碧人の過去
第29話 蘇る過去
キラキラとしたケーキたちが数多く並び、美しいと思った。
周りは女性が多く、男は少ないため少し肩身が狭い。でもそんなこと気にしないでおこう。隣でわくわくした表情をした月乃がケーキを眺めている。たったそれだけで、人生で一番の幸福を味わっているようだった。
一旦白紙になってしまったケーキビュッフェ。その翌週の土曜日に、ようやく私たちは来れた。土井や春木のせいで大変なことになってしまっていたが、事態は収束し、月乃の明るい表情も戻ってきている。
土井はクビにしたと連絡が来ていた。次にどう動くかもちゃんと見ているので、そう簡単に次の仕事が見つかると思わないでほしい。本当なら名誉棄損で訴えてもよかったが……月乃もそれを望んでいないようなのでやめておいた。確かに、せっかく平穏な日常を取り戻したのに、あいつの名前すら聞きたくないだろう。
伯父である社長も額に汗をかいてへこへこ頭を下げ、月乃に直接謝罪したい……なんて言ってきたので、断っておいた。こんな最低人間の視界に月乃を映したくないと思ったのだ。
あの会社との取引は徐々に減らしていくことを決めているので、事態の重大さにこれから気付くのかもしれない。今回の件は他の会社にも噂を流しておいたので、会社の評判自体、地に落ちるだろう。無関係な社員たちは気の毒なものだ。
春木に関してはかなり困った。でも何もなしでのうのうと生きているのだと思うとはらわたが煮えくり返って仕方がなかったので、直接会いに行った。
丁度向こうの会社に出向く機会があったので、呼び出してもらったのだ。自分の社長を通じて、取引先の社長が会いに来る……その状況は、やつを真っ青な顔色に変えていた。
小さくなって、こちらとは目も合わせない。滑稽な姿だった。
余計なことは言わず、『分かってるよね?』と訊いた。なお顔を青くさせた。『もう二度と関わるな』とだけ伝えると、まるで首振り人形のように何度も頷いていた。制裁が下せないのは歯がゆいが、震える奴の様子が見れたのは少しだけすっとした。
ちなみに、自分の保身のために土井に月乃の情報を与えた、ということは向こうに伝えておいた。まあこれだけでは何か処分が下りることはあり得ないと思うが、何も知らないよりはいいだろう。
これで、もう月乃と関わらないでくれればいい。
「美味しそうですね、食べすぎちゃいそうです!」
正面に座る彼女は、いろんな種類のケーキを皿にのせ、フォークを持って楽しそうに言った。俺もいくつか選んで取ってきている。初めての場所なので戸惑ったが、とりあえずまんべんなく選んでおいた。
「食べ過ぎないと損だよ」
「あはは、そうですね。頂きます!」
美味しそうにケーキを頬張る姿を見て、胸の奥が熱くなった。心臓が痛い。もう来れないと思っていたのに、こうして向かい合ってケーキを食べられるなんて。
「タルト美味しいですよ!」
「チーズケーキもいいよ」
いくつかケーキを食べてみると、確かに美味しかった。でもそれはシェフの腕前ではなく、この状況が幸せだからそう感じさせるのだと、自分は分かっていた。
たわいのない話をしながらケーキを食べ、おかわりし、紅茶の種類を悩みながら選ぶ。そんな時間があまりに幸福でたまらなかった。
お腹は膨れ、やや苦しさを感じるぐらいになったところで、ようやく落ち着いて紅茶を啜った。
「はあー食べましたねー。しばらくダイエットしなきゃ」
「俺、こんなにケーキ食べたの初めてかも」
「ビュッフェ初めてって言ってましたもんね」
「うん。来れてよかった」
そう答えると、月乃がティーカップをソーサーに置いた。そして、改まって頭を下げる。
「今回の事、本当にありがとうございました。そして、すみませんでした」
「もう謝罪もお礼も受けたからいいよ。こうして君と出かけられたことで、十分褒美をもらってるから」
「褒美なんてそんな。足りないですよ! だって……土井を嵌めて現行犯で捕まえてくれたのに」
あれっと思い顔を上げる。俺がやった、ということは伝えてなかったはずだ。
だがすぐに理解し、苦笑した。
「東野か」
あいつしか知っているやつはいない。全く、口が軽い。
「いいんだ。自分の大事なものを攻撃されて、いてもたってもいられなくなっただけだから」
正直にそう言うと、一気に彼女の顔が真っ赤に染まった。予想外の反応に、少し驚く。告白をしたときですら、こんな恥ずかしそうな顔はしてなかった気がする。
