第7話 結婚




 それから五日後のことだ。


 ようやくトラブル対応が落ち着き、寝不足の体を無理やり動かして実家へ帰った。自分で運転すると言ったのに、居眠りが怖いからと東野が許可しなかった。自分とそう年も変わらないのに、しっかりした男だなと思う。


 東野の運転に揺られ、久々に実家にたどり着いた。あまり懐かしさを感じない大きな屋敷に足を踏み入れ、持っていた鍵で玄関を開けると、中からパタパタと軽やかな足音が聞こえてきた。


「碧人、お帰りなさい!」


 笑顔でそう迎えたのは母だ。息子の自分が言うのもなんだか年の割には若々しく、少女のようなところがある人だ。上品なワンピースを身にまとい、その上からエプロンを付けていた。


「ただいま帰りました」


「元気そうで安心したわ!」


「まあ、それなりに」


「久しぶりね。さあ上がって! 夕飯にしましょう。今日は私が作ったわ」


「そうなんだ」


「ビーフシチュー。しっかり煮込んだの!」


 笑顔で言われ、スリッパを履き替えようとして一瞬止まる。


 だがそのまま俺は振り返り、優しく口角を上げた。


「ありがとう」


「手を洗ってらっしゃい。今準備するから」


 母はそのまま奥へと消えていった。リビングに入り、広々としたその部屋を見回す。大きなソファ、指紋一つないガラスのテーブル、テレビの下にはエタノール暖炉。


 カバンを適当にソファに投げて座ろうとして、近くの棚に並べられた家族写真が目に入った。近づいて手に取ってみる。


 少し前、母と二人で撮った写真が飾られており微笑ましく思った。その日は休みで、昼に外へランチをしに出掛け、そのとき店員が撮ってくれた写真だった。その隣は、両親に囲まれているランドセルを背負った子供。中学、高校の入学式と続く。


「碧人ー。できたわよ」


「今行く」


 持っていた写真を一旦置き、ダイニングの方へ向かう。ビーフシチューにサラダ、パンが並べてある。


 椅子に座り手を合わせて挨拶をすると、母はにこにこ顔で尋ねてくる。


「忙しかったのね?」


「あまり連絡できなくてごめん。ちょっとしたトラブルがあってバタバタしてて」


「忙しいのはいいことよ! 経営の方は順調?」


「今度、新しい事業に手を出してみようかと」


「まあ素敵!」


 仕事の話を説明すると、嬉しそうに俺の話を聞いてくれていた。ゆっくりビーフシチューを食べながら、母は何度も頷いた。


「よかったわ。お父さんが倒れちゃって、碧人には本当に迷惑かけたから」


「父さんは調子どう?」


 父は脳梗塞を起こし、経営から遠のいた。一命はとりとめたが、少し麻痺が残ってしまっている。とはいえ、リハビリを重ね、少しなら歩ける程度だ。まだ入院しており、自分は頬とんど顔を出せていないが、母が献身的に支えている。


「リハビリが辛いみたいだけど、少しずつよくなってるわ」


「それはよかった」


「ねえ碧人、あなた結婚の予定は?」


 突然そんな話題を放り込んできたので驚いた。水でビーフシチューを喉に流して答える。


「突然、なに」


「だってもう三十五歳だから、そろそろと思って……今お付き合いしている方は?」


「忙しくてそんな暇はないかな」


「じゃあ母さんがお友達に聞いてあげる! だって、神園の後継ぎのことも考えなきゃならないから、そろそろ結婚相手を見つけなきゃ。若い人がいいわ、二十五ぐらいとか」


「十歳も下なんて」


「あら、しっかりさえしていればもっと若くてもいいわよ。今からお付き合いをして結婚式を挙げて、それから子供を産むってなると、若ければ若いだけいい。少なくとも二十代半ばがいいわね、子供もなるべく多く生んでもらいたいし。大人しくてちゃんとお料理が出来て、碧人の言うことをしっかり聞いてくれる人ね」


 ペラペラと母の口は止まらない。俺は苦笑いをして、彼女を止めた。


「自分の相手は自分で決める」


 すると、彼女は不服そうに口を尖らせた。


「そう? でも何人か紹介ぐらいはさせてちょうだい。あなたの妻となる人は、神園の一員になる人ですから。後継ぎも生んでもらわなきゃならないし、私たちも無関係というわけではないのよ。変な女に引っ掛かりでもしたら」


「俺ももういい大人なんだから」


「そうだけど……とにかく、いい人を誰か紹介してもらうわね。気に入らなければ断っていいから」


 意地でも見合いをさせる気だ、と分かり、仕方なく頷いた。それを見て母は満足げに笑い、やっとその話が落ちついた。


 しばらく談笑し、夕飯を食べ終えて帰宅することになった。母は俺を玄関まで送り、『仕事頑張ってね』と手を振った。


 頷いて外に出て見ると、ぐっと気温が低くなっており息が白くなった。タクシーでも呼ぼうか、とスマホを取り出したが、歩きたい気分だったのでやめた。電車もたまにはいい。


 寒い中足を踏み出し、ぼんやりしながら夜道を歩く。母がしきりに結婚、と言っていたのが耳に残っている。後継ぎか、確かに重要ではあると思うけれど……。


 ふと足を止め、空を見上げると星空が輝いていた。あまりに美しい夜空にほっと息をついたと同時に、無理矢理ビーフシチューを押し込んだ腹が今更辛くなってきた。


 結婚、とは言っても、多分愛のない生活になる。多分上手くいかないだろう。どれだけ美人で従順な女性を紹介されたとしても、破綻が目に見えている。その上、子供か。自分が子供を持つ姿はどうも想像がつかなかった。


 俺は人を愛したことも、愛されたこともない。

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