第5話

 ひとしきり笑い転げた後に妖は手を懐に、ぬるっと出てきたのがまたそんなものを如何に隠しておったか摩訶不思議の紅瓢箪で、ついでに双子の盃まで取り出すを見て凡夫ただおは早々に種を探すのを諦めた。といっても手口を勘繰る労を避けたというより続く妖の言葉が読めたというのが正しくて、実際その予想は大当たり。


「あいすまぬ、別におんしを揶揄うつもりはなかったでの。詫びというては何だが、まぁ、一献ゆかれよ」

「へへ、そうこなくっちゃいけねぇ」

 

 妖の手ずから酌まれた盃を凡夫は嬉々として受け取って、そのまま先ずは香りを愛でんと鼻先へと近づけた、ところが即座に勿怪顔となったのは何の匂いもしなかったゆえ。流れる血潮は酒と豪語する強者には及ばねども凡夫とてそれなりに酒好きの部類、薫気のあらば飼いならされた犬よろしく嗅ぎつけ相伴に預かろうとする程で、禁酒番屋の役人よりかは鼻が利くと言ってよろしい。


「おい、こりゃほんとに酒かい。実はセミの尿いばりでございなんてオチはよしとくれよ」

「口が悪いのぅ。酒の香というのはこのくらいで十分というものでな、おんしの火酒もまぁ悪くはなかったが、ちと吾にはきついかの」


 凡夫の視線、一点に凝するは盃に張った湾の上、紅を映した湖面は凪いで穏やかながらも相手は妖である、突如としてじゃが湧かぬとも限らない。詫び酒とは言うたものの心胆は那辺にあるものか、ちらと窺ったが先刻さきまでの馬鹿笑いはとんとなりを潜めて澄まし顔。

 結局は酒好きの血に促され、何が出ようがハブ酒でも食らわされたと思いねぇ、ままよと朱器を傾ける。と、雪解け水の如きまろなるつゆが舌に触れた、途端にまずは清爽の気が頭頂を貫いた、譬えるならば氷塊の爆散した一々の粒が、再び凝集してはまた広がり星雲を成すかのような。筆舌に尽くしがたき涼の訪れにいっぺんに目が醒めて、かと思えば沈丁花を想わす淑やかな吟香に鼻を撫でられ恍惚うっとりと。夢現の狭間を漂うかのあやふやさに凡夫は心細さを覚えたけどもそれは一時のことで、直に遊泳の愉しさから頬は緩み、目はとろり、呑助特有のだらしない顔つきへと変じていって。


「――参った。ただの水かと思いきや、口に含むと急に香り出すときやがる。こんな不思議な、しかも上等な酒はお目に掛かったことがねぇ。いや大したモンだ」

「お気に召されたのなら重畳……ほれ、もう一杯いかが。御代りはまだいくらでもあるでな」

「かたじけねぇ」


 妖の差し出した瓢箪に、凡夫ときたら額突かんばかりの勢いで盃持つ両の手を頂戴の形に掲げたさ。そこからはもうがれちゃ呑み、また凡夫も妖に注ぎ返しとたちまち酒宴の華は満開となりて、ゲラゲラホホホ、最早妖に対する猜疑だの、無尽蔵に湧くひさごの怪だの、等並に溶け込んだるは一味神水、もとい酒の露と消え果てた。


「――ときにおんし。のことはご存じでなかろうに、あまり動じておられぬ様子。もしや妖の境界に来たのは初めてではないのかの」


 そんな酣楽の折、ふと水を差すように問を投げた妖の、整うた眉に鼻の筋、蕾んだ口の皺まで締まるように映したのは仄灯りのまやかしであろう、直後に目尻は馴れ合いの近しさに緩んであったし、凡夫も凡夫で目が据わり、


「初めてか、だとぅ。莫迦いえ、元より人は皆三界に家無き身の上よ。人里だろうが妖怪の国だろうが、等しく仮住まいに他ならねぇやな」


などと大仰な、そもこたえとしてずれた物言いで笑い飛ばしたものだから、この話題はそれっきり立ち消えとなり。後はといえば下世話も下世話、凡夫は妖の異形について褒貶を並べ立て、妖も負けじと人間の可笑しさを饒舌に。云十年来の友であるかの忌憚の無い掛け合いは酒の火照りも相まってか熱を帯び、ちょいと頭を冷やそうと座を立ったのは凡夫の方が先であった。


「どこへ往くおつもりか。外はまだ雨ぞ、用足しなら尿壺ゆばりつぼでも出そうかぇ」

「お下品なことを言うなぃ、ちょいと一雨浴びるのさ」


 そんなハトでもあるまいに、と妖が茶化すより早く凡夫は小屋を出て、双腕広げて雨ざらしとなりにける。とんだ酔狂に妖は苦笑しつつもすぐに肩並べ、ここに現れたるは飛ぶこと叶わぬ澱み空を見上げる比翼鳥、というには些かみすぼらしさが過ぎたけれども。両者共にますます遠慮が無くなったのは確かなことで、いよいよ愉快な心地の凡夫は酒肴に何か歌いねぇと命ずる始末、妖も安うはないぞと愚痴りながらも咳払い、しっかり乗り気の様子。

 小屋に戻りて歌い手一匹、聴き手一匹。詞は相も変わらず陰鬱かつ人の世になきものばかり、それでも雨露に濡れた果実の瑞々しさを想わす唄声に惜しまぬ拍手を送る、凡夫の方でも完熟した桃か梅かという面をして、プッと吐き出したのが、


「やぁい貴様きさん、そろそろ景気のいい歌のひとつでも謡っちゃどうよ」


と余計な言葉の種子島。


「お湿りは雨と酒で十分だからよぅ、もそっとこう、カラッとした唄はねぇのかぃ。黴が生えちまわぁ」

「そうはゆうても、吾は今様の唄を知らぬでな。それに斯様な長雨に軽やかな唄なんぞは、時節を外しておろう」


「ばぁろぅ、憂世を忘れるのが酒の妙味だろうが。それをおめぇさまときたらどうよ、ええ、まるで通夜と葬式をひとまとめにでもしたみてぇな鬱陶しさだ。ヤなこと思い出しちゃったらどうするよ」


 そんな暴言とおくびと一緒にぶちまけた酔漢の眼に映ったのは妖の背け顔で、 未だ視界を遮る雲霧の向こうに何を見るか、果たして察しがついたかどうか。妖はふと振り向いて、


「――なるほど、ごもっとも。確かに忘れるべきこともありましょうな」


とぽつり、呟いてまた外を見遣る、だんまり草に代わって荒天あれぞらがぐるると唸ってみせはしたものの、最早凡夫は聞いちゃいない見ちゃいない。見たところでそうさなせいぜい、瓢箪の裡に別天を観た程度のものだろうて。

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妖界珍記 律角夢双 @wasurejizo

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