碧人の戸惑い

第6話 不思議な人



 去っていく彼女の背中を、じっと盗み見していた。




 伸びた背筋、肩までのストレートの黒髪。凛とした態度、通る声。友人のために自分の会社の社長に怒鳴っていた、あの時の様子が蘇った。大変気が強く、背筋をまっすぐ伸ばしたまま戦う姿。自分は何も間違っていない、という自信の表れ。


 ふう、と息を吐く。


 手に持っていた書類をやや乱暴に机の上に放り、窓の外を見た。


 結局、あの女も雇ってしまった。単に嫌味で声を掛けただけだったのに、こんなことになるなんて完全に予想外。 


「プライドを捨てて話に食いつくか、もしくはプライドを捨てられず馬鹿にするなと切れるか、どちらかと思っていたんだけど」


 人気のない公園でこんなに寒い中、一人座っていたのを見つけたのは本当に偶然だった。


 取引先の会社で起こった事件。全く関係のない自分だったが、非常に面白かった。こんなに後先考えない、無計画な女がいるのだという意味で。


 友人の汚名を晴らしたい、とは言っても、自分の会社の社長に怒鳴り込みに行く馬鹿がどこにいる。しかも、取引先の社長の足を止めてまでもだ。何かしら処分が下るのは少し考えれば分かることなのに、なんて頭が悪いんだろう。自分はそう思った。


 だから本人にもそう言った。だが、相手はひるまず言い返してきた。


『友人を侮辱して苦しめる会社にある自分の立場なんて、これっぽっちも考えてなかったですね』


 ドラマの主人公か、というようなセリフだった。


 怖気づかないその姿勢はある意味大物だと感心したが、こういうタイプは案外、あとになって後悔する者が多い。今はアドレナリンが出て興奮しているからだろう。そう思っていた。


 それからしばらく経ったら、平日の昼間から公園で一人、求人広告を持って座っている姿を発見した。


 あーあ、クビになったか。だから言ったのに。


 なんとなく気になり、そばに行ってみた。自分は期待していたのだ、『軽率なことをしてしまった』と涙ながらに後悔する姿を。


 でも本人は思っていたより元気でぴんぴんしていた。ならばと思い、あえて相手の神経を逆なでする言い方で自分の会社に誘ってみた。


 さて、プライドを捨てて俺に頭を下げるか。それとも突っぱねるか。


 普通の人間なら前者だ。金がなくては生活が出来ない。神園に入れるというなら少しくらいのプライドを捨てるのが当然だ。だがまあ、あれだけドラマの主人公のようなセリフを吐いた彼女がそれをするのは、滑稽ではある。


 後者ならどうだ。あの気の強さなら、こっちの可能性が高いかもしれない。自分のプライドは守れるかもしれないが、みすみす安定した生活を手放すなんて、それはそれで滑稽だと思う。


 さあ、どちらか。


 まさかの、どちらでもなかった。


 プライドを捨てて俺に頭を下げたかと思えば、手に入れようとしたのは自分の就職先ではなかった。またしても友人だという存在のためだった。


 完全に予想外だったので、悔しいが戸惑ってしまった。言った言葉を撤回するのは恰好が付かない。俺はそのまま友人の方を雇うことを約束してしまった。


 それから帰宅し、とりあえず彼女が元いた会社で起きたことを簡単に調べてみれば、ひとつも嘘はないようで、近藤という女性はコネ入職した男に好かれ迷惑を被っていた。近藤も中谷もそれなりに優秀な人物で、うちの会社に迎えても損は何もなかった。


 だが俺はきっぱりと二人は雇えない、と言ってしまった。


 ……でも、あの変わった女が今後どうなるのかやけに気になった。


 あのまっすぐな目を見ると、体の奥が何だかざわめいた気がした。粟立つような、それでいてどこか心地いいようなよく分からない感覚だった。


 迷った挙句、中谷月乃も入社させることにする。もしかしたら断られるかもしれない、とも思ったが、彼女は案外あっさりうちに入ることが決まった。




 部屋の隅から小さな笑い声が聞こえる。俺はまた書類を手に持って不機嫌な声を出した。


「楽しそうだね、東野」


「すみません。社長が誰かをスカウトしてくるなんて初めてのことですから」


「成り行きでそうなっただけ」


「それと、ただの一社員をこの部屋に入れるのも」


 どこか含みのある言い方に、つい東野の方を見てしまった。彼は嬉しそうに、でも面白がるようにこちらを見ている。


 大きくため息をついて答えた。


「別に、俺が入社を許可した人間なんだから、初日に挨拶ぐらいしないと」


「まあ、おっしゃる通りです。でも、見る目があると思いますよ。ご友人のために前の会社を辞めざるを得なくなったなんて愛情深い人、あまり見ませんからね」


「計画性がなく馬鹿ともいえるけど」


「それぐらい馬鹿な方が人の心を動かしやすかったりします」


 何が言いたいんだ、と軽く睨みつけると、東野は失礼しましたとばかりに微笑んで黙った。するとその時、彼のスマホが鳴り、俺に背を向けて誰かと会話を始める。簡単なやり取りを数回行い電話を切ると、やや困ったように言った。


「大奥様からです。社長のお顔を最近見れていないので、会いたいと」


「母か……」


 カレンダーを眺めると、確かにここしばらく会えていなかった。一応俺の連絡先も知っているはずなのに直接連絡してこないのは、彼女なりに俺の忙しさを心配してのことだろう。


「分かった、近々早く上がれる日に家に帰ると伝えておいてほしい」


「……ですが、大丈夫ですか? ここ最近、社長は多忙で睡眠時間も中々取れていない状況です。早く上がった日はゆっくり寝られた方が」


「このトラブルが片付けば落ち着く。母は放っておくと拗ねるから」


「……分かりました」


 東野が去ろうとした時、その背中に向かって声を掛けた。


「そうだ、それと……中谷月乃の働く様子がどんなものか簡単に情報を入れておいてほしい」


 そう言うと、東野がこちらを振り返り、目を細めて頷いた。


「分かりました」


 彼はそのまま部屋から出て行く。きっと今からスケジュール調整をし、母に連絡するのだろう。確かにここ最近、多忙であまり眠れていないが、まあ何とかなる。


 せっかくの家族の誘いを、断るわけにはいかない。


 時間は有限なので少しでも早く仕事をこなそう。そう決意して再び書類に視線を落とした。

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