第16話 初恋?



「やはり中谷さんとお出かけされるんですか」


 翌日、出社するなり東野がにこにこ顔で尋ねてきた。普段なら時間がないとばかりに当日のスケジュールを確認するのに、雑談とは珍しい。


 なんとなく気まずくなって視線を逸らす。そんな俺をよそに、彼は続ける。


「甘いものがお好きなんて女性らしいですね。昨日のケーキはどうでしたか? いつお出かけされるんですか?」


「……まだ日程を合わせてるところ」


 ちょっと日程を見てみます、と言われたまま向こうから返事がない。夜中まで返信を待ったが昨日は返ってこなかった。それもそうだ、緊急時でもないのに上司に夜中に返信する馬鹿はいない。


 今は仕事が始まってしまったし、終わってから返ってくるだろうか。


「そうですか。順調なようでよかったです。仕事に集中は出来ますか? やるべきことはちゃんとやらないとですよ」


「馬鹿にするな」


「馬鹿にしてなどいません。人間はそうなりやすい生き物なんです」


 確かに、ふと空いた時間そわそわする瞬間はある。でも浮ついてばかりもいられない。自分にはたくさんの部下の生活が懸かっているのだし、しかもそのうちの一人は彼女だ。また会社を傾けるわけにはいかない。あの人のためにも、腑抜けではいられない。


 気合を入れて自分を戒めると、東野が小さく笑った。そして嬉しそうに言う。


「甘い物以外にも好きなものが分かるといいですね。今後の会話や行動の幅が広がります」


「……今までは相手との会話なんてほとんど聞いてなかったから」


「ははは。本気で恋をしている証拠です」


 そんな言葉が聞こえてきて、勢いよく東野の方を見た。驚きの顔で向こうを見つめると、東野も同じような顔をしていた。


「……恋?」


 ぽつりとつぶやくと、相手は何を言っているんだとばかりに頷いた。


「中谷さんです。お好きなのでしょう? 結婚相手を探していましたし、とてもいいタイミングかと」


「……恋?」


「まさかこんな状態なのに気付いていなかったんですか? 相手を喜ばせようとブランド物を買いあさったり、好きな物を調べてまた会う口実にしたり。間違いなく中谷さんが好きだからでしょう」


 愕然とした。


 いや、普通に考えればそうだ。相手のことが頭から離れず、他の男に嫉妬し、今すぐにでも会いたいと思うなんて、そこらにあふれている恋愛ソングに出てくる歌詞そのままの状態だ。


 でも、自分にはその概念がなかった。


 自分が恋をする日が来るなんて思わなかった。


 なぜか彼女に執着している自覚はあったけれど、原因まで考えていなかった。


 手で顔を覆うと、東野は優しい声を掛けた。


「とてもいい人を選ばれたと思いますよ。友人を大切に出来るし、高級品に飛びつくような節度のない女性ではないようですし、まっすぐなお方です」


「俺が、恋……?」


「……社長がようやく普通の人になれたみたいで、私は嬉しいです」


 それは嫌味でもなく、心から喜んでいる声だった。


 だが自分は予想外のことにただただ戸惑っている。誰かに選ばれたことはないし選んだこともなかった。きっと他人を愛せない人間なんだと思っていた。こんないい年して、初めて恋を覚えるとは。


 情けなくて、恥ずかしくなった。


「さすがに自覚されているかと思っていました。これだけ気にかけていらっしゃるので……普通はブランド品を贈ったりケーキを食べに行く前に、現在交際相手がいないか確認するところから始めるのですが」


「交際相手?」


 自分でも驚くほど低い声が出た。そんな簡単なことを今まで全く考えていなかった自分に対する苛立ちでもあった。いや、もしかしたら考えたくなかったのかもしれない。


 東野が家に送った、という事実でさえ気に入らなかったのに、向こうに交際相手がいた日には、自分はどうなってしまうのだ。


 東野が苦笑いする。


「そんな怖い顔をなさらないでください。今度出かける約束をしたのでしょう? いくら上司からの誘いとはいえ、もし今交際相手がいたなら異性と二人で出かける誘いに乗るわけがないです。特にあの人はそういう面がしっかりしてる方だと思うので、今はフリーと確定的かと」


「……それもそうだね」


「でも、安心するのは早いですよ。あれだけ魅力的な女性なので、どこで誰が狙ってるか分からないので」


 彼の言葉が胸に突き刺さった。不安の波が押し寄せて、潰されそうになる。


 もし月乃が他の男を選んだらーー自分はどうなってしまうんだろう。


 落ち着くために一旦深呼吸をする。外を睨むように眺めた。


 焦りすぎず、でも着実に距離を縮めるんだ。


 こっちを向いてもらえるように。選んでもらえるように。


 そう心で呟くも、漠然とした不安が消えない。


 ……こんなに中身のないつまらない自分が、どうやって彼女に愛されればいいんだろう。





 仕事が終わり帰宅したところで、スマホが鳴り響いたので飛び上がった。今日一日、これが鳴るたびに心を弾ませては、仕事関係のものばかりの連絡で、イライラしていた。


 そしてようやく、望んでいた一通が届く。


『再来週の土曜日は空いていますか?』


 空いていなくても必ず空ける。心で強く誓う。


 それと同時に、思っていたよりずっと遠い日程なことに項垂れた。本当なら今すぐにでも会いたい、明日でも遅いくらいなのに。


 社内で顔を合わせることはまずないので、再来週まで全く会えないということか。


「遠すぎる……」


 呟いて天井を仰いだ。


 何かほかに会う口実はないだろうか? 一時間でいい。いや、数十分でも。会社内で接触するのは恐らく向こうが嫌がるだろうし、仕事が終わってから会えないだろうか。


 ……いや、あまりにしつこいと多分、引かれる。


 慎重に距離をつめなくてはだめだと、今日心に決めたばかりなのに。


 我慢だ、我慢。我慢しないと。


……出来るだろうか……。


 世の中の男女は、どうやって恋を育むのだろう。どうやって相手の女性に振り向いてもらっているんだろう。連絡は? 会う頻度は? 何もかもが分からなすぎる。

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