第6話

 一夜明けてまた粗末な小屋の中、目が開くなり凡夫ただおは慌ただしく目をきょろつかせ。とはいえ見当識に異常はなし、いや何なら異常がないのが異常と言えて、昨晩しこたま呑んだにしてはお頭がいやに冴えてある。黒雲厚くかかるどころか霧晴れの如き爽やかさ、肢体からだも常なら海の底這う鯰よろしく身悶えるのがせいぜいなのに、今朝は柄にも合わず体操でもせなんと思うほどには身が軽い。


「新しい朝、希望の朝……ハンっ、俺っちには似合わねぇや」


 そんな独り言ちを鼻息ひとつ、吹き飛ばして凡夫は立ち上がりざま、


「だいたい人が新しさに希望を見出すようになったら、末世の証だわな」


と代わりに婦女子が聞けば憤慨しそうな辛口を吹く。なにここは人里でなく妖のさかい、世相を斬ろうがおかまいなしよと踏んだのが間違いで、


「そういう賢しらな物言いは白亜の塔にでも籠ってからになさいな、聞くだに反吐を催しそうじゃ」


と思いがけず凛とした声音が小屋の空気を振るわせて、凡夫は不意打ちに頬を叩かれでもしたような心地でまた首を右に左に。何度往復させても我ひとり、影も容も見当たらない。


「ほほ、愉快愉快。本妻から間夫まぶと告げられたような面をしておるわえ」

「そんな面はしとらん。畜生、どこに隠れてやがる」

「隠れたりなどするものですか。この寝坊助め、く外へおいでな。その寝惚けたお顔も少しは引き締まりましょう」


 変わらず姿は見えないのにわんわんと鳴るからくりをさておいて、凡夫は声に従い小屋を出る。と、すでに高く昇った天日が瞼の裏闇になずんだ目を焼いた。凡夫は手庇構えつ目を走らせて、妖の姿を捉えるつもりが逆に視線を搦め捕られたのは遠景、日差の弱まるところに立ち現れた、昨日は雨靄の幕に隠れていたであろうところの。

 はたして壮観なぞという生半な評ができたものか。仰げば霊峰遥かに連なりて、俯けば奇岩坐すること仙翁の如し。上にも下にも辺際なくして、樹々の色移ろいもまた限りなく、尽きぬ万華の愉しみに雲龍は酔うて千々に舞い、清河は醒めて一つ処へ流れゆく。偶の風哭きに父が威厳を重ねる行客あらば、恒なる水音に母が慈愛を顧みる旅人もあろう、けれども凡夫は。

 ――凡夫は畏敬も慕情も抱きやしない、あるのは虚無で、目前の勝景も感嘆するには値せぬ。むしろ異郷に立つ孤独の念がいよいよ押し寄せて、ぐらりと眩暈を覚えそうになったところ、ごつんと何やら脳天に鈍い一撃。追い討ちで、


「見てごらんなさい、もうそろそろ陽は南。ぐずぐずしてはあっと言う間に老爺ですよ、ねぇ、命短かなダンナ」


と、微塵も情感の籠らぬ老婆心。寂寥たちまちのうちに霧散して、


「明日ともしらぬ命は承知の上よ。だからってあくせくと生きにゃならんって法はねぇやな」


と減らず口を返礼とする。お頭を擦りつ振り見上げれば屋根のうまのりに妖の姿、白いおみ足ぶらつかせながらにんまりと、覗かせた歯列の煌きに凡夫は童心を視た。なるほどなまじ命が長いと枯れた語りと稚なき仕草とが同居するらしい、との寸評は呑み込んだが。


「頭にモノぶつけんのが妖怪流の挨拶かい」

「まさか。まだぼんやりとしておいででしたから、お頭をしゃきっとしてさしあげようと思いましてな」

「そりゃお気遣いどうも……で、こいつは何よ」


 言いつつ凡夫は足下に転がった、ちょうど闘球じみた黄唐茶色の物体を拾い上げ、存外の軽さに思わずたたらを踏みそうになったほど。手触りは硬くざらついて、軽く小突くと木魚を一段高くしたような乾いた音が響く。表面の斑も幾何学的な美紋調、なのに総体としては造作を感じさせない、自生した植物の種子にも似た野趣を纏うてある。


「何って、おんしは人の子であろ。吾らと違うて腹が減っては儘ならぬでしょう」

「あん、こりゃ食いモンかい。するってぇと木の実か何かか、にしてはやけにでかいし、軽い気がするが。名前は何てんだい」

「名前とな。人界に存するものならともかく、妖怪はいちいち名付ける習慣を持たぬからの……ふむ、そうさな。木波羅蜜モッパラミツとでも呼ぼうかの」

「もっぱらみつ、だぁ?」


 また抹香臭い名をつけやがる、と言い捨て凡夫は木の実を匂ってみれば、確かに仄甘く酸い香りが鼻を擽って、ものは試しと噛みついたところいっかな歯が通らない。じんじん痛んで怨みとばかりに握り締める、膝で蹴る、挙句の果てには地べたに向かって叩きつける、それでも木の実はうんともすんとも言わぬ。悪戦苦闘の凡夫を高みより見下ろす妖の眼差しの、何とも涼しげな。


「これこれ、さように乱暴に扱うものでない。木の実とて頑なに口を閉ざしましょうぞ」

「へっ、木の実が喋ってたまるかってんだ。こりゃほんとは食えねぇんだろう、おいらがわからねぇとみて揶揄ってやがるな」

「すっぱい葡萄だと決めてかかるのはおんしの勝手ですがね、まぁよろしい。どうやらのにはまだ時間がかかるようだから、それまで枕代わりにでもするといいでしょう」

「あ、おい――」


 凡夫の静止などおかまいなしに妖は屋根から飛び降りる、音もなしに。悠々と裸足で歩み去る後姿はゆらゆら揺れる遊び草、如何なる言葉も柳に風と流されそうだと見て取ったのか、凡夫はもはや何も言えない、動けない。およそ一分、いや二分、妖が山紫水明中の一点と化すまでの間、凡夫は写真に撮られた影像よろしく微動だにせず、ようやっと吐き出したのが、


「熟すのに時間がかかるだとぅ。けっ、言い訳としちゃ上々ってことにしておいてやらぁ」


と負け惜しみもいいところ。


「飢える前からおまんまの心配したって仕方ねぇやな。戯れせんとや生まれけん……っと」


 凡夫は掌中の木波羅蜜を、ちょうどパントの要領で蹴り飛ばそうとして、寸でのところで足を止めてつんのめりそうになったけれども、直後にはもう何事もなかったような面で口笛吹きつ歩き出す、妖とは全く反対に。



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