第4話

 目覚めは遠く、気怠げな雨音と共に。瞼を開けば燻んだ茅色と、灰がかる意識の混濁した観が茫と浮かび上がる、覚えのなさに凡夫ただおは身を起そうと、したところ。ずぶりと、泥土に嵌ったかの重さに打ちのめされて、思わずくぐもった呻きの漏れる。それ以上身じろぐのも声を出すのも億劫で、深みに落ちそうな身体はしかし幸いにも痛みや痺れを訴えることはないらしい。ただ鉛のように鈍重な、けれども金縛りとも異なる不思議な感覚に、地球ほし帰還かえったばかりの航宙士の寝起きはこんなものかしらんと、凡夫はふとつまらぬ考えを。

 何とまれ、空想に耽る程度の余裕はあるらしいと自ら安堵して、暫しまた暁知らぬ眠りへと沈降せんと眸を閉じたけれど、途端に強まり出した雨が足を踏む、急かすような色合が何とも意地の悪い。併せてぴちゃん、ぴちゃんと、湿っぽさをたっぷりと含ませた、規則正しい音が耳を小突く、こうなってはおちおち寝てもいられない。

 しょうことなしに再び目を開けたれば、仄暗い中にも朧であった茅色の正体が今度ははっきりと、それ即ち文字通りの茅葺きの屋根裏で。といっても屋根というのも烏滸がましく実際には野営地と呼ぶのが至当と言えて、小ぢんまりとした竹組に干草の束を雑然と詰めただけの急拵え、しかもそこかしこから雨が洩る始末。なるほど水音の原因はこれかと凡夫はひとり得心しつつ安普請を見渡すと、造りが粗末なら内も粗末、というより物が無い。ささくれの目立つ茣蓙敷の上に雪洞がひとつ置かれてあるだけで、灯は消えておる、あとは凡夫を雨冷えより守ったらしいボロ布があるっきり。清貧と評せば聞こえはよろしい、だがどちらかといえば物ぐさという形容こそが正鵠を射てはいまいか、凡夫がまだ見ぬ住居すまいの主について定かならぬ想念を巡らせておると――折しも憂鬱なる雨の楽に混ざり合って、細く、しめやかな、唄声の。


〽吾は人の子憐れな子

 手足分かたる悩み草

 世のことわりを知らばとて

 つむりが大きうなりすぎた――


 歌のことばはこの悪天にこそ相応しき、謡いぶりもしっとり濡れて、耳にじんと沁むような。それでいながら重きに過ぎず、どこか飄逸の軽さを纏うてあって、耳を澄ませた凡夫の首は自ずと声の方、小屋の外へと向き直る、と。


〽吾は人の子哀しき子――


 戸口の前に人、立て膝にて寛ぐ横姿は灰空に紛れて影絵の如く浮かんだ。はたして男なのか女なのか、声の質とてどちらもありそうな、好奇が未だ鈍りの抜けきらない凡夫の肢体を床より引き剥がすに至ったものの、なお判然とせぬのに焦れて目を凝らす、首を伸ばす。そんな凡夫の存念などおかまいなしに唄は続く。


付喪つくもを忘れた驕り草

 四元を操るすべを得て

 ついには四元に疎まるる――


と、そこで不意に歌唱の止むやすかさず雨の間奏、遠雷までもが合いの手と加わった。一座の主がスィ、と尻横に手を伸べる、そこには既視感のある革水筒が。


 おい、そいつぁ俺っちのウヰスキイ――などと非難はとうとう言葉にならず、水筒は吸い寄せられるようにして口元へ。頤反らせ一息に呷る挙措の内、凡夫には酒精の流れ落ちる響きはおろか、蠢く喉の官能的な調べまで聴こえてくるようで、何故だかしらん、満足気な吐息とともにまた詞が継がれた頃にはもう、火酒を呑まれた憤りなんぞ末の露ほども残らなかった。


