碧人の怒り

第23話 喧嘩



 ご丁寧にも、いろんな部署に送られてきた紙の一枚を手に取り、破り捨てたい衝動を必死に抑えた。


 これは証拠品だ。誰かが故意に送ってきた嫌がらせの文書。それをむやみに捨てたりしてはならない。


 震える手で紙をそっとデスクの上に置く。立っているのすら危うい。怒りで眩暈を覚えたのは初めてのことだ。


「……彼女は」


「冷静に仕事を続けています」


 彼女の部署の上司が、このことを報告してきたのは幸いだった。ちょっとした嫌がらせ、だとかでなかったことにされては、こちらまで状況が伝わってこなかった。まあ、色々なところに彼女を陥れる文書が届くのは、普通に考えて異常なことなので、大事になるのは尤もだ。それに、俺のことも書いてある。


 昼過ぎに、月乃を攻撃する文章が書かれたものがいくつも送られてきた。多くの人の目に触れ、話題になってしまっている。物は全て回収し、今手元にこうして揃った。


 東野が苦々しい顔で言う。


「先日、社長が中谷さんを車でケーキ屋に送っていくところを何人かに見られていたので、元々社長と中谷さんの噂が出回っていました。なので、今回の文章を信じている社員が多くいるようです」


「……しまったな」


 俺の車に乗るときに慌てた様子だった彼女の気持ちが、今になって理解できる。権力者とつながりがあるということは、好奇な目で見られかねないのだ。


 逆だと思っていた。つながりがあるということを周りに見せびらかした方が、あの人にとっていいことになると信じ込んでいた。


「すぐにここに来るように」


「はい、連絡済みです」


「誰がこんなことを」


 これほど怒りを覚えたのは初めてかもしれなかった。これまで蔑まれる経験は多くあるが、自分の事よりずっとずっと今の方が苦しい。


 ふと思い出し、東野に尋ねる。


「近藤由真の方は来てる?」


「それが……確認してみたんですが、向こうはこういうものは届いてないようです」


「じゃあ、月乃だけに、か」


 近藤の方にも届いている方が納得したのだが、そうでないとすれば月乃のみに恨みがあるか、もしくは……近藤も神園に入っていることを知らない、か?


 以前の職場での働きぶりは、ここに入る前に軽く調べている。月乃が言っていることに嘘は一つもなく、土井という男が元凶で仕事を去ることになり、周りの同僚は彼女たちに同情しており、恨みを買うようなことはないように思えた。

 

 もしこんなことをしてくる人間がいるとすれば、考えられるのはただ一人……


「失礼します」


 ノックの音がしたので返事を返すと、扉が開いて月乃が入ってきた。普段と違い、強張った表情でいる。さすがの彼女も、この仕打ちには参っているようだ。


 俺の目の前まで歩み寄った月乃は、まず深々と頭を下げた。


「お騒がせして申し訳ありません」


「頭を上げて。別に責めたくて呼んだわけじゃない、君は被害者だから。こうなった原因と、今後の対策について話したくて呼んだ」


 月乃は俺と視線を合わせなかった。普段堂々と伸びている背筋が、やや曲がり気味に感じる。


「この手紙の差出人に心当たりは?」


 単刀直入に聞くと、彼女の表情がなお曇った。それを見て、ああ思うところがあるんだな、と分かる。


「……土曜日に、土井さんと偶然会いまして」


「土井、って。土井光孝? 君と近藤由真が辞めるきっかけを作った、あの?」


 自分の声が自然と低くなった。やるならあの男だろうか、と予想はしていたが、月乃と再会したばかりというなら確定的になる。


「はい。本屋で偶然……」


「それで、うちに入ったことを言った?」


「それが、言ってないんです。言ったらよくないと思って……由真もいるし。再就職をしたとは言いました。向こうは気に入らないような顔をしていました。すみません、再就職したということも伏せるべきだったのかも」


「いや、働いているって言っただけでこんな風になるとは思わないだろう。社名を伏せてたんだし」


「でも、こう……仕事が充実して楽しいって言っちゃったんです。向こうを煽ったのかも。すみません、軽率でした」


 小さくなって反省する月乃を見て、責める気にはなれなかった。決して月乃に個人的な感情があるからではなく、彼女がどういう経緯でうちに来ることになったか知っているので、今は充実しているという一言ぐらい言いたくなるだろうと思うからだ。自分でもそれぐらいのことを言っただろう。


「聞いてみたんだけど、近藤由真の方には何も来てないらしい」


「あ、そうなんですか! よかった」


 ほっとした顔になった月乃を見て、苦笑いをする。自分が大変な時なのに、友人の心配をしている場合ではない。でも、彼女らしい。


 俺は話を戻す。


「土井はうちに入ったことは知らないはずなのか……じゃあ、今日までの短期間で調べたのか? ……それは不自然な気もするな」


 考えながら一人で呟いたところで、ふと脳裏にある男の顔が浮かんだ。


「ここに入ったことを、元職場の人間には伝えた?」


「いえ、伝えてないです」


「春木という元同僚は知ってるよね」


 尋ねると、月乃の表情が変わった。やや小さな声で言う。


「知っています。でもその、言わないでって念を押しました。そうじゃなくても、土井さんに私の情報を言うなんてことしないかと。春木先輩じゃないと思います」


「残念だけど、状況とタイミング的に考えて、春木さんから漏れた可能性は高いんじゃない? 土井が再会したあと、元々月乃と仲が良かった春木さんに話を聞くのは不自然なことじゃない。それで、うちで働いてることを知って嫌がらせをしたのでは」