月乃はもじもじと小さな声で尋ねた。
「あ、あの……私のどこがよかったんですか? 前も言いましたが、何かたいそうなことをした覚えがなくて……」
「どこ、か……」
ぼんやりと考える。思えば最初から、印象に残る人だった。まあ、あの出会いは誰の印象にも残ると思うが、特別な何かを感じていた。それを自覚するまでに時間を要したが。
「多分、人を心の底から大事に思える姿が新鮮だったんだと思う。俺の周りにはそんな人がいなかったから」
自分の立場も考えず突き進む強さ。馬鹿とも言える無謀さがあったが、俺にはその無謀さが眩しかった。これまでの人生、こんな人が一人でも近くにいてくれたら、俺はもう少し歪まずに生きてこれたかもしれない。
すると月乃が、少し黙り込んだ後、意を決したように俺に訊いた。
「私は、神園さんについて知らないことが多いと思います。よかったら、聞いてみたいんです。あなたのこと」
その言い方から、ああ彼女は何か知ってるんだな、と漠然と思った。きっと東野だ、あいつめ。いやそれとも、一緒にいることで何かを感じ取ったんだろうか。
複雑な思いだった。自分のことは何でも知っていてほしいと思うし、興味を持ってくれたことは震えるほど嬉しい。でもその反面、全てを知ったら失望されるかもしれないと恐怖もある。
でも隠していても、きっと良いことはない。
俺は少し視線を落としつつ答える。
「人が多い所ではちょっと」
あまり聞かれたくないのだが……。
すると月乃は、すぐにこう答えた。
「じゃあ、神園さんのお家とか行ってもいいですか?」
「え」
こんなにひっくり返った声を出したのは、人生で初めてかもしれない。
コーヒーを淹れる手は、やや震えていた。
月乃はリビングのソファに座り、やや緊張した面持ちでいる。言っておくが、俺の方が絶対緊張している。まさか彼女が訪問するなんて、誰が想像しただろう。
月乃は一度この家に来ているが、あの頃は恋を自覚していなかったので全く状況が違う。好きな女性が自分の家にいるのに、高ぶらない男はいない。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます……あ、このキャラ!」
マグカップを見た途端、月乃が明るい声を出した。好きだと言っていたキャラのカップだったのだ。
「可愛い~! 素敵ですね!」
君が好きだと言ったから買ったんだ。……なんて言えるわけもなく、黙って隣に腰かけた。隣に月乃がいるというだけで、全身の細胞が騒いでしょうがない。
落ち着かせるためにブラックコーヒーを飲んだ。だが、月乃はコーヒーをそのままに、辺りを見回した。
「でも、生活感ないですね……物も少ないし」
「ああ。家なんて、寝るだけの場所みたいなものだし。本当はもっと狭い部屋でいいんだ」
少し前は狭いアパート暮らしをしていた。だが神園が急成長しだしてから引っ越した。正直引っ越しなんてめんどくさかったのだが、母が『トップに立つ人間はそれなりの生活をしなくてはならない』と力説するのでそうした。だが、やはり自分には不要だったと今でも思う。
「そうなんですか? 私は友達を呼んでたこ焼きパーティーしたりしますよ。由真とホラー映画みたり!」
「映画は暇つぶしに見ることもあるけど……一人かな。友達なんていなくて」
正直に言うと、月乃が驚いたようにこちらを見た。俺は持っていたカップをテーブルに置き、彼女を見る。
「俺はね、君に全部言いたいし知ってほしいとも思ってる。でもきっと、失望される」
「……失望、ですか?」
「友達もいないし、ずっと一人でやってきた。まあ、東野は友達と呼んでいいのか微妙なところかな。あいつは仕事で俺に世話を焼いてるんだし」
「……東野さんのお父さんが、元々会長の秘書だったんですよね?」
「聞いたんだ」
「それに、神園さんにはお兄さんがいらっしゃることも」
そうか、そこも東野は話していたのかーー俺は一旦深呼吸し、心を落ち着かせた。
思い出したくない過去が、ぶわっと脳裏に蘇る。
「兄とは半分しか血が繋がっていない。俺は父の子じゃない」
「……え?」
「母が浮気して出来た子だった」
月乃が息を呑んだのが伝わってきた。
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