第31話 欠けていた何かが満たされる
「初めて母と向き合って食事を取った日のことは忘れない」
ポツリと言った。あの家で、母が作った食事を並べ、俺の話を聞きながら笑顔で相槌を打ってくれた。子供の頃、願って願ってやまなかった光景だった。
『碧人は凄い』『才能がある』経営が軌道に乗ってきた頃、母はそう嬉しそうに言っていた。ああ、ようやく俺はあの人の子供になれたのだと思えた。
だが同時に酷く空しかった。ここまでやらないと自分は家族になれないのかと。
「今はよく周りに、『ほしいものはすべて手に入れてる人間』みたいなことを言われるけど、とんでもない。むしろ、何も持ってない人間だ。情けないと思ってる」
「……もしかして、この前ビーフシチューを出したのって」
「……母だよ」
苦笑いしながら言った。俺と食事を取ったのなんて限られているので、好き嫌いどころか体調を崩すメニューすら知らない。それでも、話しながら食事が出来るのは今でも嬉しいと思っている。
ふと隣を見ると、目を真っ赤にしている月乃の姿が見えたので固まってしまった。唇を震わせ、今にもその目からは涙が零れ落ちそうだった。
「ど、どうしたの? なんで月乃が」
「子供が親から愛情を貰えなかった原因は、決して子供のせいじゃありません」
きっぱりと言い切ったのを聞いてなお固まる。月乃は凛とした声で続けた。
「凄いです。神園さんはめちゃくちゃ凄いです。勉強だって会社の経営だって頑張った。才能もあったと思いますが、努力が一番凄いんです。失望するどころか今、神園さんへの尊敬の気持ちがなお強くなりました。社員のみんなだって、神園さんのおかげで安心して働けてるんですよ。感謝してるし、あなたは決して何も持ってないわけじゃない」
ついに目からポロリと涙を流していったのを聞いて、自分の心が温かくなった気がした。
母は会うたび褒めてくれた。でもその言葉より、月乃から貰った言葉の方がずっとまっすぐでほしかった言葉のように思う。
嬉しくもあり、でもどこかむず痒くもあり、俺は視線を泳がせた。そんな様子を見て、月乃が笑う。
「恥ずかしがってます?」
「誰かにこんなにまっすぐに褒められること、ないから」
「私はこれからもどんどん褒めます。全力で褒めます。心の底から褒めます!」
なぜか胸を張ってそう言う月乃に少し笑い、しかしすぐに苦しくなった。
すべてを話したら引かれると思っていた。親にすら愛されず、友達も本当に愛してくれた恋人も出来たことがない。それは自分に価値がないのだと証拠づけるものだと思っていた。
でも月乃は尊敬すると言ってくれる。とても嬉しいが、同時にさらに欲しくなる。手に入らないと分かれば分かるほど、しんどい。
それほど褒めても、君は俺を選ばない。
「優しいようで……残酷でもある」
ついぽつりと漏らした。
月乃が目を見開く。すっかり冷めたコーヒーを飲み気を紛らわせた。
「ごめん、なんでもない」
「……神園さん」
「話を聞いてくれてありがとう、暗い話ばかりでごめん。もうちょっと楽しい、笑えるような話があればいいのに思い浮かばなくて。こういうところが昔のままなんだ」
「楽しいですよ!」
月乃は食い気味にそう言ったので驚いた。彼女は慌てた様子で続ける。
「あ、神園さんは辛いことを話してくれてるのに、楽しいなんて言ってごめんなさい。楽しいっていうか、嬉しかったです。神園さんって不思議な人だなと思ってたから、ちょっとこう、ミステリアスに感じてて……でも、そんなあなたのことを知りたいって思ってたから、話が聞けて嬉しいんです」
俺としっかり目を合わせた状態で言った。その瞬間、異常なまでに心臓が鳴り響いた。
知りたいと思っていた……俺を知れて嬉しいと思ってくれた。今まで誰にも興味を持たれなかったのに、初めて好きになった人にそう思ってもらえるなんて。
これほどの心の高ぶりを、知らない。
「でも……君に謝らないと」
「え、どうしてですか?」
「多分俺、変だから。きっとこれからもずっと月乃だけが好きで、月乃だけが欲しくて諦めないと思うから。これだけ隣にいて幸福を感じる人は他にいない」
本気だった。
いい年して恋を覚えて、それ以外は全部捨ててもいいとすら思っている。多分、一生思いが消えることはなく、日に日に強くなっていくのだ。
一瞬月乃は面喰ったようになったが、すぐに優しく微笑んだ。そして、薄い唇から声を漏らす。
「隣にいますよ、ずっと」
時が止まる。
無音だけがそこにあった。かすかにエアコンの風の音が聞こえてくるだけで、長く静寂が流れた。自分の聴力がどうにかなってしまったのかと錯覚するくらいに。
ずっと、ずっと? ずっと。ずっと隣にいてくれる?
乾いた唇から息だけが漏れる。
「神園さんとケーキ食べたの、楽しかったです。あなたは優しくて真面目で、すごく頑張り屋で尊敬できる人だってよく分かりました。むしろ私でいいのか、って不思議なぐらいで」
月乃が困ったように笑う。瞬きすら忘れて、その笑顔に見入った。
「……大丈夫? 多分、ちょっと重いと思うよ、俺。もう他に行けなくなると思うよ」
「えっ。え、えーと」
「まあ、もう遅いけどね」
自分で大丈夫かと訊いたくせに、返事を言わせたくなくて、キスでその口を塞いだ。突然のことに驚いたのか、月乃の口からわずかに高い声が漏れた。キスという行為は心臓をぶち破るほどの威力があるんだと、初めて知った。
顔を離すと、真っ赤になっている月乃の顔が見える。その手をそっと握り、温かで小さなぬくもりを両手で包んだ。
「俺のことは話したから……今度は月乃のことを教えてほしい。月乃のことを誰よりも知ってるのは自分でありたい」
「え、私なんて話すこともないような平凡な人間で」
「なんでもいいんだよ。なんでもいいから……聞かせてほしい」
懇願するように言い、手を握る力を強めた。一生離してやるもんかと思った。
空っぽだった自分の中身が、このぬくもりで何かが満たされていく気がする。
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