「春木先輩はそんな人じゃないです、元々一緒に働いていたから分かります。気さくで優しくて、責任感もあります。確かに私がここに入ったことを知ってる元同僚は彼だけですが……」


 頑なにそう庇う月乃を見て、胸の中でもやっとしたものが生まれた。これは個人的な感情だと、自分でもすぐに気づいていた。


 別に故意に春木という男を陥れたいわけじゃない。危険人物に情報を流した人が月乃の間近にいるのなら、今後気を付けてもらいたいしできれば接触を避けてほしい。そう思って可能性を口にしただけだ。


 だが同時に、これまで月乃と長く働いてきた時間があるのも事実だ。俺よりずっとお互いを知っているだろう。だから、月乃が彼を信じたいという気持ちも分からないわけでもない。


 ただ、


 もやもやが収まらない。


「冷静に考えた方がいい。もし彼が漏らしたなら、今後の付き合いを考え直すべきだ」


「冷静です。冷静に考えて、春木先輩じゃないと思っています。多分土井さんが個人的に調べたんです」


「手間も時間もかかる」


「でもそうじゃないと説明がつきません」


「どうしてそんなに彼を庇う? せめて一度、本人に確認してみたら」


「言わないでって言ったんです、彼は分かってるよって言ってくれました! それで十分です」


「人を信じすぎだ!!」


 苛立ちが頂点に達し、つい大きな声が出た。月乃がびくっと体を強張らせる。


 しまった、と思った時にはもう遅かった。


 嫌な沈黙が流れてしまう。俺はどう返していいか分からず、ただ視線を泳がせた。怖がらせるつもりではなかった、これまでの人生、誰かに大きな声を上げたことなんてなかったのに。


 黙って話を聞いていた東野がフォローに入ろうとしたが、それより前に月乃が震える声で言う。


「そりゃ、信じますよ……ずっと一緒に働いてきた、仲のいい人ですもん。戦友であり、友人でもあるんです。信じるのが普通です。人を信じられない方がおかしいんです」


 ずきんと、胸が痛んだ。お前は普通じゃない、そう言われた気がした。


 それは自覚があったことだし、実際自分はあまり人を信じてこなかった。恋をしたのですら、今が初めてだ。異常なことだし、かなりおかしいんだと分かっている。


 でも、月乃に面と向かって言われるのはあまりに辛かった。


 ーー自分の空っぽの部分を、見られてしまった気がして。


 月乃は言葉が出てこない俺をまっすぐ見た。


「社長にはご迷惑をおかけしております。あなたにまで変な噂が立ってしまっています。本当に申し訳ありません。噂がこれ以上大きくなってしまってはいけないので、週末に出かけるのは辞めましょう」


「……待って」


「処分は受け入れます。私の軽率な行動が原因でこうなったので。また処分が決まったら教えてください」


 そう言う月乃の顔は、明らかに怒りで満ちていた。土井だけではなく、俺に向けての怒りだった。


 昔からの友人を侮辱された。彼女から見ればそう映ったのだろう。周りの人間に愛情深い月乃の反応がこうなることは、容易に想像が出来たはずなのに。


 絶望の色が自分の心を染めていく。


「月乃」


「失礼します」


 慌てて呼び止めるが、月乃は俺に背を向けて出て行ってしまった。ぱたんと扉が閉まり、俺は力なく椅子に座り込み、手で顔を覆った


 ……しまった。こんな話をするつもりじゃなかったのに。


 月乃に処分なんか下すわけがないのに。ただ、力になりかっただけなのに。


 自分の不器用さに辟易する。


「社長。どうされますか」


 東野が小さな声で尋ねてくる。指の隙間から、例の紙が見えた。それを見て、自分の心が真っ黒になった気がした。


 そもそもこれが全て悪い。月乃を苦しめた、これが元凶だ。


 東野が静かに言う。


「中谷さんとは少し揉めてしまいましたが……せっかくのお出かけもなしに。社長はどうされますか」


「揉めたことも予定がなくなったのも関係ない」


 デスクの上に置いてあった紙を一枚手に取り、それをじっと眺めた。


 俺が目指すところは何も変わってはいない。月乃に嫌われようが拒絶されようが、やるべきことは一つ。


「潰す」


 あの人を攻撃する人間を、絶対に許さない。


 東野が小さく息を吐き、困ったように苦笑いした。


「どうか、力加減を考えて。暴走してはいけませんよ。あくまで正攻法で、です」


 その言葉に、仕方なく小さく返事をした。

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