第8話
常世の物理法則を超越せる昇り滝――ここでは登竜門ならぬ登流門と呼ぶことにするが――然る神秘を前にしながら
第一に、そもそも竿が無いではないか――悪いことにその至極真っ当な指摘はいま、遁世の気配を漂わせた文士もどきによって拒絶され。木波羅蜜を置き去りにして、いそいそと生い茂る草木群の中に分け入ったこの凡夫、元来が田舎育ちゆえか古色豊かな生活術に長じてあって、ややあり戻ってきたその両手には、
まずは手早く葉を落とし、残った茎の皮を爪を駆使して帯状に剥いでやる。この帯状の皮を岩場に寝かせ、こちらは河原で拾ってきた薄石で丹念に擦ってやると繊維が取れる。この繊維同士を撚り合わせれば即席の糸になる。その糸の先頭に重りとなる尖石を括りつけ、最後に手頃な樹枝をへし折り糸咬ませ、結えてやれば急拵えの釣竿の完成と相なった……と、文字に起せばほんの数行といえども実際には俄か仕事でも半日以上は掛かるはずで、役者交代につき落ちるは闇夜の帳より、ちらと夜半の月が顔覗かす刻とならねば筋が通らぬところであろう。
だがどうだ、相も変わらず日は高い、どころか凡夫が昼間に小屋を出た折の位置から毫ほども動いておらず。これは黙々と糸を紡ぐ凡夫の奮闘ぶりに、お天道様が計らってくだすったとみるべきか。或いは働き詰めの地軸が不貞寝でも始めたか。まさか、まだしも凡夫が気づかぬうちに一昼夜を跨いだとするのが穏当で、尤もこの説も否とするよりないのだけども。
この長日和の正体や如何にと問われれば、なにそれは単純なこと、人界には人界の暦法があるように、妖界には妖界なりのソレがあるというだけである。いまこの場に於いては、凡夫が昼間だと思うておるから昼である。夜だと思うたら夜になる――莫迦な、そんなご都合主義があってなるものか。まるで凡夫が木蓮尊者も真っ青の神足通に目覚めたようではないかと訝る御仁、早合点はなさいますな。これは生命の無意識よりもさらに奥、いわゆる蔵識に呼応すると思しくて、凡夫の得手勝手で昼夜を変えられたりはしないらしいから安心めされませ。因みに凡夫が昼だと思う刻に夜だと思う手合いもあるはずで、その場合は互いが互いの存在を察知できないようである――閑話休題。
いよいよ釣りにかかろうか、その段になり凡夫はそれまで放っておいた木波羅蜜をば押し頂いて、ご丁寧に河縁へと据えてやったのさ。かと思えば次の瞬間にはドッカリと尻に敷く、何たる無礼。床几の代わりとするには些か形が丸過ぎる、殻も硬い、収まりの悪さをしかし凡夫が気にした風もないのには、ひとつ尻の圧で殻が割れれば中身を食さんという算段もあったのだろうが、何にせよ。
いざ
飛沫の舞う流れの結節点から距離を取り、凡夫は視線を沢へと流す。水はこの上なく澄んでいる。藻を掻き分け川砂を巻き上げ悠々と
「ひぃやぁっ、ほぉぉぉぅぅぅぅぅ……」
――その問いへの答へと迫る暇はついに与えられず。山川の情味もへったくれもない奇声によって凡夫は思惟の淵から強引に引き上げられて、さてここでようやく時は冒頭へと遡るのであった。
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