碧人の恋

第15話 部屋




 三階角部屋の部屋の明かりが点いたところで、自分の胸がぐっと締め付けられた。


 あの部屋だ、あの部屋に住んでる。近くには薬局とコンビニ、それから弁当屋。一人暮らしが好む立地にある、よくあるタイプのアパート。


 家まで送らなくてもいい、と必死に断る彼女をどうしても離さなかったのは自分だ。何が何でも送ろうと思っていた。


 暗くなるのが早くなってきた冬の夜に何かあったら……という心配があるのも嘘じゃない。だが同時に、昨日は東野が月乃を送っていったという事実が、どうしてもイライラのポイントになっていたからだ。


 東野はあの人を車に乗せ、自宅まで送っていった。つまり彼女の家も知ってる。


 それが狂おしいほど嫌だった。だから、自分も今日は絶対に送るんだと心に決めていた。


 そしてようやく、彼女を送ってアパートまで知れ、部屋の位置まで知ったわけだが、高揚すると同時に自分への嫌悪感に押しつぶされそうになった。


 何をやってるんだ自分は。相手の住む場所を知りたがるなんて、普通に考えて異常だ。でもこんな風に思うのは初めてのことで、自分でも戸惑ってるし止められない。


 車のハンドルに突っ伏してため息をついた。


 目の前で笑いながらケーキを食べる仕草、紅茶を冷ますために息を吹きかける様子、美味しいと唸る声。全部が蘇り、喜ぶと同時に終わってしまったことが酷く苦しい。


 もう、一緒にいる時間が終わってしまった。


 座っていた助手席を眺めて呟く。


「仕事でも、常に手が届くところにいてくれたら……」


 例えば東野の補佐になってもらう。そう考えてはいたが、彼女は今の仕事にようやく慣れてきて楽しんでいる様子だった。それにどうやら、特別扱いを嫌うタイプだ。今日だって俺と出かけることを周りに知られたくなさそうにしていたし、スカウトしてきた直後、東野の補佐になれば、周りから変な反感を買う恐れもある。


 駄目だ。仕事はこのままでいるしかない。


 もう一回盛大なため息をついたのち、我慢しきれずスマホでメッセージを送った。今別れたばかりなのに、もう顔が見たい。麻薬のような人だと思った。


 送った後、ようやく車を動かした。本当は離れたくなくて仕方がない。




 家に帰っても返事はなかった。


 苛立ちながらとりあえずシャワーを浴び、上がった瞬間スマホを確認するも何もない。髪も乾かさないまま絶望を感じてソファに腰を沈めた。


 間違えてしまったかも。向こうからすれば会社の経営者だ。誘われても断りにくいと思い困らせているのか? やはりすぐに連絡は急すぎたのか。せめていい店を調べて見つけてから誘ってみればよかったのかもしれない。


 どうしてもう少し我慢できなかったんだ自分は。後悔しても遅い。


 両手で顔を覆った時、スマホが高い音を上げたので飛び上がった。慌てて手に取り見てみると、思ったのとは違う文章があった。



『この前の話だけど、いいお相手が何人かいそうなの

 時間があるときにまた家にきてね』


 母か。


 がくりと項垂れた。普段だったら、母からの連絡をこんな風に落胆することはないのに、今日は普段の自分とは違った。例の結婚相手の話か。


 くだらない。結婚相手なんて、今はどうでもいいのに。


 返事はしなかった。母からの連絡は無視して、ネットで彼女が言っていたお菓子を見つけ、大量に注文する。あの人が美味しいと言っていたんだ、自分の口に合わないわけがない。同時に口コミがよさそうな高級菓子を適当にカートに入れていく。今度会った時にあげてもいいし、自分で食べてみて話題の幅を広げてもいい。


 その作業に集中していると、メッセージが届いたので飛び上がった。慌てて開いてみる。


『今日はありがとうございました

 はい、また今度行きましょう』


 たった二行の文章。それが嬉しくてたまらなかった。


 行こうと言ってくれた。いや、社交辞令かも? 立場上断れないと思ったのかも。すぐに返事を……するのはさすがに早いか? 何分おけばいいんだ、でももう既読にしてしまった。空いてる予定を聞いてもいいんだろうか。


 そわそわと落ち着かず困り果てる。いや待て、せめてどこに行くか決めてからじゃないと。いくつか候補を上げて、相手に選んでもらおう。行きたいと思えるような場所があれば、向こうも喜ぶかもしれない。


 近くの店を調べつつ、直接人に聞いてみようと思い東野にメッセージを送った。仕事ならともかく、プライベートなことで東野に連絡したのは初めてのことだった。


『女性が喜ぶデザートが食べられる店を知らない?』


 用件のみ。送信。


 また自分でも調べ始めると、数分で連絡がきた。普段からレスポンスが早く優秀な男だ。


『いくつかお送りします。

 中谷さんですか?』


 最後の質問は見なかったことにする。貰った店をいくつか見てみて、自分には無縁の場所だったなあとぼんやり思った。パンケーキ、パフェ、デザートビュッフェ。いや、かなり前適当に付き合った女が行きたいとか言っていたが、仕事が忙しいのを理由に断った。真剣な付き合いなんかじゃなく、向こうも他に男がいるようだったし、自然消滅した相手だ。付き合っていたかどうかも怪しい。


 行こうと言われめんどくさいと思った。なのになぜ今は、俺が行きたくてしょうがないんだろう。


 自分でも見つけた店をいくつか選び抜き、月乃に送る。


『行きたいと思っていた店がたくさんあります どこがいいですか』


 今度はすぐに返事がきて心臓が鳴った。


『本当に甘いものが食べたかったんですね! 確かに男性一人でパンケーキやビュッフェは行きにくいですもんね。一度思い切りお腹いっぱい食べませんか? ビュッフェにしましょう』


 前向きな答えが返ってきたので、天を仰いで深いため息を漏らした。同時に胸がバクバクと痛いほどに鳴って高揚している。


 苦しい。


 嬉しいと同時に、苦しい。


 いつにしよう、いつなら会えるんだろう。


 


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