第33話 GPS
彼の部屋でコーヒーを飲みながら、映画を見たりして過ごした。神園さんはやけに嬉しそうで、私を気遣ってくれる。喉は乾いていないか、お腹は空いてないか、寒くないかと細かく確認してくる。今まで一緒に過ごしたことがある男性は、みなこんなに私を気にかけてくれたことはなかったので、新鮮だった。
夜になって順番にお風呂に入り、軽く夕食を取ったあと、今日は寝ようかという話になる。
泊まりを了承したのだから、私もそれなりに心を決めている。緊張しつつ、一度入ったことがある寝室へと移動した。
扉を開けて中に足を踏み入れたとき、以前と違う様子に気が付いた。中央にあるベッドはそのままだけれど、隣にある小さなサイドテーブルの上に、あのキャラのグッズがあるのを見つけたのだ。
小さなぬいぐるみと、もう一つはライトのようだった。わっと声を上げて駆け寄る。
「可愛い! でも前来たときはなかったですよね?」
振り返って尋ねると、少し間があったあと彼は頷いた。
「ああ……それは最近買って。今まではほら、グッズには抵抗があったんだけど、月乃と話してたら欲しくなって」
「そういえばショップはまだ行けてませんね! 今度行きましょう」
彼が何かを言いかけたが、口を閉じる。その様子が気になったが、追及はしなかった。神園さんは電気を暗くする。そこで一気に、緊張で胸が鳴った。
「寝よう」
「は、はい」
「もっと大きなベッドを買わなきゃなあ」
確かに二人では狭いベッドに入り込んだ。ドキドキしながら布団を掛けると、彼が私の手を握ってくる。ついにか、と思いつつ覚悟を決めると、隣で神園さんの小さな声がした。
「ごめん、やっぱり狭いね」
「謝るのは私ですよ! 神園さんのベッドなのに」
「ていうか、そろそろ下の名前で呼んでくれてもいいんじゃないかな」
言われて確かに、と思った。付き合うのに苗字呼びは変だろう。とはいえ、ずっと神園さんで来たわけだから、今更名前呼びはなかなか難しい。
「えーと碧人さん」
「さんいらない」
「碧人ですか? でも神園さんの方が年上だし上司じゃないですか!」
「関係ないよ。敬語だっていらない。邪魔。他人行儀な感じがして好きじゃない」
そう言われたら、こちらも頑張って直そうとするしかない。
「わかりまし、分かった。なるべく頑張る」
暗闇の中で、向こうが嬉しそうに笑ったのが伝わってきた。たったこれだけのことで喜んでくれるのは、やっぱり可愛いとすら思ってしまう。
そのまましばらく沈黙が流れたあと、彼は言う。
「誰かと一緒に寝るの……初めてかもしれない」
ポツリと聞こえたその言葉を聞いて、緊張は吹き飛び、ぐっと涙が出そうになった。
物心ついた頃から一人部屋で過ごしていた……って言ってたけど、普通ならお母さんとかお父さんにたくさん抱きしめられながら寝る年頃なんだろう。寂しくても、彼はそれが許されなかった。やっぱり、彼の親は許せないと思う。
「毎日は無理だけど、私が一緒に寝るから」
そう言うと、安堵した様子が伝わってきた。手を握る力が強くなり、離すものかという強い意思が感じられた。
そしてそのまましばらく経ち、向こうが全く動かないことに首を傾げた。暗い部屋の中で、手を繋いだままじっとしているだけだ。
あれ? と思いつつ、まさか自分で動くほど勇気はないので、そのままでいた。この人はこう、全部の行為を急いでくるかと思っていた。いろんなことに対してスピード感が凄いし、だから絶対手を出してくるもんだと。
そのまま彼は動かなかったので、私は睡魔に負けて寝てしまった。ただ、最後の最後まで彼はしっかり手を握っていて離れなかったのだけは覚えている。
始まった彼との交際は、やっぱり普通のカップルとはちょっと違った。
仕事中はさすがに連絡は来なかったが、終わって退勤した途端メッセージが来る。寝る前には電話もかかってきた。毎日家に無事についたら必ず連絡するように、と言われ、まあ心配してくれているのだからとそれは素直に従った。
だが『電車通勤は心配だから、車を買ってあげる』と言われたのには困り果てた。免許は持ってるけどペーパードライバーだし、そもそも人にそんな高級なものを貰うわけにはいかない。いくら付き合っていても、だ。
断ると落ち込まれた。そして、代わりにいつだったか私に渡そうとしたブランドバッグを改めてあげると言ってきた。『付き合う相手にならもらうって言ったでしょ』と言われ答えに詰まり、それらは頂くことになってしまった。あの量、私の狭いアパートじゃ置き場にも困るんですが。
とりあえずバッグのお礼と、彼からやんわり言われる『会いたい』希望を感じ取り、翌週の木曜日に家へ向かった。この前話したように、夕飯を一緒に取ろうと思ったのだ。
仕事も早めに上がり、スーパーだけ寄って彼のマンションに行き、料理を作った。普段、神園さんは料理をあまりしないのか、キッチンはピカピカだった。でも、中に大量の新品の調味料がそろっていて、もしかして私のために買っていてくれたんだろうか? と自惚れる。フライパンだって鍋だって、みんな新品だった。
