第7話
妖と別れた
さて漫ろゆく凡夫の視界には一見すると鄙びた土地にありがちな、よく言って風光明媚、露骨に申して世慣れた者には一等退屈な天然自然が広がるばかりのようである。けれども年月まかせに埃被った額縁をば初心の
続けて大きく曲がり下る道なりに、進んでいくと眼下の谷に枝垂れ楓が幾重にも手を携えて、段だらとなる様は幹を芯に創り上げた空中庭園へと至る螺旋段のようにも想われる、その万緑叢中が一点、深く色づく赤き葉群に目を凝らされよ――お気づきか。此は決して紅葉にあらず、紅葉に擬態せる真紅の、蜘蛛、いや蜥蜴? とにかく手足を四方八方に伸ばして我、楓にございとしたり顔の小怪物ときた。他にも好事家が見れば垂涎ものの珍妙な連中がそこかしこ、数え出せば日が暮れるほどに陰伏、時には顕在すらしていたというに、凡夫は一つも気がつかずに素通りしたのは彼が間抜けだからではないぞ決して。絵違い探しはそうと知らねば分からぬ理屈、しかもこのおり凡夫は足を交互に出しながらも常にお目めは未だ掌中の珠とにらめっこの有り様で、むしろ樹におでこをぶつけたり小石に蹴つまづいたりしなかったのが不思議なくらい。
暫く歩き、とうとう常ならぬ気配を察知したのは目でもなく足でもなく、凡夫の皮膚であった。ぽつ、ぽつと鼻や頬に冷たい滴、始めは昨日に続いてまた雨かと思うたものの仰げば青天そのもので、狐のご祝儀でもあるまいに水勢はいよいよ増して凡夫の体を横さまに吹き抜ける。流石に妙だと気づいて凡夫は周囲を窺ったところすぐ傍に渓流を見つけたり。なるほど頻りに打ちつけてくる水の正体はこれかと合点、しそうになってまた引き戻された。
「川の飛沫がこんなとこまでとんでくるものかよ。アレだ、こいつぁ多分――」
そうアレだ。戯れにシャワーの水を撒き散らす輩がいるが、これはそういう類の水圧に間違いない。であれば近場に水の噴く所があるはずだと凡夫は渓流へと近寄ると、はたして淵源は即座に見つかった。まさにその渓流の下手より――下手、だと? と、呈しかけた疑念はあっという間に、見たままの現実に押し流されて。
河が切れていた。その先は崖であった。水はその下から噴き上がっているらしかった――そこまで見定めてから、凡夫の眼は瞠る、という行為を思い出したようで。
とにもかくにも、まず凡夫は己の抱く噴水の定義を改める必要に迫られた。未だ万物に引き合う力ありと知られておらぬ古より、世の権力者共は低きに流れる水を御して下々に覇を示さんと、
が、何にせよ凡夫の的外れは明らかで、映像だろうが夢だろうが、いま頻りに水の飛礫が打ちつけてくる感触はどうしたって説明がつかぬ。それだけでない。滝は昇りて河へと至る、河は変わらず下へと落ちる。ならば互いのぶつかる合流点は耳を聾する大轟音を立てて然るべきであろうに、鳥は歌う、蛙が笑う、草木は風に揺れている、あらゆる息吹が消されることなく
吾、真相を暴いたり。流れと流れの逢うところ、そこで音は吸いこまれたのに違いない。あの先こそが人界と妖界を隔てる門なのだ、俺は其処からやってきた――と、荒唐無稽な夢想に浸るだけの純粋さが凡夫にまだしも残っていたら、もすこし文士として日の目を見る余地があったやも。あな悲しやな、このとき凡夫の得た閃きというのはより現実的な、もっと言えば、即物的な。
「流れがぶつかるってこたぁ、つまり潮目と同じ理屈だろ。こりゃいい釣場に違いねぇ」
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