〽吾は人の子虚しき子

 命短き怨み草――


「お歌がお上手で結構なことだかよぅ、その辛気臭ぇ歌詞はもちっとどうにかならねぇのかぃ」


 残らなかったけども、それで全て水に流しちゃ官憲は要らぬとて、凡夫はやたらと不景気な、聞き様によっては自己憐憫の過ぎるあはれ唄にいちゃもんを、つけた途端にパッと視界が明るんだ。ぎょっとして左見右見とみこうみした凡夫の様はどう見ても御上りさんとそっくりの、これでは失笑買うて是非なしのところ、歌い手がスマヌ、スマヌと謝りたるも、目は口ほどにの型通り。


「いや、驚かせてしまいましたの。人の目には暗かろうと雪洞に火を灯しましたけど、前もって断っておくべきでしたな。許してたもれ」

「火を灯したって、あんた――」


 どんな奇術を使いやがった、と問う手間を凡夫が省いたのは何故か、それは正体現した歌い手が、如何にも不思議の術を心得ていそうな風貌であったから――とはいえ頭は三角帽子、右手に樫の杖、左手には古びた羊皮紙の分厚い典籍抱え込むという紋切型ステレオタイプな魔術師の装いでは勿論なくて――あちこち継ぎ接ぎだらけの草衣を引っ掛けた、隠者というより浮浪者ルンペンといった風、なのに小綺麗な印象を与えるのは造りの良い瓜実顔の、額には。


「ほほほ。おんしの言いたいことはわかりますえ。このは人の身にはおどろおどろしう映りましょう、さぞ恐ろしげな術を操りやせんと。けど安心めされませ、吾は人の子を捕って喰らうなどということは決して――」

「んなこた言いもしねぇし、思いもせんやな。俺っちがあんたに言いてぇのは、ただのひとつっきりよ」

「ほう、吾の考えは的外れと。して、言いたいこととは何ぞ」

「手前のそのふざけた唄に決まってるだろう。人が人を悪しざまに語るってならまだ可愛げもあらぁ。けどお前サマはどうだ、ええ、妖怪サマが何と愚かな人間かと御嘆じなすったって日にゃぁ、どんだけ微妙みみょうな歌の華添えられようが手折って返品仕るのが筋ってモンよ」


 と、そこまで捲くし立てて凡夫は急に大人しく。妖怪相手に啖呵を切った浅はかさとぶり返した体の怠さ、二重の圧に苦悶するも先に立つ後悔はなし。バカヤロウ、きくべきは異界ここからの出口であって生意気口にあらず、教えてやらぬと臍曲げられたらどうするか。自責に項垂れつつもその一方、己のような瘋癲ふうてんにも里恋しという人がましさがあったことに驚くやら、感心するやら、呆れるやら。そんな思念のごった煮かき回す凡夫を余所に、五つ目の妖もまた目を伏せて、細い顎に指当て暫し黙考の構え。蕭雨変わらず降りそぼつも太く、細く、調子を定めかねるようであったけれども、凡夫も共に聴こえちゃいなかったに違いない。

 ややあってひとつ、天鼓の冴えた響き。穿たれたように身震いしたのは妖の方で、続いてしゃくり上げの二度三度、釣られて凡夫は身を乗り出し何事かと案じたものの、すぐに眉根のひそまったのは。大嘘も大嘘の俄か湿り、直後にかんらかららと空々しい、晴れ間を覗かされたから。


「――これはまっこと驚き。吾を見て泣き喚いたり狼狽えて暴れ出す者は幾人もおりましたが、おんしのような物言いは初めてじゃ。いやはやしかし、華を手折って返品仕るとはのぅ……おんし、余程の痴れ者か、スケベェとみゆる」


 餓鬼っぽい詐術に掛かっただけでも業腹なのに、あらぬ誤解まで受けてはますます不興顔をこわばらせるばかり。居たたまれぬ凡夫は妖と外と、何度も交互に睨めつけたけど、陰雨の止む気配はなくて、小屋の裡だけ日が照って。

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