料理が仕上がりそうになった頃、玄関が開く音がしてどきりとした。
そう言えば、今まで彼氏の合いかぎを使って料理を作りながら待ってたことなんてなかったなあ……私別に尽くすタイプじゃなかったし。まず、合いかぎを渡されたのも初めてなんだよなあ。
今更恥ずかしがりながら火加減をしていると、リビングの扉が開いた。そこに、神園……じゃない、碧人が立っていた。
「あ、おかえりなさい」
私がそう言うと、彼は分かりやすく表情を綻ばせた。その嬉しそうな顔についどきりとする。
「ただいま」
「丁度良かった! そろそろご飯が出来そうで」
「手を洗ってくる」
碧人は小走りで洗面所に向かったので少し笑ってしまった。あんなに急がなくてもいいのに。
盛り付けをしていると、彼がいそいそと近づいてきて、私の手元を覗き込んだ。
「美味しそう、ハンバーグだ」
「私ハンバーグが好きでね……」
「そうなんだ、知らなかった。これは和風?」
「そう! デミグラスソースってどうなのかなと思って……ビーフシチューが駄目なんだし」
私がそう言うと、碧人は嬉しそうにはにかんだ。
「ありがとう、気遣ってくれて……なぜかデミグラスは大丈夫なんだ」
「そうなんだ、量の問題かな? でも、味はあまり好きじゃないんじゃない?」
「それはそうかも、でも食べられるし」
「無理しなくていいんだよ。私だって苦手なものあるし、苦手なものは言ってくれていいから」
私がそう言うと、碧人は頷いた。二人で料理を運び、向かい合って食事を始める。作った料理はまずまずというレベルだと思うのだが、碧人は感激したように褒めてくれたので反応に困ってしまった。大げさなのだが、彼はそれを自覚してないのが一番困る。まるで一流レストランに来たかのように絶賛だ。
だがまあ、悪い気はしない。
忙しくなると自分のことをおろそかにしがち、って東野さんも言ってたし(実際それで一度倒れてるし)食事はしっかりとってもらわないとだ。
「泊ってくよね?」
ご飯を頬張りながら碧人が当然のように訊いてきた。私は否定する。
「ううん、明日仕事だし」
「え!?」
目を丸くして驚かれる。そのことにこっちも驚く。だって、次の日仕事なんだしそりゃ帰るよ。
碧人は先ほどと違い、見るからにショックを受けていた。そして小さな声で言う。
「明日は? 明日の夜にくれば、土日も」
「いや、私土曜日は自分の部屋の掃除とかしたくて……日曜なら、まあ」
「掃除? ハウスキーパーを入れよう。お金は払うから」
「狭いアパートにハウスキーパーなんていらないよ!」
私が拒否すると、分かりやすく落ち込んでいる。いや、今日会ってるし、日曜日も会うなら結構な頻度じゃない? 前付き合った彼氏なんて、二週間に一回しか会わなかったけど。
こういうのは初めに言っておかないと、と思い正直に言う。
「私は土日全部を空けられないよ。友達と遊んだりもするし、一人の時間だっている。あんまり最初に無理しすぎると続かないよ」
「……気を悪くしないで聞いてほしいんだけど」
碧人は持っていた箸を一旦おき、私をまっすぐ見た。
「GPS入れてもいい?」
いいわけがない。
つい固まってしまった。彼は申し訳なさそうに言ってくる。
「俺ももちろん入れるから」
「……私、浮気したりなんてしないよ」
呆れてそう答えると、碧人は勢いよく首を横に振った。
「そんなこと思ってない! 月乃はそんなことする人間じゃないって分かってる」
「じゃあなんでそんなことしようとするの?」
怪訝な顔で尋ねると、彼は俯いた。
「月乃を疑ってるわけじゃなくて……把握してないと落ち着かないんだ。今どこにいるんだろうって、何してるんだろうって。知らないということが怖い。事故は大丈夫かなとか、変な男に言い寄られないかなとか、とにかく不安で。本当はGPSでも物足りなくて」
「た、足りない……?」
「月乃が一緒に暮らしてくれて、仕事は東野の補佐ということで秘書になってくれればまだいいんだけど」
「うーん……」
腕を組んで考えると、冷や汗が出てきた。
これはやっぱり、思ってたより難しい問題だ。
相手のことを全部把握しておきたいという執着心があまりに強い。私、やっぱり大変な人と付き合ってしまったのかもしれない。
ただ、彼の今までの生き方を知っているから、こうなってしまったのも理解できる。人と関わってきたことがあまりに少なく、心の成長がどこかで止まってる部分がある。
だからそう簡単に否定できないし、対応に困ってしまう。黙って私のスマホにこっそりGPSを入れることだって、やろうと思えばできるのに、それはしないでいる。多分彼自身、戸惑っているのだ。自分が変わってることを分かっているから。
現に、目の前に座ってる碧人は叱られたように小さくなっている。
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