第9話
奇声というのは誰の喉を震わせたかも知れぬほどの怪音でこそ奇声と呼ぶのだろうが、それでも
この早合点より早の字を除くを許したのは直後に凡夫の視界へ映り込んだ妖の遠影で、またこの姿が実に画になる、華になる。登流門の境目より中空へ、銀閃を描き舞い上がった妖は水飛沫をのみ帷子と纏わせて、真珠を想わす曇りなき裸体を恥じらいもなく躍らせまた滝下へと還りゆく。その挙措には
***
「――それで。おんしはいつまで太公望を気取るつもりかや?」
妖はいつの間にやら朝見た折の草衣姿、滝遊びには飽きたらしく今は凡夫の背後に立って、見物ついでに冷や水浴びせる戯れに鞍替えしたようである。凡夫はじっと釣糸の先見つめたままむっつりだんまり相手せずの構えとみゆるも、その実、耳の網にはしっかりと掛かってあって、軽口はそれだけか雑言はまだか、砂粒ほどの悪意も逃すまいと張り詰めてあったけれど、いくら待てども妖が二の句を継ぐ気配はない。ザワザワショロロ、せせらぎの音が徒に居心地の悪さを煽る中、凡夫の脳裡にもしや、言葉通りにいつまで続けるかと問うたのではとの懸念がよぎる。なら済まなんだと背後を振り見れば、映りしはうっすら細まる五つの眼、各々が眉月よろしく可笑しげに弧を描き、口の蕾もここぞとばかりに意地悪くひん曲がる。あなや泳がされたあげく釣針に掛けられし
「それなら何か、お前さまが文王さまでございってかぃ。大きく出たわりにゃ、目も利かねぇとみえる」
と返しもここまで後出しとあっては即妙の切味には程遠い。鈍らどころか「目も利かねぇ」の言が自虐とさえ聞こえ、これでは刃と柄を取り違えるかの滑稽さ。
「失敬な奴よのぅ、これでも吾の人を見る眼は確かぞ。まっこと、おんしは側に置いて退屈せぬ御仁よの」
「そのわりにゃさっきまで俺っちのことはそっちのけで、愉快なおトモダチと水遊びに興じておいでだったようだが」
「そう拗ねるでない」
「拗ねちゃいねぇ」
「ほほ、ならそういうことにしておきましょう――」
さらりと受け流して妖は凡夫の右隣に屈みこむやいなや、水被った猫の如く体を震わせる。千々に乱れた雫が忘我の釣人にかかる。斯かる釣人が心も千々に乱れる。いや、
「――あの者らとは、別に友というほどの間柄ではないわ。そも吾ら妖界に棲まう者にとっては、友という考えそのものが馴染まぬでな。
妖は凡夫と竿の間に首を滑り込ませて、髭面を上目に見つつぬらりと舌なめずりの、露骨な脅しに凡夫の肝は縮みあがったか、
「うへぇ、おっかねぇや。それじゃ俺っちは、いつ首っ玉に齧り付くかわからねぇ奴の傍で高鼾をかいてたってことにならぁな」
と肩を竦めてみせたけれども、しっしと避ける手つきは蠅や蚊を追い払う時のソレで、釣りと同様、真剣味なんぞ宿りはしない。
「おぉ、そうですともそうですとも。おんし、今宵からは寝首をかかれぬよう、存分に気をつけなさいませ――」
と返した妖もころころ笑い転がして、かと思えばスッと戯れの色が消えて、
「――と、今のは物の喩え。人の世の常識でつきおうたら火傷しますよとお伝えしたまでのこと」
と告げてそのまま黙してしまえば威風も保たれように、まぁおんしは如何にも筋張ってまずそうじゃ、頼まれても食いやしませんと蛇足をつけてヘラヘラリ。相好を崩しつ大の字に寝そべられては、本気と取るのも莫迦ばかしい、冗談と流すのも憚られよう。両者の合間をそよ風が摺り抜ける、意思を持たぬ釣糸がぶぅらぶらと揺れている。
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