月乃の悩み

第32話 スピード感


 ケーキを興味津々の様子で見る神園さんの顔はまるで少年で、可愛らしいと思っていた。


 馬鹿話をして盛り上がるようなことはないけど、話題は豊富で頭の回転が早い人という感じ。時折優しく笑う顔からは、とても安心感を覚えた。


 そんな彼から聞いたのは、思っていたよりずっと辛い過去だった。


 ああ、だからどこかずれているんだなあ、とか、不器用なところが見えるだなあとようやく理由が分かり、納得した。同時に、それほどの境遇にいながら今、こんな風に堂々としていられるのは、全て彼の努力の成果なのだと知り、素直に凄いと思った。


 怒りもある。小さな子を邪険に扱った人間とは思えない家族にも、肩書きだけで近寄ってきたという過去の女性にも、ものすごくイラついた。許されるなら殴ってやりたいくらいだ。


 でも彼の口調から、その人たちを責めるような言い方が聞こえなかった。それが単に心が広いからか、それともーー自分のために他人を怒るほど、自分を好きになれていないのかは、分からなかった。


 やっと神園さんを知った上で、私はそばにいたいなと思った。同情じゃなくて、彼の奥底にある強さに心惹かれたのだ。


……ただーー




「月乃、うちに引っ越してくる? 狭いなら新しい家に引っ越そうか?」


「へ」


 私の声はひっくり返った。


 これは決して、付き合って一年経つカップルの会話ではない。私たちは今先ほど、ようやく付き合うことが決まり、たった一度キスをしただけの二人だ。その直後、私についてのどうでもいい話(家族構成だとか、好きな色だとか、どんな学生時代だったかとか)をさせられ、それが終わったと思ったら、彼は突然そんなことを言い出したのだ。


 私はきょとんとした。神園さんは私の手を未だ握ったまま言う。


「引っ越し代は全部出す。家具とか気に入らない物は買い替えていいよ。全部月乃のしたいようにしていい」


「まま、待ってください! どうして一緒に暮らすことになるんですか? それはもう少し時間が経ってから考えるものでは」


 焦る私をよそに、彼は不思議そうに首を傾げた。


「でも、今だとなかなか会えないでしょ? 同じ会社とはいえ社内で会うことはほとんどないし……」


「土日があれば」


「土日? 七日のうちたった二日じゃ、足りない。それとも、俺の秘書になる?」


「なりません!」


 ああ、ちょっと軽視していたかも。心で冷や汗をかいた。


 彼は自分でも『ちょっと重い』だなんて言ってたけど、その発言を軽視していた。恋愛に疎そうなのは感じ取っていたけれど、付き合ってすぐに同棲に持ち込むとは、思ったよりずっとバグっている。


「神園さん、ええと、一緒に暮らすのは早いです。普通、付き合って長く経ってからそういうことは考えるものです。こう、結婚とか意識しだしてから」


「俺はもう意識してるよ」


「早」


「え? 月乃は違うの?」


 彼の声がぐっと低くなった。ショックを受けているような、怒っているような声だ。私は一つ息を吐いて、彼の手を握り返した。


「神園さん。人は恋愛以外にもたくさんあります。仕事だって趣味だって、色々ある。全部の時間を恋愛にぶつけなくてもいいんです」


「仕事は分かってる。でも俺は月乃しかないよ、他に好きなこともやりたいこともない」


「じゃあ見つけましょう」


「いらない。別に欲しくない」


 ぐっと言葉に詰まる。


 彼はきっと人生で、娯楽というものがすぽんと抜け落ちている。今までの生き方から見るに仕方ないのかもしれないけれど、私がすべてになってほしくない。


 私は諭すようにゆっくり言う。


「いいですか、私は神園さんとお互い自立して、高め合う存在になりたいです。大事だからこそ、依存したくない。一緒に暮らすのはまだ早いです」

 

 私の説得も、彼は不満そうだった。だが素直に頷いた。


「月乃がそう言うなら、もう少し待ってもいい。でも、俺は少しでも長く君と一緒にいたい。それだけは覚えておいて」


 ストレートに言われたので、なんだか恥ずかしくなった。静かに頷き、彼の意見も何か取り入れた方がいいだろうと思い提案する。


「えっと、平日はもしお互い時間が合えば、一緒にご飯を食べたりしましょう」


「え、いいの?」


 パッと笑顔になったのを見て笑ってしまった。ほんと、子供みたい。


「外食でもいいですし、疲れてるときは簡単なものでよければご飯作りますよ! もちろんビーフシチュー以外で」


 彼は目を輝かせた後、立ち上がって何かを取りに行った。そしてすぐに戻ってきて、私に鍵を一つ手渡した。


「月乃ならいつでも来ていいし何を触ってもいい。俺、ビーフシチュー以外はそんなに好き嫌いないし、月乃が作った物なら何でもおいしく食べると思う」


「わ、わかりました」


 早速合いかぎを貰ってしまったスピード感に面喰らいながら、とりあえず受け取った。これって、そのうち私の家の鍵も渡さなきゃいけなくなりそうだな……と、一抹の不安を覚えながら。あんな狭い部屋に神園さんが来ても、過ごしにくいだけだと思うが。


「それで、今日は泊まってくよね? 荷物一旦取りに行く?」


「えっ! そんなつもりは」


「何ならいつでも来れるように色々置いていけばいい。車出すよ」


 どうしよう有無言わさずお泊りが決定してしまった。いや、別に付き合うってなったんだからいいけど、とにかくスピード感が凄い。


 結局、一旦私の家に荷物を取りに行って(自分の部屋は散らかりすぎてて神園さんを招き入れることは出来なかった)また戻ってくることになってしまった。このままじゃあ、いつの間にか同棲状態にさせられていそうな感じがするので、気を付けなくちゃと思う。

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