第13話 名前




 正面玄関に、黒い車が一台止まっていた。


 こっちは冷や汗だらだらだ。帰宅時刻なので、多くの人たちが通る。目立つ高級車をちらちらと見ているのが分かった。


 とりあえず早く乗り込んでしまおうと近づいたところ、運転席から神園さんが降りてきたのでぎょっとしてしまう。いやいや、降りるな! 顔を見せるなあ!! 人に見られる!!


 慌てて駆け寄り、助手席のドアを開けようとした彼に小声で言う。


「そういうのほんといいんで! 乗ってください、自分でやりますから!」


 海外じゃあるまいし、車のドアを開けるなんて行動をする男が日本にいるだなんて。しかもこれだけの社員の前で、神園社長が! 入ったばかりの平社員に!


 神園さんは意外そうにしたが、大人しく従ってくれた。運転席に乗り込んだのを見て、私もささっと後部座席に乗り込む。彼は助手席のドアを開けようとしてくれていたが、そこに座る勇気はなかったのだ。


「お願いします!」


 なるべくうつむいたままそう声を出すと、神園さんはゆっくり車を発進させた。ちらりとだけ窓の外を見ると、何人かが驚いた表情でこちらを見ていたので、ああ勘違いさせてしまったかもしれない、とげんなりする。


「そんなに俯いてどうしたの?」


 ハンドルを握った神園さんが言う。私ははあとため息をついて答えた。


「丁度帰宅する人たちがたくさんいて……私が社長の車に乗り込むところを見られちゃったので」


「見られて何がいけないの?」


「ただの社員の私と社長ですよ!? おかしいに決まってるじゃないですか。事情を話せば分かってくれる人はいるだろうけど、変な噂を流す人もいますよ。入ったばかりなのに……」


「そこは、むしろ俺と親しいんだってアピールしたくなるところなんじゃなくて?」


「そんな変なアピールしませんよ。ここに入ったのも土井さんみたいなコネだって思われたらいやですもん」


 せっかく順調に仕事に慣れてきたところなのに、変な気の使い方をされたらかなわない。でも社長はどこか嬉しそうに言う。


「大丈夫。君の仕事ぶりは話に聞いてるよ、周りの評価もいいみたい。だからその心配はない」


 さらりと褒められたので、嬉しくなってしまった。そっか、そこそこ頑張りを認められているのなら、こんなに嬉しいことはない。私は小声で言う。


「ありがとうございます……」


「だから別に見せつけるぐらいでいいんだ。いい才能をスカウトしてきた、俺の見る目があるんだって噂になるからね」


「あはは」


 そういう噂になればいいけど、すぐに恋とかに繋げる人もいるからなあ。普通に考えて、アラサーの普通女と社長が付き合うわけないって分かりそうなものだけど。変な噂が広がってないといいな。


 顔を上げてシートにもたれこむ。改めて見ると綺麗な車内だな、と思った。いい車だし、神園さんって感じ。


「近くのホテルのカフェはケーキが美味しいと有名なので、そこに向かってる」


「へえ。楽しみです」


 そうはいったものの、思えば神園さんと二人っきりって! ……きまずい。自分の会社の社長とお茶してリラックスできる人間がいるのならお目にかかりたいものだ。早く食べて帰りたいとすら思ってる。本当に、なんでこんなことになったやら。


 そう考えていると、少しして車がたどり着いた。私は高級車のドアをぶつけないように慎重に車から降り、神園さんについてホテル内へと進んでいく。


 高級ホテルだった。一歩足を踏み入れれば分かる広さと美しさ、上品さ。こんなところに泊まるだなんて私は一生ないだろうと思う。


「来る前に電話して予約は取ったから、すぐに入れるよ」


「え、予約までしてくださったんですか!? この短時間に」


 さすが、出来る男は違うなあ。唸らずにはいられない。


 私たちはロビーを抜けてカフェへとたどり着く。開放感のあるカフェには、ショーケースにキラキラしたケーキたちがたくさん並べられていた。店員が丁寧な接客で席に案内してくれる。やや緊張しながらついていき、ソファ席に座ると、メニューを開いて見せてくれる。


