い始めたばかりだよ。さすがにすぐに親に紹介じゃ向こうも困るだろう」


『この年齢なら結婚だって考えてるでしょう? 別に結婚をせかすようなことは言わないわ。でも、碧人との交際が真剣なら、私と会うのぐらい引き受けてくれるはずよ』


 そう言われて口をつぐむ。そりゃ、月乃のことを母に紹介したい気持ちはおおいにある。自分は彼女以外に結婚を考えられないし、今すぐにでも婚姻届けを出してしまいたいぐらいだ。


 でも月乃はそこまで思っていないだろう。それどころか、まだ付き合って一週間なのに親に紹介はさすがに……俺でもやりすぎだと分かる。


「いや、でも」


『こちらは見合い相手を探してしまってたのよ。一度お会いするぐらい、いいじゃない。あなたがどんな人を選んだか気になるだけなのよ! 今度休みの日に連れていらっしゃいね』


 母はそれだけ言うと、電話を切ってしまった。困ったことになった、とため息をつく。いずれは母に会わせたいと思ったこともあるが、それがこんなに早くなるのは予想外だ。


 スマホを適当にソファに置き天井を仰ぐ。今、まだ月乃との交際の仕方に手いっぱいで、他の面倒ごとを起こしたくないのだが……とはいえ、会わせて自慢したい気持ちがあるのも事実。


 一度月乃に提案するか。GPSの事といい、彼女は嫌な時はちゃんとNOと言う女性だ。断られたらそれで引き下がろう。多分、『さすがに早いと思います』と困った顔をするだろう。

 

 日曜に会う約束をしているので、その時に月乃に聞いてみることを心に決め、それと同時に見合いなどする前に月乃とこうなれてよかった、と思った。


 どうせ月乃以外の女性なんて心が動かなかったのだから、時間が無駄になるところだった。

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