 わお、ドリンク一杯でこの値段って。私が普段食べる夕飯の定食屋より高いじゃないかい。


「好きな物をいくらでもどうぞ」


「ど、どうも……」


 高級ホテル、目の前には社長、ということに萎縮してしまう。でも遠慮してもしょうがないと思い、ここは素直に食べたいものを選んだ。


「じゃあ、ショートケーキと紅茶で」


「一つでいいの?」


「じゅ、十分です!」


 神園さんはスマートに注文してくれる。聞いていると、彼はコーヒーとチョコレートケーキを頼んだようだ。甘いものが好きなのは本当らしい。


 注文が終えてしまえば、品物がくるまでの沈黙が辛い。そわそわしてる私と違い、慣れた様子でいる神園さんが言う。


「改めて昨日は付き合わせてごめん」


「とんでもないです。今日はお腹も大丈夫なんですね?」


「うん。朝起きて、東野が買ってきてくれた食事を食べて、中谷さんが洗ってくれた風呂にゆっくり浸かってきた。体が軽くなった気がする」


「よかった! 結局人間って、食べる、寝る、体を温めるが大事なんですよ。東野さんから聞きました、大きなトラブルの対応に追われていたって。やっぱり社長ってなると大変ですね。お疲れ様です」


 心の底から言った。色々偉そうなことも言っちゃったけど、私には分からない苦悩がたくさんあるに違いない。


「いや……それが俺の仕事だし、別に大したことはしてない。体調管理も重要だ、君に言われた通りもう少しそっちもしっかりしなくちゃ」


 ふふっと笑ってしまう。意外と素直に人の助言を受け取るんだな、と感心したのだ。話してみると、案外可愛い所がある。


「帰り遅くなったと思うけど」


「あ、東野さんが家まで送ってくれたので大丈夫でしたよ」


 私がそう答えると、一瞬彼の笑みが消えて真顔になった、気がした。初めて会った時の冷たい印象が蘇った気がして、自分の体が強張る。


 が、すぐに彼は口角を上げた。


「そう。ならよかった」


 声色が優しかったので、ほっとする。何か怒らせたのかもしれないと思ったが、気のせいだったみたいだ。ふっと肩の力が抜ける。


 やはり神園を立て直すほどの人はオーラが違うというか、今まで出会ってきた人とは比べ物にならない何かを持っている。


「甘い物は、どんなものが好き?」


 尋ねられたので、私は素直に答えた。


「洋菓子が特に好きです。ケーキもだし、クッキーとかチョコレートとか……よく帰りにコンビニに寄って帰ります」


「コンビニ、か」


「あまり使わないですか?」


「いや、結構な頻度で使うよ。でもコンビニ弁当ばかり買ってるかも」


「社長もコンビニ弁当とか食べるんですか!?」


「食べるよ。どんなイメージ」


「家に専属シェフがいるとか」


「ないよ」


 彼が目を細めて笑ったので、私もつられて笑う。案外普通の会話が出来ていることにほっとする。


 その時丁度注文した品物が運ばれてきて、私はわくわく顔でケーキを食べた。さすが高級ホテルのカフェは違う。とっても美味しいケーキだった。紅茶も香りや味が普段口にしているものとは全くの別物だ。うっとりと美味しさに酔いしれる。


「凄く美味しいです!」


「……それはよかった」


 神園さんはほっとしたように表情を柔らかくしたので、ついどきりとした。つかめないなあこの人。冷たい感じがしたり可愛らしくなったり、不思議な人だ。


 私はケーキを食べながら、その味に舌鼓を打つ。


「というか社長って」


「……あのさ、社長呼びは辞めてもらいたいかな」


 コーヒーを飲みながら彼が言ったので、確かにそうかと反省した。周りに人もいるし、社長って呼ばれると目立っちゃうか。それに、せっかく仕事も終わったのに、プライベートモードに切り替えにくいだろう。


「すみません、神園さん」


「よかった。初めはそう呼んでくれてたから。やっぱり社長呼びはちょっとね……月乃って呼んでもいい?」


「ぶっ!!」


 啜っていた紅茶を少し吹き出してしまった。慌てて口の周りを拭く。こんなおしゃれな高級店で何をやっているんだ自分は。でもだって、突然何を言い出したんだろうこの人は。


 私たちは名前呼びなんてする関係ではない。


「あ、あの、それは」


「あとついでにライン教えて」


「あの?? ついで??」


「なに?」


 混乱で頭がぐるぐるしている私に対して、神園さんは普段と変わらないテンションでいた。どうしたの、と言わんばかりの表情だ。それはまるで、仕事について部下に尋ねている上司のよう。冷静で浮ついた様子もなくて、こっちが拍子抜けしてしまう。

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